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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

失われつつある聖書の権威――教会の女性化(feminization)と聖書的男性像の喪失〔フランスにて〕

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現在、フランスでは、アラブ系の移民子弟だけでなく、一般のフランス人若者たちもまたイスラムの教えに惹き付けられ、ISISに加入していることが社会問題になっています。パリ近郊で滞在した家庭には高校一年生の男の子がいましたが、数週間前、彼の級友のフェイス・ブックに、イスラム国からの個人的勧誘メッセージが届いたと聞きました。特にニース市などフランス南部でこの傾向が強いようです。

 

こうした動きの要因は複数あると思いますが、フランスの福音主義クリスチャンの分析によると、「フェミニズム浸透による教会の女性化 (feminization)」「健全な男性像及びbiblical  masculinityの欠如」が、無視できない要素として一連の問題の背後にあるのではないかという指摘がなされています。

 

福音真理の相対化

 

教会が世俗イデオロギーに対して真剣な闘いをせず、さまざまな人義的ニーズを理由に妥協・迎合していく時、そこから必然的に生じてくるのは、グルーデムを始めとする論者が指摘しているように、神学的リベラリズムであり、傾斜の道であることを私はここフランスの地でも目の当たりにしています。

 

また、ポストモダン的多元・相対主義スピリットが、「愛と寛容」の名によって「非寛容な」支配精神と化し、教会がもはや元来の"offensive"で「排他的な」イエス・キリストの福音を宣布しなくなる時、そこに霊的《空洞》が生じます。そうすると、その空洞を埋めるべく往々にして外部からは獰猛な「アッシリア」が、そして内部からはesotericで内在論・汎神論的な神観に裏打ちされた「内向き霊性」が台頭してきます。そして、そのどちらに対しても、歴代のキリスト教会は命がけで闘ってきました。

 

健全な男らしさ・男性像の喪失

 

また私が驚いたのは、現在、フランスの若い男性たちが自分の髭や体毛を「恥ずかしいもの」と感じ、手足や胸の体毛を女性のように脱毛しようとする傾向にあるということでした。実際、私の知り合いの親戚の男の子も、自分の毛深い胸を恥じる余り学校のプールに行くことができずにいるそうです。

 

男性の髭や体毛は、その他のmasculinityの属性と同様、主なる神の創造のわざであり、自然なものです。しかし社会機構や教会や家庭にフェミニズム・イデオロギーが浸透すればするほど、こういった神の創造の自然が、「不自然で恥ずべきもの」として貶められ、こうして私たちの価値観が逆転させられていきます。

 

教会に対する警鐘

 

フェミニズムはその本質において、神の創造に対する反逆イデオロギーであり、その最終目標は、聖書の啓示する男性像・女性像の破壊です。それは「男女平等」の美名によってキリスト教会に侵入し、神のお立てになった創造の秩序を転覆させるべく、クリスチャンの健全な聖書理解や価値観を歪めようと、さまざまな工作活動をしています。

 

このような歪んだ霊的環境で育った子どもたちが、イスラム国のうち出すものに(偽りの)「勇猛さ」や「男らしさ」を感じ、惹き付けられている昨今の現象は、この世のイデオロギーに迎合するキリスト教会に対する一つの警鐘ではないかと思います。

 

保守教会が対等主義化する時――フランス・スイス国境地帯でのケース・スタディー

 

スイスのジュネーブ地方、そしてフランスのアルザス地方などには、現在でも「保守」メノナイトの群れが存在します。(しかし「保守」とはいっても、それはフランスの「リベラル」メインストリームと比べた場合の「保守」であり、北米圏の信者の使う「保守」とは意味論的な違いがあるように思われます。)

 

被り物をしていることで、私はどこにいっても(宗派・教派/保守・リベラルの差異を問わず)いろいろな人々から「あなたはなぜ頭に被り物をしているのですか?」と質問を受け、それがきっかけになって自分の信仰を告白したり、福音のメッセージを伝えたりするすばらしい機会が与えられています。

 

特にフランスなどでは現在、公の場で誰かに福音を伝えたり、相手の信仰について質問したりすることが違法とされ(最悪の場合訴訟されることもあり得るとのことです。)、伝道の自由がいろいろと規制されているため、クリスチャンのビジュアルなシンボルである「被り物」は、今やキリスト教小冊子や伝道トラクトに勝るとも劣らないユニークな「伝道看板」となっているようです!

 

さて、その被り物ですが、スイス・フランス国境地帯の保守メノナイトの諸教会は、今から約40-50年位前に、徐々に被り物の教えをしなくなり、その結果、それを実践する女性たちも激減していったそうです。

 

ある年配の兄弟は、(被り物の実践に関し私に)「私たちクリスチャンは、『恵み』によって生きる者です」と忠告してこられました。(この反論に対する応答記事:「被り物というのは律法主義的であり、律法に逆戻りするものです。」という主張はどうでしょうか。 - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

 

被り物の教えを破棄して約50年。現在、この教派内部では女性牧師是認を推進する確実な動きがあり、この勢いでいくと、おそらく今後10-20年の内に、この教派のメインストリームは対等主義化するのではないかと思われます。また近年、教会内での離婚・再婚率も上昇していると聞きました。

 

ジェンダー問題に関する諸聖句は互いに分かちがたく結び合っており、ある教派でその中の一つが相対化され、遵守されなくなる時、時の経過とともに、その他の領域でも解釈の相対化が起ってくることを、私たちはこういった事例からも学ぶことができるのではないかと思います。

 

結局、問われるは聖書の権威

 

フランス西部のある家庭に滞在していた時のことですが、その姉妹の継母に当たる方が女性牧師で神学者の方でいらっしゃり、そういう縁で、思いがけずこの女性牧師の方とじっくり話し合う機会が与えられました。

 

この方は、カトリック・エキュメニカル共同体での修道女時代に大学で神学を修め、その後、リベラル派のプロテスタントの牧師と結婚し、彼女自身も教区の主任牧師になりました。現在、仏教を始めとする他宗教とのinter-faith 及び、ヨガ・瞑想を通した霊性セミナーなどを積極的に推進しておられるとのことでした。

 

この方と話し合いをする中で私が痛感したのは、女性牧師問題、同性愛問題といったジェンダー問題の根本は、結局、聖書の権威や無誤性、霊感についての私たちの立場や信仰のあり方に終着するということです。

 

聖書がInspiredされた誤りなき神の言葉であることを認めていない方と、何かが「聖書的であるか否か」を議論すること自体、非常に難しく、そこに意味を見出すことに私は困難を覚えました。そして、この根本的土台の違いは、同じ「キリスト者」という名称こそ帯びてはいても、もはや対話不可能なほど深大なものであるように感じました。

 

おわりに

 

今年の1月に、私は次のような公開レターを書きました。

 


JEAのホームページの女性委員会のセクションに、世界福音同盟女性委員会出版 「性差によるのか、賜物によるのか」翻訳文と資料・考察という項があり、そこには、マリリン・B.・(リン)・スミス著 Gender Or Giftednessの日本語訳が全文掲載されています。

 

上の公開レターの中で私が指摘したのは、この著の中で展開されている諸主張が(すでに福音主義から逸脱している)多くのフェミニスト神学者たちの諸見解に依拠するものであり、それは本来、福音主義・聖書信仰を土台にするJEAの基本理念に反するものではないかという事でした。

 

そして「聖書信仰に生きようとする私たちが、その要塞の『内側に』こういったリベラリズムの萌芽を抱え込むことは、私たち福音主義者の存在意味そのものに対する揺さぶりであり、矛盾・妥協であり、挑戦であり、また脅威ではないかと思う」という問題提起をいたしました。

 

著書のタイトル「性差によるのか、賜物によるのか?」ですが、この問いは、問いの立て方においてすでに間違いを犯していると私は考えます。

 

聖書の中に記されている性差および賜物の間にそもそも、「対立概念」は存在するのでしょうか。「祝福」と「呪い」、「いのち」と「死」といったように、ある種の命題は、A or Bという二項対立の問題として聖書の中で取り扱われています。

 

しかし「性差」と「賜物」の場合はどうでしょうか?それが対立概念であることを明証するような聖句ははたして存在するでしょうか。むしろ両者は、A and Bとして互いに矛盾も対立もせず調和・共存している概念であると捉えるのが聖書の自然な読み方・捉え方ではないかと思います。

 

間違ったイデオロギーは、間違った問いを引き出し、そして不自然で間違った結論を導き出します。

 

現在、断片的に見えるさまざまな諸現象は、深層部分で繋がり、一つの不気味で大きな流れを形成しつつあるのかもしれません。どうか私たち一人一人が惑わしのこの濁流に飲まれることなく、主の前に静まり 、本当に守るべきものを守っていくことができますように。