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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

イマージング運動――昔風のリベラリズム(by ボブ・デウェイ)【後篇】

ポストモダニズムと聖書の真理 キリスト教リベラリズムの形態 福音主義教会の大惨事―この世への迎合精神について

前篇〕からの続きです。

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本書中、もっとも神学的リベラリズムが顕著な例として挙げられるのが、サミール・セルマノヴィック(Samir Selmanovic)執筆による論文「包含性という甘美な問題――他者の中にわれわれの神を見い出す("The Sweet Problem of Inclusiveness – Finding our God in the Other")」だった。(Doug Pagitt and Tony Jones edit.,An Emergent Manifesto of Hope, Grand Rapids:Baker, 2007, pp190-199)

 

彼のこの「包含的」見解は、ローマ・カトリック教会の神学者カール・ラフナー(Karl Rahner)によって普及するようになった説であり、「匿名のキリスト教」と呼ばれ、セルマノヴィックが脚注をつけている。

 

この信条を描写すべく、セルマノヴィックはチョミナというある部族の族長のエピソードを紹介している。それによると、この族長は死床でキリスト教への改宗を拒否した。なぜなら、そうすることは彼をして自分の民と分離せしめる行為であると思ったからであると(同著p190)。

 

そしてこの族長の決断を、セルマノヴィックは次のように解釈している。「聖霊によって動かされ、チョミナのような人々は、『キリストの御名に対する忠誠』という考えを拒否し、その代りに、キリストのような者になりたいと望み、それゆえ、かえってキリストをより深いレベルで受け入れているのである」と。(同著p191)

 

そしてセルマノヴィックは言う。「しかし、『他の諸宗教は、神の恵みと真理を持ち得ない』というキリスト教思想は、私たちのキリスト教体験の上に、大きな影を投げかけているのである」。(同著p191)

 

しかし聖書によれば、聖霊はキリストを証する方である(ヨハネ15:26)。ラフナーやセルマノヴィックのような包含主義者たちは、他の諸宗教を通して人々が存在論的に「キリスト」に出会うことが可能となるべく、「聖霊」が、キリストを拒絶するよう導くと主張しているが(同著p194 n8)、聖霊は、聖書に明示されているキリストのご人格およびみわざを拒絶させるよう人々を導くようなことはなさらない。セルマノヴィックはこう述べている。「ノン・クリスチャンの敬虔さは、私たちの神学の中では異常なものではない」(同著p196)。

 

こういった主張に対する私たちの応答はシンプルである。なぜなら、聖書は「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」(2テモテ3:5)を警戒するよう明示しているからだ。

 

オーソ・パラドクシー:逆説と矛盾の受容

 

別の執筆者ドワイト・J・フライセンは、「アメリカ教会協議会(National Council of Churches: NCC)の信仰と秩序委員を務め、、」と紹介文に記されている。

 

フライセンの論文のタイトルは、「オーソ・パラドクシー:相違受容のためのイマージングな希望(Orthoparadoxy – Emerging Hope for Embracing Difference)」である。(Dwight J. Friesen, Emergent Manefesto, p.201 - 212)

 

彼の主張によれば、逆説と矛盾を受容するという行為は、「イエスの道を歩むこと」なのだという。(同著p203)

 

そして自らの神学的信条に確信を持つというのは高慢もしくはうぶさの表れであり、キリスト教というのは、教理のことは言っておらず、あくまで倫理的な模範としてイエスの生涯に倣うことである――というのが神学的リベラリズムに共通のテーマである。

 

こういった概念をフライセン自身は次のような言葉で表現している。「イエスは思想を宣布したり、ある種の信条を受け入れるべく人々に呼びかけたりはしなかった。イエスはこの世にある道へと彼に従うべく人々を招いたのである。」(同著p205)

 

私は元々、自由主義教会で育ったのだが、そこで牧師たちから聞いていたのは、「失われた人は地獄に行くわけではないし、神の御心を結局私たちは知り得ない」、そして私たちは「良い人」になるよう努め、この世界を改善すべく奔走すべきだと教わってきた。

 

曰く、私たちはそのおおまかな「善」の内容を、山上の垂訓を始めとする聖書の一部から学ぶことはできる。が、キリストの血の贖いのことなどに関しては私たちは確信を持ち得ないとされていた。

 

フライセンの論文にも、このイマージング書のほとんどの寄稿者にも一様にこの傾向が表れており、彼らは、「われわれの信条は矛盾から成る逆説であるけれども、このような逆説から倫理を構築することができる」と主張している。しかしそれは違う。矛盾というのは無意味なものである。

 

そして倫理は、そういった逆説や矛盾からは生まれ出てこない。真の倫理は、聖書の明瞭な教えから生み出されてくるのだ。しかしフライセンはこう言っている。「イマージング共同体の存在によって表されている希望の一部は、こういったオーソパラドクシーの倫理である。」(p206)

 

フライセンは、ヘーゲル派的ジンテーゼ(総合;synthesis)の明らかなファンと見え、次のように強調している。「さまざまな神学的立場が互いに和解不可能に見えれば見えるほど、私たちはますます迫真して真理を体験していくようになるのである。」(同著p208)

 

おお、この原則を、パウロと、ガラテヤのユダヤ主義者たちとのあの対決に当てはめて考えてみてほしい!「信仰による救い」と「行ないによる救い」との間の矛盾がいかにしてジンテーゼされ、総合されるというのだろう?

 

パウロは、そういったユダヤ主義者たちにアナテマ宣言をし、自分の宣べ伝えている福音こそがまことの福音であると喝破したのである。おお、彼はなんと「イマージングらしからぬ(unemergent)」人であったことか!!

 

結語

 

スペースの関係上、ここで結語に入ろうと思うが、その他にも、本書(An Emergent Manifesto of Hope)には、社会福音、フェミニスト福音、グリーン環境福音など、神学的リベラリズムのさまざまなバージョンが内蔵されている。

 

神学的リベラリズムが存在すること自体には私はショックを受けていない。それは私の青春時代の宗教であったから。また、私は多くの人が神学的リベラリズムを受容している事実にもショックを受けていない。なぜなら、この現象はここ130年余りに渡ってずっと存在してきたものだからである。

 

また私はイマージング運動の指導者たちが神学的リベラリズムを受容している事実にもショックを受けていない。しかしその自分にとってショックなのが、ブライアン・マックラーレンのような人々が、キリスト教出版界で「福音主義クリスチャン」と呼ばれている事実なのである。

 

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もしも彼らの標榜している信条が本当に「エヴァンジェリカル」なのだとしたら、もはやリベラリズムと福音主義の間に何ら差異はなくなったということではないだろうか?実質上、両者は同義語化してしまったのだろうか?残念ながら、そうなってしまっているのかもしれない。

 

しかしそれはともかく、一つはっきりしているのは、イマージング運動という用語は、神学的リベラリズムと関連していることである。現在、この運動に関わりつつ、神学的にはリベラルでない方々に勧告したい。そういった方々は本書をぜひ一読され、ご自身が本来、この運動に属する者ではないことを知るべきだと思う。

 

私は個人的にドーグ・パギットにもトニー・ジョーンズにも会ったことがある。二人ともとても気のおけない好人物であり、自身の信じていることに関し、そこに私は誠実さを感じた。また彼らは、この世の人々になんとかリーチしようと奔走しており、また神学的な話し合いにも喜んで参加しようという気概のある人物である。

 

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この前、ドーグと私は、大勢の聴衆者の前で公開ディベートをした。残念ながら、ドーグもジョーンズも、私のような者たちによって代表されるいわゆる伝統的な福音主義というものを一括し、「絶望的に啓蒙期合理主義にはまり込み」、「消費者主義や宗教マーケティング」と結び付けて考えているようだった。

 

私に投げかけられた一番目の批判は自分の見解について。そして二番目の批判は、聖書の真理を権威をもって説き明かすことは、真理の中にあって誠実な信心ではなく、人々を自らに隷属させようという意図をもった不誠実な動機によるものである、という彼らの誤解に基づくものであった。

 

しかし御言葉を真に誠実に信じている私たちは、福音の真理が人々を解放するものであって、屈辱に陥れるものではないと堅く信じている。「真理はあなたがたを自由にします」と言われたのは他ならぬイエスご自身だったのだから。

 

彼らはイエスに従う新しい道を探求しているが、パジットやジョーンズ等の著作家たちが、彼らのイマージング船でもって乗り上げようとしている岸は、「神学的リベラリズム」という島である。あなたがもし今、そのような航海に乗り出そうとしているのなら、ぜひ再考するよう私はあなたに警告を出したいと思う。