巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑤ C・I・スコフィールドのディスペンセーション主義の特徴【後篇】(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

 小見出し    

 

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C・I・スコフィールド

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

スコフィールドの聖書解釈(SCOFIELD’S HERMENEUTICS)

 

ディスペンセーション主義者は、一般に「字義的(“literal”)解釈をする人々」として特徴づけられています。しかし、ことスコフィールドに関して言いますと、それは半面の真理にしか過ぎません。スコフィールドの聖書解釈アプローチにおける、より根本的要素は、イスラエル/教会間の区分にあります。

 

ダービーを思わせるやり方で、スコフィールドは、神の二つの民というこの分岐(bifurcation)から、聖書解釈における分岐を演繹しています。「イスラエルは地上的であり、教会は天的です。前者は、自然的であり、後者は霊的です。」

 

スコフィールドによると、イスラエルに関するものは「字義的(literalistic)」な仕方で解釈されなければなりません。しかし教会に関するものは、そのように解釈される必要はありません。そして聖書のいくつかの箇所――おそらく数多くの箇所――は、同時に両方のレベルで解釈されなければなりません。「Scofield Bible Correspondence School」 (1907, 45-46)の中で、スコフィールド自身、次のように言っています。

 

 

「こういった〔歴史的聖句〕は、

(1)文字通り真である(literally true)。記録されている出来事は実際に起った。しかしながら

(2)それらは(おそらく私たちが考える以上に)寓喩的(allegorical)ないしは霊的重要性を持っている。例:イサクとイシュマエルの歴史。ガラ4:23-31」

 

「従って――歴史的真実性を堅く保持しながらも――崇敬に歴史的聖句に霊的な意味を付与すること(" spiritualize")が許されている。」

 

「〔預言的聖句において〕、、私たちは絶対的字義性("absolute literalness")という土台に達する。預言書の中で喩(影:figures)はしばし見い出されるが、喩は常にかならず字義的成就をみるのである。預言の「霊的」ないしは喩的成就という事例は存在しない、、、」

 

「、、、エルサレムは常にエルサレムであり、イスラエルは常にイスラエルであり、シオンは常にシオンである、、、」

 

「預言は決して霊化(spiritualized)されず、常に字義的である。」

 

 

従って、スコフィールドは純然たる字義解釈者(literalist)ではなく、イスラエルに関する事についての字義解釈者であるといえます。「イスラエルと教会」というこの二元論は、実際には、①いつ、②どこで、「字義的」/「霊的」解釈二元論がそれぞれ適用されるべきかを決定する、より深い二元論です。1

 

「歴史的聖句も預言的聖句も共に、字義的(literal)側面を持っている」とスコフィールドははっきりと主張しています。そして、歴史的聖句は、過去に文字通り(literally)起こった事を描写しており、それに対し、預言的聖句は、将来的に文字通り(literally)起こることを描写していると述べています。

 

彼は、この字義的側面を損なわせるようないかなる試みをも拒絶しています。しかし字義的側面に加え、彼は霊的側面も許しているのでしょうか?もしもそうなら、おそらく彼は次のように言うはずです。「描写されている実際の出来事に関し、私たちは歴史的聖句・預言的聖句共に、字義的に解釈しなければなりません。そして教会に対する適用に関してはそれを霊的に解釈しなければなりません」と。しかしながら、実際、彼はそうは言っていないのです。そしてそう言う代わりに、彼は、預言と歴史の区分を導入しています。

 

しかし、事実、これでさえも話の全容ではありません。スコフィールドは、ゼカリヤ10:1の注釈において、預言の「絶対的字義性(“absolute literalness”)」に関する彼自身の原則から逸脱してしまっています。

 

この節には次のように書いてあります。「後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる」(ゼカ10:1)。

 

そしてこの箇所の注釈は次のようになっています。「参:ホセア6:3、ゼカ12:10.ここには肉的、霊的両方の意味がある。古の雨はパレスティナにやがて回復される。しかしそれと同時に、回復されたイスラエルの上にはやがて力強い御霊の注ぎがあるだろう。」

 

従って、預言におけるスコフィールドのこの「絶対的字義性の土台」というものは、私たちが考えるほどそう絶対的なものではないと言えるでしょう。このように実際、スコフィールドは自ら進んで喩(figures)を認めているだけでなく、その二重の意味についても言及しています。

 

ですから、彼にとってどうしても排除されなければならない肝要点というのは、いわゆる「霊的な」意味自体ではなく、この預言の成就に「教会が参与する」ということを暗示するような解釈――これこそが排除されなければならないとされているのでしょう。

 

非ディスペンセーション主義者にとって、こういった手順はかなり恣意的なものに見えるでしょう。しかしスコフィールド本人にとってはそうではなかったようです。実際、この手順は、彼のエペソ3:3-6の理解が基盤になっています。

 

古典的ディスペンセーション主義者は普通、この箇所を以下のように理解しています。――旧約聖書のどこにも新約の教会に対する知識の啓示はない。にもかかわらず、エペソ3章の「奥義」という思想は、予型(typology)として、教会のこともひそかに言及され得るという余地を与えている。しかしここで許されていないのは、教会に対するあからさまな(overt)言及である。もしも未来預言としての旧約預言が、教会のことを言及しているのなら、それはあからさまな予言的事項であったはず。他方、旧約の歴史的記述は、新約の読者たちにも有効な、二次的レベルの「奥義」の意味を持っているだろう。

 

エペソ3:3-6に対する上記のような理解によって、スコフィールドのような解釈学的アプローチは正当化されます。しかし、もちろん、これだけが唯一可能なエペソ3:3-6解釈ではありません。

 

エペソ3:3-6は、――ユダヤ人と同じ基盤の上にキリストにつながれることによって(6節)――異邦人もやがて祝福を受けるようになるその「方法」は旧約の中では決して明瞭に明かされていなかったという事を言っています。

 

スコフィールドの聖書解釈は、字義主義が行き詰まりを覚えるような、まさにそのようなケースを念頭に、見事に解説がなされています。

 

新約聖書のあちこちで、表面的には、旧約聖書の御約束や預言の成就について述べているような箇所がみられます。しかも、そういった成就の箇所のいくつかは「非字義的」なのです。

 

しかしスコフィールドは、この困難を、「意味を二つのレベルに区分する」というやり方で切り抜けています。二つのレベルの意味とは、つまり、①肉的・物質的(イスラエル的:Israelitish)意味、そして②霊的(教会的:churchly)意味です。

 

最初の例として、アブラハムの子孫に関する創世記の御約束のことを考察してみましょう。ガラテヤ3:8-9、16-19、29を読むと、これらの箇所は〔預言〕成就を、キリストの内に、そしてキリストの(霊的)子孫の内に置いているようにみえます。

 

そうではあるのですが、創15:18の注釈で、スコフィールドは、「子孫にはパラレルな二種類あって、一つは肉体的・地上的、もう一つは霊的・天的である」と述べることによってこの問題をうまく打開しています。ゆえに、彼によれば、霊的子孫における成就というのは、イスラエルの待望している「成就」ではないわけです。

 

次に、マタイ5-7章を見てみましょう。山上の垂訓は、律法の成就を語っています(マタイ5:17)。この成就は、キリストの御説教においてだけでなく、キリストの弟子たち(彼らの義は律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければならないとされました。マタイ3:20、参5:48)にも関与しているようにみえます。これらの弟子たち――特に12使徒たち――は、世界の塩であり光として(マタイ5:13-16)、教会の核を形成しました(マタイ16:18)。

 

それゆえ、天の御国の御約束を含めたマタイ5-7章は、教会に関するものです。しかしこの点でもスコフィールドは、上記と同じような経路での説明が可能であることを見い出しました。マタイ5:2の注釈で彼は次のように言っています。

 

「山上の垂訓には二重の適用がある。

(1)字義的には御国への適用。この意味においては、山上の垂訓は、地上の義なる政府のための神聖なる憲法を与えるものである、、

(2)しかし、クリスチャンにとっては、ここには美しい倫理的適用が存在する。心の高慢な者ではなく、貧しい者が幸いであるという事実はいつでも真である、、、」

 

また、使徒2:17では、ペテロが(イスラエルに関する預言である)ヨエル2:28-32が、ペンテコステという教会の出来事の中で成就したという事を言っているようにみえます。しかし、使徒2:17のスコフィールド注釈では、ここにおいても大胆な区分がなされています。

 

 「イスラエルに関する予言としての『終わりの日』と、教会に関する予言としての『終わりの日』の間には区別がなされなけれならない。(1テモテ4:1-3、2テモテ3:1-8、ヘブル1:1-2、1ペテロ1:4,5、2ペテロ3:1-9、1ヨハネ2:18-19、ユダ17-19)、、、

 教会に関しての「終わりの日」は、キリストの降臨をもって始まった(ヘブル1:2)が、この世の終りの堕落と背教に関する特別な言及がなされている(2テモテ3:1、4:4)。

 それに対し、イスラエルに関しての「終わりの日」は、イスラエルの高揚と祝福の日々であり、それは『御国の時代』と同義語である。(イザヤ2:2-4、ミカ4:1-7)」

 

 

預言的解釈に関する「絶対的字義性」というスコフィールドの一般原則から考えると、「ヨエルはこの箇所はあくまでイスラエルのことを言及しているのであって、教会のことを言及しているのではない」という結論が自然であるように思われます。

 

しかし、この箇所では何といってもペテロ自身が、「教会への言及」としてヨエルの聖句を引用しているため、スコフィールドもやはり、これに対しては譲歩する必要がありました。そして彼は、意味を二つに分割することでそれに対応しました。

 

そして、「一つのレベルでは、この箇所はイスラエルのことを言及しているけれども、二次的なレベルでは、それは依然として教会の『終わりの日』のことを言及しているとも言える」と彼は述べています。そしてそれが、次に挙げる、ヨエル2:28のスコフィールド注釈です。

 

「ヨエル2:28の『その後』の意味は、『終わりの日に』(ギ:eschatos)であり、それは、キリストの最初の降臨と共に始まった『終わりの日』の間、部分的にそして継続した成就を成しつつあるが(ヘブル1:2)、より偉大なる成就は、イスラエルに適用される『終わりの日』を待たねばならない。」

 

従って、幾つかの場合において、スコフィールドは、同一の聖句に二つの別々の意味を前提しており、一つはイスラエル的(Israelitish)、もう一つは教会的(churchly)なものです。そして、イスラエル的「字義的」成就の最重要性を保持するため、教会的な言及は、「適用」(マタイ5:2の注釈)あるいは「部分的、、成就」(ヨエル2:28の注釈)とされています。この方法論は要約しますと以下の図表のようになります。

 

 

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スコフィールド区分法の精巧さ(ELABORATIONS OF SCOFIELD’S DISTINCTIONS)

 

こういった区分の導入は、解釈上の困難を解決する方法として、古典的ディスペンセーション主義者の間で現在でも好んで用いられている方法論です。例えば、スコフィールドは、5つ余りの点において「神の御国(kingdom of God)」と「天の御国(kingdom of heaven)」を区別しています。(マタイ6:33のスコフィールド注釈)

 

それとは対照的に、大半の非ディスペンセーション主義解釈者たちは、この二つの語を、malkut shamainの単なる翻訳異形(translation variants)とみています(参Ridderbos 1962, 19)。ここでも、スコフィールドは、一般的な前千年王国説支持者と共に、二つの最後の裁きの間における区別(マタイ25:22の注釈)、そして二つ別々のゴグ・マゴグの戦いの間における区別(エゼ38:2)を導入しています。

 

イスラエル/教会の区別を無傷のまま保持するべく、スコフィールドは下に挙げるように、「エホバの妻」と「小羊の花嫁」の間にも区別を設けています(ホセア2:1の注釈)。

 

「そこで、イスラエルは、回復され赦されたエホバの妻となり、教会は汚れのない小羊の妻となる(ヨハネ3:29、黙19:6-8)。イスラエルはエホバの地上的妻であり(ホセア2:23)、教会は小羊の天的妻となる。(黙19:7)」

 

単一の聖句に二次元の意味を仮定するというやり方(例:スコフィールドのマタイ5:2、ヨエル2:28注釈)は、他のディスペンセーション主義者の間でもみられます。

 

例えば、タン(1974、185)は、マラキ4:5に関しての「エリヤ」の二回到来に区別を設けています。バプテスマのヨハネは、マラキ4:5で預言されているエリヤの到来を「予表し」「予型」しています。

 

しかし「字義性の原則」が守られなければならないのだとしたら、ヨハネは実際には「成就」ではあり得ないことになってしまいます。ティシュベのエリヤが将来の字義的成就として来なければなりません。タンは、こういった区別を設けることに関わる解釈学的原則について非常に明確に次のように言っています。

 

「もちろん、未来に関する預言に現行の予表(foreshadowings)をみたり、キリスト教会への適用としたりすることは可能です。しかしここで私たちは『拡大された予型』という領域にいるのです。前千年王国説的解釈者は、旧約の出来事に多くの予表を見い出すかもしれませんが、彼らはそれを――実際の成就としてではなく――あくまで適用、予表として見ているのです。(Tan 1974, 180)」

 

「字義的預言解釈者たちは、新約記者によってなされた旧約の引用句は、実際の成就を指し示すと同時に、真理や諸原則を描写しそれらを適用させる目的をもってなされていると信じています。(Tan 1974, 194)」

 

 

ですから、ここにおいて、多くの旧約預言は、いわゆる「適用」という用語で教会に関連づけられ得るのだということを私たちは留意すべきだと思います。しかしながら、この事に関する取り扱いにはディスペンセーション主義者の間で差異があります。この論争の中では、旧約預言の「教会」に対する関係がキーポイントですので、次章では、ディスペンセーション主義内に見られるそのヴァリエーションについて見ていきたいと思います。

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Chapter 2 Footnotes

1 For specific examples of Scofield’s “spiritualization” of historical Scriptures, see the notes in The Scofield Reference Bible on Gen 1:16, 24:1, 37:2, 41:45, 43:34, Exod 2:2, 15:25, 25:1, 25:30, 26:15, introduction to Ruth, John 12:24. Ezek 2:1 can also be included, as an instance of spiritualization based on a historical part of a prophetic book. The introductory note to Song of Solomon should also be noted.

Many present-day dispensationalists would see Scofield’s examples of spiritualization as “applications” rather than interpretations which give the actual meaning of a passage. That is one possible approach, an approach which we will look at later. But it is not quite the same as Scofield’s approach. One may have “applications” of still future prophecies as well as past history (for example, there are many present practical applications of the doctrine of the Second Coming). Hence the meaning/application distinction does not have the same effect as the history/prophecy distinction that Scofield introduces.