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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ② 「ディスペンセーション主義者と非ディスペンセーション主義者が、互いの意見に耳を傾け合う」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists,Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986, chapter 1

(目次はココです。)

 

これまでディスペンセーション主義の正誤を明かそうと多くの著述がなされてきました。そういった弁証・反証の著作には各々それなりの存在意義があります。文献目録はそういったもののサンプルでもあります。

 

しかし本書において、私はそれとは違ったアプローチを取ろうと思っており、双方の立場の方々にとって有益な対話および私たちの理解を深めることができるような、そのような方法を探索したいと思っています。

 

ディスペンセーション神学側の「硬派(忠実派)」と、契約主義神学側の「硬派(忠実派)」の間であってさえも、原則として対話は可能だと私は信じています。

 

現在に至るまで、双方の「硬派(忠実派)」の代表者のみなさんは、対岸の陣営にいる人々のことを「目の開かれていない人とみなしたい」――そのような誘惑に駆られてきました。

 

相手側の見解はあまりに馬鹿げて見えるので、ついつい彼らの見解をヤジるようなことを言ったり、あるいは怒りを感じたり、反対の陣営にいる人々と話すことさえ止めてしまうこともままあります。

 

しかし、親愛なる読者の方々、もしもあなたが今、相手の立場を馬鹿げているとお感じになっているのなら、その立場内にいる人々もまた同じように、あなたの立場のことを馬鹿げていると思っているとお考えになって間違いありません。本書では、こういった衝突に一条の光を当てることを望みます。

 

もちろん、ディスペンセーション主義と契約神学との論争の中において、皆が正しいことはあり得ないでしょう。一つの立場が正しく、もう一つの立場は間違っているのかもしれません。あるいは、一つの立場が大半において正しいけれども、もう一つの立場の持ついくつかの価値ある点からも何か有益なことを学ぶことができるかもしれません。ですから、大切な何かを見逃してしまってはいないか確かめる上でも、私たちは一つ以上の見解に対し、これらに真剣に耳を傾けようとする姿勢が大切だと思います。

 

私たちの探求の結果、ある陣営にいる人々が基本的に誤っているという結論に導かれたと仮定してみてください。しかしそうではあっても、彼らの神学のすべての側面や懸念が間違っているということにはなりませんし、その神学に関わっている人々から何かを学ぶことはできないなどということもありません。

 

人間というのは、ただ単にある神学的「立場」を代表する人として以上の価値があります。ですからここには単に私たちの立場を決める以上のことがかかっているのです。私たちはまた、自分たちとは意見を異にする人々といかにして最善なるコミュニケーションをとり、そして私たちのできる限りにおいて純粋に、彼らの心に寄り添うよう努めるべきだと思います。

 

古典的な語義において、私はディスペンセーション主義者ではありません。しかしまさにそうであるからこそ、私はあえて時間を費やして詳細にディスペンセーション主義を考察し、この立場を採る方々が重要だと考えていることを理解するよう努めることが望ましいと思ったのです。

 

本書ではディスペンセーション主義の競合相手である契約主義神学については同じだけの時間は費やしません。そうするためには、もう一冊別の著書を書く必要があるでしょう。しかし本書においても契約神学内でのいくつかの発展について少し触れてみたいと思っています。それによって、二つの競合する立場の間の相互理解において、関係改善および双方の成長の機会が与えられたら幸いです。

 

一言でいいますと、私たちは単に自分の立場を決めるだけではなく、他者を理解するよう努めたいと願っているのです。しかしそれと同時に、私たちは真理に対する懸念を決してないがしろにすることはできません

 

ディスペンセーション主義および契約主義神学双方によって提起された問いはいずれも重要なものです。聖書の教えが本当には何を言っているのかについて私たちは皆それぞれが決定を下さなければなりません。それゆえに、人々は往々にして激しい反論文を書いたり、時には腹を立てたりもします。

 

こういった論争のただ中にすぐに飛び込んでいくのも興味湧くことでしょう。しかし読者のみなさんの中には一連の神学の背景についてそれほど詳しくない方々がおられるのではないかと察しています。それゆえに私はまず、第2章ー3章で、ディスペンセーション主義の過去および現在の諸形態についてまとめてみたいと思います。

 

また最近、修正ディスペンセーション主義に歩み寄ろうと、契約主義神学者の方からもなされているいくつかの動きについて第4章で取り扱おうと思います。こういった一連のことにすでに詳しい方は、本書の第7章から読み始めるのがよいかと思われます。

 

契約神学もディスペンセーション主義も今日それぞれ、立場内にスペクトル(幅)がありますので、私が言うすべてのことが皆に当てはまることはないでしょう。多くの契約神学者や修正ディスペンセーション主義者たちはすでに第11章ー13章で取り扱っている内容の多くに順応していますが、それでもこれらの章から何かしら得るものはあるかもしれません。

 

それではまず、ディスペンセーション主義の歴史的起源および現在の諸形態についてご一緒にみていくことにしましょう。ディスペンセーション主義者の方々はもちろんこれに関心を持っているはずですが、非ディスペンセーション主義者の方々も同様に関心を持ってしかるべきだと思います。

 

非ディスペンセーション主義者であるあなたに対し私は一つお願いがあります。どうか相手をいたわる気持ちを持ち、彼らのことを理解しようと努めてみてください。同意せよと言っているのではありません。ただ理解しようと努めていただきたいのです。

 

ここには聖書に対する統合されたある一つのアプローチがあり、このアプローチは、「内側から」同情心を持って見る時、たしかに「理に適っている」のです。そしてそれはちょうど、あなた自身のアプローチが、「内側から」同情心を持って見た時に「理に適っている」のと同じなのです。