巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ディスペンセーション主義者を理解する ⑧ 契約主義神学の中でのいくつかの進展(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

  小見出し

 

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 「ねぇ、ぼくのヒヨコさん、各時代間における『有機的なつながり』ってなんだろね?」(情報源

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

それでは本章では、ディスペンセーション主義の外側でなされている進展――特に契約主義神学内の進展状況――についてご一緒にみていきたいと思います。

 

契約主義神学は長い間、ディスペンセーション主義の主要競合相手とみなされてきました。確かに歴史的に、契約主義神学はディスペンセーション主義のライバルでしたが、それは必ずしも、古典的ディスペンセーション主義の〈対極双子〉ではありません。

 

また、オールターナティブな立場というものが、預言解釈について、「自分も古典的ディスペンセーション主義と同じだけの数の、詳細にして特定の回答を持っている!」と主張しているかというと必ずしもそうではありません。

 

また、預言に関するすべての見解が、成就についての正確な予測に等しく役立っているかというと、これもまた常にそうであるとは限りません。

 

預言的言語のあるものは、その含意をことごとく明示するというよりはむしろ、引喩的ないしは暗示的であるでしょう。それゆえ、いかにして成就がなされるかという事の詳細に関し、私たちはかなり時間をかけて取り組まねばならない時が往々にしてあると思います。

 

とはいえ、純粋なオールターナティブな立場というのは――それがどのような立場であれ――福音主義教理の真理についての堅い確信を共有しています。例えば、聖書の無誤性、キリストの神性、処女降誕、キリストの代償的贖罪、キリストのからだのよみがえり等です。

 

これまでの章で、私は非ディスペンセーション主義のみなさんに、「どうかご自分とは異なる立場にいる人々を理解するよう努めてください」とお願いしてきました。

 

そして今度はディスペンセーション主義のみなさんにも同じ事をお願いしたいと思います。みなさんは同意されないかもしれません。

 

しかしどうか分かっていただきたいのは、ここにも一つのまごうことなきオールターナティブが存在するということ、そして、それは同情心を持って「内側から」見た時、たしかに「理に適っており」――それはちょうどあなたご自身の体系が、同情心を持って「内側から」見た時、たしかに「理に適っている」のとちょうど同じなのです。

 

この章では契約主義神学の掘り下げはせず、主要な特徴点に的を絞って論を進めていきたいと思います。

 

契約主義神学内でのいくつかの修正(MODIFICATIONS IN COVENANT THEOLOGY)

 

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契約主義神学は、その起源をプロテスタント宗教改革に持ち、ヘルマン・ウィトスィウスおよびヨハネス・コケイウスによって体系化されました。

 

本書の目的のため、この神学の起源についての長い歴史は省略し、ウェストミンスター信仰告白によって代表される、古典的契約主義神学のところから話を進めていくことにしましょう。

 

契約主義神学というのは、世界の歴史を「契約」という語で捉えています。それによると、全歴史を通じた神と人間の交流は、二つの契約によって理解されるとされています。

 

① 行ないの契約(堕落前にアダムと結ばれた。)

② 恵みの契約(キリストを通し、主を信じるすべての人と結ばれる。)

 

そして恵みの契約は、異なるディスペンセーション(経綸)の中で異なる形で施行(administered)されますが、実質的には(substantially)全経綸の内にあってそれは同じです。

 

(*ウェストミンスター信仰告白7.4 「この恵みの契約は、聖書で、しばしば遺言という名で表わされている。それは遺言者イエス・キリストの死と、それによって譲渡される永遠の遺産とに、それに属するすべてのものも含めて関連している。ヘブル9:15-17、ヘブル7:22、ルカ22:20、Ⅰコリント11:25」)

 

契約主義神学は常に、一つの恵みの契約の内にあって、施行(administration)の多様性を認めています。これは大部分において、聖書歴史の中における異なる時代の多様性のゆえだと説明できます。

 

しかし力点は紛れもなく、一つの恵みの契約の一致(unity;単一性)にありました。

 

それとは対照的に、古典的ディスペンセーション主義は、さまざまな時代の中における神の施行の多様性「から」スタートし、「イエス・キリストにあるただ一つの救い」という点での一致に対する是認が、あくまで従属的に導入されています。

 

さて、契約主義神学にはどのような進展があったのでしょう?契約主義神学者たちは、ウェストミンスター信仰告白の形成後、ただ黙って何もしていなかったわけではありません。

 

ゲルハルダス・ヴォス([1903] 1972; [1926] 1954; [1930] 1961; [1948] 1966)は、神の啓示の漸進的性格および、歴史の中における神の贖罪的行為としての漸進的性格についての考察・研究を始めました。

 

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 Geerhardus Vos, 1862-1949

 

そしてこれをもって、「聖書神学(Biblical Theology)」という一連の運動が誕生したのです。

 

この聖書神学では、旧約と新約の間に存在する非連続性や前進という点だけでなく、旧約内のそれぞれの時代間における非連続性や前進にも重きを置いています

 

*訳者注:聖書神学についての記事のご紹介:


この陣営内の代表者として挙げられるのは、ヘルマン・リダーボス(Herman Ridderbos , 1958; 1962; 1975)、リチャード・B・ガフィン(Richard B. Gaffin, 1976; 1978; 1979)、メレディス・G・クライン(Meredith G. Kline, 1963; 1972; 1980; 1981)それから、O・パルマー・ロバートソン(Palmer Robertson,1980)などです。

 

聖書神学という取り組みの中では、旧約内のそれぞれ特定の聖契約を、①他の諸契約との関連性という点で、そして②その唯一性という両方の点で考察することができます。

 

この枠組みの中にいる契約主義神学者たちは、依然として「唯一なる恵みの契約」というものの一致(unity; 合一、統一性、単一性)を信じています。

 

でも、そういう一連の事は結局何を意味しているのでしょうか?そうです、唯一の「恵みの契約」は、多様な形態の中によってなされる、救いの唯一の道に対する宣言なのです。ディスペンセーション主義のみなさんも、これには同意できると思うのですが、どうでしょうか?

 

それに加え、別の前線においてもいろいろな動きがあります!例えば、アンソニー・A・ホエケマの著書「聖書と未来(The Bible and the Future)」(1979)です。

 

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Anthony A. Hoekema(1913-1988)

 

ホエケマの、「新しい地」に対する聖書的御約束への着眼により、終末論の領域においても活性化がなされました。

 

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彼は無千年王国説の支持者ですが、(万物の成就としての)永遠の状態の地上的(“earthy”)性格にも力点を置くことで、前千年王国説の千年王国からも、そう隔たったところにはない像を描き出したのです。

 

また、ウィレム・ヴァン・ゲメレン(Willem Van Gemeren,1983; 1984)は、ローマ11章と旧約預言を基盤に、イスラエルの特別な役割に着眼しています。

 

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Willem Van Gemeren

 

民族的イスラエルに対する神の将来的目的という部分に考慮の余地を入れることで、彼は、ディスペンセーション主義の方々が重荷を持っておられるいくつかの部分を共有し、そこに接近しています。

 

贖罪的時代ないしは「ディスペンセーション(経綸)」(A VIEW OF REDEMPTIVE EPOCHS OR “DISPENSATIONS”)

 

それではこういった一連の働きがもたらした結果について――特にディスペンセーション主義のみなさんにとって有益になるような部分について――少しまとめてみたいと思います。

 

まず第一に、歴史の中で神のご計画が為される上での特定の諸時代ないしは「ディスペンセーション」が存在します。

 

そしてこれらの諸時代は有機的に互いに関連し合っています。種から新芽が芽生え、新芽が成長した植物となり、そしてその植物が果実を結びます。各時代がそれぞれに対して持っている有機的関係もそのようなものだといえます。

         

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そして各時代の間には、連続性(一本の樹木があらゆる段階を経ながら発育していくように)と、非連続性(種は、新芽とはとても違って見えます。そして新芽は果実とはとても違ったもののように見えます)、その両方があります。

 

具体的にそういった時代がいくつあるのかという事はさほど重要ではありません。大切なのは、それが有機的な型の関係性を持っているということです。

 

例えば、私たちは旧約聖書の中の寓意的(figurative)な「復活」に注意を払うべきでしょう。

 

――ノアは洪水から救われました(水は、死の象徴です。参:ヨナ2:2-6)、イサクは雄羊の代替により死から救われました。そして乳児のモーセは水から救われ、イスラエルの民は過越および紅海にて救われ、イスラエルの、死からの予備的「復活」の型としてバビロンからの回復がありました(エゼキエル37)。

 

こういった全ての事は、贖罪の偉大な行為(キリストの復活)との間に、ある種の「連続性」があることを示しています。しかしここにはまた「非連続性」も示されています。

 

こういった事例の大部分はある意味、寓意的ないしは「影(“shadowy”)」的です。エリヤが死んだ子どもを蘇生させるような親近性のあるパラレルであっても、それは完全なパラレルではありません。

 

結局、この男の子は地上的な存在に戻り、やがて再び死ぬことになりました。それに対し、キリストは復活の体で永遠に生きておられます(1コリ15:46-49)。

 

非連続性は非常に重要です。肉においてキリストが実際に顕現される前には、贖いというのは、必然的に、部分的で影の含みを持ち("shadowy")、「不十分(“inadequate”)」な性格を帯びざるを得ませんでした。

 

なぜなら、それは、それ自体の内に究極的な十全性を据えるのではなく、あくまでもその究極的十全性(つまりキリスト)を「指し示す」ものでなければならなかったからです。

 

さらに、復活モチーフが表現される特定の方法というのは、有機的に開かれつつある過程における「成長」の特定段階と、常に調和しているのです。

 

例えば、ノアの時代、人類はまだ国々に分化されていませんでした。ですから、適切にも、ノアの家族の「復活」は宇宙的作用域(cosmic scope)を表しています(2ペテロ3:5-7)。

 

イサクの時代には、約束の子孫とアブラハムの相続人が、一人の人間の内に存在していました。ですから適切にも、犠牲と「復活」は、全約束およびその最終的成就を代表するものとして、これに関わっているわけです(参:ガラ3:16)。

 

その他の事例にも同様のことが言えます。それぞれが、クライマックスとしてのキリストの御業の特定の側面を浮き彫りにし際立たせています。

 

そしてそれは、それぞれの出来事が起こる特定の時代および特定の状況にまさしく適合する形で為されているのです。