G.K. Chesterton
G.K. Chesterton, Orthodoxy [reprint, San Francisco: Ignatius, 1995], 36-37より翻訳抜粋
今日の私たちの災難は、誤った位置に置かれている「謙遜」である。謙虚さは、「熱望」の器官から移動し、今や「確信」の器官の上に落ち着いてしまった。――本来、決して意図されていないその場所に。
人は自分自身に関しては不確かさや疑いをあるいは抱いてしかるべきであろうが、しかし、こと真理に関してはこれを疑うよう造られてはいない。しかし今や全くこの逆のことが起っているのである。
今日、人がかまびすしく主張しているところの人間像の部位は、彼が本来主張してはならない部位――つまり彼自身の自我――である。一方、彼が現在疑っているところの部位は、これもまた彼が本来疑ってはならない部位――つまり神より与えられた理性――なのである。新しい懐疑論者は、たいそう謙遜であるため、彼は自分がそもそも何かを学ぶことができるのかさえも疑っている。我々の時代に典型的な「ほんとうの謙遜」なるものが存在する。しかしそれは実際、苦行僧のもっとも過激な仰臥以上に有毒な種類の「謙遜」であるといっていい。
旧来の謙遜というのは、人をして自らの努力を疑わしめた。そしてそういった自覚は彼を以前にも増して勤勉な者にさせた。しかし近年の新しい謙遜は、人をして自らの諸目的を疑わしめているのだ。そしてそういった疑いを抱くことにより、彼は奮励すること自体を諦めてしまっているのである。こうして、我々は、「あまりにも謙虚すぎて」、掛け算表を信じることも精神的にはばかられるような、そのような新人類を産出する道程にあるのである。