巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑥そのヴァリエーションと多様性(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

小見出し

 

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      ヴァリエーション

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

ディスペンセーション主義のヴァリエーション(VARIATIONS OF DISPENSATIONALISM)

 

ジョン・N・ダービーおよびC・I・スコフィールド双方にとって、律法と預言の解釈――つまり実質上、旧約聖書全般の解釈――が、ディスペンセーション主義体系の中での鍵となるものでした。

 

「山上の垂訓の中に出て来る律法は、直接的にはクリスチャンに関係し得ない。もし関係し得るのなら、恵みによる救いという真理が妥協にさらされてしまう。」「預言というのは、将来の地上的イスラエルにおける字義的成就として読まれなければならず、それは教会を成就と読み取ってはならない。」

 

こういった要素は今も尚、一部のディスペンセーション主義の人々のアプローチにおける肝要ファクターとして存続しています。しかし旧約の律法や預言に対するすべての人のアプローチが全く同様であると考えてはいけません。

 

今日への適用としての旧約聖書使用(USE OF THE OT IN PRESENT-DAY APPLICATIONS)

 

まず一つ目に申しあげたいことは、「クリスチャン生活への聖書の適用」という点で、さまざまなディスペンセーション主義者の間に多様性があることを認めることの大切さです。

 

今日、多くのディスペンセーション主義者は、「直接自分に語りかける書」として聖書を読んでおられます。また、これらの人々は預言的約束(例:イザヤ65:24、エレ31:12-13、エゼ34:24-31、ヨエル2:23、ミカ4:9-10)を自分たちに適用し得るものと捉えています。また彼らは山上の垂訓も自分たちに適用され得ると考えています。

 

そして彼らは、たとい、そういった預言や掟の「第一義的」言及が千年王国期の人々のために出されているということを信じてはいても、それでも尚、自分たちにも適用され得ると信じています。こういったグループの中には多くの古典的ディスペンセーション主義者だけでなく、かなり修正した型のディスペンセーション神学を信奉している人々も含まれます。

 

しかし中にはそうすることを拒んでおられる人々もいます。これらの人々は「真理のみことばを正しく分割する(“rightly dividing the word of truth”)」ことに勉励しています。つまり、彼らは注意深く、それぞれ異なるディスペンセーション(経綸)に対して語られている聖書箇所を分離・分類しているのです。

 

そしてこの経路をたどっている人々は、山上の垂訓が「法的根拠(“legal ground”)」(参:マタイ6:12のスコフィールド注釈)である、従って、これはあくまで(千年王国期の)御国の倫理であって、クリスチャンに対して適用されるべき倫理ではないと解釈しています。

 

また、クリスチャンは「主の祈り」(マタイ6:9-13)を祈るべきではないし、仮に祈るとしても手本として用いるべきだ。なぜなら、マタイ6:12は恵みのアンチテーゼだから、と解釈しています。一応、このようなスタンスのディスペンセーション主義者を「硬派(“hardline”)」ディスペンセーション主義者と呼ぶことにいたしましょう。

 

そしてそれとは反対のグループを「適用派(“applicatory”)」ディスペンセーション主義者とお呼びすることにしましょう。なぜなら、これらの「適用派」の人々は平素、自分たちクリスチャンに対しても旧約の適用をしているからです。尚、「硬派」「適用派」そのどちらのグループ内にも古典的ディスペンセーション主義者は存在します。

 

また「硬派」ディスペンセーション主義者の中には、スコフィールドがマタイ5:2注釈で留意していた程度の適用さえも拒むような原則を保持している人々もいます。(スコフィールドは、マタイ5-7章が第一義的には千年王国への言及であるということを述べた後、「この箇所はクリスチャンにとっての美しい倫理的適用がある」という事は記述しています。)

 

さらに、これら「硬派」の人々が預言を読む際、彼らは聖句を、「千年王国期のもの」と「キリストの最初の降臨によって成就されたもの」とに「分割」します。そのプロセスを通し、そうとは気付かないうちに、彼らは教会の一員としての自分たちがそういった聖書箇所を適用することを注意深く回避してしまっています。

 

もちろん、聖書適用におけるディスペンセーション主義者の間の相違というのはそれぞれ各自の度合の問題です。そうではあるのですが、今私がなしている分類作業というのはそれなりに有益なものではないかと思います。なぜなら、それによってそういった相違の深刻度を私たちはより正確に把握することができると思うからです。

 

ディスペンセーション主義者も、非ディスペンセーション主義者もどちらも、「相手の方こそ間違っている」と考えています。しかしながら、すべてのことにおいて片方だけが全部正しい/間違っているということはないでしょう。しかしその中に含まれている誤謬はどの位の深刻さを持つものなのでしょうか?そしてそういった誤謬はどれくらい教会にダメージを与え得るのでしょうか?

 

教会への実際的影響という点でみた時、①「適用派」ディスペンセーション主義者と、②大半の非ディスペンセーション主義者は、(それぞれが③「硬派」ディスペンセーション主義者との間に持っている距離で比べた場合)、むしろ、①と②の人々は、互いにより近い関係にあるのではないかと思います

 

それではこの事を具体的に考えてみましょう。まず最初に、「適用派」ディスペンセーション主義者のAさんと、非ディスペンセーション主義者のBさんが一緒に話しているとします。

 

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この二つのグループの内の一方が、終末論の詳細において幾つか誤った考えを持っています。そしてこの誤見解はこのグループの生活に多少なりとも影響を及ぼしています。

 

すべてのクリスチャンは、キリストの再臨に対する希望の光の下で毎日の生活を送るよう召されています。そして私たちの希望はいつもある程度において私たちが頭に描いている詳細像によって彩られています。

 

しかしそうではあっても、私たちが皆共有している中心的希望――つまり、イエス・キリストの再臨自体――に比べたら、そういった詳細の影響はより小さいといえます。詳細内容の多くは、私たちの精神的書棚に収められている詳細にすぎず、私たちの実生活にはさほど影響を及ぼしていないというのが現実です。

 

また実際に一連の終末の出来事が起こり、その結果、自分の終末論的見解が間違っていたことが判明したにしても、それはさして大悲劇とはなりません。

 

ただ、そういった事に一つ問題があるとしたら、それは終末論的見解の詳細というよりはむしろ、そういった見解から引き出される誤った形での実際的諸結論ではないかと思います。

 

例えば、イスラエルという政治国家が大患難期にvindicate(正当性の立証)されることを信じている人々の中には、「現在」、自分の国の政府があらゆる状況において政治的に親イスラエル路線を取らなければならないと誤って結論づけるようになるかもしれません。

 

もしくは、「主の再臨が近づいているので、もう一般の仕事をやめよう」と、当時のテサロニケの信者の幾人かが取っていたような行動をとるかもしれません(2テサ3:6-13)。しかしこういった事は、成熟したディスペンセーション主義者・非ディスペンセーション主義者なら皆一様に避けようとしています。

 

では今度は、聖書のかなりの部分を「自分には適用されない」としている「硬派」ディスペンセーション主義者のことを考えてみましょう。この場合、これらの人々の見解が誤っているのだとしたら、彼らが及ぼしているダメージは非常に深刻だといえるでしょう。

 

彼らは、クリスチャンが聖書の多くの箇所から受け取るべき霊的糧を自ら遠ざけてしまっています。またこういった人々が教会の指導的位置にある場合、彼らは他の人々にもダメージを与えることになります。

 

彼らは真剣に受け取るべき聖書の御約束や掟から自らを遠ざけ、人々の人生の中に神の御言葉が生きて働く余地をはく奪しています。もちろん、すべての御約束や掟が、当時の聞き手に適用されていたのと全く同じ方法で私たちにも適用されるわけではありませんし、私たちはいかにして神の言葉を自分たちに関連づければいいのかという問いにしばし取り組まねばなりません。しかしその努力を初めから除き去ってしまうというのは、そのプロセスを短絡化させることです。

 

それでは、私たちはディスペンセーション主義内のこういったヴァリエーションから何を学ぶことができるでしょうか?まず、私たち非ディスペンセーション主義者は、ディスペンセーション主義の人々を無差別に非難したり反動を起こしたりすることをしてはいけないと思います。

 

事実、ディスペンセーション主義者の中には、他の人々以上に霊的に私たちに近い人々もいます。ある人々は破壊的な教えをしていますが、また別の人々はそのような教えはしておられません。特に、ディスペンセーション主義の教えから引き出される実際的な成果や、そこに集う人々がいかに聖書から霊的滋養を得ているかを見る時、私たちは短絡的な判断を慎まねばならないことを悟るでしょう。

 

またディスペンセーション主義者の中には多くの良い働きをしている方々もおられます。そこに残存する相互の相違点というのは、実際レベルでは、理論上見える差異よりも、よりマイナーなものなのかもしれません。

 

それから「適用派」ディスペンセーション主義のみなさんにとっておそらく重要なのは、ディスペンセーション主義者の間に存在する実際的な主要相違点に向き合うことではないかと思います。「適用派」ディスペンセーション主義のみなさんは、実際的にも牧会的にも、旧約預言の適用という点ですでによい働きをしておられると私は思います。

 

しかしみなさんは、他のディスペンセーション主義者がこの部分においての誤謬に陥らないように周りの人を助けてあげる必要があると思います。また、みなさんに知っていただきたいのは、非ディスペンセーション主義者の中には、聖書の実際的使用という点で、「硬派」ディスペンセーション主義者以上に、むしろみなさんと霊的に近いところにいる人々がいるということです。

 

1 I do not intend to criticize the expression itself (it is biblical: 2 Tim. 2:15 KJV). Neither am I criticizing attempts to distinguish addressees of prophecy. I am concerned here for the practice of forbidding applications on the basis of a division.