巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

女性とミニストリー

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In my eyes, women are not flowers of the field, but rather, flowers of a secret garden, meant to be kept and cherished, not ogled by every passer-by; as it says in the Song of Songs: "You are a garden locked up, my sister, my bride; you are a spring enclosed, a sealed fountain." (A secret garden

和訳)「私の目からみると、女性というのは、原っぱの花ではなく、秘密の庭園にひっそりと咲く花であるように思われます。それは、秘められ、大切にいたわられるべく存在しているのであって、通りががかりの人々にじろじろ見られるべく存在しているのではありません。そう、雅歌の中にこう書いてあるように。「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」(雅歌4:12)

 

感謝なことに私の周りには、とても魅力的で情熱的で、そして信仰心に富むクリスチャンの女性たちがいます。そして日々、私は、彼女たちからの洞察や分かち合いを通し、良い刺激を受けています。

 

さて、コンプリメンタリアン(相補主義)という枠組みの中にいる私たち女性は、次の点で皆一致しています。

 

①男性と女性は、本質的に全く同等な存在であると同時に、役割・機能においては違いがあり、男女は競合関係ではなく、互いを補い合う相補的な関係の内にあります。

 

②神のお立てになった創造の秩序に従い、私たち女性は聖書に従って、恭順(submission)を重んじます。

 

③私たち女性は、聖書に従い、教会内において、そして家庭内において、男性かしら性(male headship)および男性リーダーシップを認め、これに恭順します。

(エペソ5:22-33、コロサイ3:18、1ペテロ3:1-6、1コリント11:3-16、1テモテ2:11-15)

 

 

さて、上に挙げた基本原則をベースに話を進めていきますが、ここで一つ微妙でやっかいな問題が生じてきます。それは1テモテ2:12「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません」の指し示す範疇は一体どこまでなのか、という実際的な問題です。

 

1テモテ2章が書かれた文脈を「教会での公同の集まり」と取った場合、もちろん、この時点で「女性牧師」というあり方自体の正当性が消滅します。そしてこれが女性牧師問題に対するこのブログの立場でもあります。

 

しかしながら、「公同の集まり」というものの範囲はどこにあるのでしょうか。例えば、インターネットという公の空間の中で私が聖書のテーマについて論じ、それをある男性の方が読み、その結果、私の「教え(?)」から何かを「学んだ」としたら、それはどうなのでしょうか。

 

こういった微妙な問題は、一般に線引きが難しく、実際、多くの情熱的で恭順な姉妹たちが悩んでいる領域であり、また私自身の課題でもあります。下はそういった試行錯誤の過程を綴ったものです。

 

 

①の「女性と神学」に関してですが、これまで両サイドの意見に注意深く耳を傾け、自分なりに熟考してきた結果を申し上げますと、

 

A)「恭順なクリスチャン女性は神学に関わるべきではない」という意見が含意する危惧や懸念の重みはしっかり受け止めつつも、私はこの主張には聖書的根拠が欠けていると判断いたしました。(2017年4月9日現在)

 

このテーマに関連し、R・C・スプロールはKnowing the Scriptureの中で次のような印象深いことを述べています。

 

 「これまで何度となく、私はクリスチャンが次のように言うのを耳にしてきました。『なぜ教理や神学を学ぶ必要などあるでしょう?私が知る必要のあるのは、ただイエス様、このお方のみです。』

 それに対し私は次のように問いかけます。『それでは、あなたにとって《イエス様》とは誰ですか?』

 するとどうでしょう。いざあなたが口を開いてイエスがどのようなお方であるか説明し始めるや、あなたはすでに教理や神学の世界に足を踏み入れているのです!

 神学のことを避けて通れるクリスチャンはこの世に一人もいません。そしてその意味で、すべてのクリスチャンは『神学する者(theologian)』です。

 おそらく、技術的・職業的な意味合いでの『神学者』ではないかもしれませんが、いずれにしてもあなたが『神学する者』であることには変わりがありません。 

 ですからここで大切な事は、『私たちクリスチャンは、はたして神学者になるべきか否か?』という問いではなく、「私たちクリスチャンは、はたして良い神学者になるべきか否か?」という問いです。

 そして良い『神学者』とは、神によって教えを受ける人のことです。」R.C. Sproul, Knowing the Scriptureより一部翻訳抜粋

 

 

ある人々は言います。「あなたは、神学の事ではなく、慎み深さとか家庭のこととか、子育てとか、もう少し神学に関わらなくても済むような、女性的なテーマに焦点を絞ったらどうですか?」

 

しかしながらスプロール師の述べるように、およそ聖書や信仰に関わることで教理や神学に関わらないテーマというのは事実上、存在しないのです。

 

例えば、女性の「慎み深い服装」一つとっても、これは突き詰めていけば、聖書解釈や文化問題に抵触せざるを得ない神学問題です。

 

「服装のことなんだから、それは神学に関わらなくても済むテーマなんです」という考えはその意味でやや短絡的すぎるような気がします。

 

また「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい」(1テモテ2:11)と、パウロは私たち女性がキリスト教教理をよく学ぶことを奨励しています。(*しかし教理のインプットに対するパウロの奨励と、学んだ事のアウトプット行為は二つ分けて考えなければならないと思います。詳しくは次のB)で触れます。)

 

さらに「また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました」(1テモテ2:14b)という聖書の事実の真実性に向き合うなら、私たち女性は尚一層、自分の受けている教えや教義に対して真剣でなければならないのではないかと思います。

 

特に、「惑わす霊と悪霊の教え」(1テモテ4:1)がこれほどまでに蔓延し、クリック一つでありとあらゆる巧妙な惑わしの教理に誘い込まれる危険にさらされている今日、「女性だから教理(神学)のことには関わる必要はない」ではなくむしろ、「女性だから尚さら」健全な教理をバランスよく体系的に学んでいくことが必要とされているように思います。

 

そして「健全な教理をバランスよく体系的に学ぶこと」――これが神学の本来の目的でありその存在意義なのです。

 

 

B) しかしそれと同時に、教理(神学)を詳細に学ぶ女性たちは、その学びのアウトプットの「方法」に関し、常に細心の注意を払わなければならないと思います

 

現在、異端と称されている聖書教師たちの多くは、初めからそうだったわけではありません。ですから、いつの間にか「わき道にそれて無益な議論に走る」(1テモテ1:6)危険性は、聖書教師だけでなく、私たちクリスチャン皆に生涯つきまとう罠だと思います。

 

日本にも「女性預言者」を自称する人々がおり、常軌を逸した偽教理を、ネットやYoutube等を通して広めています。そしてこういった人々は一つの共通項を持っています。それは「彼女たちにはhead(かしら)がいない」という事実です。彼女たちはブレーキ機能が完全に麻痺した暴走車のごとくあります。

 

しかし「ブレーキ機能が完全に麻痺した暴走車」なのは、はたして彼女たちだけなのでしょうか。人間はなんといっても誤りを犯しやすい弱い存在です。御霊の統御の下にはない自分の判断を1ミリでも「過信」するや否や、私たちは秘かなる逸脱の道の「最初の1ミリ」を踏み出すことになりかねません。

 

こういった事から、私は自分のなすミニストリーのあらゆる領域に、自発的な「制約 restriction」を置くように努めています。

 

そして女性である私の場合、この「制約」と「かしらによるカバリング  male covering」は切っても切れない関係があります。

 

例えば、男性教師や神学者の論文を「翻訳するという行為」がそれに当たります。論文を翻訳する「女性」である私は、男性教師の説き教える内容からはみだす自由を持っていません。つまり私は彼の教理体系や枠組みの内に「とどまって」いなければならないのです。それは、受け身の行為であり、「黙って教えを受ける」行為です(1テモテ2:11)。

 

そして、こういった自発的「制約」は、自分自身をも、周りの人をも将来的な逸脱や偽教理から最大限守ってくれる、神の知恵であり盾だと私は信じています。

 

ここまでが「女性とミニストリー」に関する現時点の私の理解です。読んでくださってありがとうございました。