〔前編〕からの続きです。
Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 9より翻訳抜粋
回答3.この「軌道解釈」は、旧約聖書とは区別される新約聖書の特異性(uniqueness)について理解し損なっています。
R・T・フランスは次のような議論を展開しています。
1.私たちはすでに旧約聖書から新約聖書にかけての《変化》を見ている。
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2.新約聖書の中で、(使徒15章のエルサレム会議にみられるように)異邦人たちがどのようにして完全な形で教会に包含され得るのかについて、使徒たちが徐々に、その理解を深めていったことを知っている。France, Women in the Church's Ministry, p17-19
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3.それならば、新約聖書の中に書かれている内容を越えたところの《変化》を私たちが禁じることなどできようか?いや、禁じるべきではない。
この見解は、新約聖書の特異性に対しての不理解にその因を発しています。確かに、新約聖書は、私たちがもはや旧契約の諸規制の下にはいないことを明瞭に語っています(ヘブライ8:6-13)。ですから、動物犠牲についての律法規定および食物規定はもはや私たちを制約しないということに関し、私たちには明確な根拠があるわけです。
また、異邦人が教会の中に含まれる事に関しての使徒たちの段階的理解についても、私たちは確かにそれを見ています(使徒15章、ガラテヤ2:1-14、3:28)。
しかしそのプロセスは、新約聖書の枠内で完結したのであり、新約の中でクリスチャンに与えられている掟は、異邦人たちを教会から排除することに関し何も言っていません。ですから、それを発見すべく、新約の文書を越えた『軌道』の上を前進する必要はないわけです。
パウロ書簡の時代に生きていたクリスチャンは、新契約の下に生きていました。そして今日を生きる私たちクリスチャンも、新契約の下に生きています。これが「わたしの血による新しい契約」(1コリント11:25)であり、イエスがお立てになり、聖餐に与る度に私たちが確認するところのものです。
つまり、1世紀のクリスチャンと同様、「贖罪史」という神のご計画の中にあって私たちもまた同じ時期に生きているということです。そして、それゆえに、私たちは新約聖書を読み、それを直接今日の私たち自身に適用することができるのです。
新約聖書の文書を越えたところに行こうと試み、私たちの権威を、「新約聖書が向かおうとしている所」から引き出そうとすることは、キリストの再臨の時まで新契約の下に私たちの生活を治めるべく神が私たちにお与えになった――新約聖書という書物それ自体を――拒絶する行為に他なりません。
回答4.「軌道解釈」は、聖書のみに基盤を置いていた後期の教義形成過程とは著しく異なる種類のものです。
教会が後になって、――三位一体論といった――新約聖書には明示的に記されていない諸教義を形成していったのは事実です。しかしそれはフランスやトンプソンが推奨しているものとは著しく性質の異なるものです。なぜなら、三位一体の教理は常に、新約聖書の実際の教えに基づくものであり、この教理の擁護者はいつも新約聖書を自分たちの最終的な権威とみなしていました。
それとは対照的に、フランスとトンプソンは、新約聖書の言明を、彼らの最終的権威とはみなしておらず、その代りに、新約聖書を「越え」、パウロによって与えられた女性のミニストリーに関する諸制約に相反し、もしくはそれらを無効にするような「標的」を目ざすものと捉えています。
しかしながら、「自分たちは、パウロが書いている内容に相反したりそれらを否定しているような見解を必要とする」という主張によって三位一体の教理が構築されたことはただの一度もありません。
回答5.「軌道解釈」は、教会を倫理的混乱(カオス)に導き、そこではもう誰も、どの見解が正しいのか判断できなくなります。
フランスとトンプソンは、軌道解釈は対等主義に向かっていると考えています。しかしこの見解は全く逆のケースとしても用いられ得るのです。ある人はガラテヤ3:28に関するフランスの見解を基に、軌道が次のように進んでいくと主張することもできるでしょう。
① パウロの初期の文書から
ガラテヤ3:28
女性が指導者としてのあらゆる役職に就く。
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② パウロの、より成熟した後期の文書へ
1テモテ2-3章、テトス1章:
男性だけが教えたり、長老になったりすることができる。
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③ この軌道の最終的標的へ
女性たちは、教会内でのいかなるミニストリ―にも従事することができない。
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④ 今日における適用
あらゆる種類のすべてのミニストリーは男性たちによってのみなされるべきである。
もちろん、これは荒唐無稽な結論ですが、もしも私たちがフランスやトンプソンの「軌道」原則を受け入れるなら、これが間違いであると言うことは難しいでしょう。あるいは、この「軌道解釈」を使って、次のように離婚に関する議論を展開することもできます。
① イエスの教えより
離婚をする上でのただ唯一の根拠:
姦淫(マタイ19:6)
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② パウロの、より成熟した後期の文書へ
離婚をする上での二つの根拠:
姦淫もしくは見捨てられること(1コリント7:14)
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③ この軌道の最終的標的へ
あらゆる困難を理由に離婚できる。
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④ 今日への適用
結婚におけるあらゆる困難に対し、神は離婚を許しておられる。
こういった一連の《軌道》は馬鹿げて見えるかもしれませんが、初期の聖書文書から後期の聖書文書へと移行しており、フランスやトンプソンと同様、同じプロセスを使っているのです。
そしてこういった《軌道》にはいずれも皆、一つの共通項があります。――それは、私たちがもはや、新約聖書の教えていることに従わなくてもよいとしている点です。こうして私たちは、新約聖書の終点に物事が向かっている方向について、自分たち独自の思想を考案することができるのです。
このメソッドには制約機能が全くありません。これは主観的であり、最終権威は聖書にあるのではなく、どこに《軌道》が向かっているのかという点における誰かの推測にあるのです。
回答6.この「軌道解釈」は、――教義の基盤を聖書だけでなく、聖書が書かれた後にできた教会の権威的教えに置くという――ローマ・カトリック教会の見解に類似しています。
歴史的、正統的プロテスタントと、ローマ・カトリック教会の顕著な違いの一つは、プロテスタントが、教義を「聖書のみ」の基盤に置いていたのに対し、カトリックはそれを「聖書」プラス、「歴代の教会の権威的教え」にも置いてきた点にあります。
この点において、フランスとトンプソンの軌道解釈は、憂慮すべきほどローマ・カトリシズムに類似しています。なぜなら、ローマ・カトリックは最終権威を新約文書にではなく、その教えが私たちをどこに導いているかという彼らの思想の上に据えているからです。
しかしローマ・カトリックは、「そういった教えが私たちをどこに導きつつあるかという自分たちの推測以上に信頼が置けるのは、そういった教えが私たちを導いたところの歴史的諸事実にある」と主張することができるかもしれません。ですから、(実際に教会史の中で成就した)「軌道」は次のようになるでしょう。
① イエスの教えより
地域の教会役員や統治構造については何も言及されていない。
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② パウロの教えへ
長老たちに対する増し加わる権威
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③ この軌道の最終標的
教皇、枢機卿、司教たちに対して授与される全世界的権威
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④ 今日への適用
私たちは教皇およびローマ・カトリック教会の権威に服従しなければならない。
結語
「聖書のみ(sola Scriptura)」という宗教改革の原則は、フランスやトンプソンが推進しているような種類の解釈を防ぐために形成されました。なぜなら、一旦私たちの権威が、「聖書のみ」ではなく、「聖書プラス後に発展したなにか」になるや、私たちの人生において、唯一性をもつ聖書の統治権威が失われてしまうということを宗教改革者たちは知っていたからです。
このように、「聖書はすべて神の霊感によるものである」(2テモテ3:16)、および「神のことばは、すべて純粋、、神のことばにつけ足しをしてはならない。神があなたを責めないように。あなたがまやかし者とされないように」(箴言30:5-6)という聖書の見解と矛盾している解釈として、この「軌道解釈」は拒絶されなければなりません。
関連記事:軌道解釈と「親戚関係」にある類似の解釈が、ウィリアム・ウェブの「贖罪的運動(Redemptive-Movement)」聖書解釈ではないかと思います。