読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑩「千年王国と万物の成就を巡っての意見の一致と相違について」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

                 f:id:Kinuko:20170409003705p:plain

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

千年王国と万物の成就(THE MILLENNIUM AND THE CONSUMMATION)

 

では、千年王国のことはどうでしょうか?私たちはこれから起こるべき事をどのように見ていけばよいのでしょうか。

 

まず第一に、私たちはキリストの再臨を待ち望んでいます。神の約束はことごとく、イエス・キリストにおいて「しかり。」となり「アーメン。」となります(2コリ1:20)。

 

さらに、すべての御約束は教会に関係しています。――つまり、直接的であれ間接的であれ、すべては何らかの形で私たちに適用することができるという事です。

 

しかし教会それ自体の中ですべてが成就するわけではありません。その中のあるものは、目下、教会においては全く成就されていません。またあるものはただ部分的に成就されているだけです。預言を学ぶ中で、私たちはそれらの完全なる実現はまだ先のことであるという認識に導かれます。

 

原則として、この「より完全な実現」というのは、①黙21:1-22:5に描写されている万物の成就としての最終的な「黄金時代」、もしくは②万物の成就とも現在の時とも区分された「白眼時代」(一般には「千年王国期」と呼ばれています)に実現すると考えられます。

 

その中のある預言はその成就を白銀時代にみるかもしれませんし、黄金時代に成就をみるものもあるでしょう。あるいは両方の時代に成就をみる預言もあるかもしれません。

 

私見ですが、黙示録21:1-22:51の言語が指し示しているのは、万物の成就が、旧約預言の大部分における最大規模の成就となる、という事ではないかと思います。

 

それは無形で触知できないような種類の御国ではなく、新しい天と新しい地であり、その新地は、キリストご自身のよみがえりの御体と同じように物理的(physical)かつ固体的なものでしょう(Hoekema 1979, 274-87; 詳しくは第12章を参)。

 

このように「新しい地」に対する力点は、従来の異なる千年王国見解の立場を互いに近づけることになりました。

 

もしも私たち皆が、「新しい地は最も集約的な成就を表している」という事で意見の一致をみることができるのなら、それよりも小規模な領域に属する幾つかの成就に関する議論は、以前ほど重大なものではなくなるでしょう。

 

さらに、新しい地に対する強調は、従来のすべての千年王国諸説に、ある決定的にして有益な前進を施しています。

 

大半の無千年王国説論者、前千年王国説論者、後千年王国説論者は三者共々に、千年王国期における預言成就に重点を置いています。

 

その上で、彼らはそれぞれ、千年王国の性質や時期のことを巡ってこれまで意見を違わせてきました。

 

そしてこれは特に、無千年王国説論者側にとっては不利な状況でした。なぜなら、成就に関しての「地的(“earthy”)」性格に彼らはほとんど重点を置いてこなかったからです。

 

そしてディスペンセーション主義者はこれまで正当にも、彼らのそういった「霊的解釈(spiritualization)」傾向を批判してきました。(Hoekema 1979, 205, 275; quoting Walvoord 1959, 100-102, 298)

 

そのため、黙示録21:1-22:5の「新しい地」を私たちの考察の対象に含めるという事は非常に大切です。

 

しかしながら、たとい私たちがそうしても、「聖書がはたして未来における特定の白銀時代(「千年王国」)の存在を教えているのか否か」を巡り人々は依然として意見の不一致をみるでしょう。

 

ある人々は「特定の旧約預言の成就のためにはそのような時代は不可欠であり、黙20:1-10はそのような時代の存在を教えている」と考えています。

 

他方、別の人々は、「キリストの再臨によって、罪や罪のもたらす結果に圧倒的な勝利がもたらされるため、その再臨以後、地上における肉体的・可視的キリストの統治は永遠に続き、もうそこでは罪の問題に囚われる必要はなくなる」と考えています。

 

ここで焦点となっている問題は、再臨のもたらす結果がどれほど圧倒的なものなのかでもなく、どのくらいその預言成就が強烈なものなのかでもなく、「将来の『かの時』に為される成就というのが、キリストが現段階で為してこられた事の有機的継続であるか否か」を巡る問題です。

 

現段階(「この時」)において、キリストは十字架を通し、異邦人とユダヤ人を共に、一つのみからだに統合しておられます(エペソ2:16)。

 

それでは将来的な「かの時」、そこには一種類の神の民が存在するのでしょうか、それともしないのでしょうか?私は一種類の神の民が存在するだろうと申し上げます。

 

なぜなら、彼らをご自身に結び合わせることにより彼らに救いをもたらすのは、ただひとりの「代表的かしら」だからです。

 

また千年王国を巡る議論に関し、もう一つ申し上げておきたいことがあります。「結局彼らは~~だから~~なのだ」と、相手の見解を批判しようとする際、私たちには思慮深さによる分別力繊細さが是非とも必要とされるということです。

 

後千年王国説論者は、前千年王国説論者のことを「彼らは悲観主義に陥っている」と批判しています。

 

一方、前千年王国説論者は、後千年王国説論者のことを「今後起こるであろう世界大戦を前に、彼らは救いようがないほどお気楽な楽観主義者である」と批判しています。

 

また往々にして、非難を受けている対岸にいる陣営の人々は、そういった発言を聞いて「自分たちはパロディー化されている」と感じます。

 

しかし、ライバル体系の観点という《外側から》見たところ、いかにも欠陥あるように見える相手の見解が、その体系自体の観点によって《内側から》観察される時、それはかえって「長所」のようにも見えるのです。

 

そして全ての千年王国説見解がこの種の問題を抱えています。なぜなら、それらは皆残らず、教会史の経路に関し全体的な「ムード(印象)」というものを背負っているからです。

 

そして人々は往々にして、対岸にいる陣営の体系の「ムード」を、全体としての《相手の》体系の枠によってではなく、《自分自身の》体系の枠で読み取ろうとする傾向にあります。

 

ですから、それそのものの実態以上に、相手の見解が、より弱々しいものであるかのように見えます。

 

現在、私たちはディスペンセーション主義者のことに焦点を当てていますから、私は一つこれらの人々に関わる事例を挙げたいと思います。

 

ディスペンセーション主義者であるチャールズ・L・フェインバーグ(Charles L. Feinberg, 1980, 77; quoting Ryrie 1963, 44)は、彼自身の歴史観について次のように述べています。

 

f:id:Kinuko:20170408234042p:plain

 

 「歴史の目指す目標に関し、ディスペンセーション主義者たちは、この地上に建てられる千年王国にそれを見い出している。

 それに対し、契約神学者たちは、それを永遠の状態に見い出している。

 だからと言って、ディスペンセーション主義者たちが永遠の状態の栄光を軽視しているわけではなく、私たちが主張しているのは、人間の歴史における主権者なる神の栄光の顕示は、新しい天と地においてだけでなく、現在の天と地においても見られなければならないという点である。

 こういった歴史目標に対する認識観は、楽観主義的であり、且つ、その定義の要求にも適合している。 

 他方、契約神学側の見方では、歴史を『善悪の間に生じる連続した現行の闘争』とみており、それらは永遠の状態の開始の時点で終結させられるまで続く、、という風に彼らはみているわけだから、それは明らかに現在の歴史の中において何ら目標を持っておらず、ゆえに、悲観主義的である。」

 

私たちはこれをどう受け止めたらいいのでしょうか。前千年王国説論者は一般に、後千年王国説論者によって「悲観主義的」と非難されています。「なぜなら、彼ら前千年王国説論者は、主の再臨まで、キリストの王国の可視的勝利を後回しにしているからです。」

 

しかし前千年王国説論者たち自身は、そのようには捉えていません。フェインバーグやライリーなどは特に、自分たちは真に楽観的であると主張しています。

 

フェインバーグやライリーが「主の再臨」を考える時、それに関して彼らが持っている観念は、後千年王国説論者のそれとは異なっています

 

彼らは主の再臨後の時代を、現行の歴史との基本的「連続関係」を持つものであると捉えています。そして彼らは、歴史を、ただ単に自分たちの時代の彼岸にあるものであり、それゆえ希望無きものであると捉えるのではなく、「いやむしろそれは歴史の絶頂期である」と考えています。

 

しかし、現在の時間の枠組みにおいて、後千年王国説論者が見ようとしている「勝利」を、前千年王国説論者は目に見える形では持っていないため、後千年王国説論者たちの枠組みの《内側から》見た時、前千年王国説論者たちは悲観主義的に見えるのです。

 

それでは今度は、他の人々に対する、フェインバーグとライリーの批判に注目してみましょう。

 

冒頭の引用で、フェインバーグは、「他方、契約神学側の見方では、、明らかに現在の歴史の中において何ら目標を持っておらず、ゆえに、悲観主義的である。」と評しています。

 

もちろん、フェインバーグやライリーが言っている事は、契約神学のすべての見解に当てはまるわけではありません。それは、契約神学的な前千年王国説や後千年王国説に当てはまるのではなく、ただ無千年王国説だけに該当するものです。しかしその無千年王国説に限っても、彼らの批判は歪んだものだと言えます。

 

実際、彼らのこの無千年王国説批判は、後千年王国説が前千年王国説に関して犯しやすい種類の誤りと同一のものです。

 

ライリーの枠組みの《内側から》見ると、歴史の目標そして歴史の絶頂は、新しい天と新しい地が到来する前に、現行の歴史のただ中に到来しなければなりません。

 

もしそうでなければ、私たちの現時代は(古い地の終焉までにも拡大されるものとして今や捉えられた上で)希望無きものになる。。――そのように彼には見えているわけです。

 

しかしこれは少なくとも「何人かの」無千年王国説論者の捉え方とは一致していません。例えば、上述のアンソニー・ホエケマ(無千年王国説論者)は、新しい地に関し、特別な力点を置いています(1979, 274-287)。

 

彼は言います。「新しい天と新しい地における万物の成就は、全くの新しい開始ではなく、今あるもののトランスフォーメーション(変化、変容)である。キリストの復活のからだと、復活前のからだの間に連続性があるように、そこには依然として連続性がある。」

 

それゆえ、ホエケマのような無千年王国説論者は、「歴史」を、天地の刷新を「通し」それを「越え」続いていくものであると捉えています。

 

そして彼らは、最終的な万物の刷新を(あたかも万物の刷新以降は、まったく時間感覚が存在しないかのように)「時間」と「永遠」の間の区分としては考えていません。

 

彼らはそれを「ゼロからの再出発」としてではなく、「新しい創造」(2コリ5:17)としての信者の刷新に類似した刷新だと考えています。

 

ですから万物の成就に対しての彼らの見解は、――罪が完全に無くなるという点を除くと――古典的(歴史的)前千年王国説の「千年王国観」に非常に似ています

 

そして彼らは言います。「キリスト再臨の時にいかなる勝利がもたらされるかに関し、私たちはむしろ前千年王国説論者たち以上に楽観的なのです」と。

 

それに対し、フェインバーグやライリーはもちろん、「いや、勝利は『現行の歴史(“temporal history”)』の中にもたらされなければならない」と言うでしょう。

 

しかし「現行/一時的(“temporal”)」、「歴史」といった用語は、ディスペンセーション主義者の体系の中では、上述のホエケマ型の無千年王国説の体系とは異なる機能を持っています

 

フェインバーグやライリーは、新天新地の到来前に、勝利が成し遂げられなければならないと主張していますが、彼らの意味する「新天新地」というのは、無千年王国説論者にとっての「新天新地」とは異なる意味合いを帯びているのです。

 

ライリーは、ディスペンセーション主義は楽観主義的で、無千年王国説は悲観主義的だと言います。しかしそのような批判は、彼が意図的に、――無千年王国説論者たちが最も深大に楽観しているところの――その一つの時代を除外して後、初めて為し得るものです。

 

その意味で、ホエケマのような無千年王国説論者にとって、ライリーの批判は、誤解や疑問を生じさせるような種類のものであるに違いありません。

 

一つの譬えを出しましょう。これはあたかもライリーが、自分の自家用車(セダン)と、無千年王国説論者の小型トラック(pickup-truck)との間で「一つ、競争をしようではないか」と提案しているような感じです。

 

f:id:Kinuko:20170408235503p:plain

セダン

f:id:Kinuko:20170408235132p:plain

荷台付き小型トラック(pickup-truck)

 

ライリーは言います。「さあ、どっちの車がもっと荷物を積めるか見てみようじゃないか。」そうした上でライリーは言うのです。「セダンの方がもっとたくさんの荷を積める。なぜかと言うと、車体の外側にあるゾーンは一切競争ゲームの《対象外》だから!」

 

ライリーにとって、「万物の成就」を加え入れることは、車の上部に、網棚を据え置くような行為に他ならないのです。そういうのは競争の《対象外》とされます。

 

しかし「地的」(“earthy”)無千年王国説論者にとっては、「万物の成就」というのは小型トラックの「後部荷台」に相当します。それに、そもそもピックアップ・トラックというのは、この後部荷台の機能性ために存在するようなものです!

 

でももし「後ろの荷台使うのはルール違反だぞぉ~」とあなたが彼に言うなら、もちろん、彼は負けます。そういった意味で、ライリーの展開している議論は、恣意的判断による無意味な勝利をもたらしている感が拭えません。

 

関係改善の可能性(THE POSSIBILITY OF RAPPROCHEMENT)

 

この章で私は、契約神学の中での進展について述べてきました。そしておそらくディスペンセーション神学の中でも進展があったと言って差し支えないのではないでしょうか。

 

第3章で見てきました修正ディスペンセーション主義者の中には、一種類の神の民しか存在しないという見解に立っている方々もいます。この是認一つをとっても、両陣営間にかなりの同意と意見の一致がもたらされているのではないかと思います。

 

実際、この章()で取り上げた点すべてに同意してくださっている修正ディスペンセーション主義の方々もいます。ですから、仮に、千年王国期におけるイスラエルの特異性の問題をマイナーな問題だとして取り扱うことが可能だとするなら、もはや意見の不一致をもたらす実質的領域は残っていないことになります。

 

しかし、この問題に関し、すべてのディスペンセーション主義者/契約神学者が、平和的な立場に立っているわけではありません。ですから一致を妨げているそういった諸問題について私たちは次の章以降、取り組まざるを得ないようです。