巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑦ スコフィールド以後のいくつかの進展(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

 

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『新スコフィールド・リファレンス・バイブル』(1967)

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

その後、いくつかの興味深い進展がディスペンセーション主義内部で起こっており、それはかなりの度合いにおいてスコフィールド自身の見解を越えるものです

 

「新スコフィールド注釈聖書(New Scofield Reference Bible)」は大方、スコフィールドの伝統を引き継いでいます。しかし少なくとも二、三の点で、スコフィールドのいくつかの「尖ったへり部分」はすでに注釈から削除されています。

 

例えば、「アブラハムへの約束」や「御国の律法」に関する彼の二重解釈(創15:18およびマタイ5:2の注釈)の部分は新版では消えています。

 

しかし使徒2:17の二重解釈は依然として残っており、むしろ新版では、ここの解釈はさらに強化されたようです。それから創1:28には注釈加筆があり、救いにはただ一つの道しかない、それは信仰をとした恵みによるキリストの内にある救いである、と記されています。

 

また同じ編注は、啓示の累積的性質について強調しています。もちろん、ディスペンセーションは依然としてそこに存在しますが、それらはそれ以前の神の御働きに「取って代わる/破棄する:supersede」というよりもむしろ、そういった御働きに「付け加わるもの」として捉えられています。こういった新しい強調は、歓迎されるべきものではないかと思われます(参:Fuller, 1980, 18-46)。

 

それに加え、よりインフォーマルな所においても、ある重要な発展や動きが出てきています。何人かの指導的立場にいるディスペンセーション主義者たちの間で、「少なくとも教会における旧約預言の二次的適用、場合によっては『成就』も言及しよう」といった積極的な意志がみられるのです。

 

また多くの方々は「新約の信者たちは、アブラハムのまことの子孫であるキリストとの一致により、成就に参与している」と言い始めています。

 

前の章でご一緒に見てきましたように、スコフィールドは旧約預言に対する「絶対的字義性(“absolute literalness”)」という彼の一般的言明により、上記のようなタイプの動きを断固として拒絶していました(Scofield 1907, 45-46)。

 

しかしこういった原則により、スコフィールド自身の内で、自分の「解釈学的原則」と、「実際の読み方」(例:アブラハムへの約束、ヨエル預言、マタイの御国の倫理といったものに、霊的・教会的次元をも許すという読み方)との間に非常な摩擦を生じさせていました。

 

さらに、預言においての字義性のみの主張は、旧約聖書の歴史の中に寓喩的要素を見い出そうとしていたスコフィールド自身の意思とも軋轢を生じさせる結果をもたらしました。

 

なぜ歴史の部分には〔寓喩的要素に関する〕いくらか余分な範囲を許しているのに(表面的には、でも、歴史の中には寓喩的要素はより少ない。。。)、預言の部分にはそれが許されていないのだろう(表面的にはむしろこちらの方に寓喩的要素がより多く含まれているのに。。)?

 

そういう訳で、スコフィールドの後継者たちの内何人かが、彼が(「歴史」と「預言」との間に設定していた)厳格にして人工的にみえる二分法アプローチを除去しようと試みたのはむしろ不可避なことだったと言っていいでしょう。

 

その方法はシンプルです。彼らはこう考えました。〈スコフィールド解釈法に加え、預言というのはもしかしたら、――旧約の歴史の中に見いださる付加的次元(extra dimension)と平行し――あちこちでそういった付加的意味を持っているのかもしれない。〉

 

〈それでは、その付加的次元とは一体どのようなものだろう?うん、そうだ。「歴史」の読みにおいて、私たちは生粋の歴史的出来事の価値を保持しつつ、それと同時に、ある場合においては、そこに「キリストおよび教会を指し示すような予型的次元(typological dimension)」を読み加えている。〉

 

〈一方、「預言」の読みにおいて、私たちはイスラエルの千年王国の内に字義的成就を保持しつつ、それと同時に、ある場合においては、そこに「キリストおよび教会を指し示すような霊的適用の次元」を読み加える。。。〉

 

ある人々はさらにここから進んで、〔預言〕成就における教会の参与についても言及するようになっています。

 

例えば、ディスペンセーション主義者のタンは、預言の完璧に「字義的な」成就を主張することにおいてきわめて律儀でありながらも、それと同時に、教会への適用という領域でも彼はきわめて積極的にそれを認め、預言成就における「現在の予表」について次のように言っています。

 

「もちろん、未来に関する預言に「現在の予表("present foreshadowings")をみたり、キリスト教会への適用としたりすることは可能です。しかしここで私たちは『拡大された予型』という領域にいるのです。前千年王国説的解釈者は、旧約の出来事に多くの予表を見い出すかもしれませんが、彼らはそれを――実際の成就としてではなく――あくまで適用、予表として見ているのです。(Tan 1974, 180)」

 

 

スコフィールドは、もちろん、旧約の歴史的記述の中の「予型」や、さらには「寓喩(“allegory”)」の存在でさえも認めていました。しかし、原則のレベルにおいて、彼は、「預言」の領域ではこれを認めることを拒みました。一方、タンはそのような差し控えを全くしていません。

 

しかしタンは、自分の使用する術語(用語)の中で注意深く、重要な区別を保とうと努めています。彼は「成就(“fulfillment”)」という言葉を使う際、いつも一貫して、最も字義的な形態における預言の実現を指し示しています。(多くの場合、そこには千年王国的成就が彼の視野にあります。)

 

そして、教会に対して関連づけることができるかもしれない預言、といった意味合いを帯びさせたい時には、タンは「予表(“Foreshadowing”)」や「適用(“application”)」といった用語を好んで用いています。

 

しかし他のディスペンセーション主義注解者たちは、ここからさらに進んでいます。例えば、エイリッヒ・ザウアー(Erich Sauer , 1954, 162-78)は、数多くの旧約預言における「四重の成就の可能性」を述べています。

 

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Erich Sauer

 

1)旧約預言はバビロンからの回復において予備的な仕方で成就している。

2)霊的には教会時代に成就している。

3)千年王国期に字義通り成就する。

4)そして(千年王国に続く永遠の状態である)万物の完成の際、さらなる成就をみる。

 

ザウアーはこのように自分の立場を明確に打ち出しています。「しかしその他の多くの人々は、複合的成就の可能性を前提とするような(ザウアーと似た)見解に対し、どのくらい議論の可能性を残しているのでしょうか。」とお尋ねになる方がいらっしゃるかもしれません。

 

アーヴィング・ジェンセン(1981, 132)は、一般に広く受け入れられている型のディスペンセーション主義の立場を代弁して次のように言っています。

 

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Irving L. Jensen

 

「多くの場合、一つの預言には複合的適用がなされます。例えば、イスラエルの患難に対する預言は、バビロン捕囚と同時に、終わりの時の大患難期を言及し得るでしょう、、預言者は、あたかもそれらの出来事の間に何らの時間的介入がないかのように、次から次へと未来の出来事を預言しています。そういった介在的な出来事は彼には啓示されていなかったのです。」

 

私たちが「旧約の預言」と、「キリストの初臨および再臨に関するいくつかの出来事」の間に存在する明らかなパラレル関係に取り組もうとするなら、こういった複合的適用という考え方は容易に生じてくるでしょう。

 

さらに、新約聖書自体が旧約聖書をクリスチャンに適用させている事例から、私たちは教会とクリスチャンというものが多くの場合、適用に関する一つの重要なポイントであるという認識に導かれます。

 

仮にあるディスペンセーション主義の方々が、「旧約預言にはしばし一通りではない複合的な適用がある」という認識をもって預言の箇所を読んでいると仮定してみてください。

 

説教者としてこれらの人々は、会衆のみなさんのためにも、教会に対する適用について注意を払う特別な責務を負っています。

 

もちろん、彼らは究極的な成就が何であるのか、そして自分たち以外の状況にいる人々に対する適用がどのようなものであるか調べることはできるでしょう。

 

しかしもしこの方々が牧者としての心を持っているのなら、現在への適用という点に多くの時間とエネルギーを注ぐことだろうと思います。そうしていく過程で、預言の解釈に対するこれらの人々自身のアプローチが次第に、非ディスペンセーション主義者のそれに近づいていきます。

 

実際、私たちは、可能性として考えられる広範なスペクトルを次の図表のように描くことができるかもしれません。

 

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さて、ディスペンセーション主義の方々がまず「適用」一般について話し始めました。

 

そうして、「預言」と「教会」との間の関連性について次第に違和感を覚えなくなるにつれ、これらの人々は、次第にこういった適用を、「予備的(preliminary)」とか「部分的成就(partial fulfillments)」と呼び始めました。

 

一面において、これは単なる用語の違いです。しかし「成就」という語は、「教会によるこれらの聖句の使用」が一義的意味からそれほど隔たってはいないという事を含意する傾向にあります。

 

そしてそれが示唆するのは、神が最初に預言をお与えになった時、教会というのは単なる後の思い付きではなく、主の御意図に統合されたものだったということです。

 

実際、ディスペンセーション主義の方々は時としてここからさらに進みます。そして、これまで以上により一層、預言を、①教会時代(予備的な方法で)、②千年王国時代(最終的な方法で)その両方において成就するものであるとみなすようになります。

 

しかしそうであったとしても、教会はイスラエルの預言的地位からそれほどかけ離れてはいない、むしろ、教会はそれに(予備的な方法で)参与しているのだと、これらの人々は考えています。

 

〈クリスチャンは今、アブラハムの御約束の成就に参与している。なぜなら、クリスチャンは――成就の核心である――キリストと結ばれているから。でも、御約束の完全な実現は、やがて将来的に果たされる。〉

 

〈ということは、一つはイスラエルに、もう一つは教会に、という二つのパラレルな御約束は存在しないということ?そして一つはイスラエルに、もう一つは教会に、という二つのパラレルな宿命というのも存在しないということになる?!〉

 

〈むしろ、そこに有るのは、一式の御約束や目的に対する(予備的&最終的)異なる歴史的段階なのかもしれない。〉

 

〈そうなると、やはり存在するのは、ただ一種類の神の民なのだろうか?――終わりの日に、キリストの復活の後、ユダヤ人も異邦人も一つのからだにつらなったという一つの神の民に。。(参:ローマ11:16-32の単一のオリーブの木)

 

この地点で、これらのディスペンセーション主義の方々は、ジョージ・E・ラッドのようないわゆる「古典的」前千年王国説に近い立場に近づきます。

 

古典的前千年王国説は、キリストの(肉体を伴う)再臨の後、キリストの統治の下、偉大なる地上的繁栄という特定の時期があることを信じており、この時期の後、一般的復活と新天新地の創造(万物の成就ないしは永遠の状態)が続くと信じています。

 

しかしこの立場は、二つの神の民ないしは二つのパラレルな宿命といった区別はしていません。ディスペンセーション主義者の中にはこれに同意する方々もいます。しかしこれらの人々は、国家的、民族的イスラエルの継続する重要性を重視したいという願いから(ローマ11:28-29)、自らのことをディスペンセーション主義者と呼んでいます。

 

そして、これらの人々は、パレスティナの地に関わるアブラハムの御約束は、やがて千年王国期に民族的イスラエルの地において字義的成就を見ることになると信じています。

 

また、ここからさらに無千年王国説の立場にシフトする人々がいるかもしれません。次の事を仮定してみてください。古典的前千年王国説を信じる人々が、時の経過と共に段々と、教会時代における旧約預言の、より多くのより深い成就を見るようになりました。

 

彼らが見ているもの以上に深い成就というのは、そうそう簡単に絶対的で完璧な成就、という風に理解がいきません。彼らはこれまでずっと、より偉大な成就は千年王国期に実現すると見てきたからです。

 

しかしある人々は、この「千年王国の」平和と繁栄というのはあまりにもすばらしく、これは永遠に続くものであると信じ始めました。これは事実上、万事の完成なのです。でもそうなると、もちろん、彼らは黙20:1-10の自見解を修正しなければならなくなります。

 

これが仮に起るとして、そこにはいくつかの選択肢があります。が、そういった選択肢は私たちを懸念させるには及びません。肝要な点は、旧約預言についての認識は、非常に広範囲な連続体(continuum)をなし得るということです。

 

別の体系を受容すべく、一気にそして意識的に自らのこれまでの体系を放棄することに困難を覚え、そのため、決して別の地点には行かない方もおられるかもしれません。しかしそうではあっても、この連続体に沿って、他の兄弟姉妹が将来的に私たちに近づいてきてくれるかもしれないということに私たちは希望を持つことができると思います。

 

ディスペンセーション主義者は今後自らの立場を、例えば、古典的前千年王国説や、あるいは無千年王国説に改訂するかもしれませんし、逆に、無千年王国説支持者は、彼らが――「永遠の状態」と定義する状態の初めに――付加的「開始点段階(“threshhold stage”)」というのを導入することによって前千年王国説支持者になることもあるいは可能でしょう。

 

私たちは自らの体系を段階的に改訂していき、それでも尚かつ、最終的には、今自分のいる場所に辿り着くことも可能です。(もしくは、逆のバージョンとして、私たちは自らの見解を改訂していきながら、やがて彼らがいる場所に辿り着くこともまた可能です。)

 

この地上に生きている限り、クリスチャンの間にはいくらかの教理的意見の不一致があることでしょう。しかしキリストゆえに、そして真理ゆえに、私たちはそれらを克服する方向で共に働いていかなければなりません(エペソ4:11-16)。そしてこの事に関し、たとい、人々がすぐに完全なる意見の一致に達しなくても私たちは気落ちしたり、失望したりする必要はありません!

 

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