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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑪ 単純な反論ではほぼ不可能(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

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調和

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

単純な反論ではほぼ不可能(THE NEAR IMPOSSIBILITY OF SIMPLE REFUTATIONS)

 

「とにかくディスペンセーション主義は間違っている」と考える福音主義クリスチャンがいます。しかし「なぜ/どこが」間違っているのかを示すのは決して容易なことではありません。

 

もちろん、多くの人は自分として満足する形ではその誤りを指摘できるかもしれません。しかし彼らは、ディスペンセーション主義を信奉している誰かを納得させるに足りるだけの説得力を持ってそれを示すことに苦戦しています。なぜでしょうか?

 

ここには幾つかの重要な問題が絡んでいます。まず第一に、古典的ディスペンセーション主義は、一つの神学体系だからです。そしてこの神学は大いに内的一貫性を持っています。そして、正誤は別としても、入念に精巧に作り上げられた体系というのは、常にかならず「一般的反論に対する回答」というものを持っているのです。

 

そしてその体系のある部分が挑戦を受けようものなら、別の諸部分がすぐさま「応援に駈けつけ」ます。ある程度において、これはどの神学体系にも当てはまることです。

 

しかしながら、一般的に言って、それは《修正版》ディスペンセーション主義にはそれほど当てはまらないように思われます。第3章でさまざまな修正版ディスペンセーション主義の形態をみてきましたが、こういった修正型は(古典型に比べ)より「緩和な "loose"」諸体系を産出しており、そのため、こういった修正体系は、全体と容易に調和しないような何かであってもそれを各聖句解釈に許す、といった傾向を持っています。

 

それゆえに、本章において私は考察の焦点を古典的な形態におけるディスペンセーション主義に絞ろうと思います。

 

「生け垣」作り(HEDGING ON FULFILLMENT)

 

古典的ディスペンセーション主義における最大の論争点の一つが、旧約預言の本質――特に、預言成就の本質――に関するものです。こういった成就は常に「字義的」なのでしょうか?そして、そもそも「字義的」とはどういう意味なのでしょうか?

 

古典的ディスペンセーション主義者は、「過去におけるすべての預言成就は、純粋に全く『字義的である』」と主張しています。「だから、まだ未成就の諸預言に対しても同じことを期待すべきなのです。それ以外の受け取り方には何ら根拠がありません」と。

 

スコフィールド(1907, 45-46)は次のように言っています。「比喩(象徴、表象;Figures)はしばしば預言の中に見いだされるが、そういった比喩は常に字義的成就を伴う。そして『霊的』ないしは比喩的預言成就の事例は一つだに存在しない。」

 

この主張に対し、非ディスペンセーション主義者が効果的に反論するのは非常に困難です。なぜなら、古典的ディスペンセーション主義者は、預言成就という思想の周囲に、「生け垣」を作って自己を防衛しているからです。

 

これらの人々は「預言成就」に関するある思想を持っており、「字義性」という観念は、原則として、反対者が反例を挙げることをほぼ不可能にしているからです。

 

もちろん、新約聖書の中にも「字義的」成就を示す明瞭な事例が存在します。そしてディスペンセーション主義の人々はこういった諸事例を彼らの論拠としています。

 

しかし非ディスペンセーション主義者が「非字義的」成就を表す、明瞭なその他の事例を持ち出してきたら、その場合はどうなるのでしょうか。(例えば、ルカ3:5、使徒2:17-21、ガラ3:29、ヘブル8:8-12)

 

これに対し、ディスペンセーション主義者はいくつかの供給源を持っています。

 

まず一つ目に、彼らは、(スコフィールドが言うように)「元々の預言には『比喩』があった」と主張することができます。それゆえ、イザヤ40:1は、バプテスマのヨハネの比喩的預言であり、地形学的な変化を期待するようには私たちに約束しません。

 

しかし「比喩」と「非比喩的な表現」との違いを私たちはどのように識別できるのでしょうか?この違いはいつも誰にでも完全に明瞭なものでしょうか?

 

ディスペンセーション主義者はこの点に関し、便利な《防衛演習場》を持っています。つまり、時として、彼らはすでに起こった事実に「即して」どれが比喩的で、どれが非比喩的なのかを決定することが可能なのです。彼らは、全聖書がすでに完成し、多くの預言がすでに成就し、「どの預言が自分の体系にフィットし得るのかし得ないのか」を述べ、そのようにして彼らの基本システムの環境が万全に整った後に、都合よく、どれが比喩的であるかについての決定を下しているといえます。

 

従って、「どれが比喩的で、どのようにそれが比喩的なのか?」といった諸決定は、帰納的基盤というよりはむしろ全体としての「体系」それ自体のもたらす産物だと言えるのではないかと思います。

 

もしくは、それは循環プロセスと言ってよいかもしれません。つまり、体系との整合性に対するニーズが、「何が比喩的であるのか」の決定を補佐するわけです。

 

さらに、そういった諸決定を下す事は、体系の整合性をサポートする特的の諸聖句の聖書解釈を生み出すことを補助します。それゆえ、この「字義性」というものが何を意味するのかについて後章で詳しく取り扱う必要があるでしょう。

 

ディスペンセーション主義者にはまた、もう一つ別のルートがあります。それは、「明らかに《非》字義的な預言成就は、新約での『成就』というよりはむしろ『適用』である」という主張です。それゆえ、タン(1974, 193-94)は次のように述べています。

 

 

 「『成就』に対してこれほど広義な定義を付与することにより、〔新約の中での全ての旧約引用において〕非字義的な解釈者たちは、明らかに自分の都合に合わせ偏見をもって事例を解釈しています。

 なぜなら、そういった定義は確実に霊的な意味を付与した形の成就(spiritualized fulfillments)を示唆しているからです。

 このテクニックは暴露されるか、もしくは無千年王国説や後千年王国説の立証への論駁は、各書ごと(book-for-book basis)になされるべきです。

、、、字義的な預言解釈者たちは、新約記者による旧約引用は、実際の成就を指し示すと同時に、諸真理や原則を描写し、適用させる目的でなされたと信じています。」

 

 

もちろん、「旧約の諸原則における新約の『適用』という諸事例」を指摘するタンの言明は正しいと言えましょう。しかし、ここから彼はかなり大胆な結論に飛んでいます。

 

彼は、成就に関する「彼らの」立証は、「各書ごとに(“on a book-for-book basis”)」に検証され論駁されねばならない、しかし、こと自分の立場の立証に関しては、「各書ごとに」取り扱う必要はないと考えているのです。

 

ここから見て取れるのは、彼自身が、純粋に帰納的な基盤というよりはむしろ、ア・プリオリに自らの立場を決めてしまっていることです。つまり、彼は、もう片方の極端に行き、そして「字義主義」を擁護すべく、事実を偏見眼で見ています。

 

どのようにしてでしょうか?彼は「新約聖書の中における実際的成就を示す事例は、多くの場合、ινα πληρωθη(ギ:‘that it might be fulfilled’ ~が成就するためであった)というギリシャ語の慣例表現と共に導入されていると主張しています。

 

タン自身はおそらく気づいていないかもしれませんが、これは事実上、解釈者をしてほとんど排他的にマタイの福音書のみに制限させてしまう結果をもたらしています。

 

なぜなら、マタイの福音書だけが旧約を引用するに当たり、「成就 “fulfill”」という語を通常用いているからです。一方、他の新約記者たちは――彼らの頭の中に「成就」という概念がある時でさえ――他の慣用表現を特徴的に用いています。

 

それゆえ、タンは「非字義主義者」たちに反論の余地を与える際、非常に狭義の基盤(マタイ)しか許していないわけです。一方、タンは、こと自分自身に対しては、自らの立場の弁証手段として、聖書中にでてくるあらゆる「字義的」成就の事例を用いることを自らに許しています。

 

それゆえ、ここに、弁証プロセスにおける深刻な歪みが存在します。それによると、明らかな「《非》字義的」成就は、

 

①元々の預言における「比喩(象徴;“figures”)」に訴えることで「字義的」とみなされるか、あるいは、

②(「成就」ではなく)「適用」だと言及されています。

 

そして、明らかな「字義的」はもちろん「字義的」とみなされます。するとどうでしょう?このプロセスが完了した暁には、驚くなかれ、すべての成就が「字義的だ」ということになるのです!

 

それゆえ、(新約期に非字義的な方法で「適用された」諸聖句も含め)未だに未成就の諸聖句もまた、やがて「字義的」成就をみることになる、と結論づけがなされています。そしてこのような議論手法が、いわば、反証を排除する上での「組み込み式内蔵メソッド」となっているわけです。

 

しかしながら、マタイの福音書における成就を巡ってでさえも、タンは依然として諸問題を抱えていると言えましょう。これらは、彼の手法によっては除去されません。なぜなら、マタイは、(引用する上での)慣用表現の中で「成就」という語を頻用しているからです。

 

そうなると、マタイの福音書の諸成就は一体どうなるのでしょうか?私たちが、旧約の文脈におけるマタイの引用を理解し、マタイの福音書全体の文脈におけるマタイ自身の、成就に関する彼の神学を理解する時、上記のような厳格な字義主義思想にはやはり支障が生じてくるのをみます。

 

そういう意味でも、マタイの福音書というのは、古典的ディスペンセーション主義者との対話の出発点としては適切な書ではないと思います。

 

というのも、(ディスペンセーション主義者であれ、非ディスペンセーション主義者であれ)マタイの福音書における特定の諸聖句を解釈する人々は、自分の奉じる体系からの大域的支配(コントロール)をすでに受け過ぎているからです

 

また、ディスペンセーション主義者には、(新約における明らかな《非》字義的成就について釈明する上で)さらに、もう一つ別のルートもあります。つまり、彼らは、「イスラエルに適用すべき『字義的』レベルとは反対に、新約聖書は、成就の『霊的』レベルを表象しているのです」と言うことができるわけです。

 

そしてこれが、教会における、(アブラハムの)子孫の約束の「成就」についてスコフィールドが行なった事でした(ガラ3:29)。

 

そして、このような手法により、イスラエルへの「字義的」成就のレベルが無傷のままで保存されます。そしてもしもこのような手続きが用いられるなら、新約のどのような立証聖句が、ディスペンセーション主義的預言解釈に不利に働くのか見分けが困難になります。

 

もちろん、こういった一連の事があるからといって、それがそのままディスペンセーション主義誤謬を意味するわけではありません。しかし成就の性質に関する彼らの議論の大部分がいわば「循環的になっている;circular」ということは確かに言えます。

 

そして反論者に対しディスペンセーション主義者の用いている手段は、「自身の陣営での真理の打ち立て」というよりはむしろ、「反証の人工的除去作業」に因るものが大であると言えます。

 

ディスペンセーション主義の反論者たちはここから一つ教訓を得ることができるでしょう。つまり、成就のことを言及している新約諸聖句にフォーカスを置くことは、あなたにとって通常、賢明な事ではないということです。

 

そこに焦点を置いてしまうと、結局、自分自身にも、対話相手のディスペンセーション主義者の論客にも、歯がゆい思いをさせるだけです。

 

それ以上により基本的な問題は、

何をもって成就の立証とみなすか?

どのようにその成就が理解されているのか?

にあります。そして、この先行諸問題が、〔ディスペンセーション主義者/非ディスペンセーション主義者両陣営の〕聖句釈義、および体系全般との統合性への各自の取り組み――こういったものを大部分決定づけています

 

それゆえ、上記の先行問題が正面から問われない限り、預言成就に関する新約諸聖句は、誰をも説得させるものにはならないでしょう。ですから対話のためには、より良い別の基盤を探すべきだと思います。

 

ディスペンセーション主義の調和(DISPENSATIONALIST HARMONIZATION)

 

論客たちはまた、ディスペンセーション主義というのが、かなりの度合いにおいて、調和のとれた統一体であるということを評価すべきでしょう。この体系では、各部位が、ほとんど全ての別の部位と調和しています

 

論客が、弁証のため、ある聖句を再解釈しようとするなら、ディスペンセーション主義回答者は、自らの解釈を支持するような、二つないしはそれ以上の諸聖句を引用できるでしょう。そうすると、論客はまたすぐさま、数多くの諸聖句を再解釈する必要に迫られます。

 

それではディスペンセーション主義のどんな要素が、このような印象的調和を可能にさせているのでしょうか?そこには、二つの「相補的解釈手順」という合同の働きがあります。

 

解釈手順1.区別の増産化(multiplying of distinctions)

 

ディスペンセーション主義者は進んで、――これまで誰もそこに区分を見たことのないような場所に――ある鋭利にしてきめの細かい区分を導入しようとしています。

 

例えば、「携挙」は「キリストの再臨」と区別されています。(しかし、多くのディスペンセーション主義の方々が認めておられるように、新約聖書の中にはこの二つを区別するような、一貫性ある術語上の相違というものはどこにも存在していません。)

 

また、「神の国(kingdom of God)」は「天の御国(kingdom of heaven)」と区別されており、そのような事例が他にも続きます。

 

(しかし、修正ディスペンセーション主義者の多くは、上述のような多くの鋭利な区別をもはやしていません。この点において人によって違いがあることを私たちは覚えておく必要があります。)

 

解釈手順2 適用の倍加(doubling the application)

 

解釈手順1を補完する形で、単一の聖句の中における、単一の表現の適用を2倍にするという二番目の手順が存在します。

 

この手順に従い、多くの預言的諸聖句は、イスラエルにおいて地上的成就を果たし、教会に対しては「霊的」適用ができるとの解釈がなされています。(参:図表2.2)

 

〔手順1〕が、言葉の上では類似の諸聖句を細裂(さいれつ)させるのに対し、〔手順2〕は、単一の聖句を、二つの異なるレベルの成就につないでいます

 

さて、原則としては、聖書の中に、これまで認識されていなかったようなある種の区分を見い出すことは可能です(手順1)。また、一つ以上の成就ないし「適用」を含む聖句も存在し得ます(手順2)。

 

しかし、こういった手順による適用に付随する危険性についても私たちは認識すべきです。もし私たちが1)&2)両方の解釈手順を頻用し始めるなら、聖書の異なる諸聖句を調和させるための選択肢の数が急増します。

 

こうしてある聖句を解釈するに当たっての、私たちの持つ柔軟性は非常に増します。それゆえ、「正しくはない包括的体系という傘下においてでさえも」、調和や整合化は比較的容易になります。

 

ディスペンセーション主義者は正当にも、「ディスペンセーション主義は、その大部分において、調和がとれ、安定し、一貫性をもった体系だ」と感じておられます。しかしそういった整合性は、ある解釈学的企図の産物である場合が多々あります。そしてそういった解釈は、

(1)区分の増産化、および

(2)関係性の倍加作業 

によって、人為的に生み出された整合性になり得ます。それゆえ、ディスペンセーション主義の場合で言いますと、整合性や調和は、真理の裏付けとはならないのです。

 

また、私たちは、ディスペンセーション主義の背景が、この調和を促進させるのに貢献したという事実にも留意すべきでしょう。

 

ダービーもスコフィールドも法曹界で働く弁護士でした。そして両者とも、数多くのテクストを、論理的に調和させ、かつ単一の整合する体系に整えることにおいて、かなりのスキルを持っていました。もしも彼らの聖書的・解釈学的土台が正しいのなら、もちろん、それに越したことはありません。

 

ですが、仮にそうでなく、誤った諸前提を基盤にしてでさえも、それでもやはり彼らは、かなりの調和性を持つ体系を構築することができていたでしょう。

 

さらに、彼らの強みが、文法的・歴史的解釈よりもむしろ、論理的調和および現代への適用の内にあったことは覚えておくべきです。既存教会に対する非常に否定的な態度により、ダービーは、実質上、歴代のキリスト教会が生み出してきた学術的省察や解釈の果実を使うことから、自らを切り離してしまっていました。

 

もちろん、現代のディスペンセーション主義者は、この体系内における文法的・歴史的解釈を洗練させるべく努めてこられました。

 

しかし、私の判断では、古典的ディスペンセーション主義内部でのそのような解釈の試みは、依然としてやはり、この包括体系の持つ諸前提や固定された考え方に支配される傾向が強く、この体系は、――ディスペンセーション主義者が特定の諸聖句を検証しようとする際にすでに先行的な形で作用しています。

 

後の章でみていきますが、文法的・歴史的解釈は、古典的ディスペンセーション主義においては、今も脆弱点として残っています。