巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会の性質と目的――「教会」と「イスラエル」について(by ウェイン・グルーデム、ジョージ・ラッド他)

 目次

 

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Wayne Grudem, Systematic Theology, Chapter 44. The Church: Its Nature, Its Marks, and Its Purposes, p. 859-863 抄訳(小見出しはブログ管理人によるものです。)

 

ウェイン・グルーデム著「教会とイスラエル(The Church and Israel)」『組織神学』第44章

 

イスラエルと教会の関係について、福音主義プロテスタントの間には異なった諸見解が存在します。そしてこの問題は、ディスペンセーション主義的な神学システムを支持する人々によって表面化されてきました。

 

ディスペンセーション主義者によって書かれたもっとも克明な組織神学であるルイス・スペリー・シェイファー(Lewis Sperry Chafer, 1871- 1952)の『組織神学*14』は、イスラエルと教会の間に多くの相違点があると指摘し、そして、旧約聖書の中における神を信じるイスラエルと、新約聖書の教会との間にさえも多くの相違点があると指摘しています(Chafer, Systematic Theology, 4:45-53)。

 

(*14 Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology. ディスペンセーション主義を特徴づける特有な教説は他にもいくつかありますが、神の全体的ご計画の中における「イスラエル」と「教会」という二つのグループをそれぞれ別個のものとみる、という点がおそらく最も重要だと思います。

 その他、ディスペンセーション主義者によって一般に支持されている教説として挙げられるのは、1)患難時代前に教会が天に携挙されるという「患難前携挙説」(本書54章参照)、2)イスラエルに関する旧約預言の将来的字義通りの成就、3)聖書の歴史を7つの時期ないしは、ご自身の民に対する神のお取扱いに関する「ディスペンセーション(経綸)」に分割、3)永遠の神のご計画の中における「挿入句」としての教会理解(「挿入」は、ユダヤ人の大半が救い主としてのイエスを拒絶した時より導入)などです。

 しかし、現在のディスペンセーション主義者の多くは、こういった特有点のいくつかを修正ないしは拒絶しています。体系としてのディスペンセーション主義は、英国のJ・N・ダービー(1800-1882)の著述類によって始まり、『スコフィールド引照・注解付き聖書』を通し、米国にて一般普及するようになりました。)

 

ルイス・シェイファーによれば、神はご自身の贖う二種類のグループの人々に対し、各々二種類の異なる計画を持っておられ、それは、

)イスラエルに対する神のご目的および御約束は、地上的な諸祝福であり、これは未来のある時点で、この地上において成就する。

)それに対し、教会に対する神のご計画および御約束は、天的な諸祝福であり、こういった諸約束は天において成就される、とされています。

 

また、神のお救いになる二つの異なるグループの相違というのは、千年王国期に特に顕在化されるとされます。その理由としては、シェイファーによれば、その時、イスラエルは神の民として地上を治め、旧約の諸約束の成就を享受するようになるのに対し、教会は、聖徒のためにキリストが秘密の空中再臨をされた時点で("rapture, " 携挙)すでに天に引き上げられているからです。

 

尚、この見解においては、教会はペンテコステ(使徒2章)以前にはまだ始まっておらず、旧約の信者たちを、新約の信者たちと共に、継続した一つの教会と捉えることは正しくないとされています。

 

あるディスペンセーション主義陣営においては、こういったシェイファーの立場がその後も影響を及ぼし続けており、一般向けの説教などではさらにその傾向がみられますが、近年ではディスペンセーション主義者の中の多くの指導者たちは、多くの点において、もはやシェイファー説を採らなくなっています。

 

漸進的ディスペンセーション主義(Progressive Dispensationalism)

 

ロバート・サウシー(Robert Saucy)、クレッグ・ブレイジング(Craig Blaising)、ダレル・ボック(Darrell Bock)などの最近のディスペンセーション主義神学者などは、自らのことを「漸進的ディスペンセーション主義者」と呼び(*16)、広範囲の支持層を得ています。

 

(*16. Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism (Grand Rapids: Zondervan, 1993)/ Darrell L. Bock and Craig A. Blaising, eds., Progressive Dispensationalism (Wheaton: Victor, 1993). John S. Feinberg, ed., Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testament (Wheaton: Crossway, 1998). 訳者注:一宮基督教研究所の安黒務師の分析によれば、日本では、例えば、福音聖書神学校の真鍋師の立っておられる位置が、この漸進的ディスペンセーション主義に相当するそうです。一方のフルクテンバウム師および中川健一師の立場は、「古典的デスペンセーション主義のDNAを宿す改訂ディスペンセーション主義(Revised Dispensationalism)」と位置づけられているようです。参照元

 

漸進的ディスペンセーション主義の人々は、教会を、神の計画の中の「挿入部分(parenthesis)」としては見ておらず、神の国の建設に向けた最初の段階として見ています。

 

またこの漸進的ディスペンセーション主義の見解では、神はイスラエルと教会に対し、二つ別々の目的を持っておられるのではなく、一つだけから成る目的――つまり神の国の建設――を持っておられ、この単一の目的の中に、イスラエルも教会も共に包含されていると捉えています。

 

また漸進的ディスペンセーション主義者は、未来の永遠の状態におけるイスラエルと教会の間にも相違を設けていません。なぜなら、その時、皆が一つの神の民となるからです。さらに、彼らは、教会は、千年王国期に、栄化されたからだでキリストと共にこの地上を治めるようになると理解しています。

 

一つの相違点

 

しかしながら、一つの点において、漸進的ディスペンセーション主義者と残りの福音主義の人々の間には相違点が依然として残っています。

 

それはつまり、「イスラエルに関する旧約の諸預言は、――キリストを信じ、全ての諸国家の見倣うべき『モデル国家』としてのイスラエルの地に住む――民族としてのユダヤ人によって千年王国期に成就される」という見解です。

 

それゆえに、彼らは、教会が「新しいイスラエル」であるとは言わず、またイスラエルに関する全ての旧約預言は教会の中で成就される、とも言いません。なぜなら、こういった預言は将来的に、民族的イスラエルにあって成就されると考えられているからです。

 

この問題に関する本書の立場は、ルイス・シェイファーの見解とは著しく異なっており、漸進的ディスペンセーション主義者の見解とも幾分異なっています。

 

しかしながら、一つ申し上げておかなければならないのは、「将来についての聖書の預言が厳密にどのように成就されるのか」という事に関しては、事の性質上、正確にこうだと断定するのが難しいということです。

 

ですから、こういった事項に関しての私たちの結論には、ある暫定性をもたせるのが賢明かと思われます。そのことを念頭においた上で、次のことを申し上げたいと思います。

 

ディスペンセーション主義の外側にいる、プロテスタント神学者・カトリック神学者共に、「教会は、旧約の信者も新約の信者も、一つの教会ないしは一つのキリストのみからだに含まれている」という見解にこれまで立ってきました。

 

また非ディスペンセーション主義の見解においても、将来的に大規模なユダヤ人の回心があるだろうという見解を持ち得ます(ローマ11:12、15、23-24、25-26、28-31)*17しかし、そうであっても依然として、この改宗は、ユダヤ人信者たちが神の唯一のまことの教会の一部分となることを示し、こうして彼らは「自分の台木につがれ」(ローマ11:24)ます。

 

(*17. 本書54、p1098、1104を参照。自分自身は、いわゆるディスペンセーション主義者ではありませんが、依然として、私はローマ9-11章が、将来的に大規模に起こるであろうユダヤ人の回心を説いているという事をこの章で確認・肯定しています。)

 

これに関してですが、私たちは、教会を「新しいイスラエル」もしくは新しい「神の民」と理解している数多くの新約聖書の聖句に留意すべきです。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように」(エペソ5:25)という聖句がこの事を示しています。

 

さらに、教会の何百万人ものクリスチャンに救いをもたらしている現在の教会時代は、神の計画の中における「割り込み」や「挿入」ではなく*18、旧約聖書全体を通し、人々をご自身の元に呼んでおられる事を通して表されている神の計画の継続です。

 

(*18.ここでルイス・シェイファーが用いている語は、「"an intercalation"(挿入、割り込み)」であり、これは、以前計画されていたスケジュールないし出来事の予定表の中に、ある時期が挿入されることを意味します(p41)。ここでシェイファーは、「現在の教会時代は、啓示された予定表ないし――古の預言者たちによって予見されていた――神のプログラムの中への挿入です」と述べています。)

 

パウロはこう言っています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れた(inwardly)ユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」(ローマ2:28-29)。

 

パウロは、肉的にアブラハムを父祖とする人々の内にも確かに字義通りもしくは自然的意味においてユダヤ人と呼ばれる要素があることを認めつつも、「まことのユダヤ人」とは内的に信者であり、心が神によって清められた者――という意味でのより深遠かつ霊的な意味もそこには存在していると言っています。

 

またパウロは、アブラハムは肉的な意味におけるユダヤ人の父としてのみ捉えられているわけではないということを述べています。アブラハムはまた、より深くより真実な意味において「割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、、、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父」です。(ローマ4:11-12、それから16、18節も参照のこと)。

 

それゆえに、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、、、すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる」(ローマ9:6-8)とパウロは言うことができたのです。

 

ここでパウロが含意しているのは、もっとも真なる意味における「イスラエル」であるアブラハムのまことの子どもは、アブラハムを肉の父祖に持つイスラエルの民(nation)ではなく、キリストを信じた人々であるということです。

 

真にキリストを信じた人々が今や、主によって「わが民」と呼ばれる特権をいただく者とされ(ローマ9:25、ホセア2:23からの引用)、それゆえ、今や教会が、神の選ばれた民です。

 

これは何を意味するかと言いますと、将来のある時点で、肉によるユダヤ人が大規模に救われる際、彼らは別箇の神の民、ないしは別箇のオリーブの木として構成されるのではなく、「元のオリーブの木につがれ("grafted back into their own olive tree")」(ローマ11:24)ることになります。

 

この事を示す別の聖句としてはガラテヤ3:29「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」があり、同様に、パウロは、クリスチャンこそ「真の割礼を受けた者」(ピリピ3:3、新共同訳)だと言っています。

 

パウロは教会を、「ユダヤ人とは区別された別箇のグループ」だと考えていないばかりか、かえってパウロは、エペソにいる異邦人信者たちに宛て、彼らがかつては「イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人」(エペソ2:2)であったが、「今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(エペソ2:13)と言っています。

 

そして異邦人たちが教会に導き入れられた時、ユダヤ人と異邦人たちは、一つの新しいからだとして結ばれたのです。そして、神は、「二つのものを一つにし("has made us both one")、隔ての壁を打ちこわし、、、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです」(エペソ2:19-20)とパウロは記しています。

 

それゆえ、異邦人たちは「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民("fellow citizens with the saints")であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペソ2:19-20)。

 

新約の教会に対する旧約の背景を強く意識し、パウロは「異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連な」(エペソ3:6)ると言うことさえできました。

 

この節全体が、キリストにある一つのからだにおける、ユダヤ人信者と異邦人信者の一致を強く述べており、キリストという一つのからだ(教会)に包含されることから離れ、ユダヤ人が救われるのためのなにか別箇の計画があるという事はどこにも表示されていません。

 

教会は、その中に、すべての真の神の民を組み込み、包含します。そして、旧約聖書の中で神の民を表す語として使われているほとんど全ての称号は、一か所ないし数カ所で、新約聖書の教会に適用されています。

 

それに加え、ヘブル人への手紙8章は、イスラエルに関する旧約の諸約束の受領者そして成就としての教会をみる上で、強力な根拠を提供しています。クリスチャンの与る新契約に関して述べている文脈の中で、ヘブル書の記者は、エレミヤ31:31-34から長い引用をし、次のように言っています。

 

「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家おとびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る、、、わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」(ヘブル8:8-10)。

 

ここで記者は、主がイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ日が来るという主の御約束を引用し、その新しい契約が今や教会と結ばれた(結ばれている)と言っており、その新しい契約とは、教会の信者たちがメンバーとなっているところの契約なのです。

 

それゆえ、聖書記者は、「――旧約聖書がイスラエルに約束しているところの――神のまことのイスラエルとしての『教会』がその成就である」と捉えているのだと結論付けざるを得ないように思われます。

 

同様に、ヤコブは多くの初代教会に一般的な書簡を書き、自分は「離散している十二部族の人々へ」それを書き送っていると記しています(ヤコブ1:1)。これが示唆するのは、ヤコブが明らかに新約のクリスチャンを、「イスラエルの十二部族」の後継者そして成就として見ているということです。

 

ペテロも同じように言っています。ペテロは冒頭の聖句で、読み手のことを「離散し寄留している人たち("exiles of the Dispersion")*19(1ペテロ1:1)と呼ぶことに始まり、(最後から二番目の節で)ローマ市のことを「バビロン」(1ペテロ5:13)」と呼ぶなど、彼は頻繁に、旧約のイメージ(像;imagery)やユダヤ人に与えられていた諸約束に関する用語で、新約のクリスチャンを表現しています。

 

(*19. 「離散("Dispersion")」という言葉は元々、イスラエルの地の外に散在し、古代地中海世界を通し各地に住んでいたユダヤ人のことを指す用語として使われていました。)

 

そしてこの主題は1ペテロ2:4-10においてとりわけ顕著です(*以下、このパラグラフは大部分、自著Wayne Grudem, The First Epistle of Peter, p.113からの引用によります。)旧約聖書の中でイスラエルに約束されていたほとんど全ての祝福を神は教会にお与えになっているとペテロはここで言っています。神の臨在される場所はもはやエルサレム神殿ではない。なぜなら、クリスチャンが今や新しい神の「神殿(家;temple, oikos )」であるからです。

 

神に受け入れられる犠牲を捧げることのできる祭司はもはやアロンの子孫ではありません。なぜなら、今やクリスチャンが神の御座の前に近づくことのできる真の「聖なる祭司」だからです(4-5、9節)。

 

そして神に選ばれた民というのは、もはや肉的にアブラハムの血筋を引いている人たちではありません。なぜなら、クリスチャンが今、真の「選ばれた種族」です(1ペテロ2:9)。

 

そして、神によって祝福されている国(nation)というのは、もはやイスラエルの国(nation)ではありません。なぜなら、クリスチャンが神のまことの「聖なる国民("holy nation," ἔθνος ἅγιον 」だからです。

 

さらに、イスラエルの人々は、もはや神の人々とは言われず――なぜなら、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも含めたキリスト者たちが、今や「神の民」そして「あわれみを受けた者」(10節)と言われているからです。

 

さらに、ペテロは――いつまでも神に反逆し続け、尊い「隅のかしら石」(6節)を拒絶するご自身の民を神は拒絶するだろうという旧約聖書の文脈から――一連の引用句を用いています。

 

以上の事から、教会が今や、神のまことのイスラエルとなり、旧約聖書においてイスラエルに約束されていたあらゆる祝福をいただくようになるということを私たちは確信をもって結論付けることができると思います。

 

 

【追加資料】【歴史的プレミレ】ジョージ・ラッド著『終末論』(第2章 イスラエルについてはどうか。)より

 

第1章において、旧約聖書はイエス・キリストにおいて与えられた新しい啓示の視点に立って解釈されなければならないという聖書解釈の原則を確立した。では新約聖書は、イスラエルについて何を教えているのだろうか。

 

旧約聖書は、イスラエルの未来における救いを見ているが、新約聖書はその預言を大幅に再解釈して、それらが教会において霊的に成就されるべきであるとしているのか?すなわち、教会は新しい真のイスラエルなのか?あるいは、神はまだご自身の民イスラエルのための未来を用意しておられるのか?

 

幸いなことに、霊感された聖書の中には、この主題についての詳細な議論が記されている。それがローマ人への手紙9-11章である。パウロは最初に、イスラエル民族がメシヤとしてのイエスを拒絶したことに対し、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(ローマ9:2)と、肉における同胞に対する心底からの関心と愛を吐露している。

 

パウロの最初の論点は、「イスラエル」つまり真の霊的イスラエル――神の民――はアブラハムの肉的子孫と同一ではないということである。「イスラエルから出る者〔本来の血縁の子孫〕がみな、イスラエル〔霊的な子孫〕なのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく・・・・」(ローマ9:6-7)。

 

パウロはこのことを証明するために旧約聖書の歴史を思い起こさせる。アブラハムには二人の息子、イサクとイシュマエルがいた。しかしイシュマエルの家族とその子孫は、アブラハムの本来の血縁の子孫であるが、霊的子孫には含まれない。

 

「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(ローマ9:7)、「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる」(ローマ9:8)。神はイサクを選び、イシュマエルを拒絶された。それゆえアブラハムの真の子孫――真のイスラル――は、生来の肉的な血統において決定されるのはなく、神の選びと約束によって決定される。

 

その意味は明らかである。パウロのいた当時のすべてのユダヤ人が、神の民「イスラエル」を名乗ることができるわけではない、神の民「イスラエル」を名乗ることができるのは、アブラハムの信仰に倣う人、約束の子であると自己証明する人だけである。

 

この原則は、すでにローマ人への手紙の始めの部分に系統立てて述べられている。ローマ人への手紙2:28-29でパウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」と書いてある。

 

この《霊的割礼》対《肉的割礼》の原則は、パウロを起源とするものではない。この主題はすでに、旧約聖書に見い出されるものであり、パウロはそれを繰り返している。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」(エレミヤ4:4)。

 

モーセの律法への外側だけの従順のみでは、神の愛顧を確かに受けているアブラハムの真の子孫であるとは言えない。そこには、それにふさわしい心――そして生活――がなければならない。さもなければ、神の怒りと直面することになる。

 

この原則は、ヨハネの黙示録の二つの節にも適用されている。ヨハネはある人々について、「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である」(黙示録2:9.3:9も参照)と言っている。ここには、ユダヤ人であると(正当に)主張できる人々がいる。

 

確かに彼らは肉において、また宗教的にユダヤ人ではあるが、ヨハネは彼らのことを、霊的にユダヤ人ではなく、実際はサタンの会衆であると言う。メシヤとしてのイエスを拒絶して、イエスの弟子たちを迫害していたからである。

 

次にパウロは、もしそれが事実であるとしたら、神の身勝手さを反映しているのではないかという反論を取り扱う。この反論に対し、厳しいことばで答えている。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」(ローマ9:20-21)。

 

この箇所は、神の選びと個人の救いに対する拒絶という視点から解釈されることが多い。しかし個々人にどのような適用がなされるにせよパウロの論点は、第一義的には贖罪の歴史と、アブラハムに与えられた約束を受け継ぐ者として神がヤコブを選ばれたことである。

 

神は字義上のイスラエルの反逆や背教に多大な忍耐をもって耐えた。「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためなのです」(ローマ9:23)。

 

神は字義上のイスラエルの不信仰に忍耐してこられた。それは、その忍耐を通して、真のイスラエルにあわれみを示すためだった。パウロは同じことを、同じ箇所の後ろのほうで取り上げている。

 

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは〔最終的に、回復不可能あ状態に〕倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」(ローマ11:11)。イスラエルはつまずき、不信仰となったが、そこに神はある目的を持っておられる。

 

神が忍耐をなくしたわけではない。イスラエルのつまずきもイスラエル自身のために起こったわけではない。むしろ、神はイスラエルのつまずきを、異邦人に救いをもたらすために用いたのである。

 

パウロは前のほうの箇所で、この主張を発展させて述べている。「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです」(ローマ9:24)。

 

神が怒りの器――神の裁きの下に立つ不信仰なユダヤ人――に取って代わるものとして選ばれた「あわれみの器」は、ユダヤ人と異邦人から成る混成体である。

 

続いて、パウロは驚くべきことをする。旧約聖書の文脈ではイスラエルに言及している二つの箇所をホセア書から引用し、大部分が異邦人から成るキリスト教会に当てはめているのである。それによって、旧約聖書が異邦人の教会を予見していたことを証明しようとする。

 

「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ』」(ローマ9:25)。

 

ホセアは姦淫の女をめとるように主から命じられた。その女は、イスラエルの霊的姦淫を象徴している。二番目に生まれたのは女の子で、ホセアは「その子をロ・ルハマ〔訳注・新改訳欄外注「愛されない」)と名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ」(ホセア1:6)と告げられた。

 

しかし、イスラエルに対するこの拒絶は最終的なものでも、回復不可能なものでもない。事実は、ホセアは続いて、神の国におけるイスラエルの未来の救いを主張する。ホセアは、弱肉強食が動物界から取り除かれる日を見ている。神は野の獣、空の鳥、地を這うものとの契約を結ぶ。暴力と戦争の武器、弓と剣、戦争そのものをもなくしてくださる。

 

イスラエルは地に安全に住み、安らかに伏す。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ」(ホセア2:19)。

 

それから、ホセアは言う。「わたしは・・・・『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう」(ホセア2:23)と。

 

さて私たちは今、キリスト論で見た同じ現象を終末論の領域でも見ている。旧約聖書の諸概念が根本的に再解釈され、予見されていなかった適用を与えられている。

 

旧約聖書においては字義どおりのイスラエルに適用されているものが、ローマ人への手紙9章25節ではユダヤ人も異邦人をも含む教会に適用されているのである(ローマ9:24)。事実、新約聖書時代の教会で構成上優勢であったのは異邦人であった。

 

パウロは、再びホセア書から引用する。「『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは『生ける神の子ども』と呼ばれる」(ローマ9:26)。

 

ホセアは、息子である第三の子を持った。そして、こう告げられた。「その子をロ・アミ〔訳注・新改訳欄外注「わたしの民でない」)と名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」(ホセア1:9)。

 

ここではホセアは、すぐに続けてイスラエルの未来の救いを知らせている。「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる」(ホセア1:10)。

 

この二箇所で、旧約聖書の文脈では字義どおりのイスラエルに言及している預言が、新約聖書において(異邦人)教会に適用されている。言い換えると、パウロは、ホセア書1:10と2:23の預言が教会において霊的に成就されたと見ているのである。

 

したがって必然的に、異邦人教会における救いの出来事は、イスラエルになされた預言の成就であるということになる。

 

このような事実があるからこそ、筆者を含む聖書を学ぶ者たちは、教会は新しいイスラエル、真のイスラエル、霊的イスラエルであると言わざるをえないのである。

 

この結論は、パウロがクリスチャンを(霊的な)アブラハムの子孫と言っている箇所によって支持される。「彼は、割礼を受けていないとき、信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。

 

すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです」(ローマ4:11-12)。ここでアブラハムは、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者の父と言われている。

 

したがって不可避の結論として、ユダヤ人であるかギリシヤ人であるかとは関係なく、信仰者こそがアブラハムの真の子ども、真の霊的イスラエルであるということになる。再び、ローマ人への手紙2:28-29を思い起させられる。すなわち真のイスラエルは、心の内で割礼を受けた人々であるということである。

 

ローマ人への手紙4:16において、パウロは再び「アブラハムは私たちすべての者の父なのです」と繰り返している。ガラテヤ人に書いたとき、パウロはすでにこの真理を明言している。「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」(ガラテヤ3:7)。

 

ディスペンセーション主義者は、《霊的》解釈を、旧約聖書を解釈するうえで最も危険な方法とみなしている。

 

ジョン・ワルブード教授は、これは現代のローマ・カトリック、現代のリベラル派、現代の非ディスペンセーション系保守の立場の著者たちを特徴づけている解釈であると書いている(The Millennial Kingdom, Dunham, 1959, p.71)。しかし筆者は霊的解釈を採用しなければならないと思っている。

 

なぜなら筆者には、旧約聖書において字義どおりのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用していることがわかっているからである。

 

筆者が霊的解釈を採用するのは、契約神学の立場を採っているからではなく、神のことばに縛られているがゆえである。

 

それでは、教会が真に霊的イスラエルであるのなら、「神はご自分の民〔字義どおりのイスラエル〕を退けてしまわれた」(ローマ11:1)のだろうか。

 

パウロはこの問いに続けて、長めの回答を記している。パウロはローマ人への手紙11章5節で、イスラエルの未来の救いを暗示している。「もし彼ら〔字義どおりのイスラエル〕の捨てられることが世界の和解〔異邦人の救い〕であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」

 

パウロは、このことを有名なオリーブの木のたとえで例証している。オリーブの木は全体として見れば、神の民である。栽培種の枝(ユダヤ人)が栽培種の木から切り取られ、野生種のオリーブの枝(異邦人)が栽培種のオリーブの木に接ぎ木された。しかし、栽培種の木に野生種の枝を接ぎ木するなどという話は聞いたことがない。

 

パウロはその疑問にも気づいていたので、「もとの性質に反して」(ローマ11:2)と語っている。パウロはイスラエルに取って代わった異邦人に、イスラエルに対して誇ってはならないと警告する。神には再び、異邦人を切り取ることもできるからである。

 

逆に、「彼ら〔ユダヤ人〕であっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです」(ローマ11:23-24)。

 

その後、パウロはすばらしい論述によって、全体の状況を要約している。「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いを思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。

 

『救う者がシオンから出て、

ヤコブから不敬虔を取り払う。

これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。

それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である』」(ローマ11:25-27)

 

ここに贖罪の歴史における聖定――栽培種のオリーブの木に生えた栽培種の枝、不信仰ゆえに切り落とされた栽培種の枝、もとの性質に反して接ぎ木された野生種の枝、まだオリーブの木に再接ぎ木されていない栽培種の枝――がある。

 

イスラエルはつまずきの岩――キリスト――につまずいた。しかしいつまでも倒れたままではない(ローマ11:11)。

 

パウロは、「イスラエルはみな救われる」と語っているが、明らかに、かつて生きていたすべてのユダヤ人についてそう言っているわけではない。パウロは贖罪の歴史について語っている。しかし、生きているユダヤ人の大多数、すなわち「イスラエルはみな」救われる日が訪れるということである。

 

イスラエルがどのように救われるのかについて、パウロがもっと詳しく書いてくれていたらと思われるかもしれない。「救う者がシオンから出て」ということばは、おそらくキリストの再臨に言及していると思われる。再臨の目的の一つとして、キリストのもとに教会を集めることとともに、イスラエルを贖うことがあるのだろう。

 

ただし、二つの事柄は明白である。一つは、イスラエルは教会と同じ方法で――つまり、信仰によってメシヤであるイエスに向かうことによって――救われなければならないということ(ローマ11:23)。

 

もう一つは、イスラエルが経験する祝福は、教会が経験している同じ祝福――キリストにある祝福であるということである。

 

それでは、神殿再興についての旧約聖書の詳細な約束についてはどうなるのか。ヘブル人への手紙は、律法には「後に来るすばらしいものは影であっても、その実物はない」(ヘブル10:1)と語り、この問いにはっきりと答えている。

 

神殿といけにえの制度を規定する律法は、キリストにおいて私たちにもたらされた祝福――実物――の影にすぎない。影はその目的を達成した。

 

キリストは今、天にある真の幕屋に入り、私たちの大祭司としての務めを行なっておられる。今、神の贖罪の計画が影の時代に逆戻りすることなどありえない。

 

実際に、ヘブル人への手紙が明確にこのことを断言している。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう」(ヘブル8:6-7)。

 

ここで強調すべき点は、ヘブル人への手紙は、モーセの契約とキリストによる新しい契約を対比させているということである。もしモーセの契約が適切なものであったのなら、第二の契約は必要なかったはずである。

 

ヘブル人への手紙は、エレミヤ書31:31-34からの長い引用によって、このことを証明している。

 

「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。・・・それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

 

ここで、すでに直面した事柄に再び遭遇する。新しい契約が二つあると考えることはきわめて困難である。

 

二つの契約とは、キリストによってキリストの血を通して教会との間で結ばれた契約と、イスラエルとの間で結ばれる未来の新しい契約である。

 

イスラエルとの間で結ばれる契約は、ディスペンセーション主義者によれば、大部分がモーセの契約の更新である。確かにパウロがローマ人への手紙9-11章で、字義どおりのイスラエルはまだ新しい契約の内に入れられていないと教えていることは、すでに見てきたとおりである。

 

しかしその契約とは、十字架を通して教会と結ばれた新しい契約と同じ契約である。別個の契約ではない。ヘブル人への手紙8章は、エレミヤを通してなされた約束を、キリストを通し教会との間に結ばれた新しい契約に適用している。

 

このことは、第二の箇所でさらに明確にされている。ヘブル人への手紙10章11-17節は、罪のための十字架上のキリストの犠牲、続いて神の右への着座、そして「その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」ことについて語っている。

 

それは「キリストは聖なるものをされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」(ヘブル10:13-14)からであると語っている。

 

それらのことばは、ヘブル人への手紙がキリストにより教会との間に結ばれた契約について語っていることを明らかにしている。それから、ヘブル人への手紙は、再びエレミヤ書31章を引用する。

 

「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。(ヘブル10:16-18)

 

エレミヤ31章の新しい契約が、キリストによってキリストの教会との間に結ばれた新しい契約であることは、だれも否定できない事柄である。

 

ヘブル人への手紙から引用した上記の箇所は、赦しのあるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用であると語っている。キリストによって成し遂げられた赦しは、モーセの制度を無用、かつ廃止されたものとした。

 

ヘブル人への手紙は、8:13で同じ真理を断言している。「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます」。

 

それらのことばは、紀元70年のローマ人によるエルサレムの破壊の史実に言及しているのかどうかは別として、少なくとも、贖罪の実体がもたらされたのだから、古いモーセの秩序は消滅したのだと断言している。

 

ここで再び、旧約聖書預言書の根本的な再解釈を手にする。この解釈によれば、モーセの契約は、そこに記された神殿といけにえの制度を含めて一時的なものである。

 

ヘブル人への手紙の議論は、それらがキリストにおいてもたらされた霊的実体を指し示している予型であり影であるということである。予型と影はそれらの目的を達成するやいなや、神の贖罪のご計画から無用のものとして捨てられるというのである。

 

このことは、現在のイスラエルの問題にどんなかかわりがあるのか。三つのことが指摘される。

 

第一に、神はご自身の民を保護してこられた。イスラエルは「聖なる」民(ローマ11:16)のままであり、聖別されており、神の目的を遂行することが定められている。

 

第二に、まだすべてのイスラエルが救われているわけではない。今日のある学者は、千年王国において歴史は、初めて真のキリスト教国を目撃することになるだろうと言っている。

 

第三に、イスラエルの救いは、モーセのいけにえの制度の再興を伴うユダヤ教神殿の再建を通してではなく、すでに教会との間で制定されているキリストの血による新しい契約を通してなされなければならない。

 

ヘブル人への手紙は、モーセのすべての制度は廃止され、消え去ったと断言している。それゆえ、イスラエルは「預言の時計」であるという、よく知られたディスペンセーションの見解は間違っている。

 

近代イスラエルがパレスチナに帰還したことが、イスラエルに対する神の目的の一部分であったとしても、新約聖書はこの問題の解明に何の光も投げかけていない。

 

ただ二千年の間、イスラエルが一つの民族として保持されていることは、神がご自身の民イスラエルを見捨ててはおられないことの一つのしるしではある。

 

【追加資料2】【歴史的プレミレ】ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムについて(安黒務師)

 

B-2) ミクロの背景―「ディスペンセーション主義イスラエル論」のベクトル

 

 次に、上記の神学的思索の細部のベクトルとして「ディスペンセーション主義」の起源と変遷 [1]を扱う。これは、最も論争的なテーマといわれる「キリスト教シオニズム」の神学的基盤を構成している。

 

「ディスペンセーション主義」は、1800年代初期から中期の英国においてジョン・ネルソン・ダービーとプリマス・ブレザレン運動の下に出現した。

 

ブログ主註:ジョン・ネルソン・ダービーとディスペンセーション主義についてさらに詳しくお調べになりたい方への文献案内)

 

 

それは、リベラリズムとの闘争という時代状況の中で、霊感された書物としての聖書観が危機に瀕したときに、その防御の戦いにおいて「正の貢献」があった。

 

しかし同時に「負の遺産」を生み出した。それは、もうひとつの極端に振れた振り子のように、そこに極端な字義主義を生起させ、極端な聖書解釈をもたらした [2]

 

そして19世紀と20世紀前半に米国において、ディスペンセーション主義は多様化しつつ発展していった。

 

第一段階として「古典的ディスペンセーション主義」の立場は、「イスラエルと教会の間にある多くの相違点」を指摘し、「二つの異なった民に対する二つの別個の計画」の存在を主張した。

 

展開の第二段階として「改訂ディスペンセーション主義」の立場が登場し時代を画した。

 

展開の第三段階は「漸進的ディスペンセーション主義」として知られるものとして結実し、1980年代と1990年代に出現した。

 

 

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歓迎すべき大きな変化が起こり続けているが、「J.N.ダービーの遺伝子」とでも言うべき「民族としてのイスラエル」を軸にした理解は陰に陽に残されたままである [3]

 

今日、「イスラエルを軸とした」聖書理解とか、イスラエルを軸とした「神のマスタープラン」という強調がなされることがあるが、それらの多くは上記のディスペンセーション主義聖書解釈法に由来するものである。

 

B-3) 使徒的イスラエル論とは何か

 さて、マクロとミクロの背景説明を終えた今、次の課題を扱う準備が整った。前節において「使徒的聖書解釈」の原則を確認した。では、その原則に立脚した「使徒的イスラエル論」とは何なのか-これが第二の問いである。

 

旧約は「イスラエルの未来における救い」を見ている。しかし、新約はどうか。新約は、それらの預言が「教会において霊的に成就された」と解釈しているのか。

 

あるいは旧約預言の字義通り「選民イスラエルのための未来を用意しておられる」と解釈しているのか。どちらなのか。

 

契約主義神学は前者の「教会を軸とした」イスラエル論をとり、ディスペンセーション主義神学は後者の「イスラエルを軸とした」イスラエル論をとる。

 

新約でこの課題について、最も詳しく述べている箇所はローマ人への手紙9-11章である。

 

そのローマ人への手紙9章25節の旧約の文脈(ホセア書)では「イスラエルへの言及」である箇所の大部分が「異邦人からなるキリスト教会に適用」されている。

 

これは、「メシヤ預言とキリスト論」の関係でみた「同じ聖書解釈の原則」が「イスラエルに関する預言と教会論」の間でもみられるということである。

 

ここで「旧約の諸概念」は解釈され、旧約では予見不可能なことが言われている。

 

ホセア書からの引用がローマ人への手紙9章26節(ホセア書1章10節)にある。旧約の文脈では「字義通りのイスラエルに言及されている預言」であるが、新約では「(異邦人)教会に適用」されている。

 

ホセア書1章10節、2章23節の預言も「教会において霊的に成就」とされ、教会は「本質的イスラエル性」を内包する「霊的イスラエル」として理解されている。

 

アブラハムが「無割礼のときにもった信仰」の足跡は、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者の父となるためであったのであり、「信仰の内実」を有するアブラハムの子供が「霊的イスラエル」である。これは不可避の結論である(ローマ人への手紙4章16節, ガラテヤ書3章7節)。

 

ディスペンセーション主義者は、「霊的解釈」を最も危険視している。ジョン・ウォルヴォードは、それを「カトリック、リベラル、非ディスペンセーション系保守の特徴」[4]とみている。

 

しかし、ラッドは「旧約において字義通りのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用しているという原則を見出すのであるから、霊的解釈を採用しなければならない[5]と断言する。

 

ここに「使徒的イスラエル理解」の原則があり、「使徒的正統性」を判別する尺度が存在する。

 

この章の註

[1] Clarence B.Bass, Background to Dispensationalism (Eugene, Oregon: Wipf & Stock, 2005), pp.ⅰ-ⅲ. Wayne Grudem, Systematic Theology (Nottingham: InterVarsity Press, 1994), pp.859-863 に、ディスペンセーション主義聖書解釈の三類型とその変遷の記述がある。

 

[2] Bass, Background to Dispensationalism, p.21 において、バスは「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」と記している。

 

[3] Grudem, Systematic Theology, p.863 において、グルーデムは漸進主義ディスペンセーション主義者と他の福音主義との間に残された相違に関し、

「ディスペンセーション主義者は、教会がイスラエルに関する旧約聖書預言の多くの適用の受領者であるとする。しかしそれらの約束の真の成就は今なお民族としてのイスラエルの未来においてもたらされるという点を許容する。」

しかし、教会へのそれらの約束について、教会が唯一無二の成就であることを否定するいかなる強固な理由も存在しないと記している。

 

Vern S. Poythress, Understanding Dispensationalists (Phillipsburg, New Jersey: Presbyterian and Reformed, 1987), p.137(日本語訳ココにおいて、ポイスレスは、古典的立場から修正主義へ、さらに漸進主義へと変遷しているディスペンセーション主義の将来を、ついには「G.E.ラッドが手本として提示している契約主義プレミレニアリズムに安らぎの港を見出すことになる」と予測している。

 

筆者は、その理由として、聖書神学が基本構造としてもつ「神の国の概念、その現在性と未来性の構造」がもたらす必然的結果であると考える。

 

後千年王国説、無千年王国説、歴史的(契約主義)前千年王国説は、現在面と未来面の強調点等の些末な相違はあるものの、この「神の国の神学」の基本構造の認識を共有している。G.E.ラッド『神の国の福音』(聖書図書刊行会、1965年)は、このテーマに関する良き入門書である。

 

[4] John Walvoord, The Millennial Kingdom (Grand Rapids, Michigan: Zondervan, 1959), p.71.

[5] Ladd, The Last Things, p.24.

 

 

A-2) キリスト教シオニズムの諸形態

 

さて、わたしたちは日本にいて、様々なかたちで「ユダヤ人への伝道や支援」に取り組む働き [1]を目にし、また耳にする。

 

しかしキリスト教シオニズムには「どのような形態」があるのか知っているだろうか?

 

よく知らずに新しい教えや運動との関係を深め、後に教会や教派に混乱を起こす。そうならないため、それらの「神学と実践」の「輪郭と本質」を知っておきたい。

 

今日の福音派のキリスト教シオニズムには、大別して「四つの相違する形態」がある。

 

それらは、「教会とイスラエルの関係、伝道、帰還、イスラエルの地、入植、エルサレム、神殿、ハルマゲドン」に関する神学的理解の相違を契機として生まれてきた。

 

それらには、

①契約主義的プレミレニアリズム [2]

②メシヤニック・ディスペンセーション主義、

③黙示的ディスペンセーション主義、

④政治的ディスペンセーション主義の四つがある。」[3]

 

ここでは特徴的な要素のみを取り上げる[4]

 

第一に「契約主義的プレミレニアリズム(ヒグトン、リガン:CMJ, CWI)」はユダヤ人に対する「伝道」とパレスチナへの「帰還」を特徴とし、

 

第二に「メシヤニック・ディスペンセーション主義(ローゼン、ブリックナー、フルクテンバウム:JFJ, AMFI)」はユダヤ人に対する「伝道」とともに、「二契約神学」のゆえに「神殿における実践」を含み、「ユダヤ教的礼拝の復活」をも引き受けている。

 

第三に「黙示的ディスペンセーション主義(リンゼイ、エヴァンズ、ラヘイ:DTS)」はハルマゲドンの熱望というかたちで「終末預言」と「中東の平和に関する悲観主義」の傾向が強い。

 

第四に「政治的ディスペンセーション主義(ロバートソン、ファルウェル:ICEJ, BFP)」は、米国のイスラエルとの「軍事的かつ政治的結びつき」を強固に維持することへの傾倒と、ユダヤ人への「伝道の否認、楽観的な終末論、キリスト教の福音の再解釈」によって他と区別される。

 

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写真 情報源:Support Israel | ICEJ International

 

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写真 情報元:Millions of Christian Evangelists "Ready to Take Action" for Israel: ICEJ - Breaking Israel News

 

政治的ディスペンセーション主義にとって、「教会の目的とはイスラエルを支援し祝福する」ことである。なぜなら、ユダヤ人は「彼ら自身の契約を基盤にして神に受け入れられ」ており、ユダヤ人は「メシヤが再臨される時にメシヤを認める」ことになるからである。

 

「福音主義イスラエル論の座標軸」(注2)において評価すると、契約主義的プレミレニアリズムがキリスト教シオニズムの中で「最も正統的かつ穏健な形態」とみなされ、政治的ディスペンセーション主義は「最も問題を含む形態」であると思われる。

 

それぞれは、重なり合う部分を持つとともに、グループ内に様々なグラデーションある強調点を抱えており、その判別は代表者や唱道者等の発言や著作から、それぞれのグループの「特徴の輪郭」と「教えの本質」を判断することとなる [5]

 

この章の註

[1] 日本における「ユダヤ人伝道」関係には、ローザンヌ・ユダヤ人伝道・日本支部(LCJE)の交わりがあり、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、ミッション・宣教の声、ライフイン・メサイヤ、シオンとの架け橋、アルコ・イリス・ミニストリー、ハティクバ・ミニストリーズ等の参加がある。

 

ユダヤ人伝道関係でバランスのとれた小冊子として、誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.60『ユダヤ人伝道―教会への使命―』(関西ミッション・リサーチ・センター、2006年)がある。

 

また、日本リバイバル同盟(NRA)は、イスラエルに本拠地を持つトム・ヘスの Jerusalem House of Prayer for All Nations の働きに呼応し「祈りの祭典」や、「エンパワード21ムーブメント」に関わるようになっている。

 

 

[2] 『LCJE JAPANジャーナル』2009年10月 Vol.1には、契約主義的プレミレニアリズムの立場に立つトニー・ヒグトンの「キリスト教シオニズムの不適合な要素」に対する批判とJ.R.プライスの幾つかの反論、そしてその反論へのヒグトンの応答がある。私も共感できるヒグトンのこの立場は、G.E.ラッドやM.J.エリクソンと近いものがある。

 

[3] Sizer, Christian Zionism, p.255.

http://www.stephensizer.com/books/christian-zionism/

 

[4] 関連団体等の参照。

CMJ (Church’s Ministry Among Jewish People), CWI (Christian Witness to Israel), JFJ (Jews for Jesus), AMFI (American Messianic Fellowship International), DTS (Dallas Theological Seminary), ICEJ (International Christian Embassy Jerusalem), BFP (Bridges for Peace).

 

[5] キリスト教シオニズムの「聖書、選民、帰還、エルサレム、神殿、未来」等に関する特異な神学的強調に関しては、Sizer, Christian Zionism, pp.106-205 また、idem, Zion’s Christian Soldiers? の全編にわたって詳しく解説されている。

 

【追加資料3】【歴史的プレミレ】『福音主義イスラエル論: 神学的・社会学的一考察』(安黒 務 著)より一部抜粋

 

使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素  

B-1) 使徒的実践に「適合しない要素」とは何か? 

 

わたしたちは、第一部において、使徒的聖書解釈法と使徒的イスラエル論理解が如何なるものであるのかを考察した。

 

そして、今、考察の焦点である「キリスト教シオニズム」の定義、起源と変遷、そして多様化を概観し、使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素を考察する準備ができた。

 

ここで、今日の「福音主義イスラエル論」において、使徒的実践に「適合しない要素」とは何か、と問いかける。

 

適合しない第一の要素は、「誤った領土的熱望」である。

 

使徒たちが新約においてメシヤとメシヤによる新しい普遍的な共同体においてユダヤ人が熱望してきたものが「成就」していると記しているにも関わらず、

 

キリスト教シオニズムは、ペンテコステ以前の初代の弟子たちのように、1世紀のユダヤ教が保持していた「領土的熱望」を抱き、イエスの王国の到来を「ユダヤ人の王国の回復の望み」の「延期」を意味していると信じ、旧約聖書を誤って読み込んでいる。

 

「使徒的聖書解釈」を記した新約において、それは「延期」ではなく、「成就」である。パーマー・ロバートソンは、神の諸目的のこの啓示の漸進性について

 

「贖罪の歴史のプロセスにおいて、予型から現実へ、影から実体へと劇的に発展させられ、…かつて神の贖罪的働きの特別な局所的なものであった土地は、今、新しい契約の成就の時代において、土地は宇宙を含むものに拡大されてきた。…それゆえ、成就のこの時代において、古い契約のきわめて制限された形態への退歩・後退は期待されていない。実体は影に道を譲ってはならない」[23]と述べている。

 

適合しない第二の要素は、「自民族中心的な民族主義」である。

 

使徒たちが、古代の旧約聖書に記された「ユダヤ人への祝福の約束が、イエス・キリストを通して「解釈」され「成就」されたと記しているにも関わらず、キリスト教シオニズムはそれらの約束を字義的かつ未来主義的に解釈し、「世俗的イスラエル国家」に適用している。

 

土着の古代オリエント東方教会を代表する中東教会協議会(MECC)は、そのような解釈と適用をするキリスト教シオニズムを

 

「その運動はキリスト教の一致と宗教間の相互理解の運動を拒否し、…シオニストの神政政治と自民族中心的な民族主義のモデルを強制し、…福音と成功と軍国主義のイデオロギーの一体化された世界観をクリスチャンに供給している」[24]と厳しく批判している。

 

適合しない第三の要素は、「信仰の内実の欠落した選民意識」である。使徒たちがキリストにある「開かれた民族のあり方」を提示しているにも関わらず、キリスト教シオニズムは旧約の光の下、誤った「民族的排他主義」を扇動している。

 

それが意味するものについてケネス・クラッグは、

「神はユダヤ人を選ばれ、土地は神の賜物でありユダヤ人のものであるとの言明には疑問を抱くことも反抗することもできない最終的なものとする判決があり、それらは、間違いなく聖書信仰のクリスチャンからもたらされている」[25]と批判している。

 

使徒たちがキリストにあってユダヤ人も異邦人(パレスチナ人)もないと語り、キリストにある者に相応しく公義を川のように流れさせることをすすめるのに対し、

 

キリスト教シオニズムはそのような「誤った前提」をもって、中東の平和交渉の公正かつ持続的な成果の可能性を「妨害」し、ラビ的ユダヤ教への「無批判な寛容」を示し、イスラエルの政治的権利を「無制限に是認」し[26]、パレスチナ人の悲劇と地域に根差しているキリスト教の共同体の苦境に対する「許し難い同情心の欠如」をさらし、福音の名前においてユダヤ人による「抑圧を正当化」してきた[27]

 

それゆえ、究極的に、これらの不適合な実践を支えている神学的基盤の問題は二つの神学―「ディスペンセーション主義神学」と「契約主義神学」の間にある。

 

サイザーは言う、「一方は古い契約のを、他方は新しい契約の実体を基盤としている。前者は、世界の救い主であるイエス・キリストを中心とする包括的な神学であるよりは、むしろその土地の中に存するユダヤ人に焦点を当てる排他的な神学となる。

結果的に、それは民族を差別し、隔離し、戦争をすることに対する神学的な保証を提供する。…これは、新しい契約の中心に見出される正義・平和・和解についての包括的な神学に正反対のものである。」[28]

 

B-2 ) 使徒的実践に「適合する要素」とは何か

 

次に、今日の「福音主義イスラエル論」において、使徒的実践に「適合する要素」とは何か、を問う。

 

適合する第一の要素は「神の民理解」である。

 

「契約主義者」[29]は聖書の連続性・漸進性・有機的一体性の理解をもって、神は歴史を通じていつも「ひとつの民」とわたしたちの身代わりの犠牲としての主イエス・キリストという「ひとつの贖いの手段」のみを所有しておられたと教える。

 

それは、キリスト教シオニズムの「誤った選民意識」に基づく偏ったものではなく、契約主義的な前提を基盤とした「パレスチナ人とイスラエル人の闘争に対する聖書的アプローチ」は「両者の平和と安全」に向けて有益な形で機能し、祈りに導く理解である。

 

適合する第二の要素は、「ユダヤ人理解」である。ユダヤ人について、ローマ人への手紙9―11章のような箇所を基盤として、「ユダヤ人は神に愛されている」こと、そして神がキリスト教を誕生に導かれる際に「歴史上のユニークな役割」を達成したことを認め、そしてユダヤ人皆がイエスを「彼らのメシヤと認める日が到来」するよう祈っている。

 

それはキリスト教シオニズムの「誤った自民族中心的な民族主義」ではない理解であり、ユダヤ人とパレスチナ人双方が「本質的な意味・価値・尊厳をもって神の像・似姿に創造」されており、「自己決定の権利、安全かつ国際的に認知されている領域内で生きる権利を所有している」ことを認め合う理解である。

 

適合する第三の要素は、「教会理解」である。教会がキリストにおいて「刷新され回復されたイスラエル」であり、そして今それはあらゆる民族の人々を包含するかたちに広げられていると主張している。[30]

 

キリスト教シオニズムが根拠の薄弱な聖書的・神学的主張によって国家としてのイスラエルを正当化し、神聖化するのに対し、教会をそのように理解する契約主義は相互の認知と和解の上に、正義と平和についての聖書的原則を基盤とした国際的な平和への努力推進を強く支持する理解である。[31]

 

サイザーは言う、「クリスチャンはキリスト教シオニズムの不適合な要素を否認することによって、ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助けることができる。」[32]  

 

この章の註

[23] O.Palmer Robertson, 'A New-Covenant Perspective on the Land', in Johnston and Walker (eds.), Land of Promise (Leicester: Apollos, 2000), p.140.

 

[24] Middle East Council of Churches, What is Western Fundamentalist Christian Zionism? (Cyprus: Middle East Council of Churches, 1988), p.13.

 

[25] Kenneth Cragg, The Arab Christian (London: Mowbray, 1992), pp.237-238.

 

[26] 左派の労働党と並ぶ、イスラエルの二大政党の一つ「リクード」には、領土拡大(大イスラエル主義)と国家のユダヤ性の保持(ユダヤ人多数派の確保)という党是がある。

森まり子『シオニズムとアラブ―ジャボティンスキーとイスラエル右派―』(講談社、2008年) 234頁

 

[27] ジョン・ハジーは、「聖書はきわめて親イスラエルの書物である。もしクリスチャンが『私は聖書を信じている』と認めるなら、私は彼を親イスラエル支持者とすることができる。あるいは彼らの信仰を非難しなければならないことになる」(Sizer, Zion's Christian Soldiers? ), p.11と語る。

 

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ジョン・ハジー(John Hagee)

 

しかし、そのような聖書観は正しいと言えるのだろうか?

モルトマンは、イスラエル国家建設がイスラエルに対する祝福とともに、パレスチナから排除された人々に呪いとなっているという両義性に言及し、

「ユダヤ人も、究極的に、…その土地とシオンを越えて、来たらんとする神とその贖おうとする御国を待望するであろう」と書き記している。ユルゲン・モルトマン『聖霊の力による教会』(新教出版社、1981年)224-225頁

 

[28] Sizer, Christian Zionism, p.260.

 

[29] ラッドとサイザーの「旧新約の啓示の連続性・漸進性・有機的一体性」を主張する契約主義の側面を理解する良き資料としては、

G. ヴォスの二冊の著作、Biblical Theology (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 1988)とPauline Eschatology(Phillipsburg, New Jersey: Presbyterian & Reformed, 1986)があり、

創造から再創造に至る視野の中における特別啓示の歴史性、有機性、多様性が主張されており、これらの三要素を考慮して聖書神学は、歴史的一貫性、また多様性における超自然的な啓示の有機的展開の提示と定義される。

 

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書評欄より(ゲルハルダス・ヴォスの聖書神学。組織神学に重きを置く改革主義の中で、その神学的骨格を見事に聖書神学に受肉させた力作。徹底した正統主義聖書論に基づく緻密な釈義と展望によって、聖書が本来持つダイナミズムを聖書解釈に発揮させつつ、リベラリズムを反駁するという離れ技をやってのけています。アウトラインをお読みになりたい方は次をクリックしてください。Outline of Geerhardus Vos' Biblical Theology

 

[30] J.R.W.ストットは、

(1)ユダヤ人のその土地への帰還についての旧約聖書の約束は、ユダヤ人の主への立ち帰りの約束に付随しているものである。世俗的で、信仰が伴っていない国家としてのイスラエルの成立を、旧約聖書の預言の成就であると理解することは困難である。

 

(2)土地に関する旧約聖書の約束は、新約聖書で繰り返されている箇所は皆無である。ローマ人への手紙11章は、きわめて多くのユダヤ人がキリストに立ち返るであろうという預言であり、土地に関しては言及されていないし、政治的存在としてのイスラエルへの言及もない。

 

(3)使徒たちによれば、旧約聖書の約束は、キリストとキリストにある、民族を超えた共同体において成就されている。

新約聖書の著者は、アブラハムの子孫への約束を、イエス・キリストに適用している。

使徒たちは、土地の約束そして相続されるべき土地のすべて、つまり乳と蜜の流れる地をイエス・キリストに適用している。

それは、わたしたちの空腹を満たし、わたしたちの渇きを癒すのは、イエス・キリストにおいてなされるゆえである。ユダヤ民族主義への回帰は、イエスにおいて形成されている、民族を超えた共同体という新約聖書の捉え方とは相いれない」と述べている。

Donald E.Wagner, Anxious for Armageddon (Scottdale, Pennsylvania: Herald Press, 1995), p.81に引用されたストットの見解。

 

[31] Jerusalem Sabeel Document: Principles for a Just Peace in Palestine-Israel (2004). http://www.sabeel.org (参照 2014-9-30) は、この文脈を理解する上で参考になる文書である。

 

[31] Sizer, Christian Zionism, p.263

 

【追加資料4】Christian Zionism: Road-map to Armageddon? (キリスト教シオニズム:ハルマゲドンへのロードマップ? by ステファン・サイザー)

 

by Stephen Sizer, an author of Christian Zionism: Road-map to Armageddon? (2006) and Zion's Christian Soldiers?: The Bible, Israel and the Church (2008)

 

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John Hagee

 

Christian Zionism may be distinguished by seven basic theological tenets and each of these will now be evaluated in the light of scripture. Not all who identify with Christian Zionism necessarily holds to all seven tenets, or with equal conviction. Nevertheless,these seven provide a summary of what distinguishes Christian Zionism from other movements.

 

 1. An Ultra-Literalist Biblical Hermeneutic(ウルトラ字義主義的聖書解釈)

 

Through his Reference Bible, Scofield popularised an ultra-literal way of reading the Bible in this way:

 

‘Not one instance exists of a ‘spiritual’ or figurative fulfilment of prophecy ... Jerusalem is always Jerusalem, Israel is always Israel, Zion is always Zion ... Prophecies may never be spiritualised, but are always literal.’ 1

 

*管理人註:ディスペンセーション主義の言う「字義的」解釈とはそもそも何であるのかという事に関しての記事のご案内:

 

後篇はココです。

 

Patrick Goodenough of the International Christian Embassy offers a contemporary example of this position.

 

”We simply believe the Bible. And that Bible, which we understand has not been revoked, makes it quite clear that God has given this land as an eternal inheritance to the Jewish people.” 2

 

1.1 Changing Literalism(変遷しつづける「字義主義」)

 

Such literalism is problematic when futurists attempt to keep pace with the dramatic geo-political changes as seen in Eastern Europe and the Soviet Union in the last two decades. Lindsey had insisted in 1981 and again in 1994 that his, by then, apparently contradictory assessments of Russia were, nevertheless, both predicted in the Bible.

 

1980’s Countdown to Armageddon   

Today, the Soviets are without question the strongest power on the face of the earth. Let’s look at recent history to see how the Russians rose to the might predicted for them thousands of years ago.3

 

The Late Great Planet Earth 2000 AD

 ‘We see Russia as no longer a world threat, but a regional power with a world-class military - exactly what Ezekiel 38 and 39 predicted it would be.4

 

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With the gradual demise of Russia as a world power and the disintegration of the Communist bloc, Lindsey began to switch his emphasis from Russian Communism in 1970 to Islam Fundamentalism by 1994.5

 

In The Late Great Planet Earth (1970) the threat comes from ‘The Russian force’.6

 

By 1997 this had become, ‘The Russian-Muslim force’.7 In keeping pace with the changing Middle East scene, by 1999 Lindsey was claiming this axis of evil was now led by a ‘Muslim-Russian alliance.’8

 

1.2  Contradictory Literalism(自己矛盾した字義主義)

 

While dispensationalists claim to use a consistent plain literal interpretation of scripture, at times they nevertheless reach very different, and sometimes contradictory, conclusions. For example, in their interpretation of Revelation 9:13-19, M.R. DeHann and Hal Lindsey contradict one another:

 

M.R. DeHann (1946)

‘In Revelation 9:13-21 we have a description of an army of two hundred million horsemen ...seems to be a supernatural army of horrible beings, probably demons, who are permitted to plague the unrepentant sinners on the earth.’9

 

Hal Lindsey (1973)

‘The four angels of Revelation 9:14-15 will mobilize an army of 200 million soldiers from east of the Euphrates ... I believe these 200 million troops are Red Chinese soldiers accompanied by other Eastern allies.’10

 

For DeHann and also LaHaye, the 200 million are ‘a supernatural horde of 200 million demonic horsemen’11 while for Lindsey and Schuyler English they are literally Chinese soldiers.12

 

Lindsey does, however, suggest their ‘horses’ are symbolic for mobilized ballistic missile launchers.13

 

Each claims his is a ‘literal’ interpretation of the text. William Hendrikson raises several questions about this form of hermeneutics in his own commentary on the book of Revelation:

 

‘Because among the thousands of dates and events and persons in history that show certain traits of resemblance to the symbol in question, who is able to select the one and only date, event or person that was forecast by this particular symbol? Confusion results. We get thousands of“interpretations” but no certainty. And the Apocalypse remains a closed book.’14

 

The fundamental error made here is the refusal to acknowledge how Jesus and the Apostles reinterpreted the Old Testament. For example, Jesus annulled the Levitical food laws.

 

"Don't you see that nothing that enters a man from the outside can make him `unclean'? For it doesn't go into his heart but into his stomach, and then out of his body." (In saying this, Jesus declared all foods "clean.") (Matthew 7:18-19)

 

A vision of unclean food is specifically used by God to help the apostle Peter realise that in Christ there is now no longer any distinction between Jew and Gentile. Both are accepted as equal in the kingdom of God.

 

"Get up, Peter. Kill and eat." "Surely not, Lord!" Peter replied. "I have never eaten anything impure or unclean." The voice spoke to him a second time, "Do not call anything impure that God has made clean." (Acts 10:11-15)

 

Only when Peter encounters Cornelius does he begin to realise the implications of the vision for the way he should now view Jews and Gentiles. “I now realise how true it is that God does not show favouritism but accepts men from every nation who fear him and do what is right.” (Acts 10:34-35).

 

Logically, if God does not show favouritism, the Jews cannot presume to enjoy a favoured or exclusive status. This movement in biblical revelation is explained more fully by the writer to the Hebrews.

 

The Old Testament revelation from God often came in shadow, image and prophecy. In the New Covenant that revelation finds its consummation in reality, substance and fulfilment in Jesus Christ.

 

By calling this covenant "new," he has made the first one obsolete; and what is obsolete and aging will soondisappear. (Hebrews 8:31)

 

The law is only a shadow of the good things that are coming-- not the realities themselves. For this reason it can never, by the same sacrifices repeated endlessly year after year, make perfect those who draw near to worship. (Hebrews 10:1)

 

It is fundamental that Christians read the Scriptures with Christian eyes, and that they interpret the Old Covenant in the light of the New Covenant, not the other way round.

 

In Colossians, for example, Paul uses a typological hermeneutic to explain this.

 

Therefore do not let anyone judge you by what you eat or drink, or with regard to a religious festival, a New Moon celebration or a Sabbath day. These are a shadow of the things that were to come; the reality, however, is found in Christ. (Colossians. 2:16-17)

 

The question is therefore not whether the promises of the old covenant are to be understood literally or allegorically as Christian Zionists like to polarise the issue. It is instead a question of whether they should be understood in terms of Old Covenant shadow or in terms of New Covenant reality.

 

This is the most basic hermeneutical error which Christian Zionists consistently repeat. This is illustrated in the way the Jews are designated by Christian Zionists as God’s ‘chosen people’.

 

2. The Jewish People Remain God’s ‘Chosen People’(ユダヤ人は神の「選民」としてとどまる――J・N・ダービー、スコフィールド、C・ライリー、L・シュペリー・シェイファー等の諸見解)

 

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J・ネルソン・ダービー

 

Arising from their ultra-literal hermeneutic, Darby and Scofield taught that God has two separate peoples. The Church and Israel. Promises made to the Jews may never be applied to the Church, and vice versa.

 

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サイラス・スコフィールド

 

So, Scofield insists, Comparing then, what is said in Scripture concerning Israel and the Church, we find that in origin, calling, promise, worship, principles of conduct and future destiny all is contrast.15

 

In its classical form, Charles Ryrie insists the sine qua non of Dispensationalism to be:

 

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チャールズ・ライリー

 

  1. A dispensationalist keeps Israel and the Church distinct.

  2. This distinction between Israel and the church is born out of a system of hermeneutics that is usually called literal interpretation.16

 

Lewis Sperry Chafer, the founder of Dallas Theological Seminary, today the second largest seminary in the USA, elaborates further on this dichotomy between Israel and the church,

 

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ルイス・シュペリー・シェイファー

 

"The dispensationalist believes that throughout the ages God is pursuing two distinct purposes: one related to the earth with earthly people and earthly objectives involved which is Judaism; while the other is related to heaven with heavenly people and heavenly objectives involved, which is Christianity."17

 

This notion contradicts Jesus own clear and unambiguous statements to the contrary. John the Baptist warned,

 

Produce fruit in keeping with repentance. And do not begin to say to yourselves, `We have Abraham as our father.' For I tell you that out of these stones God can raise up children for Abraham. The axe is already at the root of the trees, and every tree that does not produce good fruit will be cut down and thrown into the fire." (Luke 3:8-9)

 

Similarly Jesus warned, "If you were Abraham's children," said Jesus, "then you would do the things Abraham did... (John 8:39)

 

For this reason Peter warned his Jewish audience soon after the Day of Pentecost that if they persisted in refusing to recognise Jesus as their Messiah, they would cease to be the laos of God,

 

‘Anyone who does not listen to him (Christ) will be completely cut off from among his people.’ (Acts 3:23)

 

 

Jesus and the apostles repudiated the notion that the Jews continued to enjoy a special status or relationship apart from belief in Jesus as their Messiah. Indeed Paul refutes the notion that Jewishness may be defined by race or adherence to Jewish law.

 

“A person is not a Jew who is one only outwardly, nor is circumcision merely outward and physical. No, a person is a Jew who is one inwardly; and circumcision is circumcision of the heart, by the Spirit, not by the written code.” (Romans 2:28-29)

 

Christian Zionists fail to recognise that in the Bible, 'chosenness' becomes progressively universalised, the gift of God's grace in Jesus Christ to all who trust in Him, irrespective of their race.

 

In the New Testament the concept of ‘chosenness’ is applied to those who have or who will believe in Jesus Christ. It is never used exclusively of the Jewish people, apart from as members of the Church.. For example,

 

‘But you are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, a people belonging to God, … Once you were not a people, but now you are the people of God; once you had not received mercy, but now you have received mercy. (1 Peter 2:9-10)

 

The term ‘chosen’ has been invested with new meaning to refer to all who trust in Jesus Christ.

 

3. The Restoration to and Occupation of Eretz Israel(イスラエルの地の回復と占領)

 

In Genesis 15:18 God promised Abraham, "To your descendants I give this land, from the river of Egypt to the great river, the Euphrates.”

 

Since Israel has never occupied all of this land, taking the Bible literally, Christian Zionists believe they will do so. The geographical extent of ‘Eretz Israel’, However, such a view fails to take account of the way the Old Testament itself interprets this promise.

 

Joshua insists, ‘So Joshua took the entire land, just as the Lord had directed Moses.’ (Joshua 11:23). At the end of the book of Joshua, the same assessment is repeated but more emphatically,

 

‘So the Lord gave Israel all the land he had sworn to give their forefathers, and they took possession of it and settled there … Not one of all the Lord’s good promises to the house of Israel failed; every one was fulfilled.’ (Joshua 21:43-45).

 

Zionists fail to recognise that ‘meekness’ rather than ‘chosenness’ was always a precondition of remaining in the land, whereas arrogance or oppression were reasons for exile. “But the meek will inherit the land and enjoy great peace.” (Psalm 37:11) This is reiterated and universalised by Jesus in the Sermon on the Mount

 

“Blessed are the meek, for they will inherit the earth.” (Matthew 5:5).

 

Zionists also invariably ignore the conditional nature of the covenant promises. They were not unconditional. Moses and the Hebrew Prophets repeatedly insist the land belongs to God and residence there is always conditional.

 

For example, The land must not be sold permanently, because the land is mine and you are but aliens and my tenants. (Leviticus 25:23)

 

In Deuteronomy residence in the land is explicitly made conditional on adherence to the Law. Notice the “if” and “because”

 

“If the LORD your God enlarges your territory, as he promised on oath to your forefathers, and gives you the whole land he promised them, because you carefully follow all these laws I command you today--to love the LORD your God and to walk always in his ways...” (Deuteronomy 17:8-9)

 

4. Jerusalem, The Eternal and Exclusive Jewish Capital(エルサレム―恒久にして排他的なユダヤ人の首都)

 

The place and purpose of Jerusalem, or ‘Zion’ as it is sometimes called,18 is deeply felt within Christian Zionism. Lindsey points out that

 

From ages past, Jerusalem has been the most important city on this planet ... More prophecies have been made concerning Jerusalem than any other place on earth.19

 

For example, Zechariah 14 is frequently cited as evidence that one day all the nations of the earth will come to worship God in the Temple in Jerusalem.

 

“I will gather all the nations to Jerusalem to fight against it; the city will be captured, the houses ransacked, and the women raped. Half of the city will go into exile, but the rest of the people will not be taken from the city… Then the survivors from all the nations that have attacked Jerusalem will go up year after year to worship the King, the LORD Almighty, and to celebrate the Feast of Tabernacles.” (Zechariah 14:2, 16)

 

On the basis of this passage the ICEJ holds an annual Feast of Tabernacles celebration drawing followers from many nations and at which successive Israeli Prime Ministers have been guests of honour.

 

 

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The 36th annual Feast of Tabernacles conference and celebration, hosted by the International Christian Embassy Jerusalem (ICEJ) from Sept. 27-Oct, 2015

Jerusalem’s Christian Zionist Super Bowl — JNS.org

 

 

Notice, however, what Zechariah predicted they would do -offer a large number of animal sacrifices each day during the Feast of Tabernacles (See Numbers 28:26-29:39 - bulls, rams and lambs).

 

The New Testament, however, knows nothing of this preoccupation with a nationalistic and materialistic earthly Jerusalem. Instead through faith in Christ we already inhabit the heavenly Jerusalem and look forward to its appearing.

 

But you have come to Mount Zion, to the heavenly Jerusalem, the city of the living God. You have come to thousands upon thousands of angels in joyful assembly, to the church of the firstborn, whose names are written in heaven. (Hebrews 12:22-23)

 

But the Jerusalem that is above is free, and she is our mother (Galatians 4:26)

 

In Galatians 4 Paul criticizes the ‘Jerusalem-dependency’20 of the legalists who were infecting the Church in Galatia. Galatians 4:27 is a quotation from Isaiah 54:1 which referred to the earthly Jerusalem. Paul now interprets the passage to refer to the home of all who believe in Jesus Christ.21

 

Access to heaven no longer has anything to do with the earthly Jerusalem. Jesus had already made this clear to the woman of Samaria.

 

Believe me, woman, a time is coming when you will worship the Father neither on this mountain nor in Jerusalem. 22 … a time is coming and has now come when the true worshipers will worship the Father in spirit and truth…. (John 4:21-23)

 

At his trial Jesus explained why

 

"My kingdom is not of this world. If it were, my servants would fight to prevent my arrest by the Jews. But now my kingdom is from another place. " (John 18:36)

 

Jesus redefines the boundaries of the kingdom of God and thereby the meaning of chosenness. The expansion of the kingdom of God throughout the world requires the exile of the Apostles from the land. They must turn their backs on Jerusalem and their hopes of a materialistic kingdom.

 

They are sent out into the world but never told to return. Subsequent to Pentecost, under the illumination of the Holy Spirit, the Apostles begin to use Old Covenant language concerning the Land in new ways.

 

So for example, Peter speaks of an inheritance which unlike the Land,‘...can never perish, spoil or fade.’ (1 Peter 1:4).

 

There is no evidence that the Apostles believed that their inheritance lie in Palestine, still less that Jerusalem would play a central aspect of God's future purposes for the world.

 

The contradiction between the flow of biblical revelation in the New Testament and the Zionist agenda is nowhere more clearly seen than in the question of the Jewish Temple. This is also the most controversial issue uniting Christian Zionists with the more extreme Jewish Zionists.

 

5. The Rebuilding of the Jewish Temple(ユダヤ神殿の再建――ダニエル9章26-27節のディスペンセーション主義的解釈)

 

Many Christians are convinced that the Jewish Temple will be rebuilt very soon. The most frequently cited passage regarding a future Temple is Daniel 9:26-27.

 

“After the sixty-two `sevens,' the Anointed One will be cut off and will have nothing. The people of the ruler who will come will destroy the city and the sanctuary. The end will come like a flood: War will continue until the end, and desolations have been decreed. 27 He will confirm a covenant with many for one `seven.' In the middle of the`seven' he will put an end to sacrifice and offering. And on a wing of the temple he will set up an abomination that causes desolation, until the end that is decreed is poured out on him.” (Daniel 9:26-27)

 

In order to justify this exegesis it is necessary for dispensationalists to place a two thousand year parenthesis between Daniel 9:26 (the destruction of the Temple) and 9:27 (a subsequent desecration which presumably requires another Temple to be built) - yet something entirely unwarranted in the text.

 

ブログ管理人註:ダニエル書9章24-27節の詳しい釈義についてはこの論考の巻末部分 【補足1】【補足2】【補足3】 をご参照ください。)

 

The conviction that the Jewish Temple must be rebuilt is, ironically, the Achilles' heel of Christian Zionism for it is inevitably also associated with the reintroduction of the Mosaic sacrificial system. The Temple described in Ezekiel assumes the offering of animal sacrifices. Scofield in his Reference Bible claimed that the sacrifices mentioned in Ezekiel 43:19, will be ‘memorial’ offerings.

 

"Doubtless these offerings will be memorial, looking back to the cross, as the offerings under the old covenant were anticipatory, looking forward to the cross. In neither case have animal sacrifices power to put away sin (Heb. 10.4;Rom. 3.25)."22

 

However, the verse explicitly refers to the sacrifice of a ‘young bullock as a sin offering.’ If Scofield appears to fudge the issue suggesting this is only a memorial sacrifice, the New Scofield Reference Bible note on the same verse goes further, undermining the entire hermeneutical premise of Dispensationalism.

 

"The reference to sacrifices is not to be taken literally, in view of the putting away of such offerings, but is rather to be regarded as a presentation of the worship of redeemed Israel, in her own land and in the millennial Temple, using the terms with which the Jews were familiar in Ezekiel’s day." 23

 

If this particular reference to sacrifice in Ezekiel 43 need not be taken ‘literally’ then the ultra-literalist distinction between Israel and the Church collapses, flawed by its own internal inconsistency.24

 

The immediate context for Ezekiel vision of a rebuilt Temple is the promised return of the Jews from Babylonian exile, not some long distant eschatological event. This would have been utterly meaningless to the exiles longing to return to Israel.

 

In the New Testament the Temple is used as a vivid metaphor for Jesus Christ, for the individual Christian and corporately the Church as the Body of Christ and dwelling place of the Holy Spirit.25

 

This is precisely what Jesus predicted in John 2 and 4.

 

“Jesus answered them, "Destroy this temple, and I will raise it again in three days." The Jews replied, "It has taken fortysix years to build this temple, and you are going to raise it in three days?" But the temple he had spoken of was his body.” (John 2:19-21)

 

While Jesus warned of the destruction of the Temple, he never promised that it would ever be rebuilt.26

 

Indeed, in the Book of Hebrews, the writer describes the offering of sacrifices between the death of Christ and the destruction of the Temple as an ‘illustration’ of, and ‘copies’ of, heavenly realities, a ‘reminder of sins’ but unable, unlike the finished work of Christ, to take sin away.

 

There is in fact not a single verse in the New Testament which promises that a Jewish Temple would be rebuilt, that a 2000 year ‘parenthesis’ should be placed between references to its desecration and destruction, or indeed that the Temple in Jerusalem would play any part in God’s purposes after the cross. Christian Zionists must therefore ignore the way in which the

 

Temple is invested with new meaning in the New Testament and becomes instead an image of the Church.

 

For example, Paul, in writing to the Church in Ephesus, describes them as part of the new living Temple.

 

Consequently, you are … members of God's household, built on the foundation of the apostles and prophets, with Christ Jesus himself as the chief cornerstone. In him the whole building is joined together and rises to become a holy temple in the Lord. (Ephesians 2:19-21)

 

Peter uses the same terminology to describe the way Christians are being made into the new house of God,28 in which Jesus is the‘precious cornerstone’.

 

you also, like living stones, are being built into a spiritual house to be a holy priesthood, offering spiritual sacrifices acceptable to God through Jesus Christ. (1 Peter 2:5)

 

Similarly, in his letter to the Corinthians, Paul takes a quote from Isaiah 52:11, referring to the Temple, and instead applies it to the Church.

 

“For we are the temple of the living God. As God has said: "I will live with them and walk among them, and I will be their God, and they will be my people. ‘Therefore come out from them and be separate, says the Lord. Touch no unclean thing, and I will receive you.’” (2 Corinthians 6:16-7)

 

The movement in the progressive revelation of Scripture is always from the lesser to the greater. It is never reversed. The New Testament repeatedly sees such Old Testament concepts as the Temple, High Priest and sacrifice as ‘types’ pointing to and fulfilled in Jesus Christ.30

 

Christians who therefore advocate the rebuilding of the Temple are regressing into a pre-Christian sacrificial system, superseded, made redundant and annulled by the finished work of Jesus Christ.

 

The Temple was only a temporary edifice, a shadow and type anticipating the day when God would dwell with people of all nations through the atoning work of the true Temple, Jesus Christ.31

 

By insisting on such an arbitrary and dualistic separation between God’s purposes for the Jews and those of the Church, Christian Zionists are promoting Old Testament ‘shadows’ alongside their New Testament ‘substance’.32

 

In doing so they are seeking to revive what is now obsolete. Turning the clock back in redemptive history33 they are Judaizing the Christian faith.34

 

It is not surprising perhaps that Christian support for Jewish sovereignty over the Temple Mount, attempts to destroy the Dome of the Rock and rebuild the Jewish Temple, inflames tensions between Jews and Arabs, Christian and Moslem.

 

この章に関連する講義(by K・リドルバーガー師):

09 "Christ: The True Temple" (「キリストこそがまことの神殿」MP3)

 

 

6. Antipathy Toward Arabs and Palestinians(アラブ人やパレスティナ人に対する反感)

 

Christian Zionists, while lovers of Israel, rarely show the same feelings toward Arabs and Palestinians. Anti-Arab prejudices and Orientalist stereotypes are common in their writings.35

 

Comparisons between Hitler and the Arabs are common.36 Hal Lindsey, the most prolific Christian Zionist writer, insists,

 

 

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"Long ago the psalmist predicted the final mad attempt of the confederated Arab armies to destroy the nation of Israel... The Palestinians are determined to trouble the world until they repossess what they feel is their land. The Arab nations consider it a matter of racial honour to destroy the State of Israel. Islam considers it a sacred mission of religious honour to recapture Old Jerusalem." 37

 

While the United Nations is invariably viewed with mistrust, the two nations of America and Israel, like Siamese twins, are perceived to be pitted against an evil world dominated by Islam,38

 

in which people like Saddam Hussein are seen as contenders for the role of Anti-Christ.39 Attempts are even made to find a strategic role for America in Biblical prophecy. Mike Evan’s is only the latest in a series of Christian Zionists to make this claim. This is part of the review on Amazon’s website:

 

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マイク・エヴァンズ(左)

 

"How is America tied into ancient biblical prophecies? According to author Michael Evans, … biblical prophets already predicted that America is doomed to collapse unless its government stops accommodating the Arab world for the sake of oil and instead offers full military and diplomatic support to Israel.

 

"He believes that God wants Israel to have full control of the West Bank and Gaza, and Americans are risking God's wrath by not fully supporting this biblical mandate.

 

"Evans also theorizes that much of America's problems--including the attack of 9-11--are indications of God's fury over America's split allegiance between the two famous descendents of Abraham: Ishmael and Isaac… Evans uses 17 chapters to weave in interpretations of scripture that support his theory that America faces a mammoth choice--ruin or salvation."40

 

Regrettably this kind of speculation, common among Christian Zionist writers who demonise Arabs, regard Palestinians as 'aliens' and deny them the basic right to self determination, is difficult to square with the a New Testament ethic. The followers of Jesus Christ are called to be peace makers41, to love their enemies and seek reconciliation.42

 

In the parable of the Good Samaritan Jesus insists we may no longer regard people on the basis of their race but their need. The New Testament ethic is one that call us to reach out to the widow and orphan, the poor the sick and the stranger, through a ministry of reconciliation, irrespective of their race.43

 

Tragically, many Christian Zionists, it seems, are more concerned with fighting wars than building peace.

 

7. Anxious for Armageddon(アルマゲドンへの切望)

 

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Hal Lindsey, Armageddon: King of the South - Report This Week, 2017 (YouTube)

 

 

In the history of Christian theology, speculation concerning the interpretation of Revelation 20:1-10 and the meaning of the millennium has led theologians to suggest three main alternatives:44

 

Amillennialism teaches that the millennium is symbolic, or already ‘realised’45 and refers to heaven where departed souls reign with Christ (Augustine, Luther, Calvin,Berkhof).

 

Postmillennialism teaches a literal or symbolic period of a thousand years in which the Church triumphs over evil before Christ returns (George Whitefield, Jonathan Edwards).

 

Premillennialism teaches that Christ will return to save the Church from evil and then reign for a literal thousand years on earth (Darby, Scofield, Chafer, Ryrie).

 

The 1967 ‘Six Day War’ marked a significant watershed for Christian interest in Israel and Zionism and the decades leading up to the new Millennium saw a heightened interest in a pessimistic form of Premillennialism popularized by best selling authors such as Hal Lindsey’s Late Great Planet Earth and Tim LaHaye’s Left Behind series.

 

For example, Lindsey insists,

 

And look what’s happening in the Middle East - ground zero in the endtimes events.... This phoney peace deal in the Middle East thus only ensures that eventually there will be a thermonuclear holocaust in the Middle East... This seems to parallel predictions in Revelation and else where almost to a T. Mark my words. It will happen.’46

 

Lindsey's last but one book, The Final Battle, includes the following,

 

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Never before, in one book, has there been such a complete and detailed look at the events leading up to 'The Battle of Armageddon.'47

 

Lindsey, along with people like Jack Van Impe offer graphic maps showing future military movements of American, Russian, Chinese and African armies and naval convoys which they claim will contend with one another in the battle of Armageddon.48

 

A Critique of Christian Zionist Theology(キリスト教シオニズム神学に対する批評)

 

In this brief survey we have explored seven basic tenets of Christian Zionism. An ultra-literalist hermeneutic, the belief that the Jews remain God’s chosen people, the restoration of Jews to Eretz Israel will continue, Jerusalem will be the eternal and exclusive capital of the Jews, the Temple will be rebuilt, the priesthood consecrated and sacrifices reinstituted. Arabs and Palestinians are seen as the enemies of Israel in what is about to become the battle of Armageddon.

 

By contrast, in the New Testament, followers of Jesus Christ are called to be ‘peacemakers’ – indeed it is peacemaking that Jesus insists identifies the authenticity of those who claim to be his followers.

 

“Blessed are the peacemakers, for they will be called children of God.” (Matthew 5:9).

 

The apostle Paul elaborates on this radical yet intrinsic role of Christ-followers in 2 Corinthians 5:

 

“So from now on we regard no-one from a worldly point of view. Though we once regarded Christ in this way, we do so no longer. Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new has come! All this is from God, who reconciled us to himself through Christ and gave us the ministry of reconciliation: that God was reconciling the world to himself in Christ, not counting men's sins against them. And he has committed to us the message of reconciliation. We are therefore Christ's ambassadors, as though God were making his appeal through us. We implore you on Christ's behalf: Be reconciled to God.” (2 Corinthians 5:16-20)

 

We are to repudiate worldly criteria that distinguishes and categorises people on the basis of wealth, race, colour or creed. God is not willing that any should perish.

 

“The Lord is not slow in keeping his promise, as some understand slowness. He is patient with you, not wanting anyone to perish, but everyone to come to repentance.” (2Peter 3:9)

 

The vision of the future found in the Book of Revelation is ultimately a message of hope not despair. We see in the closing chapters, God’s dream not his nightmare.

 

 “And I heard a loud voice from the throne saying, "God’s dwelling place is now among the people, and he will live with them. They will be his people, and God himself will be with them and be their God. He will wipe every tear from their eyes. There will be no more death or mourning or crying or pain, for the old order of things has passed away." (Revelation 21:3-4)

 

The closing chapter of the New Testament takes us back to the imagery of the Garden of Eden and the removal of the curse arising from the Fall.

 

“Then the angel showed me the river of the water of life, as clear as crystal, flowing from the throne of God and of the Lamb… On each side of the river stood the tree of life, bearing twelve crops of fruit, yielding its fruit every month. And the leaves of the tree are for the healing of the nations.” (Revelation 22:1-2)

 

Surely this is what Jesus had in mind when he instructed his followers to work and pray that God’s kingdom would come on earth as it is in heaven.

 

  1. C.I. Scofield, Scofield Bible Correspondence Course, (Chicago, Moody Bible Institute,n.d.), pp45-46.
  1. Kathy Kern, ‘Blessing Israel? Christian Embassy Responds’ Christian PeacemakersTeam, Internet:menno.org.cpt.news@MennoLink.org 2 November 1997.Y

3.Lindsey, 1980’s, op.cit., p68.

4.Lindsey, Planet, p216.

  1. Lindsey, Chapter 1 of The Final Battle, (Palos Verdes, California, Western Front,

1995), is entitled ‘The New Islamic Global Threat’, p1.

  1. Lindsey, Late, op.cit., p160.

7.Lindsey, Apocalypse, op.cit., p153.

  1. Lindsey, Briefing, op.cit., 7th January (1999).

9 M. R. DeHann, Revelation, 35 Simple Studies in the Major Themes of Revelation,

(Grand Rapids, Zondervan, 1946), p148.

  1. Lindsey, There’s, op.cit., pp142-143.
  2. Tim LaHaye & Jerry B. Jenkins, Are We Living in the End Times?, (Wheaton, Tyndale House, 1999), pp190-192.
  3. Schuyler English, New, op.cit., p1334.

13 Lindsey, There’s, op.cit., p143.

14 William Hendrikson, More than Conquerors, (London, Inter-Varsity, 1962). p40-41.

15.C. I. Scofield, Scofield Bible Correspondence Course, 19th edn. (Chicago, Moody Bible

Institute), p. 23.

16.Ryrie, Dispensationalism., pp. 39-40.

17.Lewis Sperry Chafer, Dispensationalism (Dallas, Seminary Press, 1936), p. 107.

  1. Zion more specifically refers to the hill on the western edge of the Old City of Jerusalem.
  2. Lindsey, Israel, op.cit., p20.

20.Peter Walker, Jesus and the Holy City (Grand Rapids: Eerdmans, 1996), p. 129.

21.Walker, Jesus., p. 131.

22.C.I. Scofield, Scofield Reference Bible (New York, Oxford University Press, 1945), p.

890.

  1. The New Scofield Reference Bible ed. E. Schuyler English (New York, Oxford University Press, 1967), p. 864.

24.Cornelis P. Venema, The Promise of the Future (Edinburgh, Banner of Truth, 2000), p.285

25.1 Corinthians 3:16-17; 2 Corinthians 6:16; Ephesians 2:21; 1 Corinthians 6:19.

26.John 2:19, Mark 26:61, 27:40; Mark 14:58, 15:29.

27 Hebrews 9:9, 23, 10:1-3, 11.

28 1 Peter 2:5.

29 1 Peter 2:7.

  1. John 1:14; 2:19-22; Colossians 2:9.
  2. John 1:14.
  3. Colossians 2:16-17; Hebrews 10:1, 5.
  4. Venema, Promise., p. 288.
  5. Galatians 3:1-5; 3:13-16; Hebrews 8:13; .
  6. Edward Said, Orientalism (New York, Vintage, 1978)
  7. Jan Willem van der Hoeven, Babylon or Jerusalem? (Shippensburg, Pasadena, Destiny Image Publishers, 1993), pp. 132-133.
  8. Lindsey, Israel and the Last Days (Eugene, Oregon, Harvest House, 1983), pp. 38-39.
  9. Merrill Simon, Jerry Falwell and the Jews (Middle Village, New York, Jonathan David,1984), pp. 63-64, 71-72.
  10. Charles Dyer, The Rise of Babylon (Wheaton: Tyndale, 1991)
  11. www.Amazon.com http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/044652252X/103-2116324-4283859

41.Matthew 5:9.

42.Matthew 5:44.

43.2 Corinthians 5:16-20.

  1. Stanley J. Grenz, The Millennial Maze, Sorting out Evangelical Options, (Downers Grove, InterVarsity Press, 1992); Robert G. Clouse, ed., The Meaning of the Millennium, (Downers Grove, InterVarsity, 1977); Cornelis P. Venema, The Promise of the Future, (Edinburgh, Banner of Truth, 2000), pp189-362.
  2. Ibid., p235.
  3. Lindsey, Planet., pp. 243-244.
  4. Hal Lindsey, The Final Battle (Palos Verdes, California, Western Front, 1995), front cover.?
  1. Hal Lindsey, The Late Great Planet Earth (London, Lakeland, 1970), p. 155; Louis Goldberg, Turbulence Over the Middle East (Neptune, New Jersey, Loizeaux Brothers, 1982), p.172.

 


 

【補足1】【歴史的プレミレ】「ダニエル9章24-27節の釈義」(by ジョージ・ラッド)【和訳】

 

ジョージ・ラッド著『終末論』第6章 「反キリストと大患難」より一部抜粋

 

・・・さて、ダニエル書を離れる前に、反キリストに関し、ディスペンセーション主義の神学で特に愛好されている箇所のひとつを吟味すべきである。これはダニエル書9章24-27節の有名な箇所で、重要なのは27節である。

 

 

24あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。

25 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。

26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。

27 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。

 

この箇所は、ディスペンセーション主義者によって、反キリストとイスラエルとの関係の観点から解釈されている。ひとつの国民としてパレスチナに帰還したイスラエルが神殿を再建し、いけにえの制度を再興することが当然のことと思われている。反キリストは、最後の7年間(1週は7年であると考えられる)にイスラエルと契約を結ぶ。しかし、その7年間の半ばに反キリストは契約を破り、エルサレムのいけにえとささげ物とをやめさせ、ユダヤ人に対しひどい迫害を始める。

 

ディスペンセーション主義による解釈をほどこされたこの箇所は、ディスペンセーション主義の終末論の体系の基礎を成している。

 

しかしながら、この解釈が正しいものであるかどうかは、全く明らかになっていない。福音主義に立つ学者の多くは、そのことばの解釈として、終末論的な解釈よりも、メシヤ的な解釈の方が適切であると理解している。

 

それは神の贖いの目的を明らかにしている。すなわち、「そむきをやめさせ」とは、いかなる悪しきものもないかのように、罪を封印し捨てさせること、「罪を終わらせ、咎を贖い」とは、十字架上のイエスの死であり、「永遠の義をもたらし」とは、御子の死を通して与えられる神の賜物としての義であり、「幻と預言とを確証し」とは、イエスが旧約聖書の時代に終わりをもたらしたことであり、「至聖所に油をそそぐ」とは、すなわち、神の御霊によるメシヤに対する油注ぎなのである。

 

26節において、油注がれた者が断たれることは、キリストの死と、キリストが全く拒絶されることへの言及である、と理解すべきあらゆる理由が存在する。続いて、メシヤの死の時点における、町の運命が記されている。

 

「やがて来たるべき君主の民が、町と聖所を破壊する」は、おそらく後にローマ皇帝となるティトゥス・ウェスパシアヌスによる、紀元70年のエルサレムと、その神殿の完全な破壊への言及である。その破壊の「終わりには」、戦争と荒廃が続く。

 

「彼は1週の間、多くの者と堅い契約を結び」という27節のことばは、主語が明らかではない。ディスペンセーション主義者は、主語を反キリストと見ている。しかしながら、ヘブル語本文のことばは、契約を意味する通常のことばではない。

 

字義どおりに翻訳して、「彼はその契約を実効性あるものとする」と読むべきである。メシヤ的解釈では、主語を、その契約を確かなものとし実現するキリスト、と見る。

 

その結果、その合意と条件は、今やより実効性あるものとされる。これは、アブラハムと交わされた契約を成就する、イエスの血による契約である(ガラテヤ3:17)。

 

キリストの死によって、キリストは「いけにえとささげ物をやめさせる。」キリストの死は、ユダヤ人のいけにえ制度に終わりをもたらした(ヘブル8:13を見よ)。

 

メシヤの死の結末また結果として、荒らす者(ローマの君主、ティトゥス)が憎むべきものの翼の上に現れる。その「翼」とは神殿の頂である(ルカ4:9)。

 

幕が真っ二つに裂ける(マルコ15:38)ことに続き、神殿それ自体は、神の計画の中でいかなる場所ももちえず(ヘブル10:8-18)、主にとっては忌まわしく、受け入れがたいものとなる。

 

このことばにより、神殿の完全な破壊は前兆となっている。この破壊の状態は、神に定められた終わり、すなわち「絶滅」が荒廃(神殿とエルサレムの荒廃)の上にふりそそぐまで続く。

 

ー以上、抜粋おわりー

 

*Sam Storms著『Kingdom Come』では、第3章、第4章に渡り、ダニエル書9章「70週」の非常に詳しい釈義がなされています。(それから次の記事も参照:Sam Storms: Oklahoma City, OK > Daniel's 70 Weeks)また、サム・ストーム師の証し「なぜ終末論に関する私の見解に変化が起こったのか」(日本語訳)をお読みになりたい方は、ココをクリックしてください。

 

 

【補足2】【アミレ】Daniel’s Prophecy of the Seventy Weeks(ダニエル9章24-27節の70週の釈義) by K. Riddlebarger【英文】

 

 

 

K.Riddlebarger, A Case for Amillennialism: Understanding the End Times, ch.13より抜粋

(MP3での講義をお聴きになりたい方は:23 "The Seventy Weeks of Daniel" MP3をクリックしてください。)

 

Sermon # 1:  Daniel 9:1-19 "To the Lord Our God Belong Mercy and Forgiveness"

Sermon # 2:  Daniel 9:20-27 "Seventy Weeks"

Sermon # 3:  Daniel 9:24-27 "A Strong Covenant"

Chart # 1:  Daniel's Seventy Weeks

Chart # 2:  Daniel's Seventy Weeks Fulfilled

 

In part 2, we established a biblical and theological framework to interpret various passages of Scripture that speak about a millennial age.

 

In each instance, we traced a particular eschatological theme throughout the history of God’s self-revelation in the Scriptures, and we glimpsed the whole panorama of redemption from Genesis to Revelation.

 

This enabled us to evaluate our own presuppositions in light of the broader history of revelation as well as to identify how various themes are developed in the unfolding drama of redemption. We have been repeatedly reminded that the central figure in redemptive history and eschatology is none other than Jesus Christ.

 

With these redemptive-historical themes running throughout the entire Scriptures, we are in a position to look at the amillennial understanding of the specific passages that are most important in determining one’s millennial views: Daniel 9:24–27; the Olivet Discourse (Matt. 24, Mark 13, Luke 21); Romans 11; and Revelation 20.

 

The dispensational interpretation of Daniel 9:24–27 is one of the pillars of their entire system. From this passage, dispensationalists develop their doctrine of a future seven-year tribulation period, which commences when the Antichrist signs a peace treaty with the nation of Israel about the time of the secret rapture.

 

Dispensationalists use this section of Daniel to set out what they perceive to be the future course of Israel’s history and God’s dealings with the Gentile nations. They teach that a “great parenthesis,” also known as the church age, results from the supposed gap between the sixty-ninth and the seventieth week of this prophecy.

 

Dispensationalists candidly admit that in the seventy-weeks prophecy, “we have the indispensable chronological key to all New Testament prophecy.”

 

This passage provides Christians with the interpretive grid to make sense of the Olivet Discourse and the greater part of Revelation.[1] Take away their interpretation of Daniel 9:24–27, and dispensationalism collapses.

 

The dispensational interpretation of Daniel 9 illustrates the fact that dispensationalists read the New Testament in light of the Old Testament, instead of vice versa.

 

Sadly, this prevents them from seeing the passage for what it is, a great messianic prophecy that was fulfilled in the life and ministry of Jesus Christ. The passage reads as follows:

 

"Seventy “sevens” are decreed for your people and your holy city to finish transgression, to put an end to sin, to atone for wickedness, to bring in everlasting righteousness, to seal up vision and prophecy and to anoint the most holy.

 

Know and understand this: From the issuing of the decree to restore and rebuild Jerusalem until the Anointed One, the ruler, comes, there will be seven “sevens,” and sixty-two “sevens.”

 

It will be rebuilt with streets and a trench, but in times of trouble. After the sixty-two “sevens,” the Anointed One will be cut off and will have nothing. The people of the ruler who will come will destroy the city and the sanctuary.

 

The end will come like a flood: War will continue until the end, and desolations have been decreed. He will confirm a covenant with many for one “seven.” In the middle of the “seven” he will put an end to sacrifice and offering. And on a wing of the temple he will set up an abomination that causes desolation, until the end that is decreed is poured out on him."(Dan. 9:24–27)

 

Daniel’s Prayer(ダニエルの祈り)

 

To understand the passage correctly, we must see it in its context. In Daniel 9:1–19, Daniel prayed for God to restore Jerusalem and the temple. The background is found in Jeremiah 25:11–14, where Jeremiah prophesied that Israel would serve the king of Babylon for seventy years until Babylon fell at the hands of her enemies and became a desolate wasteland.

 

When the angel Gabriel answered Daniel’s prayer in verses 20–27, Jeremiah’s prophecy had run its course, and the promise of restoration was about to be fulfilled. The theme of both Daniel’s prayer and Gabriel’s answer was YHWH’s covenant with Israel, especially that God would bring to pass everything he had promised.

 

Daniel invoked God’s covenant mercies: “O Lord, the great and awesome God, who keeps his covenant of love with all who love him and obey his commands” (v. 4). Gabriel’s answer pointed toward that time when God would not only restore his people but also consummate the covenant he had given Israel through Moses.[2]

 

As Meredith Kline points out, what is striking about Daniel’s prayer in verses 1–19 is the repeated use of the covenant name of God (YHWH) along with the repeated use of adonay, the “characteristic designation of the dominant party in the covenant.” Daniel’s prayer also included the fact that Israel had repeatedly broken God’s covenant, and the covenant must be renewed.[3]

 

There is always much discussion about this prophecy given the cryptic use of “seventy weeks” or “seventy sevens” as the time frame in which the prophecy is to be fulfilled.

 

Again, the key here is to look for other biblical-theological images that lend us help in interpretation. Since the entire prophecy was couched in covenantal imagery and language, the key to the meaning of the “sevens” is found in the sabbatical pattern established in Leviticus 25:1–4:

 

“The LORD said to Moses on Mount Sinai, ‘Speak to the Israelites and say to them, “When you enter the land I am going to give you, the land itself must observe a sabbath to the LORD. For six years sow your fields. . . . But in the seventh year the land is to have a sabbath of rest.”’”

 

In Daniel’s prophecy, the first of the sevens (v. 25) comprises seven sabbatical years (forty-nine years total), which constitutes the jubilee (Lev. 25:8), in which the “seven sabbaths of years amount to a period of forty-nine years.”

 

This, in turn, preceded the fiftieth year, in which liberty was to be proclaimed “throughout the land to all of its inhabitants” (v. 10). The total period of seventy sevens in Daniel 9:24–27, therefore, constitutes ten jubilee eras, with the emphasis falling on the ultimate jubilee yet to come after 490 years had passed.[4] In other words, the messianic age.

 

Covenental Context for the Seventy Weeks(70週の契約主義的文脈)

 

This certainly points us in the direction of Leviticus 25 and 26 as underlying Gabriel’s prophecy in Daniel 9:20–27. For one thing, a covenantal pattern was clearly present, as seen in the covenantal use of the divine name as well as the covenant renewal and Sabbath language. For another, Daniel 9:24–27 followed the covenant administration pattern set out in Leviticus 26.

 

Not only was the seventy-weeks structure built on the sabbath-jubilee pattern of Leviticus 25, but “Daniel 9 as a whole follows the covenant administration pattern of Leviticus 26. The prayer (vv. 4ff.) corresponds to the . . . confession of Leviticus 26:40, and the prophecy corresponds to the covenant restitution and renewal of Leviticus 26:24ff.”[5] Too often, this important context is overlooked.

 

We should consider another important redemptive-historical connection as well.

 

In Leviticus 26:43, the Lord declared that a time was coming when “the land will be deserted by them [the Israelites] and will enjoy its sabbaths while it lies desolate without them.” The covenant curses would be meted out when God’s people fell into unbelief. But later we read of this sabbatical rest for the land from the vantage point of fulfillment.

 

Looking back, the chronicler wrote, “The land enjoyed its sabbath rests; all the time of its desolation it rested, until the seventy years were completed in fulfillment of the word of the LORD spoken by Jeremiah” (2 Chron. 36:21).

 

When in the next verse the author stated, “In the first year of Cyrus king of Persia” (v. 22), it is clear that Israel’s exile was now over, and the prophesied time of redemption had begun. Isaiah described the same event when he spoke of Cyrus, who would say of Jerusalem, “Let it be rebuilt” (Isa. 44:28).

 

In the same year that Cyrus issued his decree for Jerusalem to be rebuilt, Gabriel appeared to Daniel, indicating that Jeremiah’s seventy years had concluded and that a new seventy weeks would begin.

 

At the conclusion of this seventy weeks, beginning with the decree of Cyrus, would come the Anointed One, Israel’s Messiah. His mission would be to “establish the new and everlasting covenant announced as the goal of the seventy weeks in the opening verse of the prophecy. In the course of His mission, He must undergo the violence of death, suffering on behalf of the ‘many.’”[6]

 

This idea is also found in Isaiah’s prophecy when Isaiah spoke of the Messiah as the one who would come preaching: “The Spirit of the Sovereign LORD is on me, because the LORD has anointed me to preach good news to the poor. He has sent me to bind up the brokenhearted, to proclaim freedom for the captives and release from darkness for the prisoners” (Isa. 61:1).

 

But it is verse 2 of Isaiah 61 that catches our attention, tying all this together. Isaiah said that the Anointed One’s mission would be to “proclaim the year of the LORD’s favor and the day of vengeance of our God.”

 

The Messiah would deliver the captives and proclaim that the ultimate jubilee to which the 490 years had pointed had at long last come to fruition. Behind the Anointed One of Daniel 9:24–27 is Isaiah’s suffering servant, who must be “cut off from the land of the living” so that many might be justified (cf. Isa. 53:8–11).

 

Cyrus had issued his decree, and now Gabriel told Daniel in answer to his prayers that the new set of sabbatical years was about to begin. This time, however, the goal was the realization of all the covenant blessings of the ultimate jubilee.

 

Therefore, when we read of a covenant in verse 27, Kline reminds us “there should be no doubt as to its identity.”[7]

 

Dispensationalists insist that the subject of verse 27, “He will confirm a covenant with many for one seven,” must refer back to the preceding he, that is, the ruler who would destroy the city and the sanctuary (v. 26). They, however, are in error, confusing the identity of the covenant maker, who is cut off for his people, with the Roman prince, i.e., antichrist.[8]

 

In order to make this fit into their interpretive scheme, dispensationalists insist that the Messiah is cut off after the sixty-two sevens. An indeterminate gap of time comes between the end of the sixty-nine sevens and the seventieth seven, they say, when the one who confirms a covenant with many (Israel) arrives on the scene to do his dastardly deed.

 

The insertion of a gap of at least two thousand years between the sixty-ninth and the seventieth week is a self-contradictory violation of the dispensationalist’s professed literal hermeneutic.

 

Where is the gap found in the text? Dispensationalists must insert it. The failure to acknowledge the obvious covenantal context of the messianic covenant maker of verse 27, who confirms a covenant with many, leads dispensationalists to confuse Christ with antichrist. A more serious interpretive error is hard to imagine.[9]

 

The failure of dispensationalists to see that the Messiah is spoken of in verse 27, not antichrist, stems from a serious interpretive error already made in verse 24 regarding what will be accomplished by the completion of the 490 years.

 

In verse 24, we read, “Seventy ‘sevens’ are decreed for your people and your holy city to finish transgression, to put an end to sin, to atone for wickedness, to bring in everlasting righteousness, to seal up vision and prophecy and to anoint the most holy.” These things must be completed during the 490 years so that the blessings will apply to God’s people long after the prophecy is fulfilled.[10]

 

These are blessings enjoyed by God’s people during the ultimate jubilee to follow.

 

A Messianic Prophecy(メシア的預言)

 

Many Christians will quickly recognize that Daniel spoke prophetically of the active and passive obedience of Christ, or as Edward Young categorizes them, the “positive and negative” aspects of the Messiah’s work.[11] Christ’s death—his so-called passive obedience—“finished transgressions” in the sense of breaking sin’s power over God’s people (Rom. 6:1–2, 14), taking away sin’s condemnation (5:12–19; 6:23), and atoning “for wickedness” (3:21–26).

 

Through these acts, Jesus Christ took away all the consequences of the curse.[12] Christ’s active obedience can be seen here in reference to our Lord’s threefold office of prophet, priest, and king—“to bring in everlasting righteousness” (v. 24), which Christ did through his perfect obedience as the final priest (Rom. 5:19); “to seal up vision and prophecy,” which he did in his prophetic office, as Peter declared Jesus to be the greater prophet of whom Moses had spoken (Deut. 18:15–16; Acts 3:22); and then finally “to anoint the most holy,” most likely a reference to the anointing of the Messiah (Isa. 61:1; Matt. 3:16–17).

 

These things, notes Young, “are all messianic. . . . The termination of the 70 sevens coincides then, not with the time of Antiochus, nor with the end of the present age, the second Advent of our Lord, but with his first Advent.”[13]

 

The failure on the part of dispensationalists to see this, since they regard this passage as referring only to national Israel, not only leads to an error regarding their understanding of the future course of history but also can lead to a serious error in one’s understanding of the doctrine of justification.

 

Sadly, this can be seen when Alva McClain writes, “The fulfillment of the tremendous events in verse 24 cannot be found anywhere in known history.” After all, says McClain, this prophecy has nothing to do with the church but with Israel.[14]

 

By reading this passage through the dispensational lens, namely, that Daniel was speaking of national Israel, not Jesus Christ, dispensationalists stumble badly in their interpretation of verse 27.

 

They do not see covenant as an overarching redemptive-historical grid. Having inserted a gap between verse 26 and 27, because it is demanded by their hermeneutical presuppositions, they miss the obvious meaning.

 

“The whole context speaks against the supposition that an altogether different covenant from the divine covenant which is the central theme throughout Daniel 9 is abruptly introduced here at the climax of it all.”[15]

 

Indeed, the language throughout Daniel thoroughly supports the identification of the one who makes a covenant with the many as none other than Jesus himself.

 

Not only did verse 25 give us a list of messianic and redemptive accomplishments associated with the coming one, but in verse 26, we read that the Anointed One will be cut off. Daniel used the verb karat, which was often used to describe the cutting ritual associated with the ratifications of covenants. This connects the “cutting off” of verse 26 with the confirming of a covenant in verse 27.

 

The angel informed Daniel of this so that the disturbing cutting off of the Anointed One (v. 26) did not mean the ultimate failure of his mission. The words in verse 27 informed Daniel that the one who would be cut off nevertheless would make a covenant in the middle of the seventieth week of the prophecy.[16]

 

Daniel could not have understood what these words entailed to New Testament writers centuries later: “While we were yet sinners, Christ died for us” (Rom. 5:8).

 

The Confirmation of the Covenant(契約の確証)

 

It is significant that in verse 27 the angel Gabriel informed Daniel that the Anointed One would “confirm” a covenant with many. The usual verb used for the making of a covenant, karat, was found in verse 26. But in verse 27, the verb gabar was used instead, which means to “make strong, cause to prevail.”[17]

 

The use of this word is another serious blow to the dispensational interpretation that verse 27 refers to antichrist and an entirely different covenant from that implied by the use of karat in verse 26.

 

The use of gabar illustrated that the covenant being “made strong” or “prevailing” in verse 27 meant that the covenant in verse 27 was not being made de novo but was a covenant being confirmed or enforced. In other words, the covenant being confirmed in the middle of the seventieth week by the Anointed One was a covenant that already existed.

 

This is a reference to the covenant of grace that God had previously made with Abraham and now was confirmed by the Messiah on behalf of many (those redeemed by the suffering servant in Isa. 53:12).

 

This would entail all the blessings promised in verse 24, blessings ultimately secured by the shed blood and perfect righteousness of Jesus Christ. It also meant that there was no gap between the sixty-ninth and the seventieth week, as dispensationalists argue. This interpretation of verse 27 raises two immediate questions.

 

First, if Christ would be cut off in the middle of the seventieth week, what would happen to the last part (three and a half years) of the final seven-year sabbatical period before the jubilee?

 

Here again, we can see how the New Testament writers interpreted the Old Testament. In this case, we find the answer in Revelation 12:14, where John reinterpreted this three and a half years in Daniel as “a time, times and half a time.” As Meredith Kline points out:

 

 

"The last week is the age of the church in the wilderness of the nations for a time, a times, and half a time (Rev. 12:14). Since the seventy weeks are ten jubilee eras that issue in the last jubilee, the seventieth week closes with angelic trumpeting of the earth’s redemption and the glorious liberty of the children of God. The acceptable year of the Lord which came with Christ will then have fully come. Then the new Jerusalem whose temple is the Lord and the Lamb will descend from heaven (Rev. 21:10, 22) and the ark of the covenant will be seen (Rev. 11:19), the covenant the Lamb has made to prevail and the Lord has remembered."[18]

 

 

Therefore, Christ confirmed the covenant God made, namely, that he is our God, and we are his people. Although he has wrought the blessings of the jubilee, including forgiveness of sins and everlasting righteousness, what Christ accomplished remains yet to be consummated.

 

The final three and a half years of the seventieth week, as interpreted by John, are symbolic of the church on earth during the entire time of its existence. It also is a reference to the tribulation depicted in Daniel.[19] This is a powerful argument in favor of the amillennial interpretation.

 

The final question has to do with two clauses in verse 27, “In the middle of the ‘seven’ he will put an end to sacrifice and offering. And on a wing of the temple he will set up an abomination that causes desolation, until the end that is decreed is poured out on him.” How can an end of sacrifice be fulfilled by the death of Jesus, since Jewish sacrifices continued after Christ’s crucifixion until the temple was destroyed in AD 70?

 

Several things can be said in response to this. For one thing, the author of Hebrews taught that Christ’s death put an end to sacrifices in a religious sense. In Hebrews 9:26, we read that Christ appeared “at the end of the ages to do away with sin by the sacrifice of himself” (cf. also Heb. 7:11; 10:8–9).

 

Once Christ ratified God’s covenant on Calvary, the sacrifices that continued in the temple were an abomination to God. When Christ was cut off from his own, the temple veil was torn from top to bottom. From that moment forward, the temple became desolate, and acceptable sacrifices ceased. The events that transpired in AD 70 with the Roman assault on Jerusalem and its temple were now assured.

 

Daniel 9:24–27 is, therefore, a glorious messianic prophecy that does not support a dispensational interpretation. The fact that the angel Gabriel envisioned the ultimate jubilee after the 490 years were completed pointed forward to the already/not yet distinction—present blessings and future consummation.

 

This prophecy also predicts that once the time, times, and half a time of the great tribulation are complete, the consummation will finally come, and the eternal jubilee will dawn.

 

註:

 [1]. Chapters 4–19, to be exact. See Alva J. McClain, Daniel’s Prophecy of the 70 Weeks (Grand Rapids: Zondervan, 1969), 10.

[2]. Meredith G. Kline, “The Covenant of the Seventieth Week,” in The Law and the Prophets: Old Testament Studies Prepared in Honor of Oswald Thompson Allis, ed. John H. Skilton (Phillipsburg, NJ: Presbyterian & Reformed, 1974), 454–55.

[3]. Ibid., 456–57.

[4]. Ibid., 459.

[5]. Ibid., 461.

[6]. Ibid., 461–62.

[7]. Ibid., 463.

[8]. McClain, Daniel’s Prophecy, 49ff.; and John Walvoord, Daniel: The Key to Prophetic Revelation (Chicago: Moody, 1977), 231ff.

[9]. Contra Thomas Edward McComiskey, “The Seventy ‘Weeks’ of Daniel against the Background of Ancient Near-Eastern Literature,” Westminster Theological Journal 47 (1985): 18–45.

[10]. Edward J. Young, The Prophecy of Daniel (Carlisle: Banner of Truth, 1978), 197.

[11]. Ibid., 197ff.

[12]. Ibid., 199.

[13]. Ibid., 201.

[14]. McClain, Daniel’s Prophecy, 35–36. Walvoord says that the prophecy is fulfilled in relation to the consummation but not before. See Walvoord, Daniel, 223.

[15]. Kline, “Covenant of the Seventieth Week,” 463.

[16]. Ibid.

[17]. Ibid., 465.

[18]. Ibid., 469.

[19]. G. K. Beale, The Book of Revelation, The New International Greek Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 1999), 669.

 

【補足3】【アミレ】Daniel's 70 Weeks(ダニエルの70週 by Sam Storms)

 

 

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*Sam Storms著『Kingdom Come』では、第3章、第4章に渡り、ダニエル書9章「70週」の非常に詳しい釈義がなされています。また、サム・ストーム師の証し「なぜ終末論に関する私の見解に変化が起こったのか」(日本語訳)をお読みになりたい方は、ココをクリックしてください。

 

One might well argue that Daniel 9:24-27 is both the most complex and the most crucial text in either testament bearing on the subject of biblical prophecy.

 

Its complexity is questioned only by those who have not studied it, or perhaps by those whose conclusions concerning its meaning were predetermined by unspoken theological commitments.

 

That Daniel 9 is as crucial as I have suggested can hardly be denied. For example, dispensationalists have largely derived from Daniel 9several of their more distinctive doctrinal and prophetic themes, among which are,

 

1)  distinctive divine programs for Israel and the Church based on the idea of a prophetic and historical gap, during which time God’s purpose for the former is suspended and his purpose for the latter engaged (that “gap,” of course, being identified with this present age);

 

2) the reality of a future period of intense tribulation, precisely seven years in length, during which the divine program for Israel is resumed;

 

3) the rebuilding of a temple in Jerusalem at the inception of this seven year period and its subsequent destruction; and,

 

4) the emergence of a personal antichrist who will establish a seven year covenant with Israel, reinstitute the Levitical sacrificial system, only to break the covenant after three and one half years.

 

One could conceivably make an argument that apart from the dispensational interpretation of Daniel 9, these and related prophetic doctrines would lack substantial biblical sanction.

 

My purpose, however, is not to offer an extensive critique of dispensationalism. It will, of course, be necessary to review briefly what dispensationalists have said about Daniel 9. But, my goal is to be more constructive than destructive, and to that end I have devoted the bulk of this lesson to what I believe is the correct meaning of the text and its contribution to our understanding of God’s purpose in redemptive history. The passage reads as follows:

 

Seventy weeks have been decreed for your people and your holy city, to finish the transgression, to make an end of sin, to make atonement for iniquity, to bring in everlasting righteousness, to seal up vision and prophecy, and to anoint the most holy ‘place’ (v. 24).

 

So you are to know and discern that from the issuing of a decree to restore and rebuild Jerusalem until Messiah the Prince there will be seven weeks and sixty-two weeks; it will be built again, with plaza and moat, even in times of distress (v. 25).

 

Then after the sixty-two weeks the Messiah will be cut off and have nothing, and the people of the prince who is to come will destroy the city and the sanctuary. And its end will come with a flood; even to the end there will be war; desolations are determined (v. 26).

 

And he will make a firm covenant with the many for one week, but in the middle of the week he will put a stop to sacrifice and grain offering; and on the wing of abominations will come one who makes desolate, even until a complete destruction, one that is decreed, is poured out on the one who makes desolate (v. 27). (NASB)

  

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The Dispensational Interpretation of Daniel 9:24-27

 

  1. What are the 70 weeks of Daniel 9?

 

According to 9:24, “seventy sevens” have been decreed. The latter of these two terms, here translated “sevens,” literally means a unit of seven things (hence, a “week”).

 

The question, however, is: a unit of seven what? days? weeks? hours? months? years? Most commentators of the dispensational school conclude that Gabriel had in mind units of years. Consequently, “seventy” of these “units of seven years” would equal 490 years. Although commentators refer to this period as Daniel’s 70 “weeks,” the period of time in view is one of 490 years. 

 

  1. When do the 70 weeks of Daniel begin?

 

According to 9:25 the 70 weeks (i.e., the 490 year period) begin with “the issuing of a decree to restore and rebuild Jerusalem.” Dispensationalists have opted for either one of two dates for this decree:

 

(1) the seventh year of Artaxerxes in 458-57 b.c. (Ezra. 7:11-26), or

(2) the twentieth year of Artaxerxes in 445-44 b.c. (Neh. 2:1-8). The latter of these two dates is preferred by most dispensationalists, and for two reasons. 

 

First, this decree pertains to the rebuilding of the “city,” in accordance with Dan. 9:25

 

Second, v. 25 also indicates that between the decree and the coming of Messiah sixty-nine of the seventy weeks transpire. In other words, 483 years (or, 173,880 days, on the questionable assumption that a year = 360 days) from the decree brings us to Jesus Christ.

 

If one begins with the first of Nisan (March 14), 445 b.c., and counts off 173,880 days (taking into account years that have an extra day due to leap year), one arrives at April 6, 32 a.d., the occasion of Christ’s triumphal entry into Jerusalem.

 

If one chooses to begin the count in 444 b.c., instead of 445, the 69th week terminates on March 30, 33 a.d. Many people are obviously quite impressed with this sort of chronological precision and have embraced the dispensational view because of it.

 

The dispensational view, therefore, appears to depend upon two crucial facts: (1) 445-44 b.c. is the only year in which a decree relative to the rebuilding of Jerusalem was issued; and (2) the 490 years or 70 weeks is a chronologically precise period of time, and must therefore span the period from the decree to the Messiah to the very day. 

 

If either or both of these assertions is false, the dispensational interpretation is seriously undermined. That is to say, if it can be shown that the decree of Cyrus in 538 b.c. meets all the qualifications for the decree which inaugurates the 70 weeks (Dan. 9:25), and if it can be shown that the 490 years or 70 weeks need not be taken with chronological and arithmetic precision, the dispensational view is considerably weakened. 

 

  1. What is the goal or purpose of the 70 weeks?

 

The goal of Daniel’s 70 weeks is stated in the six-fold declaration of v. 24. Without going into detail at this time, suffice it to say that most dispensationalists insist that some, if not all, of these goals will only be achieved at the second advent of Jesus at the end of the age, perhaps not even until the end of the “millennium.” For this reason they insist that the 70th week is yet future.

 

  1. When exactly will the 70th week begin?

 

The dispensationalist says that, according to v. 26, two events will occur after the 69th week butbefore the 70th. In other words, these two events will occur in the “gap” between the 69th and 70th weeks.

 

These two events are, first, the cutting off of Messiah (the crucifixion), and second, the destruction of Jerusalem and its temple in 70 a.d. When, then, is the 70th week to occur? Only at the end of the present age when Christ returns to consummate the 6-fold purpose outlined in v. 24. This 70th week, the so-called “Great Tribulation,” says the dispensationalist, is described in v. 27.

 

  1. Who is the coming “prince” of v. 26 and the one who makes the covenant in v. 27?

 

Both the “prince” who is to come in v. 26 and “he” who, in v. 27, makes a covenant with the many for one week refer to the final, personal Antichrist.

 

This “one week” or 7 year covenant will entail the rebuilding of the temple in Jerusalem and the reinstitution and observance of sacrificial offerings. After 3-1/2 years, i.e., “in the middle of the week,”

 

Antichrist will break the covenant, persecute the people of God (Israel), only to be destroyed by the return of Christ Jesus at the close of the 7 year tribulation period (i.e., at the close of the 70th week). 

 

  1. On what basis does the dispensationalist posit a “gap” between the 69th and 70th weeks of Daniel 9?

 

It is absolutely fundamental to the dispensational interpretation that there be a gap or interval or historical parenthesis between the 69th and 70th weeks. Thus far in history this gap has spanned some 1,950 years.

 

On what basis do dispensationalists justify this remarkable length of time? The arguments of Alva McClain are here taken as representative:

 

a)  If one interprets the text as presenting the events in strict chronological and historical sequence, a gap is implied. First, in v. 25, there is a period of 69 weeks ending with the appearance of Messiah. Then, after these 69 weeks two other events occur: the death of Messiah and the destruction of the city. Finally, in v. 27, and after the events of v. 26, the final or 70th week occurs. Since two of the prophesied events occurafterthe 69th week butbefore the 70th week, a gap is implied.

 

b)  The events of v. 24 were not fulfilled at Christ’s first coming, nor have they been fulfilled at any time in history since his appearance. Therefore, the 70th week, in which time they will be fulfilled, must be future.

 

c) An unseen gap in prophetic time is not unusual in the OT. See, for example, 61:1-2and Luke 4:16-21.

 

d) Jesus himself declared that the 70th week of Daniel is still future (see 24:15ff.).

 

Although other arguments may be cited to support the gap theory, these are certainly the more important ones.

 

Instead of responding critically to the dispensational interpretation, I prefer to present what I believe is a far superior understanding of the text. By means of asking and then answering a series of ten questions, I hope that the sense of Daniel’s 70 weeks will become clear to us.

 

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God's Final Jubilee

 

1. What is the Historical and Literary context of Daniel 9?

 

The opening verses of Daniel 9 indicate that Daniel prayed to God in the light of the prophecy uttered by Jeremiah relative to the 70 years captivity of Israel (Jer. 25:1-11) and the punishment of Babylon when the 70 years were complete (Jer. 25:12).

 

Daniel prays “in the first year of Darius, son of Xerxes” (9:1-2), i.e., in the first year of Cyrus’s reign (539-38 b.c.). If the beginning of the 70 years captivity is to be reckoned from 605 b.c. (Jer. 25:1,9) when Daniel and his friends were deported to Babylon, it is obvious that the prophesied period was nearing completion.

 

In fact, 66 of the 70 years had passed. This motivated Daniel to pray for the restoration of Israel and Jerusalem (9:16,18,20). Certainly, then, Gabriel’s response in Dan. 9:20-27 is to be understood as ananswer to Daniel’s prayer (see esp. 9:20-23). Thus, Vern Poythress concludes:

 

"The logical conclusion from this language is that the beginning point of the 70 weeks basically coincides with the end of Jeremiah’s 70 years. That is, it occurs in 538 b.c. or shortly thereafter. On the other hand, a beginning point in 444 b.c. would not really answer Daniel’s prayer. It would not be quick enough to satisfy Daniel’s urgency. And it would not be related to the basis of Daniel’s prayer in Jeremiah’s prophecy of 70 years."

関連記事Hermeneutical Factors in Determining The Beginning of the Seventy Weeks (Daniel 9:25)

 

This relationship between the conclusion of Jeremiah’s 70 years prophecy and the beginning of Daniel’s 70 weeks prophecy is substantiated when we consider the nature and purpose of Cyrus’s decree, to which we now turn our attention.

 

2. What is the “decree” of Dan. 9:25, or when do the 70 weeks begin?

 

In his first year, after the fall of Babylon in fulfillment of prophecy, the Persian king, Cyrus, issued a decree relative to the rebuilding of the temple in Jerusalem:

 

"Thus says Cyrus king of Persia, 'The Lord, the God of heaven, has given me all the kingdoms of the earth, and He has appointed me to build Him a house in Jerusalem, which is in Judah. Whoever there is among you of all His people, may his God be with him! Let him go up to Jerusalem which is in Judah, and rebuild the house of the Lord, the God of Israel'" (Ezra 1:2-3; cf. 2 Chron. 36:23).

 

We are told explicitly in 2 Chron. 36:21-22 that the decree of Cyrus signaled the end of Jeremiah’s prophecy and the beginning of the restoration of Israel. This corresponds directly with Daniel’s concern for the completion of Jeremiah’s prophecy, on the basis of which he utters his prayer (9:2).

 

In Dan. 9:25 the decree that inaugurates the 70 weeks is “to restore and rebuild Jerusalem,” and that is precisely what Isaiah prophesied that Cyrus would do:

 

"It is I who says of Cyrus, 'He is My shepherd! And he will perform all My desire.' And he declares of Jerusalem, 'She will be built,' and of the temple, 'Your foundation will be laid'” (Isa. 44:28).

 

“I have aroused him [Cyrus] in righteousness, and I will make all his ways smooth; he will build my city, and will let my exiles go free, without any payment or reward,” says the Lord of hosts (Isa. 45:13).

 

Let me now summarize. In 605 b.c. Jeremiah prophesied that Israel would be taken captive in Babylon for 70 years and that Jerusalem and its temple would be destroyed. He also prophesied that at the end of this period Babylon would fall.

 

In 539 b.c. Babylon fell to Cyrus of Persia. Consequently, in that very year, sensing the completion of Jeremiah’s prophecy, Daniel prays for the restoration of Jerusalem. Gabriel (as God’s messenger) responds to Daniel’s prayer with the prophecy of the 70 weeks, the beginning of which would be a decree to rebuild and restore the city.

 

In 538 b.c. Cyrus issued just such a decree! The point, then, is this. The decree of Cyrus in 539-38 b.c. is both the conclusion of Jeremiah's prophecy of captivity (2 Chron. 36:21-23) and the beginning of Daniel's 70 weeks prophecy of restoration (Dan. 9:25). 

 

3. Did Cyrus’s decree pertain to the rebuilding of the city as well as the temple?

 

Dispensationalists insist that the decree of Cyrus in 538 cannot be the beginning of the 70 weeks because his decree did not include reference to the rebuilding of the city, only the temple. Several things may be said in response to this charge.

 

First, as Poythress points out, we must bear in mind that the Israelites

 

"lived in an atmosphere where the restoration of the temple, the restoration of the city of Jerusalem, and the restoration of the land itself were closely bound up together. The city represented the heart-beat and security of the land around; the temple represented the heart-beat and security of the city (Jer. 7:4).

 

Jeremiah prophesied desolation for the land, for the city of Jerusalem, and for the temple. In particular, Jeremiah’s prophecy concerning 70 years of desolation speaks explicitly of restoration of the people to the land (Jer. 29:10,14), but is naturally interpreted to imply restoration of the city (Dan. 9:2,16,18) and of the temple (Dan. 9:17)."

 

Second, the focus of the decree in Ezra 1:2-4 and 2 Chron. 36:23 is indeed the temple, but these passages may not give us the complete text of the decree. Ezra 6:3-5, an alternate report of the decree, contains details not mentioned in Ezra 1:2-4.

 

When Josephus wrote of the decree he included direct reference to the city. But let us grant, for the sake of argument, that Josephus was wrong and that the decree of Cyrus contained no explicit reference to the rebuilding of the city. The restoration of the city, observes Poythress,

 

"would nevertheless be presupposed as an accompaniment to the restoration of the temple. For one thing, there would have to be workers there in the city to engage in the restoration work on the temple. And the temple would make little sense without a body of priests to serve in it. Some priests would have to be settled in Jerusalem."

 

Third, according to Dan. 9:2, Daniel himself believed that the desolation of the city of Jerusalem would last for 70 years. It is only natural, therefore, that the restoration of the city, as well as the temple, would begin when the 70 years were completed.

 

“To say that the restoration of the city had to wait until Nehemiah’s time [as the dispensationalist insists] is a denial of the validity of Jeremiah’s prophecy”.

 

Fourth, we have already seen that Isa. 44:28 and 45:13 include reference to the rebuilding of thecity.

 

Fifth, numerous texts indicate that Jerusalem was at least partially inhabited before Nehemiah’s time (cf. Hag. 1:4,9Neh. 3:20,21,23,24,25,28,297:3Ezra 5:16:94:6). That the restoration was not at that time complete is no proof that it had not begun.

 

Sixth, and finally, what about Dan. 9:25b and the reference to “plaza and moat”? This poses no problem, for one must distinguish between the decree itself and the historical results. It is the verbal (or literary) act that marks the beginning of the 70 weeks. Dan. 9:25b simply describes the non-verbal historical results.

 

Given the available evidence, I see no reason why we should look for any decree other than that of Cyrus in 539-38 b.c. as the fulfillment of Dan. 9:25 and thus the beginning (the terminus a quo) of the 70 weeks. Consequently, one of the principal foundations for the dispensational interpretation has crumbled.

 

4. What is the goal or purpose of the 70 weeks?

 

Daniel 9:24 makes it clear that the goal of the 70 weeks prophecy is six-fold in nature:

(1) “to finish (or, “restrain”) the transgression”;

(2) “to make an end of sin” (or, “to seal up sin”);

(3) “to make atonement for iniquity”;

(4) “to bring in everlasting righteousness”;

(5) “to seal up vision and prophecy”; and

(6) “to anoint the most holy ‘place’.”

 

Most are agreed that (3) pertains to the propitiatory sufferings of Jesus. The dispute concerning (1) and (2) focuses more on the time of their fulfillment. Are these statements descriptive of what our Lord already accomplished at his first advent, or do they pertain to what he will achieve at his second advent (particularly, for Israel)?

 

My opinion is that this is a false disjunction. What Jesusfulfilled at his first advent he will consummate at the second. More on this later.

 

The fourth stated goal, “to bring in everlasting righteousness,” is a reference either to the justified state of the one who has faith in Christ (Rom. 3:21-22) or to the righteousness of the new heavens and new earth (2 Pt. 3:13).

 

And yet, on further reflection, we discover that this too is a false disjunction. The witness of Scripture is to the interrelation between the redemption of the creature and the cosmos (Rom. 8:18-252 Pt. 3:13-14). The reconciliation of both man and the material world has, in a sense, already occurred (Col. 1:19-20), and yet both await the consummation at the end of the age (Rom. 8:21).

 

The fifth purpose, “to seal up vision and prophecy,” means that “the period of preparation and type, characterized by the visions which the prophets received and proclaimed, will be sealed up, because its purpose has been completed.

 

It will no longer be needed, since the Messianic age has come, and its work is finished." Again, should one insist that the ultimate consummation of all prophetic utterance in the second coming of Christ is intended, no objection is forthcoming.

 

One need not conclude, however, that the 70th week is therefore altogether future. If the 70th week of Daniel 9 is the present age, as I intend to argue, one may find the consummation of each goal in the second advent of Christ without conceding the validity of the dispensational scheme.

 

The sixth purpose, “to anoint a most holy,” is a reference to the baptism (anointing) of Jesus (cf.Acts 10:38Luke 4:34,41). There is absolutely no evidence in the OT that the temple was ever anointed (aside from the single reference to Moses’ anointing of the wilderness tabernacle in Lev. 8:10-11).

 

5. Who is the coming “prince” of Dan. 9:26?

 

Dispensationalists believe that this “prince” is the final Antichrist who will appear at the end of the age. However, we are told in v. 26 that the city and sanctuary are to be destroyed by the people of the prince who is to come.

 

The dispensationalist rightly insists that this refers to the Roman armies of 70 a.d. But the prince, says the dispensationalist, to whom these armies or people belong, was not Titus, the Roman general, but a prince who is to arise from a revived Roman empire conceivably 2,000 years after the people had died! Young responds: 

 

"Now it is impossible thus to speak of the Roman armies who attacked Jerusalem in 70 a.d. These armies cannot be said to belong to a prince who has not even now appeared, although nearly two thousand years have passed.

 

The genitival relationship [people of a prince] shows clearly that the people and prince are contemporaries. The people belong to the prince, they are his people. Now, how can the Romans of 70 a.d. be said to belong to a prince who has not appeared yet?

 

They are not his people; they belong to a prince who is their contemporary. Suppose that this prince should appear upon the scene of history; he cannot look back to the armies of Titus and call them his armies. To take a modern example, Mussolini could not have spoken of the armies of Titus as being his own armies. The very language itself rules out this interpretation."

 

Simply put: the “prince” who is to come (i.e., who is future to Daniel), is Titus, the Roman general, whose armies destroyed the city of Jerusalem and its temple in 70 a.d. 

 

6.  Are vv. 26 and 27 sequentially related, or are they parallel descriptions of the same series of events?

 

The key to the dispensational interpretation is that since v. 25 concludes with the 69th week and v. 27 opens with the 70th, v. 26 must describe events that occur in a gap between the two. That gap has now stretched to some 1,950 years. By way of response, two observations are in order:

 

1.According to LaRondelle, “when Daniel announced that seventy weeks are determined for national Israel and that the Messiah will be ‘cut off’ after the first sixty-nine weeks, the natural presumption can only be that the death of the Messiah will take place sometimeduring the last week. J. Barton Payne [thus] concludes, ‘What could be more naturally assumed than that it [the death of Messiah] concerns the 70th week?’”

 

2.The dispensational argument for a gap between the 69th and 70th weeks is based on the belief that verses 26 and 27 are phrased in a modern style of prose that describes events in a strictly sequential and chronological order.

 

But a close examination of these two verses reveals that they are structured in the poetic style of synonymous (or perhaps synthetic) parallelism in which the 27th verse repeats and elaborates the content of the 26th verse. Thus, events that occur “after” the 69th week (v. 26) occur “in” the 70th week (v. 27).

 

The death of Messiah and the destruction of Jerusalem are the two principal events portrayed in vv. 26-27. Note especially the verbal correspondences between v. 26b and v. 27b.

 

7. The dispensationalist insists there is a gap between v. 26 and v. 27. Why is this not true?

 

1. The principal reason has just been given: vv. 26 and 27 are not relating events that are sequential (i.e., A B C D) but rather parallel (i.e., A B A B).

 

2. Even should we concede that some or all of the goals stated in v. 24 await the second advent of Christ for their fulfillment, a gap between the 69th and 70th week is unnecessary. If it can be demonstrated that the 70th week (or, more accurately, the latter 1/2 of the 70th week)is the present age, then clearly it followed immediately upon the 69th. As noted earlier, what Jesus fulfilled at his first coming he will consummate at his second.

 

3. The appeal to the alleged gap betweenIsa. 61:1-2a and 61:2b is invalid. Although our Lord in Luke 4 did not cite the entire passage, it may easily be demonstrated that the day of God’s wrath as well as the day of redemption were inaugurated by our Lord’s ministry. SeeMt. 3:10-1223:37ff.

 

4. It is also argued that the 70th week is wholly future because Jesus declared as much inMt. 24/Mark 13. However, a careful study of these texts will reveal that “the abomination of desolation” to which he refers, as well as the “great tribulation,” pertain to the events of 70 a.d.

 

5. Jeremiah’s 70 years on the pattern of which Daniel’s 70 weeks were constructed admit of no gap.

 

6. There is no gap between the 7 weeks and the 62 weeks (v. 25), making it unlikely for there to be a gap between the 69 weeks (the 7 + the 62) and the 70th.

 

7. After examining other cases in which prophecy refers to a determinate specification of time (Gen. 15:12;45:6Num. 14:34), Philip Mauro concludes: “We are bold, therefore, to lay it down as an absolute rule, admitting of no exceptions, that when a definite measure of time or space is specified by the number of units composing it, within which a certain event is to happen or a certain thing is to be found, the units of time or space which make up that measure are to be understood as running continuously and successively. ‘Seventy years’ would invariably mean seventy continuous years; ‘seventy weeks’ would mean seventycontinuous weeks; ‘seventy miles’ would mean seventy continuous miles."

 

8. Assuming for the sake of argument that the 490 units of time = 490 literal years, consider this: “Is it credible that this prophecy, which speaks so definitely of 70 weeks and then subdivides the 70 into 7 and 62 and 1, should require for its correct interpretation than an interval be discovered between the last two of the weeks far longer than the entire period covered by the prophecy itself? If the 69 weeks are exactly 483 consecutive years, exact to the very day, and if the 1 week is to be exactly 7 consecutive years [these are assumptions, again, made only for the sake of argument], is it credible that an interval which is already more than 1900 years, nearly four times as long as the period covered by the prophecy, is to be introduced into it and allowed to interrupt its fulfillment?”

 

9. I am also convinced that the theory of a gap is motivated as much by the antecedent determination to find additional justification for distinguishing between Israel and the church, as it is by any factors actually present in the text itself. In other words, if one had notalreadydecided in favor of two distinct peoples of God with distinct dispensations in which God deals with each, would Dan. 9 ever have been interpreted in such a way as to yield the concept of a gap between the 69th and 70th weeks? Or, again, to put it even more bluntly, dispensationalists find a gap in Dan. 9 because they are predisposed to find one in order to justify an already existent theological construct.

 

8. What is the Meaning of 9:27?

 

As noted earlier, in view of the parallel construction of vv. 26 and 27, the Messiah of v. 26a = the “he” of v. 27a, and the “prince” of v. 26b = the “one who makes desolate” of v. 27b, i.e., the Roman general Titus in 70 a.d.

 

In addition to this, I conclude that he who, literally, “causes a covenant to prevail” is Jesus, the Messiah. This he does through the shedding of his blood (cf. Mt. 26:27-29Mark 14:24Luke 22:201 Cor. 11:25Heb. 8-10).

 

Finally, to what does Daniel refer when he speaks about Messiah putting “a stop to sacrifice and grain offering”? There are two possibilities, as I see it. This may be a reference to the sacrifice of Christ whereby he abrogated the Jewish sacrificial system (see Heb. 7:11-12,279:26-2810:9Mt. 27:51Mark 15:38).

 

Or, more likely still, this is a reference to the cessation of Jewish sacrifices by the destruction of Jerusalem and its temple in 70 a.d. (see Mt. 23:37-24:2). 

 

9. Are the 70 weeks to be interpreted “chronologically” or “theologically”?

 

We are immediately made aware that the 70 weeks are probably not to be taken with chronological precision by the fact that the 70 years of Jeremiah’s prophecy were not precisely 70 years. 

 

The fall of Babylon by which the end/conclusion of Jeremiah’s prophecy is reached occurred in 539 b.c. There are several suggested beginning points for the prophecy, none of which, however, add up to precisely 70 years:

 

fall of Nineveh in 612 b.c. = 73 years;

 

the battle of Carchemish or Nebuchadnezzar’s accession, both of which were in 605 b.c. =66 years;

 

the beginning of the captivity in 597 b.c. = 58 years;

 

the destruction of the temple and city in 586 b.c. = 47 years.

 

My point is that “70 years” is an approximate designation of length, such as we find in Jer. 27:7and Ezek. 4:6-8. In Mesopotamian culture, 70 years refers primarily to a certain period of desolation followed by the visitation of God.

 

As Baldwin observes, “seventy years was the fixed term of divine indignation (Zech. 1:12)." David Kennedy, a dispensationalist, acknowledges this and points to Ps. 90:10 and Isa. 23:15 as examples where “the number seventy . . . is to indicate the totality of judgment”. Thus, he concludes:

 

“Chapter 9 of Daniel opens with the time indicator that the supremacy of Babylonia had now ended (539 b.c.). Jer. 25:11-12 and 29:10 had emphasized that the seventy years would terminate with the punishment of the Babylonians.

 

If the terminus a quo [beginning point] of Jeremiah’s seventy years was indeed 605 b.c. . . . then 66 years had elapsed. Daniel does not wait fatalistically for the next four years to tick away. Rather he prays for Jeremiah’s promises of restoration to be fulfilled now, because God keeps his covenant . . . .

 

While 66 years are a close approximation to 70, Daniel seems to be more interested in the content of Jeremiah’s seventy years than in calculating their precise duration. Perhaps also we should be more interested in the significant events of Daniel’s seventy ‘sevens’ than in enumerating its statistics. . . . 

 

If Jeremiah’s seventy years turned out to be 66 or 48 years, we should not be too surprised if Daniel’s seventy ‘sevens’ turn out to be something other than 490 years” (emphasis mine).

 

Leupold suggests that from the week of creation “‘seven’ has always been the mark of divine work in the symbolism of numbers. ‘Seventy’ contains seven multiplied by ten, which, being a round number, signifies perfection, completion.

 

Therefore, ‘seventy heptads’ - 7 x 7 x 10 - is the period in which the divine work of greatest moment is brought to perfection." Although there is some truth to this, I believe the significance of the 70 weeks is more profound.

 

If the 70 weeks or 490 years is not to be applied with chronological and calendrical precision, what is its significance? In other words, what is the symbolic and theologicalmeaning of the 70 x 7 units, or 490 years?

 

Why did Gabriel communicate the answer to Daniel’s prayer in terms of 70 weeks/490 years rather than, say, a 500 year period or a period of 40 weeks? What is so theologically special and distinctive about 70 weeks/490 years?

 

To answer this question we must begin by noting the obviously covenantal character of the entire 9th chapter of Daniel. Meredith Kline offers this helpful explanation:

 

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“The common focus of the prayer and the prophetic response, the theme that pervades the entire chapter, is Yahweh’s covenant with Israel, particularly the actualization of the covenant sanctions through the faithfulness of God [N.B. Chapter 9 is the only chapter in Daniel in which the peculiarly covenantal name of God, Yahweh, occurs].

 

This central theme emerges at once in the opening words of Daniel’s prayer. Setting his face toward God, he describes Him as the Lord who ‘keeps the covenant’ (vs. 4).

 

That is both the ground of Daniel’s confidence and the subject of his plea. His prayer is that God would bring to realization the mercies of His covenant, as He had its curses.

 

And the message of Gabriel’s prophecy, answering to Daniel’s prayer, is that God would straightway prove himself anew the keeper of the covenant, fulfilling the ancient Mosaic promise of restoration after exile (Lev. 26:42ff.; Deut. 30:3ff.) according to the specific terms of that promise as it had been reissued by Jeremiah (Jer. 29:10).

 

Then in its revelation of the future of the covenant, Gabriel’s answer moves on beyond the horizon of the prayer, disclosing that the ultimate purpose of the seventy weeks program was that the divine covenant keeper should not merely restore but consummate the covenant order He had given to Israel through Moses”.

 

When Daniel’s prayer is analyzed we see that it belongs to the “Todah” genre, in which the petitioner acknowledges God’s glory and grace in his actions toward his people, confesses the sins of the people in having broken the covenant, and pleads for its renewal.

 

It is only to be expected that Gabriel’s answer to Daniel’s prayer will itself assume a covenantal pattern (see Lev. 26:40-45). This is, in fact, precisely what we see. For the chronological mold in which the prophecy is cast is sabbatical.

 

Let us remember that not only were the Israelites themselves to rest on the 7th day, the land also was to rest in the 7th year. When Gabriel spoke of the “sevens,” 70 of which were decreed for Israel, he had in mind the 7 year period, the 7th year of which was a sabbatical year of rest for the land (Lev. 25:2-7).

 

Kline proceeds to make the point that the sabbath itself, whether for the people or the land, functioned “as a prophetic symbol of the consummation of the covenant order. As elaborated in the Mosaic covenant . . . the sabbath served as a sign of the messianic age of redemptive liberation, restitution, and rest [see esp. Heb. 4:1-11]”.

 

It would appear, then, that this precise chronological or numerical framework was chosen not because Gabriel desired to set calendrical boundaries of a beginning and end in which the six-fold goal of 9:24 would be accomplished.

 

Rather, he chose this framework, first, because it is sabbatical, and second, because the sabbath (and the number 7) bore special symbolic import for the nation Israel.

 

This point is confirmed when we observe that Gabriel spoke of “70” of these units of 7, hence 490 years. Why did he not choose 30 or 50 or 80 “sevens” instead of “70 sevens”? The reason is found in Lev. 25:8-55 and the observance of the year of JUBILEE. Let us note particularly vv. 8-12.

 

You are also to count off seven sabbaths of years for yourself, seven times seven years, so that you have the time of the seven sabbaths of years, namely, forty-nine years (v. 8).

 

You shall then sound a ram’s horn abroad on the tenth day of the seventh month; on the day of atonement you shall sound a horn all through your land (v. 9). 

 

You shall thus consecrate the fiftieth year and proclaim a release through the land to all its inhabitants. It shall be a jubilee for you, and each of you shall return to his own property, and each of you shall return to his family (v. 10).

 

You shall have the fiftieth year as a jubilee; you shall not sow, nor reap its aftergrowth, nor gather in from its untrimmed vines (v. 11).

 

For it is a jubilee; it shall be holy to you. You shall eat its crops out of the field (v. 12).

 

When we examine the year of jubilee in detail we discover that its provisions were as follows:

(1) the return of all property, according to the original Mosaic distribution, to the original owner or to his family;

(2) the release of all Jewish slaves;

(3) the cancellation of debts; and

(4) the land is to lie fallow, i.e., it is neither to be sown, pruned, reaped, nor gathered for an entire year.

 

The Jubilee, therefore, was a year in which social justice and equity, freedom, pardon, release, and restoration were emphasized and experienced. The jubilee signalled a new beginning, the inauguration of moral, spiritual, and national renewal.

 

Hence it is no surprise that the jubilee became a symbol and prefigurement of the ultimate redemption, release, and restoration that God would accomplish spiritually on behalf of his people. Indeed, the eschaton, the final day of salvation to be inaugurated by Messiah, was conceived and described in terms of the release ordinance of the Mosaic year of jubilee.

 

This all takes on special significance when we realize that there is decreed for Israel a total period of seventy sevens of years or 490 years, which is to say 10 JUBILEE ERAS, “an intensification of the jubilee concept pointing to the ultimate, antitypical jubilee”.

 

The jubilary year of God in which the consummation of redemption and restoration is to occur is described in Isa. 61:1-2,

 

The Spirit of the Lord God is upon me, because the Lord has anointed me to bring good news to the afflicted; He has sent me to bind up the brokenhearted, to proclaim liberty to captives, and freedom to prisoners (v. 1);

to proclaim the favorable year of the Lord, and the day of vengeance of our God . . . (v. 2).

 

This is the passage that our Lord quotes in Luke 4:16-21 and applies to his own person and work. In other words, the fulfillment and anti-type of the prophetic and typical jubilary year has come in the person and work of Jesus Christ! Robert Sloan explains:

 

“The Mosaic legislation of the jubilee/sabbath year is used, by both the author of Isaiah 61 and --- through Isaiah 61 --- Jesus/Luke, as a means of describing the eschatological Age of God that has dawned with the appearance and activity of Jesus”.

 

The purpose of the 70 weeks prophecy, outlined in Dan. 9:24, was to secure that ultimate salvation, that release, redemption, and restoration of which the Jubilee year was a type or symbolic prefigurement. When Jesus declares that in himself the jubilee of God has come he is saying, in effect, that the 70 weeks of Daniel have reached their climax.

 

The new age of jubilee, of which all previous jubilees were prefigurements, has now dawned in the person and ministry of Jesus.

 

THE GOAL OF THE 70 WEEKS PROPHECY IS THE CONSUMMATE JUBILARY SALVATION OF GOD!

 

That is why the chronological frame of reference in which it is said to transpire is jubilary in nature: 10 jubilees = 490 years! The meaning of the period, therefore, is THEOLOGICAL, not calendrical.

 

The 70 weeks are not designed to establish precise chronological parameters for redemptive history. Rather, they serve to evoke a theological image, namely, that in “Messiah Jesus” God will work to effect the final jubilee of redemptive history.

 

The 10 jubilee framework (i.e., the 490 years or 70 weeks) is thus symbolic of the divine work of redemption, at the conclusion of which the eternal and perfected jubilee will appear: THE NEW HEAVENS AND NEW EARTH (Rev. 21-22).

 

10.  How, then, may we understand the contribution of Daniel’s prophecy to the structure and flow of redemptive history?

 

According to the conclusions reached above, the first half of Daniel’s 70th week runs from the baptism of Jesus to 70 a.d. The destruction of Jerusalem and its temple in 70 a.d. is the middle of the week, and the present church age is its latter half. Kline concurs and summarizes as follows:

 

“When we survey the fulfillment of Gabriel’s prophecy from our vantage point, it appears that the last half of the 70th week is the age of the community of the new covenant, disengaged from the old covenant order with whose closing days its own beginnings overlapped for a generation.

 

In the imagery of the NT Apocalypse, the last half week is the age of the church in the wilderness of the nations for a time, and times, and half a time (Rev. 12:14).

 

Since the 70 weeks are 10 jubilee eras that issue in the last jubilee, the 70th week closes with the angelic trumpeting of the earth’s redemption and the glorious liberty of the children of God. The acceptable year of the Lord which came with Christ will then have fully come."

 

 

【補足4】【アミレ】The Covenant of the Seventieth Week (「70週の契約」by Meredith G. Kline)【英文】

 

Related image

Meredith G.Kline

 

from The Law and the Prophets: Old Testament Studies in Honor of Oswald T. Allis. ed. by J.H. Skilton. [Nutley, NJ]: Presbyterian and Reformed, 1974, pp. 452-469.

 

In quick succession in the early forties, O. T. Allis published two major studies. In the first, he took up the cudgels against the modern critical assault on the Pentateuch; in the second, he dealt with a problem besetting the church from quite a different quarter.

 

Like The Five Books of Moses (1943), Prophecy and the Church (1945) was a masterful critique. In part, surely, as a result of Allis's expose, dispensationalism does not seem to be quite as influential a movement in conservative churches as it was a generation or so ago.

 

But the interpretation of Old Testament prophecies involved in the assessment of this evangelical heresy is as important and timely today as Allis found it to be then.

 

By way of tribute to Dr. Allis I would turn to this second area of his publication interests, offering a study of the seventy weeks prophecy in Daniel 9, a passage which plays a dominant role in dispensationalism's futuristic charting. [1]

 

Attention will focus particularly on the covenant mentioned in Daniel 9:27, for a proper understanding of this covenant speaks decisively against the peculiar concept of the "Great Tribulation" which dispensationalism derives from this verse and with which dispensationalism's identity is inseparably conjoined.

 

The Unity of Daniel 9

 

If satisfactory results are to be achieved in the interpretation of the seventy weeks of Daniel 9, we will have to keep in mind that there is the closest relationship between Gabriel's prophecy (vss. 20-27) and Daniel's prayer (vss. 1-19). In modern higher criticism the unity of Daniel 9 is by no means unanimously acknowledged.

 

Among those who reject the sixth century provenance of the book as a whole in favor of the theory of a second century origin, the prayer of Daniel often is regarded as an interpolation in chapter 9. Even in these ranks, however, the authenticity of the prayer is not without supporters.

 

In a recent survey of the matter, B. C. Jones seeks to strengthen the case for viewing the prayer as an original part of the chapter. [2]

 

Of the several objections to this position [3] the most significant is the alleged lack of correspondence between the subject of the prayer and Gabriel's response. Jones counters this with the observation that Gabriel does provide assurances (vs. 24) which answer to Daniel's plea for forgiveness.

 

Positive evidence of the unity of Daniel 9 is also found in the way the response repeats or plays on the sound of various words in the prayer. [4] It has been noted too that both parts of the chapter share certain expressions not found elsewhere in the book. [5]

 

Unfortunately, Jones does grant after all that there is a difference in viewpoint in the two parts of this chapter. He would explain this as an intentional device designed to convey the deterministic idea that calamity happens at the decreed time, and prayers, like Daniel's, make little difference to God. [6]

 

This radical distortion of the meaning of the episode is a consequence of Jones's acceptance of the critical late dating of the book and the related interpretation of the climax of the seventy weeks in terms of the crisis undergone by the Jews in the second century B.C.

 

If the messianic rather than Maccabean interpretation of the seventy weeks is followed, unity of theme and consistency of viewpoint can be demonstrated throughout Daniel 9, as we shall try to show below, and a satisfactory reply thus provided for the main critical objection to the unity of this chapter.

 

Apropos of this, one point may be made at once: there is no justification for the assumption that the seventy weeks prophecy was produced to clarify the meaning of or to reinterpret Jeremiah's prophecy of the seventy years, study of which had led to Daniel's prayer (Dan. 9:2 f.).

 

On the basis of that false assumption it has been argued that Daniel's prayer should be a petition for illumination and that since it is not, it does not correspond to the following prophecy and must be an interpolation in this context. Daniel's prayer does not, indeed, express perplexity, but importunity.

 

There was no need for perplexity over the plain words of Jeremiah that the end of Israel's seventy years exile would be closely associated with the fall of Babylon (Jer. 25:11 ff.). Daniel's sense of urgency is understandable because within the year Babylon had fallen (539 B.C.; cf. Dan. 9: 1), and it was close to a round seventy years since the exile of Judah had begun in 605, Daniel himself having been among those carried away to Babylon at that time. [7]

 

The clear meaning of Daniel 9:2 ff. is that Daniel prayed for the timely fulfillment of Jeremiah's prophetic promise. And soon the restoration was actually under way; there was no failure in the historical realization of the terms of the prophecy that called for embarrassed reinterpretation of its simple sense.

 

Moreover, it is perfectly clear from the account of Gabriel's mission (Dan. 9:20 ff.) that his purpose was not to interpret or reinterpret Jeremiah's prophecy but to assure Daniel that the promise of restoration was about to be fulfilled. In short, it is only by obscuring the obvious that one can fail to see that Daniel's prayer and Gabriel's response suit each other very well.

 

The common focus of the prayer and the prophetic response, the theme that pervades the entire chapter, is Yahweh's covenant with Israel, particularly the actualization of the covenant sanctions through the faithfulness of God.

 

This central theme emerges at once in the opening words of Daniel's prayer. Setting his face toward God, he describes Him as the Lord who "keeps the covenant" (vs. 4). That is both the ground of Daniel's confidence and the subject of his plea.

 

His prayer is that God would bring to realization the mercies of His covenant, as He had its curses. And the message of Gabriel's prophecy, answering to Daniel's prayer, is that God would straightway prove himself anew the keeper of the covenant, fulfilling the ancient Mosaic promise of restoration after exile (Lev. 26:42 ft.; Deut. 30: 3 ft.) according to the specific terms of that promise as it had been reissued by Jeremiah (Jer. 29: 10).

 

Then in its revelation of the future of the covenant, Gabriel's answer moves on beyond the horizon of the prayer, disclosing that the ultimate purpose of the seventy weeks program was that the divine covenant keeper should not merely restore but consummate the covenant order He had given to Israel through Moses.

 

Due recognition and appreciation of this pervasive concentration on the theme of covenant confirmation is important for both the higher criticism and the exegesis of Daniel 9.

 

On the one hand, this covenant theme evidences the integrity of the chapter as a whole. On the other, it illuminates the interconnections of the various strands and details in the prophecy, making it possible to carry forward the basically sound exegesis of the traditional messianic interpretation of the seventy weeks and to sharpen the critique of the dispensational construction.

 

The Covenant Theme in Daniel's Prayer

 

Having begun his prayer with the acknowledgment of God as the one who keeps the covenant (vs. 4), Daniel continued with this theme, interpreting Israel's present desolate condition and the entire history leading to it by explicit reference to the realities of the covenant.

 

Israel's history had been a long course of continual violation of the written stipulations of God's covenant (vs. 5) and repudiation of God's emissaries, the prophets, as they had come administering the covenant lawsuit (vss. 6, 10).

 

The inevitable result of this covenant breaking had been that the curse invoked by Israel in their oath of covenant ratification had overtaken the nation (vss. 11 ff.). God had carried out His threats, bringing on His disobedient vassal- people the very evils delineated in the curse sanctions of the original treaties (vss. 12 ff.).

 

Daniel's appeal for mercy and restoration had in view the honor of God's name, which was bound up with the fate of Israel since He had become identified as the covenantal Protector of this vassal-nation (vss. 15-19).

 

The covenantal orientation of Daniel's prayer is underscored by its vocabulary, for it is replete with treaty terminology. As already noted, Daniel 9 is the only chapter in the book to use the divine name Yahweh (vss. 2,4, 10, 13, 14,20).

 

This striking use of the peculiarly covenantal name of God in this chapter is a plain index to its major theme. Equally appropriate to the covenantal context is the repeated use of 'adonay, "Lord," characteristic designation of the dominant party in the covenant. The usage here is the more significant since this is again the only chapter in the book (except for Dan. 1:2) where the term appears.

 

Other words found here in their specialized treaty meanings are 'ahab, "love" (vs. 4), hesed, "covenant loyalty" (vs. 4), sub, "turn" (vss. 13,16), and hata, "sin" (vss. 5,8, 11, 15). The prayer is indeed saturated with formulaic expressions drawn from the Mosaic treaties, particularly from the Deuteronomic treaty. [8]

 

Form-critical analysis has made an interesting contribution to our understanding of the covenantal nature of the prayer in Daniel 9 by ascertaining the specific function a prayer of this type performed in covenant administration. Analyzing a series of post-exilic prayers with identical structures, including Daniel 9:4-19, J. Harvey identifies them as belonging to the Todah genre. [9]

 

He notes that the verb from which the noun todah derives is used for the act of offering these prayers. [10] D. W. Kerr, in his study of the element in Israel's religious praxis which the Old Testament denoted by the term todah, concludes that it was "the public act of acknowledging the glory of God in his attributes and the grace of God in his actions toward the people whom he has chosen in solemn covenant." [11]

 

He draws attention to the recitation of the Todah-prayer confessing God's gracious acts in connection with the sellamim, Israel's covenant-offerings. [12]

 

He further notes that previous studies had observed that Todah-confession includes Israel's confession of her sins as well as the acknowledgment of God's just acts. [13] It will be seen that Daniel 9:4 ff. and the similar prayers in Ezra and Nehemiah consist of precisely these two types of confession characteristic of the Todah.

 

Harvey observes that the common concern of these prayers is the broken covenant, and further that they are followed by acts of covenant renewal (Ezra 10:3 ff.; Neh. 10:1 ff.). [14] He then suggests that such Todah-prayers performed a special judicial function in the process of the rib, the covenant lawsuit, which the Lord prosecuted through His prophets against His people when they broke His covenant.

 

The Todah-prayer was a response by the condemned vassal-people to the indictment of the Lord, admitting the justice of the sentence. This procedure was in keeping with ancient Near Eastern legal practice as attested particularly by the Babylonian "tablets of no-complaint."

 

The covenant lawsuit process, with the special role played in it by the Todah, is delineated in the covenant sanctions passage in Leviticus 26. There, following a description of the breaking of the covenant (vss. 14 f.) and of the infliction of the covenant curses on Israel, climactically the curse of exile (vss. 16-39), it is stated that the Todah-confession by the exiles (vss. 40 f.) would be prerequisite to God's renewing of the covenant and restoring its blessings (vss. 42 ff.). [15]

 

Again, in the sanctions of the Deuteronomic treaty Moses presents such a prophetic overview of the covenant relation of Yahweh and Israel down to the exile and assigns to the act of Israel's repentant turning the same essential role as prelude to the restoration of the covenant (Deut. 30: 1 fl., especially 2 and 10). [16]

 

Similarly, Solomon, in his prayer at the dedication of the temple (I Kings 8: 23 ff.), requests that when, because of their transgressions, the covenant people found themselves exiled captives and then confessed their sins (vss. 47 ff.), God would forgive and restore them.

 

Here then in this tradition of Todah-prayers is where Daniel 9:4-19 clearly fits, with its acknowledgment of Yahweh's righteousness and Israel's guilt, and with its plea for deliverance from the justly inflicted curses of the ancient covenant oath. [17]

 

Daniel's prayer corresponds to, we might say fulfills, the Todah requirement stipulated in the pattern of covenant lawsuit administration in Leviticus 26:40, 41. [18]

 

We are thus led to expect that God's response to Daniel's prayer through His angel Gabriel will correspond to the promise of covenant remembrance and renewal which forms the sequel to the Todah in Leviticus 26:42-45.

 

"If they shall confess their iniquity (vs. 40a) . . . then I will remember my covenant (vs. 42a) . . . the covenant of their ancestors, whom I brought forth out of the land of Egypt in the sight of the heathen, that I might be their God (vs. 45)."

 

The Covenant Theme in Gabriel's Prophecy

 

The validity of that expectation is confirmed by an examination of Daniel 9:20-27 itself.

The covenantal theme emerges in the very structure of Gabriel's revelation -- the structure of the seventy weeks (or sevens). This chronological mold in which the prophecy is cast is obviously sabbatical.

 

The basic unit, the sabua', "heptad, period of seven," refers to the seven-year period the seventh year of which was a sabbatical year of rest for the land (Lev. 25:2 ff.). [19] The first of the major sections into which the seventy weeks are subdivided comprises seven of these sabbatical years (Dan. 9:25), and so constitutes the forty-nine- year period that issued in the heightened sabbath of the jubilee (Lev. 25: 8 ff.), the year of redemption, release, and restoration.

 

The total period of seventy sevens of years thus constituted ten of these jubilee eras, [20] an intensification of the jubilee concept pointing to the ultimate, antitypical jubilee. Such a pattern of ten jubilees or ten weeks, the tenth of which is climactic, is found in "The Apocalypse of Weeks" [21] and in the Qumran composition, (izedek).

 

The latter is fragmentary but it evidently identifies "the tenth jubilee" and "the last jubilee." [22] Now the sabbatical pattern is a covenantal pattern.

 

For the Lord declared the sabbath to be a perpetual sign of the covenant between Him and His people (Ex. 31:13-17; Ezek. 20:12,20). Indeed, from its original appointment as a creation ordinance (Gen. 2: 3) the sabbath has functioned as a sign of the covenant relationship and program, and particularly as a prophetic symbol of the consummation of the covenant order.

 

As elaborated in the Mosaic covenants in a calendar of sabbatical and jubilee years, the sabbath served as a sign of the messianic age of redemptive liberation, restitution, and rest. Therefore, the placing of Gabriel's response to Daniel's prayer in a sabbatical-jubilee framework tells us at once that this prophecy is fundamentally concerned with God's covenant with Israel, and especially with the consummation of that covenant.

 

The conclusion that the seventy weeks framework is sabbatical, naturally suggested by the numerical features of the passage, is confirmed by the relationship of this seventy weeks prophecy to the seventy years prophecy of Jeremiah.

 

Though the former is not an interpretation, and certainly not a corrective reinterpretation, of the latter, it was given in response to a prayer that was prompted by the reading of Jeremiah's prophecy and, as we shall see, it employs the same symbolic model as that prophecy.

 

Expounding the seventy years of exile in terms of the explanation of the exile given in Leviticus 26:43, the Chronicler depicts it as a time of sabbatical rest for the land: "To fulfill the word of the Lord by the mouth of Jeremiah, until the land had enjoyed her sabbaths: for as long as she lay desolate she kept sabbath, to fulfill threescore and ten years" (II Chron. 36:21).

 

Here each of the seventy years is seen as functioning as a sabbatical year so that the seventy years are the equivalent of seventy weeks of years. Under the exile's condition of continuing desolation, 490 years were telescoped into 70 because the desolate land leaped without the normal six-year intervals of labor from one seventh year of rest immediately' to its next sabbatical year.

 

Thus, Gabriel's seventy weeks prophecy actually made use of the very same symbol as the seventy years prophecy of Jeremiah -- and that symbol is explained in II Chronicles 36:21 as sabbatical.

 

Early adoption of a sabbatical interpretation of the seventy weeks prophecy of Daniel 9 is attested by 11QMelch, which, as noted above, equates the tenth and last jubilees. This composition is a midrashic development of the Leviticus 25 year of jubilee. Into this development it works the seventy weeks of Daniel 9 and so provides an interpretation of that prophecy at the same time. [23]

 

In this interpretive text, coming perhaps from about the time of our Lord, the seventy weeks of Daniel 9 are seen as a series of ten jubilees culminating in a proclamation of deliverance, atonement, vengeance on Zion's enemies, and the establishing of God's covenant among His people.

 

It has become increasingly clear that Leviticus 25 and 26 is an important source standing behind Daniel 9:24 ff. The seventy weeks prophecy is built on the sabbath-jubilee structure of Leviticus 25 (cf. 26:43). Daniel 9 as a whole follows the covenant administration pattern of Leviticus 26.

 

The prayer (vss. 4 ff.) corresponds to the Todah-confession of Leviticus 26:40 f., and the prophecy (vss. 24 ff.) corresponds to the covenant restitution and renewal of Leviticus 26:42 ff. This last equivalence is reinforced by the connection made between the seventy weeks and Leviticus 26:43 in II Chronicles 36:21.

 

The seventy weeks prophecy of Daniel 9 reflects yet another aspect of the Leviticus 26 forecast of covenant restoration after covenant breaking as that forecast is taken up and developed in II Chronicles 36.

 

Immediately after the Chronicler has referred to the period of the exile as seventy sabbatical years (II Chron. 36:21), he makes mention of the decree of Cyrus issued in the first year of his reign, officially ending Israel's exile.

 

In these closing words of his historical work the Chronicler points to the figure of the restorer who accomplished the Lord's word by Jeremiah concerning the divine visitation after seventy sabbath years (Jer. 29: 10) and introduced the post-exilic jubilee-restoration (II Chron. 36:22 f.; cf. Ezra 1:1 ff.).

 

The Chronicler was at the same time recording the fulfillment of another prophetic word of God. Isaiah too had spoken of the one who should command the rebuilding of Jerusalem and its temple, even Cyrus, whom Isaiah designated as the Lord's "anointed" (Isa. 44:28; 45:1).

 

It was in the very year Cyrus issued his decree of restoration that Gabriel declared to Daniel that the decree of Cyrus terminating the period of Jeremiah's seventy sabbatical years also signalized the beginning of a new seventy weeks.

 

According to Gabriel's prophecy, at the climax of this new seventy weeks there was to arise the figure of another anointed prince, after the order of Cyrus, but the true and final Messiah. [24] It would be his mission to bring in the true and final jubilee, to establish the new and everlasting covenant announced as the goal of the seventy weeks in the opening verse of the prophecy. [25]

 

In the course of His mission He must undergo the violence of death, suffering in behalf of the "many." [26] Isaiah had prophesied of this anointed one too, the one anointed with the Spirit to proclaim the jubilee release and renewal (Isa. 61: 1 ff.), [27] the prince whom God would give when He made the everlasting covenant (Isa. 55: 3 f.), [28] the servant of the Lord who was a covenant mediator like unto Moses and would himself be the covenant (Isa. 42:6; 49:8), the servant who must be cut off out of the land of the living in order to provide justification for "the many" (Isa. 53:10-12).

 

If the Mosaic treaties provided the framework of administrative rubrics for the covenant theme in Daniel 9, the Isaianic servant figure was the source for the personal mediator of the covenant of the seventieth week.

 

The Covenant in Daniel 9:27

 

As we come to the closing verses of Gabriel's prophecy, both the form and content of Daniel 9 have prepared us for a decisive final word about the messianic consummation of God's covenant with Israel in the last of the seventy weeks. [29]

 

When, therefore, we find a covenant mentioned in verse 27, there should be no doubt as to its identity. [30] The whole context speaks against the supposition that an altogether different covenant from the divine covenant which is the central theme throughout Daniel 9 is abruptly introduced here at the climax of it all.

 

Nor need there be any question as to the identity of the one who makes this covenant prevail. It is of course that anointed prince whose presence was said to mark the beginning of the seventieth week (vs. 25).

 

There is an interesting link between the Messiah and the covenant in verse 26. His death is there described by the verb karat, the verb regularly employed for the act of ratifying a covenant by a cutting ritual which portrayed the curse of the covenant oath. The statement about the covenant in verse 27 is then in clear continuity with the covenantal allusion in verse 26.

 

Gabriel here assures Daniel that the cutting off of the anointed one (vs, 26) would not mean the failure of His mission but, on the contrary, its accomplishment. "In the course of the one week he will make the covenant prevail (higbir) in behalf of the many" (vs. 27a). [31]

 

It was by His death for the iniquity of His people that the Lord's anointed servant ratified the new covenant in which God's old covenant with Israel is confirmed and finds its consummation. In verse 27 the petition of Daniel's prayer receives its most direct response. Precisely here the prophetic assurance of a divine confirmation of the covenant is explicitly stated.

 

The fact should not be ignored that in this crucial statement the verb employed is not a verb for the initial making of a covenant. [32] As noted above, the usual verb for making a covenant (karat) was used in verse 26a to intimate that according to God's redemptive counsel the slaying of the Messiah was the ratificatory sacrifice of the new covenant.

 

In verse 27 (and already in verse 26b) the prophecy proceeds from the ratification of God's covenant to the powerful and ultimate execution of the sanctions of the covenant, both blessing and curse. This idea might have been expressed by the verb heqim, "cause to stand." [33] Daniel used that verb in his prayer, acknowledging that through the judgment of exile God had confirmed or carried out His words against Israel (Dan. 9:12), the words of the oath-curse of the covenant (cf. vs. 11).

 

Jeremiah used heqim in his seventy years prophecy to say that God would carry out His promise of covenant blessing (Jer. 29: 10). [34] When Gabriel tells Daniel that God will bring the blessing sanctions of the ancient covenant to realization -- in dimensions far beyond Daniel's immediate level of concern, he expresses the idea of fulfillment by an equivalent of heqim, the even more emphatic verb higbir, "make strong, cause to prevail." [35]

 

The force of this verb higbir excludes the notion that the covenant referred to in Daniel 9:27a is some arrangement imposed by a future antichrist, whether conceived of within a dispensational or other eschatological framework. According to these futurist reconstructions, antichrist enters into some pact at the beginning of the seventieth week and then what he succeeds in doing in the course of that week is to break his covenant. Such a situation, it must be insisted, would be the diametrical opposite of what verse 27 describes.

 

The evidence on the usage of higbir indicates that verse 27 has in view the enforcing of the terms of a covenant previously granted. If so, it can only refer to God's faithful fulfillment of the covenant He has given to His people. [36]

 

Elsewhere in the Old Testament the Hiph'il form of the verb gabar appears only in Psalm 12:5(4), where it means "be strong" or "prevail." But it is also found in one of the Qumran Thanksgiving Hymns (1QH II, 24).

 

The author uses it in this hymn to express the idea that through him and his persecutions God demonstrates His power, or prevails. This idea is expounded in the immediate context, where the psalmist offers praise that by the divine faithfulness (hesed) he has been enabled to hold firmly to God's covenant while his mighty persecutors have been judged.

 

Here then is a covenantal passage in which the Hiph'il of gabar denotes God's faithful and powerful enforcement of the blessing and curse sanctions of His covenant. Certain biblical passages where gabar is used in the Qal stem [37] are distinctly covenantal and illuminate the force of this verb in Daniel 9:27.

 

In Psalm 103:11, where the language of the covenant formulary is especially conspicuous, and again in Psalm 117:2, the subject of gabar is God's hesed. This noun is a virtual synonym for berit, "covenant," but more particularly hesed is the covenant faithfulness by which God maintains and fulfills the order of beatitude He has established. [38]

 

It was to the covenant keeping and hesed of God that Daniel appealed at the start of his prayer (Dan. 9:4), so setting the theme to which both his prayer and Gabriel's response closely adhered.

 

In both Psalm 103 and 117 the idea of God's making the covenant blessing prevail (gabar) comes to parallel expression in a declaration that some element of the covenant, like righteousness or truth, will endure unto children's children or will be everlasting (in Psalm 103 see verse 17).

 

Similarly in the prophecy of the seventy weeks the statement in the closing verse that the covenant will be made to prevail answers to the "everlasting righteousness" and to the consummatory aspect in general of the purpose of the seventy weeks as stated in the opening verse (Dan. 9:24).

 

The evidence of the usage of gabar thus refutes conclusively those interpretations of Daniel 9: 27 that would find a reference to the mere initiation of a covenant relation, and indeed of a covenant that is supposed to fail through perfidy. For the covenantal associations of gabar are God's hesed. This noun is a virtual synonym for berit, perpetuity. [39]

 

One further line of investigation related to the verb gabar proves illuminating for Daniel 9: 27. The kind of action denoted by gabar is performed by a gibbor, "a mighty one, a hero." [40]

 

This term is used as an epithet of God in a covenant-preamble type of formula that appears in shorter and longer forms in the Deuteronomic treaty (Deut. 7:9,21; 10:17) and in covenant renewal prayers of the Todah-confession genre, including Daniel's (Dan. 9:4; Neh. 1:5; 9:32; cf. Jer. 32: 18).

 

The formula describes God as the great, the mighty (haggibbor), the fearful God ('el), the one who keeps berit and hesed to a thousand generations and recompenses the iniquity of the fathers upon the children.

 

Particularly significant for the meaning of higbir in Daniel 9:27 is the use of gibbor in Isaiah 9 and 10. Isaiah identified the Messiah, the Son of David, as "the mighty God" of the covenant formula by declaring His name to be 'el gibbor (Isa. 9:5, [6]. Then in Isaiah 10 this messianic' el gibbor is mentioned again in the very passage from which Daniel 9:27 derives its thought and wording alike (see verses 21-23).

 

Isaiah spoke there of God's mighty messianic fulfillment of covenant blessing and curse: a remnant of Jacob would return unto 'el gibbor, but in overflooding (sotep) judicial righteousness the annihilation (kalah) that was determined (neherasah) would befall the land.

 

Daniel 9:26b, 27 echoes Isaiah's prophecy: the covenant would be made to prevail (higbir), as a blessing for the many who were the faithful remnant, but as a curse in the form of the determined annihilation (kalah weneherasah) which would be poured out on the abominations of apostate Israel like a flood (setep). [41]

 

The unmistakable dependence of Daniel 9:27 on Isaiah 10:21 ff. points directly to the 'el gibbor of Isaiah 10:21 as the inspiration for the higbir of Daniel 9:27. This confirms the conclusions that the subject of higbir is not antichrist or any other than the anointed one whose name is 'el gibbor [42] and that the object of higbir, the covenant made to prevail, is the redemptive covenant sealed by the reconciling blood of Christ.

 

Conclusion

 

Daniel had prayed for the restoration of the Jerusalem temple, the paramount sacramental symbol of Israel's covenant relation to Yahweh. The prophecy of the seventy weeks assured him that his prayer would begin to be answered at once and that the restoration of the covenant community would be completed in what is portrayed as a jubilee period.

 

Then the prophecy went on to disclose the ultimate unfolding of the covenant and the paradoxical prospects that lay in store for the temple at that later time. After being restored, the Jerusalem temple would again be made a den of abomination, evoking another and final desolation.

 

Israel's Lord would pour out on the rebellious vassal-nation the full vengeance of His broken covenant. But though the curse would be executed to the uttermost, the blessing of the covenant would be secured for the many who were the elect and true Israel. Before the curse terminated the old Mosaic order, Messiah would institute the new covenant order, in which the old people and city and temple would find continuity and consummation.

 

Before the Jerusalem temple was levelled, the foundations of the everlasting temple of the Spirit, which is Christ and His church, would be laid.

 

This new, anti typical restoration of God's temple would be the achievement of what is portrayed as ten jubilee periods. In the course of the climactic seventieth week, masiah nagid, the anointed priest-king, would make the covenant prevail both in renewal and in judgment. Cut off in death, Messiah would make priestly reconciliation for iniquity, so perfecting sacrifice forever and instituting the new covenant.

 

Then exercising His royal heavenly rule over all the nations, Messiah in the midst of the seventieth week would send forces of destruction against the Jerusalem temple, so making the old ritual system cease [43] and bringing the old covenant to its end. [44]

 

When we survey the fulfillment of Gabriel's prophecy from our vantage point, it appears that the last half of the seventieth week is the age of the community of the new covenant, disengaged from the old covenant order with whose closing days its own beginnings overlapped for a generation.

 

In the imagery of the New Testament Apocalypse, the last half week is the age of the church in the wilderness of the nations for a time, and times, and half a time (Rev. 12:14).

 

Since the seventy weeks are ten jubilee eras that issue in the last jubilee, the seventieth week closes with the angelic trumpeting of the earth's redemption and the glorious liberty of the children of God.

 

The acceptable year of the Lord which came with Christ will then have fully come. Then the new Jerusalem whose temple is the Lord and the Lamb will descend from heaven (Rev. 21:10,22) and the ark of the covenant will be seen (Rev. 11:19), the covenant the Lamb has made to prevail and the Lord has remembered.

 

Endnotes

1. Allis, Prophecy and the Church (Philadelphia: Presbyterian and Reformed Publishing Co., 1945), pp. 111 f.: "The importance of the prophecy of the Seventy Weeks in Dispensational teaching can hardly be exaggerated. It is often appealed to as the conspicuous proof that the entire Church age is a parenthesis in the prophetic program which is to be discovered between vss. 26 and 27 of Dan. ix."

2. "The Prayer in Daniel IX," Vetus Testamentum 18, 4 (1968), 488-493.

3. Jones (ibid., 489) answers the objection that the tetragram is used in the prayer but not elsewhere in the book by appeal to the sound principle that the choice of a divine name in particular passages may be determined by idiom and considerations of contextual appropriateness. Cf. Allis, The Five Books of Moses (Philadelphia: Presbyterian and Reformed Publishing Co., 1943), pp. 24 f. and 35 ff. On the significance of the choIce of the designations for God in this chapter, see further below.

4. For example (and modifying Jones's presentation), the prayer says the oath-curse, 'alah and sebu’ah, was poured out, wattittak (vs. 11); while the prophecy says the weeks, sabu'im, are decreed, nehtak (vs. 24), and the determined end, kalah, will be poured out, tittak (vs. 27). The prayer refers to the desolate, samem, sanctuary (vs. 17); the response, to the desolate, or desolating (cf. Gesenius, Hebrew Grammar, 52s) somem and mesomem, sanctuary (vs. 27). Incidentally, if, as many believe, the siqqus (me)somem, of Daniel 11:31 and 12:11 (cf. 9:27) is a contemptuous pun on ba'al samem, "lord of heaven," it is to be noted, that that cult is attested long before the sixth century B.C. See W. F. Albright, Yahweh and the Gods of Canaan (New York: Doubleday, 1969), pp. 227 ff. Cf. Jones, op. cit., p. 491.

 

5. For example, tabanunim (vss. 3, 17 f., 23); nabi' (vss. 2, 6, 10,24).

6. Op cit., pp. 492 ff.

7. Daniel 1:1 ff. Cf. my observations on this in the Westminster Theological Journal 20, 2 (1958), 215 f.

8. Compare verse 4 with Deuteronomy 7:9, 21; 10:17; verse 5 with Deuteronomy 17:20; verse 10 with Deuteronomy 4:8, 30; 11:32; verse 11 with Deuteronomy 29:20; 33:1; 34:5; verse 12 with Deuteronomy 2:25; 4:19; 9:5; verse 15 with Deuteronomy 6:21; and verse 18 with Deuteronomy 28:10.

9. Le plaidoyer prophetique contre Israel apres la rupture de l'alliance (Montreal: Bellarmin, 1967), pp. 157 ff. Harvey also deals with the biblical prayers in Ezra 9:6ff.; Nehemiah 1:5ff.; 9:6ff.; and with later, non-canonical prayers. Isaiah 63:7-64:12 also exhibits the pattern.

10. The Hithpa'el of yadah is used in Ezra 10:1 (cf. the noun todah in Ezra 10:11); Nehemiah 1:6; 9:2f.; and Daniel 9:4, 20.

11.The Meaning of the Words Hodah and Todah in the Old Testament (1966; unpublished Harvard doctoral dissertation), p. 180.

12. Ibid., pp. 66 f. and 167-171.

13. Ibid., pp. 68 f., referring particularly to the work of H. Grimme, A. Bentzen, F. Mand, and F. Horst.

14. Op. cit., p. 158. From among Gunkel's "Communal Laments" K. Baltzer, Das Bundesformular (Neukirchen: Neukirchener, 1964), pp. 64 f., notes a series of passages, including the prayers under discussion by Harvey, which contain confession of sin, and he comments on how many of these deal with covenant renewal.

15. Harvey, op. cit., pp. 160 f., note 4, cites Psalm 50 as another especially clear witness to the rib-todah structure; for the todah see verses 14 and 23. Unfortunately, Harvey's late critical datings, particularly of Leviticus, prevent his tracing the pattern with confidence into pre-exilic times. M. O. Boyle in an analysis of the rib pattern in Amos 3:1-4:13, "The Covenant Lawsuit of the Prophet Amos: III I-IV 13," Vetus Testamentum 21, 3 (1971), 358- 360, finds that the final step in the litigation is the "Recognition," acknowledging the justice of the judgment (4:13).

16. See too Deuteronomy 4:25 ff., especially 29 f. When those curses short of exile that were threatened in the Mosaic treaties overtook Israel, godly kings like Hezekiah and Josiah brought the people to renew the covenant through a process in which confession of sin was prominent. See II Chronicles I5: 1-15; 29:5 ff.; 34:19 ff. (cf. II Kings 22 and 23, especially 22:13, 19).

17. For further points of contact between Daniel's prayer and the rib and treaty formularies, see Harvey, op. cit., p. 160.

18. Daniel 9 and Leviticus 26 are interlocked by the Jeremianic prophecy of the seventy years exile and desolation of the land (Jer. 25:11f:; 29:10). That prophecy prompted the prayer of Daniel 9 (Dan. 9:2) and it is connected by II Chronicles 36:21 with the explanation Leviticus 26 gives of the exile as a time for the desolate land to enjoy its sabbaths (Lev. 26: 43). See further below.

19. To identify the "sevens" as weeks of years (which the Hebrew text does not explicitly do) is not necessarily to conclude that the prophecy speaks of a literal 490-year period. In fact, if attention is paid to the unity of this chapter, particularly, if there is due regard for the appropriateness of the response to the urgency of the plea that the divine word through Jeremiah be speedily fulfilled as the passage of the years now demanded (i.e., the seventy years spanned by the date formulae in Dan. 1:1 and 9:1), one can only conclude that the beginning of the seventy weeks coincided with the ending of the seventy years at the time of Daniel's prayer. All the relevant evidence cannot be discussed here, but in my judgment it all points to the first year of Cyrus as the start of the seventy weeks. It is then quite impossible to work out the fulfillment in a literal 490-year period. The seventy weeks must be understood symbolically, and it is their sabbatical structure that indicates their specific symbolical significance. Even those who believe this prophecy deals with a literal 490-year period might simultaneously recognize the sabbatical pattern and the symbolic message inherent in it; compare the treatment of Jeremiah's seventy years in II Chronicles 36:21.

 

20.The Book of Jubilees reckons in jubilee cycles of forty-nine years each. A minority opinion recorded in the Babylonian Talmud, 'Arakhin 12b and parallels, does likewise, explaining that the fiftieth year, the jubilee year of one cycle, is also the first year of the next jubilee cycle. Cf. E. Wiesenberg, "The Jubilee of Jubilees," Revue de Qumran 3, 1 (1961), 16 f.

 

21. See I Enoch 93:1-10 and 91:12-17. Cf. J. P. Thorndike, "The Apocalypse of Weeks and the Qumran Sect," Revue de Qumran 3, 2 (1961),163-184.

 

22. See line 7. Cf. J. A. Fitzmyer, "Further Light on Melchizedek from Qumran Cave II," Journal of Biblical Literature 86, 1 (1967), 25-41, especially 29 f., 35, 40; J. Carmignac, "Le document de Qumran sur Melkisedeq," Revue de Qumran 7, 3 (1970), 348f. Further, the jubilee pattern culminating in a jubilee of jubilees in which individual restoration is lifted to the national level is prominent in Jubilees, The Assumption of Moses, and in the PseudoJonathan targum on the Pentateuch. Ct. Wiesenberg, op. cit., and G. W. Buchanan, The Consequences of the Covenant (Leiden: Brill, 1970), p. 11.

 

23. Cf. Fitzmyer, ibid.; Carmignac, op. cit., 357.

24. The first sixty-nine weeks lead to masiah nagid (Dan. 9:25); he introduces the seventieth week of eschatological achievement (Dan. 9:26,27).

 

25. The goal of the seventy weeks as described in Daniel 9:24 is an ultimate age of fulfillment and completion. Its accomplishments are those found elsewhere in prophecies of God's new and everlasting covenant and of the eschatological jubilee. See, for example, Isaiah 60:21; 61:1 ft.; Jeremiah 31:34; 32:40; Ezekiel 16:60-63; 20:37f.; 37:26. The final item listed in Daniel 9:24 is an anointing, which must surely be related to the anointed one of Daniel 9:25.

 

26. Daniel 9:27. These are the elect within the covenant; cf. Daniel 11:33; 12:3.

27. In 11QMelch, Isaiah 61:1 is incorporated along with Daniel 9:24 ff. in the pesher on Leviticus 25.

28. The broken line 18 in 11QMelch apparently refers to "the anointed one of whom Daniel spoke," identifying him as one who proclaims salvation at the tenth and last jubilee. Sanhedrin 97b says that the son of David will come in the last jubilee.

 

29. The Testament of Levi 16 (perhaps a Christian interpolation in this Jewish document) represents an early interpretation of the seventy weeks. It finds at the climax a renewal of the covenant order of the law: "And a man who renews the law in the power of the Most High ye shall. . . slay" (16: 3). 11QMelch refers to establishers of God's covenant (line 25) in a context dealing with Daniel 9 and the renewal effected at the tenth and last jubilee. Cf. F. F. Bruce, "The Book of Daniel and the Qumran Community," Neotestamentica et Semitica, eds. E. E. Ellis and M. Wilcox (Edinburgh: Clark, 1969), pp. 230-233.

 

30. On the absence of the article with berit, compare the same usage in Daniel 11:28, 30, 32, where the reference is clearly to God's holy covenant.

 

31. The Messiah is the subject of verse 26a, and the temple and its end by overwhelming judgment is the real subject of verse 26b. Note the emphatic position of the city and the sanctuary at the beginning of the clause. Also, the temple is evidently the antecedent of the pronominal suffix in qisso. It must then be the Messiah who is the understood subject of higbir (9:27). This is supported by the relationship noted above between the verbs for covenant action in verse 26a (karat) and verse 27a (higbir). As for the prince of verse 26b, whose army is said to advance against the temple-city, he is in any case thematically subordinated to the fate of the temple. Therefore, even if he were to be identified as the head of some foreign nation, he ought not be preferred over Messiah as the subject of higbir. Actually this nagid is in all likelihood the Messiah. After referring to Messiah as masiah nagid in verse 25, Gabriel divides the expression in the description of the two stages of his career in verse 26. There certainly would have been no need to confuse the matter by using this same title, nagid, rather than a different, more common title, if some foreign king had been intended. As for the thought, Jesus himself depicted the destruction of Jerusalem as the work of a "divine army in the parable of Matthew 22:2 ff. (see especially vs. 7). Thus, the nagid of verse 26b is a further link between the masiah of verse 26a and higbir in verse 27a. The identification of the nagid of verse 26b with the masiah of verse 26a also obtains if, with some support in the versions, we read 'im, "with," for 'am, "army."

 

32. This point is stressed by Allis, Prophecy and the Church, p. 122, and by E. J. Young, The Prophecy of Daniel (Grand Rapids: Eerdmans, 1949), p. 209.

 

33. For the use of heqim to denote a stage in covenant administration subsequent to the covenant-making denoted by karat, see especially Jeremiah 34:18. It is used for the confirming of the covenant by enforcement of the divine word either of promise (e.g., Deut. 8: 18; Neh. 9:8) or of threat (e.g., II Chron. 10:15).

 

34. In the Leviticus 26 background of Daniel 9, enforcement of the covenant is expressed by heqim (26:9) and, referring to the post-exilic covenant renewal (26:42-45), by zakar, a technical covenantal term found elsewhere as a parallel to heqim (Gen. 9:9,11,15-17; Ex. 6:4,5). In Isaiah's Cyrus prophecy (44:26-28), heqim parallels hislim. Ezekiel uses heq'im and zakar to describe the confirmation of the same everlasting covenant that is in view in Daniel 9:27 (Ezek. 16:60,62).

 

35. Gabriel's choice for this key word reflects his own name. Compare Psalm 103:20. Cf. H. Kosmala, "The term geber in the Old Testament and in the Scrolls," Congress Volume, Rome, 1968 (Supplements to Vetus Testamentum 17) (Leiden: Brill, 1969), pp. 159-169.

 

36. This conclusion would stand even if the grammatical subject of higbir were taken to be the covenant or the one week.

 

37. The flood narrative illustrates the Qal meaning, "prevail (over)," (Gen. 7:18 ff.). In the Pi'el, gabar means "make strong or heroic"; see, for example, Zechariah 10:6, which develops the idea of the previous verse: "they shall be like heroes (gibborim)." Similarly, in the Hithpa'el usage in Isaiah 42:13 the Lord's prevailing (yitgabbar) over His enemies is paralleled by His going forth to war like a gibbor, "mighty hero."

 

38. See Psalm 89:3, 4, 29, 34, 35 (Hebrew); Isaiah 55:3; Jeremiah 33:11.

 

39. The use of a semantic equivalent of higbir is attested in extra-biblical treaty terminology. When Esarhaddon wanted to settle the dynastic succession he made his vassals confirm their continuing allegiance to him by swearing loyalty to the crown prince. This firm imposition of the renewal treaty is described by the Assyrian verb meaning "strengthen, increase, reinforce, make valid" (dananu, D-stem); see the Ramataia treaty, lines 23, 65, 286. Similarly in the historical records, Ashurbanipal's reestablishment of covenant relations with Necho of Egypt after the latter’s rebellion is said to have been accomplished by increasing the oaths beyond those in the former treaty (Rassam Cylinder, II, 8). In this extra-biblical usage, strengthening the treaty refers to a reenforcing of the vassal's obligations in renewal of the covenant relationship. The stress in the covenantal usage of gabar in the Bible is on the Lord's enforcement of the covenant sanctions.

 

40. See note 37 above. M. Dahood, commenting on the nagbir of Psalm 12:5(4), says it is denominative from geber, "man, hero," and compares nazkir (Ps. 20:8[7]), which he takes as a denominative from zakar, "male," translating it, "we are strong"; cf. Biblica 45, 3 (1964), 396.

 

41. The correspondence between the passages extends further to the repetition of the judgment threat in each case with duplication of some of the key words (see Isa. 10:22b, 23 and Dan. 9:26b, 27).

 

42. See too Isaiah 42: 13, cf. 6; Psalm 45:3; 89: 19.

43. There may be a pun on the sabbatical scheme of the prophecy in the use of the verb sabat here.

44. If making sacrifice cease in the midst of the seventieth week (Dan. 9:27) refers to Christ's perfecting of Old Testament sacrifice by the sacrifice of himself, rather than to His judgment on the Jerusalem temple in A.D. 70, it would then be possible to regard the latter event as marking the end of the seventy weeks.

 

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ステファン・サイザー氏(契約主義)とカルヴィン・スミス氏(キリスト教シオニズム)との間で行なわれた公開ディベート

 

 

【追加資料5】【アミレ】「ガラテヤ6:16の『神のイスラエル』は『信者であるユダヤ人』を指す」というジョン・ワルブード師のディスペンセーション式聖書解釈に対するA・ホエケマ師の反証【英文】

 

Anthony A. Hoekema, The Bible and the Future, Ch.15, A Critique of Dispensational Premillennialismより一部引用

 

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We must first of all challenge the statement that when the Bible talks about Israel it never means the church, and that when it talks about the church it always intends to exclude Israel.

 

As a matter of fact, the New Testament itself often interprets expressions relating to Israel in such a way as to apply them to the New Testament church, which includes both Jews and Gentiles.

 

Let us look at three of these concepts. First, the term Israel. There is at least one New Testament passage where the term Israel is used as inclusive of Gentiles, and therefore as standing for the entire New Testament church.

 

I refer to Galatians 6:15-16, “Neither circumcision nor uncircumcision means anything; what counts is a new creation. Peace and mercy to all who follow this rule, even to the Israel of God” (NIV).

 

Who are meant by “all who follow this rule”? Obviously, all those who are new creatures in Christ, for whom neither circumcision nor uncircumcision means anything.

 

This would have to include all true believers, both Jews and Gentiles. What follows in the Greek is kai epi ton Israel tou theou.(καὶ ἐπὶ τὸν Ἰσραὴλ τοῦ Θεοῦ -Galatians 6:16 Greek Text Analysis)

 

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ジョン・F・ワルブード師(John F. Walvoord)

 

John F. Walvoord, a dispensational writer, insists that the word kai must be translated and, so that “the Israel of God” refers to believing Jews.

 

The problem with this interpretation is that believing Jews have already been included in the words “all who follow this rule.” The word kai, therefore, should here be rendered even, as the New International Version has done.

 

When the passage is so understood, “the Israel of God” is a further description of “all who follow this rule”―that is, of all true believers, including both Jews and Gentiles, who constitute the New Testament church.

 

Here, in other words, Paul clearly identifies the church as the true Israel. This would imply that promises which had been made to Israel during Old Testament times are fulfilled in the New Testament church. There are many other ways in which the New Testament makes the point just mentioned.

 

Consider, for example, what Paul said to the Jews gathered in the synagogue at Antioch of Pisidia:

 

“And we bring you the good news that what God promised to the fathers, this he has fulfilled to us their children by raising Jesus.... And as for the fact that he raised him from the dead, no more to return to corruption, he spoke in this way, ‘I will give you the holy and sure blessings of David.’ ... Let it be known to you therefore, brethren, that through this man forgiveness of sins is proclaimed to you, and by him everyone that believes is freed from everything from which you could not be freed by the law of Moses” (Acts 13:32-34, 38-39).

 

Note that, according to these words, God’s promises to the fathers have been fulfilled in the resurrection of Jesus, and that in that resurrection God has given to his New Testament people “the sure blessings of David.”

 

These promises and blessings, further, are interpreted as meaning, not a future Jewish kingdom in the millennium, but forgiveness of sins and salvation. The promises made to Israel, therefore, are fulfilled in the New Testament church.

 

Still another way in which we can see that the New Testament church is the fulfillment of Old Testament Israel is to look at I Peter 2:9,

 

“But you are a chosen race, a royal priesthood, a holy nation, God’s own people (mg., a people for his possession), that you may declare the wonderful deeds of him who called you out of darkness into his marvelous light.”

 

Peter addresses his epistle “to the exiles of the Dispersion in Pontus, Galatia, Cappadocia, Asia, and Bithynia” (1:1). Though the word dispersion is often applied to Jews, it is evident from the contents of this epistle that Peter was writing to Christians Christians in these provinces, many of whom, if not most of whom, were Gentiles.

 

Peter is therefore addressing members of the New Testament church. When we now look carefully at I Peter 2:9, we notice that Peter is here applying to the New Testament church expressions which are used in the Old Testament to describe Israel.

 

The words “a chosen race” are applied in Isaiah 43:20 to the people of Israel. The expressions “a royal priesthood, a holy nation” are used to describe the people of Israel in Exodus 19:6.

 

The words “God’s own people” or “a people for his possession” are applied to the people of Israel in Exodus 19:5. Peter is therefore saying here in the plainest of words that what the Old Testament said about Israel can now be said about the church.

 

No longer are the people of Israel to be thought of exclusively as constituting the chosen race―the Jewish-Gentile church is now God’s chosen race. No longer are the Old Testament Jews God’s holy nation―the entire church must now be so called.

 

No longer is Israel by itself “a people for God’s possession”―these words must now be applied to the entire New Testament church. Is it not abundantly clear from the passages just dealt with that the New Testament church is now the true Israel, in whom and through whom the promises made to Old Testament Israel are being fulfilled?

 

We look next at the expression seed of Abraham. Though, to be sure, this expression is commonly used in the Old Testament to designate Abraham’s physical descendants, the New Testament widens the meaning of this term so as to include believing Gentiles.

 

Look, for example, at Galatians 3:28-29, “There is neither Jew nor Greek, slave nor free, male nor female, for you are all one in Christ Jesus. If you belong to Christ, then you are Abraham’s seed, and heirs according to the promise” (NIV).

 

What is unmistakably clear here is that all New Testament believers, all who belong to Christ, all who have been clothed with Christ (v. 27), are Abraham’s seed―not in the physical sense, to be sure, but in a spiritual sense.

 

Again we see the identification of the New Testament church as the true Israel, and of its members as the true heirs of the promise made to Abraham.

 

The words Zion and Jerusalem are commonly used in the Old Testament to stand for one of the hills on which Jerusalem stood, the capital city of the Israelites, or the people of Israel as a whole. Once again we find that the New Testament widens the understanding of these terms.

 

To his Christian readers the author of the book of Hebrews wrote,

 

“But you have come to Mount Zion and to the city of the living God, the heavenly Jerusalem, and to innumerable angels in festal gathering, and to the assembly of the firstborn who are enrolled in heaven, and to a judge who is God of all, and to the spirits of just men made perfect, and to Jesus, the mediator of a new covenant...” (Heb. 12:22- 24).

 

Obviously “Mount Zion” and “the heavenly Jerusalem” stand for a group of redeemed saints including both Jews and Gentiles. Certainly, also, the “new Jerusalem” which John sees “coming down out of heaven from God, prepared as a bride adorned for her husband” (Rev. 21:2) is far more inclusive than to be limited only to believing Jews. The term Jerusalem, therefore, used in the Old Testament of the people of Israel, is used in the New Testament of the entire church of Jesus Christ.

 

We conclude that the dispensationalist contention that when the Bible talks about Israel it never means the church is not in harmony with Scripture. Our dispensational friends, however, might reply to what has been said above by countering that the New Testament does often speak of Jews in distinction from Gentiles.

 

With this statement I agree. It would be easy to illustrate this point. In the book of Romans Paul frequently uses the expression, “to the Jew first and also to the Greek” (1:16; 2:9, 10; cf. 3:9, 29).

 

In Romans 9-11 the term Israel is used eleven times; each time it refers to Jews in distinction from Gentiles. In Ephesians 2:11-22 Paul shows that God has made Gentiles and Jews fellow-members of the household of God, having removed the wall of hostility (or partition) which was between them; the entire discussion, however, would be pointless if Paul was not making a distinction between Jews and Gentiles.

 

The fact, however, that the New Testament often speaks of Jews in distinction from Gentiles does not at all imply that God has a separate purpose for Israel in distinction from his purpose for the church, as dispensationalists maintain.

 

The New Testament makes quite clear that God has no such separate purpose for Israel. In the passage from Ephesians to which reference has just been made Paul clearly shows that the middle wall of partition between believing Gentiles and believing Jews has been broken down (Eph. 2:14), that God has reconciled Jews and Gentiles to himself in one body through the cross of Christ (2:16), and that therefore believing Gentiles now belong to the same household of God to which believing Jews belong (2:19).

 

All thought of a separate purpose for believing Jews is here excluded. How can this oneness of Jew and Gentile, which is an abiding result of Christ’s death on the cross, be set aside in a dispensation yet to come?

 

【追加資料6】【アミレ】D・A・カーソン「教会はいつ始まったのか?)」【日本語】

 

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D.A. Carson, When Did the Church Begin?(全訳)

 

「教会はいつ始まったのか?」この問いは、特に神学を学ぶ学生たちの間で頻繁に出されます

 

ある人々は、ディスペンセーション神学体系を奉じており、その観点からこの問いかけをします。その場合、相手の出す答えが、ディスペンセーション主義者の差し出すその他の質問群に対する一種の《リトマス試験》となります。

 

ディスペンセーション主義的背景を持つ人々は一般に、諸契約間の非連続性に力点を置く傾向があり、それゆえ、通常、教会はペンテコステ時に始まったと主張します。他方、契約主義的背景を持つ人々は一般に、恵みの契約の連続性に力点を置く傾向があり、約束されていたものの成就という観点で考え、それゆえ、神の民の「集会(“assembly”)」は一つであり、それゆえ、教会がペンテコステ時に始まったと考えるのは誤っていると主張します。

 

また別のある人々は、相手が改革派系の長老派信者なのか、それとも改革派系バプテスト信者なのかを探ろうとこの問いを発します。また、特にこれといった神学的アジェンダなく、この質問をする人々もいます。これらの人々は、「聖書本文の中ではこの問いに関する答えは不明瞭であるように思う」と感じ、この問いを発するのです。

 

それでは段階を置きつつ、関連する資料を少しまとめてみることにしましょう。

 

① 術語に関して言うと、確かに「教会」というのは一般に新約表現ではありますが、言葉及びその思想両方共、旧約の中においても浮上しています。

 

例えば、特に異型というわけでもない次の一般聖句の中で、神はモーセにこう指導しています。「民をわたしのもとに集めよ(=assemble)。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」(申命記4:10、新改訳)。

 

「集めよ」の動詞はヘブライ語ではקהלそして、LXXギリシャ語聖書では、ἐκκλησιάζειν(「教会」ないしは「集会」を表す名詞エクレシアἐκκλησίαと同根)です。

 

また、軽視できない要素として挙げられるのが、新約記者たちが、旧約の神の民のことを"church"と言及している事実です。

 

ステパノは、荒野において集まっていたイスラエルの民のことを「荒野の集会 “the assembly [ἐκκλησία] in the wilderness”」(使7:38)と呼んでいます。ヘブライ人への手紙の記者は、「神を賛美しよう」とイエスが仰せられていることを表現すべく、旧約言語を用いています。「教会の中で(“in the assembly [ἐκκλησία])、わたしはあなたを賛美しよう。」(ヘブル2:12、詩篇22:22からの引用)

 

クリスチャンが共に集まる際、ヘブル書記者が、自分たちの集会を描写すべく用いている言葉は、成就された予型的《旧約聖書への言及》で満ち溢れています。

 

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会([ἐκκλησία])、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブル12:22-24)

 

ここでの「アベル」への言及は、クリスチャンが「証人たちによって・・・雲のように取り巻かれている」(ヘブル12:1参)ことーー、つまり、アベルに始まり、エノク、アブラハム、サラ、ギデオン、ダビデ、そしてその他全ての旧約人物(ヘブル11章)に至る、忠実なる証人たちのことを読者に不可避的に思い起こさせます。

 

② ここでの論点は、単なる術語上の問題よりも、より広義なものです。

 

イエスが、完全にユダヤ的文脈の中でご自身が教会(ἐκκλησία、マタイ16:18)を建てると宣言された際、この福音書によると、イエスの念頭にあったのは、異邦人をも含む教会でした(マタイ28:18-20)。

 

どのように教会([ἐκκλησία])戒規を実践すべきかに関する主の御指示は(マタイ18:15-20)、私たちがともすれば区別をつけたがる区分を、主ご自身は曖昧にしようと意思しておられたことを示しています。つまり、地域教会(マタイ18章ではこれが念頭に入っていたはずです)は、全体としての教会(the entire church)の露頭であり(16章)、またそれは、明確にユダヤ人も異邦人も包含しています。

 

彼らはメシアの集会であり、メシアの教会を構成しています。メシアの民(メシアの教会)の単一性(one-ness)が、かくも力強く打ち出されているのは、パウロによるエペソ書をおいて他にないでしょう。ユダヤ人信者も、異邦人信者も、私たちの平和であるイエスによって「一つ」にされました(エペソ2:14)。

 

かつて異邦人たちは、神から離れ、「イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり」(エペソ2:12)ましたが、今やこの二つのグループは、「新しいひとりの人」とされています(2:15)。

 

異邦人たちは「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(2:19)。そしてこれがキリストが愛され、そのためにご自身の命を投げ出された教会(ἐκκλησία)です(5:25)。

 

ローマ書11章にあるオリーブの木のメタファーを思い出す方もいるでしょう。そこに存在するぶどうの木はひとつであり、その木から切り取られた枝、もしくはその木につがれた枝が存在しています。

 

③ それでは、上述の二つの陣営――A) 「教会はペンテコステ時に始まった」と考える陣営、B) 「教会は過去に溯り、究極的には全ての神の選民を含んでいる」と考える陣営――はそれぞれ、如何様にしてそのような解釈学的現象を表出しているのでしょうか。

 

透過的に言って、異種の解釈的選択が、それぞれの立場と連携しています。前者の陣営は、LXX(七十人訳)聖書の中で、もしくは新約の中で、旧約の神の民に言及している ἐκκλησίαという語の使用に注目した上で、これらは、語のテクニカルな使用ではないと主張します。つまり、これらは、さまざまな「諸集会」についての言及ではあるけれども、新約の「教会」ではありませんと。

 

彼らは言います。「神の民の単一性について語っている新約箇所(例:エペソ書)は間違いなく、『その民』と、『旧約での集会』の間に相違を打ち立てている。なぜなら、旧約の集会/教会は、イスラエルの民だけで構成されていたのだから。」

 

このようにして、一番目のグループはその立場を擁護しています。さて後者の陣営は、前者と同じデータに注目した上で、「神の民である旧約の集会を、ἐκκλησίαと考えるのは間違えではあり得ない。なぜなら、聖書記者たち自身が喜んでその語を用いているのだから」と主張しています。

 

彼らは言います。 「ギリシャ語では『集会』にも『教会』にもただ一つの単語しかあてがわれていないのに、そこにあえて区別を設けるというのは、『ペンテコステ時に教会が始まった』と主張するいかなる根拠にもなり得ない。神の教会は神の集会であり、それは旧約時代に始まったのです。」

 

そして彼らは続けてこう言います。「同じ一つのオリーブの木に(ローマ11章)そして、『新しいひとりの人』(エペソ2章)の中に、ユダヤ人も異邦人も共に集められるという事実は、ペンテコステ後の教会が、新しいからだであるという事を意味しているのではなく、それはあくまで同じからだであるけれども、拡大されたからだであるということを意味しているのです。」

 

④もちろん、私は本稿で議論を単純化しています。

 

さて、前者のグループは、その基本的立場内に多様なスタンスがありますが、全体として言えることは、このグループが往々にして、神の贖罪的諸目的における単一性、包括性に対する十分な理解なしに、神がすでに一つに合わされたものを再び分割するという危険性を持っているということです。

 

他方、後者のグループもまた、その基本的立場内に多様なスタンスがありますが、全体として言えることは、このグループが往々にして、ペンテコステ以降のἐκκλησίαに関連する「新しい」事柄を見過ごす危険性を持っているということです。例えば、新しい創造、聖霊の新しい働き、新生、新しい時代、新しい契約等です。

 

⑤ そこから見えてくるのは、このディベートにおいて、両サイドが、若干異なる事柄にフォーカスを置いているという事です。

 

もしもフォーカスが、贖われた神の民の単一性及び連続性にあり、彼らの全てが主イエスによって保証されているという点にあるのなら、もちろん、契約主義神学者側の方を強く支持するよう、聖書は要求してくるでしょう。

 

ヘブル12章にある長子たちの教会(集会)は、今生きている人も含めたーー生ける神の御座の周りに「集められている」ーー両方の契約からの聖徒を含んでいるように思われます。先ほど簡潔に概観した言語学的証拠の事実をも加えると、この主張はかなり強固だと言えます。

 

しかしながら、改革派系解釈のある種のバージョンは、聖書の筋を平べったく捉え過ぎており、その結果、「増加した情報」という点を除いては、新契約には何ら新しいものがないという理解に陥るという危険性を持っているでしょう。

 

こういった読みをしますと、例えば、新生というのが、ヨハネやパウロの時代と全く同じように、アブラハムの時代における回心を統制するものとされ、それから、聖霊の働きにしても、(ヨハネ14-16章をそのような仕方で読むことは非常に困難であるにもかかわらず)新契約下とモーセ契約下で全く一様であるという見方がなされます。しかし、多くの新約記者たちは、神の御子の到来、死、復活、昇天により、私たちが新しい時代に入ったことを確言しています。

 

とは言え、もちろん両サイドとも、その「新しさ(“newness”)」の内実を、確実に見極めることの困難性は認めています。ただし、「新契約に関連することに何も斬新性がない」、もしくは(前述したように)「新しい事といえば、我々が現在、イエスの十字架と復活のこちら側に生きているという『増加情報』ではあっても、新しい経験ではない」と主張するのは確実に間違っていると言えましょう。

 

どんなに最小に見ても、そこには、さまざまな表現や諸経験における、ある種の漸進的増し加わりがあるということは確かに言えるはずです。

 

例えば、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」という表現は、①天幕内での神の自己開示としてモーセ契約に結び付いており、②キリストの仲介的御業としての新契約に結び付いており、③新しい天と新しい地の完成における聖書の最終展望に結び付いています。

 

要するに、もしも人が、神のひとつの贖罪的計画、神のひとつの究極的、救済の犠牲、御座の前にいる神のひとつの集会、神のひとつの「恵みの契約」(←但し、この表現には少々語弊がありますが。。)、そして贖われた者たちに対する神のひとつの究極的目的に焦点を置くなら、私の見解では、改革派的契約主義の見方が正しいと思います。

 

教会は、最初の罪びとが贖われ、贖われた他の罪びとに加わり、共同する時に始まります。実に、神の御思いの中で、教会というのは、ーー世界が創造されし時より屠られた小羊(黙13:8)にまでーーはるか溯り、始まっています。

 

*訳者注:(The Lamb) who was slain from the creation of the world. 黙13:8の英語訳と日本語訳は訳し方の点で若干違いがあります。興味のある方は、日英のさまざまな聖書訳で比較検討してみてください。日本語訳比較はココ。英語訳比較はhere

 

そしてもしも誰かが、新契約の下にいる神の民に関連した「新しい」(徐々に増していく?)事柄に焦点を置いている場合、なぜその人が、「新契約下の民には適用され、旧約の聖徒には当てはまらない、そのような用語を探し求めているのか」、そこは私にも理解できます。

 

しかし問題は、「教会はペンテコステ時に始まった」というような主張は、前述したように、特殊なニュアンスを含む枠組み内で出される場合が多いと思いますが、この言明はややもすれば、それ「以上」のことをも含意しているように(外部者から)受け取られる恐れがあり、その意味で、改革派系の信者がこういった言明につまずくのは致し方ないと思います。

 

それとは反対に、「教会は、旧契約および新契約、その両方においての、神の民の総体である」というような主張は、先ほど概観したように完全に擁護可能なのですが、しかし、この言明はややもすれば、どこかで保持さればければならない契約的諸区分というのを平べったくしてしまっているように(外部者から)受け取られる恐れがあります。

 

⑥ またこの議論に関わる別の要素も在ります。

 

長老派は、この点において、契約神学の術語を保持しようとするさらなる理由を持っています。長老派の見解によると、モーセ契約、新契約、その両契約の下において、契約共同体(教会)の中枢は、選民の中枢ときっちり同一視されてはならないとされています。

 

換言すると、彼らの教会論(ἐκκλησία-ology)の構造が、「連続性」を強調するよう、ある意味、プレッシャーをかけているわけです。

 

他方、改革派バプテストの見解によると、新契約の条件の下において、契約共同体(教会)の中枢は、選民の中枢と「理想的には」同一視されなければならないーーそして、これは旧契約の下における事の運びとは違った風に働いている、と考えられています。

 

そして両者のこの見解の違いは勿論、彼らそれぞれの割礼/洗礼に対する理解の仕方と結び付いています。 長老派の見方では、割礼も洗礼も、そのどちらも、(贖われた者/選民によって構成される経験実証的共同体への参入に関し決定的に何かを言うことなく)契約共同体への参入を特徴づけるものであるとされています。

 

他方、改革派バプテストの見方では、①割礼も洗礼も、契約共同体への参入を特徴づけるものである。②しかし新契約の条件の下において、新契約共同体への参入はまた、贖われた者/選民によって構成される経験実証的共同体への参入をも特徴づけるものである、とされています。

 

つまり、この点に関し、新契約は、モーセ契約とは異なっており、少なくとも、それが、新契約を「新しいもの」にしている一要素であると彼らは考えているわけです。

 

確かに、「贖われた者」と「契約共同体」を結びつきは、旧契約の下における事の運びとは違った風に働いているというのはそうでしょう。ですから、この点において、彼らの教会論は、ある程度の「非連続性」への、ほのかなるプレッシャーがあるとみていいかと思います。

 

⑦ かくして、次の二つの問いの間には、なにがしかのパラレル関係があると思います。

「教会はいつ始まったのか?」そして、

「メシア王国の幕開けはいつだったのか?」

 

ここではテーマ上、後者の問いに対しての詳細な回答はしません。が、聖書を学ぶ人々がしばしば指摘するのが、ある意味、神の国は、イエスが御父の右の座に昇天した時に幕を開けたということです。ーーそしてイエスは最後の敵を打ち破る時まで統治し続けます。他方、受難のナラティブにおいては、イエスが十字架の上から統治しておられたことが語られています(特にマタイによる福音書とヨハネによる福音書)。

 

またそれ以前においてもすでに、神の国は、イエスの公的ミニストリーの中において幕を開けていました。また、弟子たちを通した主の御働きにあってさえも、それは見られ、現に、主は、サタンが天から落ちるのを見ました(ルカ10章)。

 

事実、イエスはユダヤ人の王としてお生まれになりました(マタイ2章)。王としてのイエスの統治と、主の復活・昇天を結ぶ聖句はたしかに多くありますが、「いつメシア王国が幕を開けたのか?」に関する選択肢の幅は、実際、好ましいことであり、示唆に富むことであり、そこには想像力をかき立てる複雑性という風味が添えられています。

 

それと同様に、「教会はいつ始まったのか?」に関する問いも、特定諸聖句のかなりストレートな釈義によっての回答は可能でしょう。しかし、です。一度、ふーっと深呼吸してみて、もう一度周りを見わたしてみると、そこには神より来、しかも想像力をかき立てる繊細さで織りなされるレイヤーがあって、それが、私たちに、異なる諸文脈の中で微妙に異なる回答を要求していることーーそれに気づくのではないかと思います。

 

ー終わりー

 

 

【追加資料7】【歴史的プレミレ】岡山英雄師 「患難期と教会(黙示録の終末論)」『福音主義神学』31 号(日本福音主義神学会、2001 年、日本語)

 

患 難 期 と 教 会 ( 黙 示 録 の 終 末 論 ) 岡 山 英 雄(PDF) 

 

1. 患 難 期 の 重 要 性

 

千 年 期 と 患 難 期

 

キ リ ス ト 教 終 末 論 に お い て は 、「 千 年 王 国 」 の 解 釈 が 議 論 の 焦 点 と な っ て き た (1) 。

 

「 千 年 の 王 国 」 は 、 キ リ ス ト の 再 臨 の 前 か 後 か 、 あ る い は 初 臨 で す で に 始 ま っ て い る の か な ど 、 こ の 問 題 は さ ま ざ ま な 角 度 か ら 論 じ ら れ 、 す で に 膨 大 な 数 の 研 究 書 が 出 版 さ れ て き た 。

 

た し か に こ の 問 題 は 、 神 の 国 の 現 在 性 と 未 来 性 の 理 解 に 関 わ る 重 要 な テ ー マ で あ る 。

 

し か し 二 千 年 の 教 会 史 を 振 り 返 る と き 、 議 論 が あ ま り に も こ の 点 に 集 中 し 、 そ の 陰 に 隠 れ て 、 も う ひ と つ の 、 お そ ら く よ り 重 要 な 側 面 の 考 察 が 見 落 と さ れ て き た の で は な い だ ろ う か 。

 

そ の 看 過 さ れ て き た 論 点 と は 、 終 末 的 な 神 の 民 の 苦 難 の 時 、 い わ ゆ る 「 患 難 期 」 の 問 題 で あ る。

 

こ の 期 間 に つ い て 、 黙 示 録 は 、 11 〜 13 章 で 、 3 種 類 の 表 現 に お い て 、 五 回 言 及 し て い る 。

 

「42 か 月 」( 11・ 2 、 13 ・ 5 )、 「1 2 6 0日 」( 11 ・ 3 、 12 ・ 6)、 「 一 時 と 二 時 と 半 時 の 間 」( 12・14)。

 

黙 示 録 で は 3 、 4 、 7 、 10 、 12 な ど の 限 ら れ た 数 字 が 、 象 徴 的 な 意 味 を 持 っ て 、 繰 り 返 し 現 れ る こ と を 考 え る と 、 こ れ は 注 目 す べ き 期 間 で あ る 。

 

( 黙 示 録 に お け る 数 字 の 象 徴 性 に つ い て は R. J. Bauckham, The Climax of Prophecy: Studies on the Book of Revelation. (Edinburgh: T. & T. Clark, 1993) P.29-37. を 参 照 せ よ 。)

 

表 現 は 異 な っ て い る が 、 こ れ ら の 期 間 は 、 1 年 を 360 日 と す る な ら 、「 三 年 半 」 と い う 同 じ 長 さ に な る 。 そ し て ほ と ん ど の 注 解 者 が 認 め て い る よ う に 、 こ れ ら は 、 ダ ニ エ ル 書 の 「 ひ と 時 と ふ た 時 と 半 時 」( 7・ 25 、12・ 7) と の 関 連 か ら 、 終 末 に お け る 神 の 民 の 苦 難 を 象 徴 す る 同 一 の 期 間 を 指 し て い る (2) 。

 

黙 示 録 に よ れ ば 、 こ れ は キ リ ス ト の 来 臨 に 先 立 つ 神 の 民 の 苦 難 の 時 で あ り 、 そ れ は 11 章 か ら 13 章 の 記 述 に と ど ま ら ず 、 17 章 か ら 18 章 の 大 バ ビ ロ ン の 物 語 、 ま た 6章 、 8 章 か ら 9 章 、 16 章 の 封 印 ・ ラ ッ パ ・ 鉢 の 三 つ の 災 い と も 結 び つ い て 、 4章 か ら 18 章 全 体 に 関 わ っ て い る 。

 

(「 三 年 半 」 は ま た 、 最 終 的 審 判 に 先 立 つ 、 三 つ の 災 い の 部 分 的 審 判 を 通 し て 、 神 が 人 間 に 警 告 を 与 え る 時 で あ り 、 前 触 れ と し て の 裁 き に よ っ て 、 人 々 が 悔 い 改 め 、 神 に 立 ち 返 る 機 会 を 与 え る 時 で あ る 。)

 

こ れ に 対 し 、 黙 示 録 に お い て 、 千 年 期 へ の 言 及 は き わ め て 少 な く 、 20 章 の 1節 か ら 10 節 に 限 定 さ れ て い る 。

 

内 容 の 多 様 性 、 記 述 量 の 豊 か さ 、 そ の 独 自 性 か ら 考 え て も 、 黙 示 録 に お い て 、「 三 年 半 」( 11 〜 13 章 ) が 「 千 年 」( 20章 ) よ り は る か に 注 目 す べ き 期 間 で あ る こ と は 明 ら か で あ る 。

 

進 歩 主 義 的 歴 史 観

 

こ の よ う に 患 難 期 は 重 要 な 期 間 で あ る に も か か わ ら ず 、 千 年 期 に 比 べ て 軽 視 さ れ 、 そ の 研 究 は こ れ ま で 充 分 に な さ れ て こ な か っ た 。

 

そ の 理 由 と し て 、 教 会 史 に お い て 支 配 的 で あ っ た 楽 観 的 、「 進 歩 主 義 的 」 な 歴 史 観 が あ げ ら れ る 。 こ の 歴 史 観 が 顕 著 に な っ た の は 、 四 世 紀 以 降 で あ る 。

 

4 世 紀 ま で 教 会 は 、 小 さ く 弱 く 、 ロ ー マ 帝 国 の 圧 倒 的 な 権 力 の 中 で 、 少 数 者 と し て 、 中 傷 さ れ 、 迫 害 さ れ る 存 在 で あ っ た 。 彼 ら は 、 自 ら が す で に 患 難 の 中 に あ り 、 や が て よ り 大 き な 患 難 の 来 る こ と を 知 り つ つ 、 殉 教 を も 恐 れ ず 証 言 を 続 け た 。

 

彼 ら に と っ て 、 現 実 の 悪 の 力 を 完 全 に 打 ち 破 る キ リ ス ト の 来 臨 は 、 切 な る 願 い で あ っ た 。 し か し 4 世 紀 初 頭 の 大 迫 害 の 後 、 コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス 帝 の キ リ ス ト 教 公 認 、 さ ら に 国 教 化 に よ っ て 、 事 態 は 大 き く 変 化 し た 。

 

教 会 は 国 家 と 一 体 化 し 、 多 数 者 と な っ て 、 勝 利 し 、 世 界 を 支 配 し つ つ 拡 大 し 、 神 の 国 を 地 上 で 実 現 す る 存 在 と な っ た 。

 

( J ・ モ ル ト マ ン 「 神 の 到 来 ― ― キ リ ス ト 教 的 終 末 論 J ・ モ ル ト マ ン 組 織 神 学 論 叢 5 」 新 教 出 版 社 、 1996年 、 233 〜 312頁 を 参 照 せ よ 。 ま た こ の よ う な 優 れ た 分 析 に も か か わ ら ず 、 モ ル ト マ ン は こ の 書 に お い て 、 患 難 期 に つ い て 、 全 く 言 及 し て い な い こ と に 注 意 せ よ 。)

 

そ の 結 果 、 終 末 論 も 大 き く 変 質 し 、 キ リ ス ト の 来 臨 へ の 切 実 な 待 望 は 失 わ れ 、 地 上 の 患 難 期 は 実 際 的 な 意 味 を 持 た な く な っ た 。

 

こ の よ う な 進 歩 史 観 は 、 カ ト リ ッ ク 教 会 の 成 立 と 発 展 に と も な い 、「 公 認 」 の 見 解 と な り 、 中 世 を 支 配 し 、 ま た 宗 教 改 革 に お い て も 、 ル タ ー や カ ル ヴ ァ ン も 終 末 論 に 関 し て は 、 中 世 の 基 本 的 な 枠 組 み を ほ ぼ 踏 襲 し た 。

 

ま た こ の 楽 観 的 な 歴 史 観 は 、「 西 欧 」 キ リ ス ト 教 社 会 に よ る 世 界 の 「 文 明 化 」 と い う 植 民 地 支 配 的 な 宣 教 論 へ と 展 開 し た 。

 

さ ら に 近 代 の 「 啓 蒙 」 思 想 に よ っ て 、 そ の 哲 学 的 な 支 持 を 得 て 強 化 さ れ 、 ま た 生 物 学 に お け る 進 化 論 の 強 い 影 響 も 受 け 、 科 学 の 発 達 に と も な う 「 技 術 的 ユ ー ト ピ ア 」( E ・ ス フ ー ル マ ン 「 技 術 文 化 と 技 術 社 会 」( す ぐ 書 房 、 1984 年 ) 30頁 ) へ の 信 仰 と 結 び つ い て い っ た 。

 

千 年 期 後 再 臨 説

 

こ の よ う に 患 難 期 を 過 小 評 価 す る 傾 向 は 、 キ リ ス ト 教 終 末 論 に お い て は 、 千 年 期 後 再 臨 説 に お い て 顕 著 で あ る 。 こ の 説 に よ れ ば 、 教 会 の 黄 金 時 代 、 地 上 の 「 千 年 王 国 」 の 後 に 、 キ リ ス ト が 来 臨 す る 。

 

(S. J. Grenz, Millennial Maze: Sorting Out Evangelical Options. (Downers Grove: Inter Varsity Press, 1992) P.65-90. を 参 照 せ よ 。)

 

特 に そ の 中 で も 、 終 末 的 患 難 に 関 す る 預 言 の ほ と ん ど は 、 70 年 の エ ル サ レ ム 崩 壊 で 成 就 し た と 断 言 す る 者 が い る 。

 

(J.J. Davis, Christ's Victorious Kingdom: Postmillennialism Reconsidered. (Grand Rapids: Baker, 1986) P.114. を 見 よ 。 ま たD. Chilton た ち の リ コ ン ス ト ラ ク シ ョ ン 運 動 も 同 様 の 患 難 期 理 解 に 基 づ い て い る 。)

 

こ れ ら の き わ め て 一 面 的 な 歴 史 観 に お い て は 、 来 臨 前 の 患 難 期 が 意 味 を 持 た な く な る の は 当 然 で あ る 。

 

し か し 、 こ の 説 は 、 オ リ ー ブ 山 で の イ エ ス の 「 苦 難 の 日 」 に つ い て の 預 言 、 パ ウ ロ の 「 困 難 な 時 代 」 に つ い て の 警 告 ( Ⅱ テ モ テ 3 章 )、 黙 示 録 の 「 獣 の 国 」 と の 戦 い へ の 備 え を 無 視 し た も の で あ り 、 偽 り の 「 平 安 」 に 神 の 民 を 安 住 さ せ る も の で あ ろ う ( エ レ ミ ヤ 6 ・ 14 、 13 ・ 13 〜16 )。

 

1974年 の ロ ー ザ ン ヌ 会 議 は 、 キ リ ス ト 者 の 「 社 会 的 責 任 」 の 意 義 を 指 摘 し た 点 で 、 画 期 的 な も の で あ っ た が 、 終 末 論 的 な 考 察 は 十 分 で あ る と は い え な い 。

 

と り わ け 患 難 期 や 黙 示 録 に つ い て の 言 及 が ほ と ん ど な い の は 、 ポ ス ト ・ コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス 主 義 を 超 え る こ と の 困 難 さ 、 ま た 西 欧 近 代 キ リ ス ト 教 進 歩 史 観 の 持 つ 限 界 を 示 し て い る と 思 わ れ る 患 難 期 に お け る 教 会 の あ り 方 を 研 究 す る こ と は 、 教 会 と は 何 か 、 世 界 と は 何 か 、 歴 史 と は 何 か を 問 う こ と で あ る 。

 

一 方 、 患 難 期 を 強 調 す る と 、 歴 史 的 な 悲 観 主 義 、 敗 北 主 義 に 陥 り 、 そ の よ う な 逃 避 主 義 は 「 社 会 的 責 任 」 の 放 棄 へ とつ な が る と の 批 判 が あ る 。

 

だ が 果 た し て そ う だ ろ う か 。 む し ろ 楽 観 的 な 歴 史 観 に 安 住 し 、 地 上 の ユ ー ト ピ ア を 夢 見 て 、 危 機 的 な 現 状 に 目 を 閉 ざ す こ と こ そ 、 幻 想 で し か な い 希 望 と 偽 り の 平 安 に 酔 い 痴 れ る こ と で あ ろ う (3) 。

 

患 難 期 は 現 実 で あ り 、 す べ て の 時 代 の 神 の 民 に と っ て 信 仰 の リ ア リ テ ィ で あ る 。

 

混 迷 を 深 め る 現 代 に お い て 、 表 面 的 な 事 象 に 目 を 奪 わ れ る こ と な く 、 そ れ を 動 か し て い る も の の 実 体 を 見 極 め 、 そ の 奥 に 潜 む 闇 の 力 と 戦 い つ つ 、 な お そ れ を 超 え た 勝 利 と 希 望 に 生 き る こ と こ そ 、 教 会 が 教 会 と し て 地 上 に 立 て ら れ て い る こ と の 意 義 で あ り 、 真 の 意 味 で そ の 「 社 会 的 責 任 」 を 果 た す こ と で あ ろ う 。

 

デ ィ ス ペ ン セ ー シ ョ ナ リ ズ ム

 

こ の よ う に 患 難 期 が 千 年 期 に 比 べ て 軽 視 さ れ て 来 た 中 で 、 患 難 期 に つ い て の 詳 し い 研 究 は デ ィ ス ペ ン セ ー シ ョ ナ リ ズ ム の 神 学 者 た ち に よ っ て な さ れ て き た 。

 

こ の 神 学 は 19世 紀 半 ば 、 イ ギ リ ス の J ・ ダ ー ビ ィ ら に よ っ て 唱 え ら れ 、 20世 紀 に ア メ リ カ で フ ァ ン ダ メ ン タ リ ズ ム 運 動 と 結 び つ い て 急 速 に 広 ま っ た (Grenz (1992) p.91-125 )。

 

こ の 神 学 は 、 預 言 の 研 究 に 力 を 注 ぎ 、 聖 書 の 歴 史 性 を 強 調 し 、 終 末 へ の 関 心 を 呼 び 起 こ し た と い う 点 で は 大 き な 意 義 を 持 つ が 、 ひ と つ の 根 本 的 な 問 題 を は ら ん で い る 。

 

そ れ は そ の 特 殊 な 終 末 論 、 と り わ け 「 患 難 期 前 携 挙 説 」 で あ る 。

 

彼 ら は 、 教 会 と イ ス ラ エ ル を 峻 別 し て 、 患 難 期 に 、 教 会 は 携 挙 さ れ て 天 に あ り 、 イ ス ラ エ ル は 地 上 に 残 さ れ る と す る 。

 

こ の 説 に 立 つ な ら 、 い か に 患 難 期 の 種 々 相 を 詳 し く 研 究 し た と し て も 、 そ れ ら は す べ て 、 単 な る カ レ ン ダ ー 的 興 味 か ら 、 世 界 歴 史 の こ れ か ら の 動 向 を 予 測 す る と い う 枠 を 抜 け 出 す こ と は で き な い 。

 

な ぜ な ら 天 に 挙 げ ら れ た 教 会 に と っ て 、 地 上 の 患 難 期 は 本 質 的 に 無 関 係 で あ っ て 、 そ の 結 果 、 患 難 期 と 教 会 の 関 係 、 と く に 苦 難 の 中 に あ る 教 会 の あ り 方 に つ い て の 分 析 が 全 く 欠 落 し て し ま う か ら で あ る 。

 

患 難 期 後 携 挙 説

 

患 難 期 前 携 挙 説 が 釈 義 的 に 成 り 立 ち 得 な い こ と に 関 し て は 、 す で に ラ ッ ド と ワ ル ブ ー ド の 1950 年 代 の 論 争 が あ り

 

(G.E.Ladd, The Blessed Hope. (Eerdmans, 1956)) 、 ま た そ の 後 、R. H. Gundry のThe Church and the Tribulation: A Biblical Examination of Posttribulaitonism. (Zondervan, 1973) や 、The Rapture: Pre,-Mid,-or Post-Tribulational?. (Zondervan, 1984) と い う 優 れ た 論 文 集 も 出 版 さ れ て い る の で 詳 細 は 省 略 す る が ( 特 に そ の 中 の 、D.J.Moo の 論 文 P.169-211 を 見 よ 。) (4)

 

い く つ か の 重 要 な 点 の み を 指 摘 す る な ら

 

(1) 患 難 期 前 携 挙 説 は 、 教 会 史 に お い て き わ め て 歴 史 の 浅 い 特 殊 な 説 で あ っ て 、 初 代 教 会 か ら 中 世 、 宗 教 改 革 を 経 て 18世 紀 に 至 る ま で 、 こ の よ う な 終 末 論 は 存 在 し な か っ た 。( 近 年 こ の 説 に は 大 き な 変 化 が あ り 、「 漸 進 的 デ ィ ス ペ ン セ ー シ ョ ナ リ ズ ム 」 と 呼 ば れ る 説 を と る 者 た ち は 患 難 期 前 携 挙 を 不 可 欠 の も の と は 考 え な い 。)

 

(2) 黙 示 録 の 記 述 の ほ と ん ど は 、 患 難 期 に か か わ る も の で あ る 。 患 難 の 時 代 に お け る 神 の 民 の あ り 方 、 警 告 と 励 ま し 、 戦 い と 勝 利 な ど が 、 こ の 書 の 主 題 で あ る 。( 患 難 期 前 携 挙 説 を と る 者 は 、 黙 4・ 1 で 教 会 は 天 に 携 挙 さ れ 、 四 章 以 下 は 地 上 に 残 さ れ た イ ス ラ エ ル の た め の も の で あ る と す る が ( ワ ル ブ ー ド )、 現 代 の 主 要 な 注 解 者 で 、 こ の よ う な 解 釈 を 支 持 す る 者 は い な い 。)

 

(3) マ タ イ 24 ・ 1〜 31は 、 反 キ リ ス ト の 出 現 、 患 難 期 、 続 い て 再 臨 と い う 終 末 的 順 序 を 示 唆 し て い る 。

 

(4) Ⅱ テ サ ロ ニ ケ 2 ・ 1 〜 12 に よ れ ば 、 教 会 は 、 反 キ リ ス ト ( 不 法 の 人 、 滅 び の 子 ) の 支 配 す る 患 難 期 を 通 っ て 再 臨 の 主 に 会 う 。「 ま ず 背 教 が 起 こ り 、 不 法 の 人 が 現 れ な け れ ば 主 の 日 は 来 な い 。」( Ⅱ テ サ 2・ 3)。

 

(5) 患 難 (θλιψις) の 用 例 を 見 る と 、 患 難 は 教 会 に と っ て 避 け る べ き も の で は な く 、 教 会 の 地 上 に お け る 本 質 的 な あ り 方 で あ る ( ロ マ 5 ・ 3 、 2 、 Ⅱ コ リ ン ト 4 ・ 17 )。

 

( た と え ば イ エ ス の 預 言 「 あ な た が た は 世 に あ っ て は 患 難 があ り ま す 」( ヨ ハ ネ 16 ・ 33 ) や 、 パ ウ ロ の 警 告 「 私 た ち は こ の よ う な 苦 難 に 会 う よ う に 定 め ら れ て い る 」( Ⅰ テ サ 3 ・ 3 ) な ど )。

 

神 の 民 は 「 多 く の 苦 し み を 経 て 」( 使 徒 14・ 22 )、 苦 難 に よ っ て 煉 ら れ 、 清 め ら れ 、 純 化 さ れ て ( 詩 篇 66 ・ 10 、 ダ ニ 11 ・ 35 、 ゼ カ リ ヤ 13 ・ 9 、 マ ラ キ 3 ・ 2 、3 )、 神 の 国 に 入 り 、 再 臨 の 主 に 会 う 。

 

2. 患 難 期 と 神 の 民

 

神 の 民 の 迫 害

 

そ れ で は こ の 終 末 的 患 難 の 時 、「 三 年 半 」 と は ど の よ う な 期 間 な の だ ろ う か 。 黙 示 録 に よ れ ば 、 そ の 期 間 を 特 徴 づ け て い る の は 神 の 民 の 迫 害 で あ る 。

 

「 42 か 月 」(11 ・ 2 、13・5) と は 「 聖 な る 都 」 が 異 邦 人 に よ っ て 踏 み に じ ら れ る 時 で あ り 、 ま た 「 海 か ら 上 っ て 来 る 獣 」 が 活 動 し 、 全 世 界 を 支 配 す る (13 ・ 7 ) 時 で も あ る 。

 

黙 示 録 は こ の 期 間 を 、 神 に 敵 対 す る 闇 の 力 を 四 つ の シ ン ボ ル 、「 竜 」( 12 章 )、「 海 の 獣 」( 13章 )、「 地 の 獣 」( 13章 ) そ し て 「 大 淫 婦 」(17 〜18 章 ) に よ っ て 描 き 出 す 。

 

こ れ ら の 悪 の 諸 力 を 統 括 す る 「 悪 魔 」 は 、「 大 き な 赤 い 竜 」 と し て 描 か れ る が 、 彼 は 天 か ら 投 げ 落 と さ れ 、「 自 分 の 時 の 短 い こ と 」(12・12 ) を 知 っ て 、 激 し く 怒 り 、「 女 」 そ し て 「 女 の 子 孫 」( 神 の 民 ) に 戦 い を 挑 み (12 ・17 )、 自 ら の 手 下 で あ る 二 匹 の 獣 と 大 バ ビ ロ ン を 使 っ て 、 彼 ら を 攻 撃 す る 。

 

「 竜 」 は 「 海 か ら 上 っ て 来 る 獣 」 に 自 ら の 「 力 と 位 と 大 き な 権 威 」(13・2 ) を 与 え る の で 、 こ の 「 獣 」 は 、 神 を け が し (13・6 )、 聖 徒 た ち に 打 ち 勝 ち 、 あ ら ゆ る 「 部 族 、 民 族 、 国 語 、 国 民 」 を 支 配 す る (13 ・7)。

 

こ の「 海 の 獣 」 は 、 政 治 的 権 力 、 軍 事 力 に よ る 支 配 を 象 徴 す る が 、「 地 か ら 上 っ て く る 獣 」(13・11 ) は 、「 に せ 預 言 者 」 ( 16・13 ) と も 呼 ば れ 、 宗 教 的 権 威 に よ る 支 配 を 表 す 。

 

こ の 「 地 の 獣 」 は 、「 海 の 獣 」 の 持 つ 権 威 を 働 か せ ( 13・12 )、 さ ま ざ ま な 奇 跡 に よ っ て 人 々 を 惑 わ し 、「 海 の 獣 」 の 像 を 造 ら せ 、 そ れ を 礼 拝 さ せ 、 従 わ な い 者 を 殺 さ せ る (13・15 )。

 

ま た す べ て の 人 に 「 獣 の 刻 印 」 を 受 け さ せ 、 そ れ を 持 た な い 者 の 商 品 の 売 買 を 禁 止 す る (13・17 )。

 

ま た 「 海 の 獣 」 は 「 緋 色 」 で あ り 、「 大 淫 婦 」 を そ の 背 に 乗 せ る (17・3) が 、 彼 女 は 「 大 バ ビ ロ ン 」(17 ・ 6) と 呼 ば れ 、 地 に 住 む 人 々 を 「 不 品 行 の ぶ ど う 酒 」 で 酔 わ せ (17・2 )、 地 上 の 王 た ち を 支 配 し ( 17・18)、 商 人 た ち を 富 ま せ る が ( 18・3)、 聖 徒 た ち と イ エ ス の 証 人 た ち の 血 に 酔 い 痴 れ る ( 17・ 6、18・24)。

 

彼 女 は 、 経 済 的 な 繁 栄 と 道 徳 的 頽 廃 に よ っ て 、 偽 り の 陶 酔 と 人 々 を 誘 い 込 む 。

 

こ れ ら 三 者 ( 獣 、 に せ 預 言 者 、 大 バ ビ ロ ン ) は 緊 密 に 結 び あ っ て 、 根 源 的 支 配 者 で あ る 竜 ( サ タ ン ) の 邪 悪 な 目 的 を 地 上 で 達 成 す る た め に 、 神 の 民 を 、 政 治 的 栄 光 、 宗 教 的 奇 跡 、 経 済 的 繁 栄 の 三 つ の 側 面 か ら 誘 惑 し 、 攻 撃 す る 。

 

( 特 に 経 済 的 側 面 に つ い て はBauckham (1993) P.338-383 を 参 照 せ よ 。)

 

「 竜 」 を 含 め た こ の 四 者 は 、 神 に 敵 対 す る 霊 的 存 在 と し て 、 そ の 本 質 を 同 じ く す る 。

 

ハ ル マ ゲ ド ン の 戦 い に お い て 地 上 の 王 た ち を 集 め る た め に 「 竜 、 獣 、 に せ 預 言 者 」 の 口 か ら 出 た の は 「 か え る の よ う な 汚 れ た 霊 、 し る し を 行 う 悪 霊 ど も の 霊 」(16・13〜 14) で あ り 、 倒 さ れ た 大 バ ビ ロ ン は 「 悪 霊 の 住 ま い 、 汚 れ た 霊 の 巣 窟 」(18・2) で あ っ た 。

 

「 三 年 半 」 と は 、 こ の よ う な 悪 の 諸 力 が 結 託 し て 、 神 の 民 を 激 し く 襲 い 、 迫 害 す る 時 で あ る (5) 。

 

神 の 民 の 保 護

 

し か し 激 し い 迫 害 の 中 で も 、 神 の 民 は 完 全 に 守 ら れ る 。「 42か 月 」 の 間 、 聖 所 の 「 外 の 庭 」 は 異 邦 人 に よ っ て 踏 み に じ ら れ る が 、「 神 の 聖 所 と 祭 壇 、 そ こ で 礼 拝 し て い る 者 」 は 、 測 り ざ お に よ っ て 測 ら れ 、 守 ら れ る ( 11・1)。

 

ま た 「 女 」 の 産 む 「 男 の 子 」( キ リ ス ト ) が 、 彼 を 食 い 尽 く そ う と す る 「 竜 」 か ら 守 ら れ 神 の 御 座 へ 引 き 上 げ ら れ た よ う に (12・ 4〜 5)、「 女 」( 教 会 ) も ま た 、 激 し く 追 い 迫 る 「 竜 」 か ら 逃 れ 、 大 わ し の 翼 を 与 え ら れ 、 荒 野 へ 飛 ん で ゆ き ( 12・1 )、「 神 に よ っ て 備 え ら れ た 場 所 」 で 「 1260 日 」 の 間 ( 12 ・6)、「 一 時 と 二 時 と 半 時 の 間 」 ( 12・14)、 か く ま わ れ 、 養 わ れ る 。

 

キ リ ス ト が 神 に よ っ て 守 ら れ た よ う に 、 キ リ ス ト の 教 会 も ま た 神 に よ っ て 完 全 に 保 護 さ れ る 。

 

同 じ く 「 ふ た り の 証 人 」( 神 の 民 ) は 、 預 言 を し て い る 「 1260 日 」 の 間 ( 11・ 3)、「 彼 ら に 害 を 加 え よ う と す る 者 」 の 手 か ら 完 全 に 守 ら れ る ( 11・5)。 こ の よ う に 神 の 守 り は 、 迫 害 の 中 で も 完 全 で あ る 。

 

神 の 民 の 証 言

 

さ ら に こ の 「 三 年 半 」 は 、 神 の 民 が 受 動 的 に 、 迫 害 さ れ た り 保 護 さ れ た り す る の み な ら ず 、 積 極 的 に 困 難 の 中 で も 証 言 を 続 け る 期 間 で も あ る 。

 

「 ふ た り の 証 人 」 の 幻 が 、 こ の 側 面 を 最 も 鮮 や か に 描 き 出 す 。 彼 ら は 、「 1260日 」 の 間 、「 二 本 の オ リ ー ブ の 木 」、「 二 つ の 燭 台 」 と し て 、 全 地 の 主 の 御 前 で 預 言 す る が ( 11・ 3〜 4)、 証 言 の た め に 、 火 に よ っ て 敵 を 滅 ぼ し 、 天 を 閉 じ 、 水 を 血 に 変 え 、 災 害 に よ っ て 地 を 打 つ 力 を 与 え ら れ て い る 。

 

彼 ら の 証 言 は 、 邪 悪 な 王 ア ハ ブ に 対 す る 預 言 者 エ リ ヤ や 、 頑 な な 王 パ ロ に 対 す る 解 放 者 モ ー セ の よ う な 権 威 を 、 神 か ら 与 え ら れ て い る ( 11・ 5〜 6)。

 

ま た 神 の 民 は 、「 死 に 至 る ま で も い の ち を 惜 し む こ と な く 」、 小 羊 の 血 と 自 分 た ち の 「 証 言 の こ と ば 」 の ゆ え に 「 竜 」 に 打 ち 勝 つ ( 12・11)。

 

「 竜 」 は 、 女 の 子 孫 の 残 り の 者 、 す な わ ち 「 神 の 戒 め を 守 り 、 イ エ ス の あか し 」 を 堅 く 保 っ て い る 者 ( 12 ・ 17) と 戦 う が 、 彼 ら は 屈 す る こ と な く 、「 竜 」 の 手 先 で も あ る 「 大 バ ビ ロ ン 」 の 迫 害 の 中 で も 、「 イ エ ス の 証 人 」( 17・6) と し て の 生 涯 を 全 う す る 。

 

こ の よ う に 「 三 年 半 」 と は 、 神 の 民 が 迫 害 の 中 で も 保 護 さ れ 、 証 言 を 続 け る 期 間 で あ る (6) 。

 

3.患 難 期 は い つ か

 

「 3 年 半 」 の 過 去 性

 

そ れ で は 「 三 年 半 」 と は い つ の こ と な の だ ろ う か 。 そ れ は 、 す で に 過 ぎ 去 っ た の か 、 い ま 来 て い る の か 、 そ れ と も や が て 来 る の だ ろ う か 。

 

こ の 議 論 に 関 し て 最 も 重 要 な こ と は 、 こ れ は 必 ず し も 二 者 択 一 的 な 問 題 で は な い と い う 点 で あ る 。「 三 年 半 」 は 過 去 、 現 在 、 未 来 の そ れ ぞ れ に 深 く 関 わ っ て い る 。

 

こ の よ う な 「 時 」 に 関 す る 理 解 こ そ が 、 黙 示 録 の 解 釈 、 ま た 聖 書 の 終 末 論 の 核 心 に あ る 。

 

ま ず 「 三 年 半 」 は 過 去 的 な 性 格 を 持 つ 。 黙 示 録 が 執 筆 さ れ た 1世 紀 末 、 著 者 の ヨ ハ ネ は 、 ロ ー マ 皇 帝 ド ミ テ ィ ア ヌ ス 帝 に よ る 迫 害 の 中 で パ ト モ ス 島 に 流 さ れ 、「 イ エ ス に あ る 苦 難 」( 1・ 9) に あ ず か っ て い た 。

 

ま た 同 じ 頃 、 ペ ル ガ モ の ア ン テ ィ パ ス は 「 忠 実 な 証 人 」 と し て 殺 さ れ た ( 2・13)。 忠 実 な 二 つ の 教 会 、 ス ミ ル ナ と フ ィ ラ デ ル フ ィ ア の 教 会 は と も に 、 ユ ダ ヤ 人 だ と 自 称 す る が 実 は そ う で は な い 「 サ タ ン の 会 衆 」 に よ っ て 「 の の し ら れ て い た 」( 2・9 、3・9 )。

 

ま た 第 五 の 封 印 が 解 か れ た と き 、 ヨ ハ ネ は 「 神 の こ と ば と 自 分 た ち が 立 て た あ か し と の た め に 殺 さ れ た 人 々 」(6・9) が 天 に い る の を 見 た 。

 

さ ら に 海 の 獣 、 地 の 獣 、 大 バ ビ ロ ン が 、 1世 紀 の ロ ー マ 帝 国 の 政 治 的 、 宗教 的 、 経 済 的 側 面 を 象 徴 し て い る こ と は 、 多 く の 注 解 者 が 認 め て い る 。

 

す な わ ち 1 世 紀 末 、 教 会 は す で に 苦 難 の 「 三 年 半 」 の 中 に あ っ た 。 黙 示 録 は 何 よ り も ま ず 、 患 難 の 中 に あ る 同 時 代 の キ リ ス ト 者 を 慰 め 励 ま す た め に 書 か れ た 。 そ の 意 味 で 、 終 末 的 な 患 難 の 時 は 、 ヨ ハ ネ が こ の 書 を 書 き 記 し た 時 、 す で に 来 て い た (7) 。

 

「 3 年 半 」 の 未 来 性

 

ま た こ の 「 三 年 半 」 は 過 去 の 苦 難 を 指 す と と も に 、 未 来 の 苦 難 を も 意 味 す る 。

 

終 末 に お い て 神 の 民 を 迫 害 す る 悪 の 力 は 、 一 般 的 に は 「 反 キ リ ス ト 」( 1ヨ ハ ネ 2 ・ 18) ま た 「 荒 ら す 憎 む べ き 者 」( マ タ イ 24 ・ 15 )、「 不 法 の 人 、 滅 び の 子 」( Ⅱ テ サ 2 ・3 )、「 海 か ら の 獣 」( 黙 13 ・1 ) な ど と 呼 ば れ て い る が 、 彼 は 1世 紀 の ロ ー マ 帝 国 の 強 大 な 国 家 権 力 を 象 徴 す る と と も に 、 や が て 来 臨 直 前 に 現 れ る 巨 大 な 悪 の 力 を も 指 し 示 す 。

 

黙 示 録 17章 に よ れ ば 、 こ の 「 獣 」 は 「 今 は い な い 」、 そ し て 「 や が て 」 底 知 れ ぬ と こ ろ か ら 上 っ て 来 る ( 17・ 8 )。

 

こ の 未 来 性 は 同 じ 節 で 再 度 強 調 さ れ て い る 。 こ の 「 獣 」 は 「 今 は お ら ず 、 や が て 現 れ る 」( 17・ 8)。 ま た 彼 は 、「 七 人 の 王 た ち 」 の ひ と り と し て も 描 か れ て い る が 、 こ の 七 番 目 の 王 は 「 ま だ 来 て い な い 」( 17・10)。

 

こ の 「 獣 」 は 「 三 年 半 」 の 迫 害 の 中 心 的 な 存 在 な の で 、「 獣 」 の 未 来 性 は す な わ ち 「 三 年 半 」 の 未 来 性 を 意 味 す る 。

 

さ ら に こ の 「 獣 」 は 「 竜 」 や 「 に せ 預 言 者 」 と と も に 、 全 世 界 の 王 た ち を ハ ル マ ゲ ド ン の 戦 い の た め に 集 め る が ( 16・ 12 〜 16)、 こ れ が キ リ ス ト の 来 臨 に 先 立 つ 、 未 来 的 、 終 末 的 な 戦 い で あ る こ と は 広 く 受 け 入 れ ら れ て い る 。

 

す な わ ち 黙 示 録 は 、 執 筆 さ れ た 当 時 の 一 世 紀 の 困 難 な 時 代 を 「 三 年 半 」 と 見 る と と も に 、 未 来 の 来 臨 直 前 の 全 世 界 的 な 迫 害 の 時 代 を も 「 三 年 半 」 と 呼 ん で い る 。

 

「 3 年 半 」 の 現 在 性

 

こ の よ う に 「 三 年 半 」 は 過 去 性 と 未 来 性 の 双 方 の 要 素 を 持 つ が 、 こ の 期 間 は そ れ に と ど ま ら ず 、 も う ひ と つ の 側 面 、 現 在 性 を 持 つ 。

 

神 の 民 の 苦 難 は 、 1世 紀 や 、 来 臨 直 前 に 限 定 さ れ る こ と な く 、 教 会 の 全 歴 史 を 貫 い て 普 遍 的 で あ る 。 真 の 教 会 は 、 ど の よ う な 時 代 に あ っ て も 常 に 患 難 の 中 に あ る 。

 

「 三 年 半 」 を 過 去 的 あ る い は 未 来 的 に 解 釈 す る な ら 、 か な り の 程 度 ま で 字 義 通 り に 、 実 際 の 三 年 半 と し て 理 解 す る こ と も で き る 。 し か し そ れ を 二 千 年 近 い キ リ ス ト 教 史 と 関 連 づ け る な ら 、 当 然 の こ と な が ら 、「 三 年 半 」 は 文 字 通 り で は あ り え ず 、 象 徴 的 な 期 間 と な る 。

 

「 三 年 半 」 の 現 在 性 、 全 教 会 史 と の 関 係 を 強 く 示 唆 す る の は 、「 ふ た り の 証 人 」 が 証 言 す る 期 間 と し て の 「 1260日 」( 11・ 3) で あ る 。

 

む ろ ん 、「 ふ た り の 証 人 」 は 終 末 に 現 れ る ふ た り の 特 別 な 人 物 と 理 解 す る こ と も で き る 。

 

(G. E. Ladd, は こ の 説 を 採 る 。A Commentary in The Revelation of John. (Grand Rapids: Eerdmans, 1972) P.154 を 見 よ 。)

 

し か し こ の 解 釈 を 支 持 す る も の は 少 な く 、 む し ろ 彼 ら は 、「 二 つ の 燭 台 」 と も 呼 ば れ て お り 、「 燭 台 」 は 「 教 会 」 で あ る ( 1・ 20) と 説 明 さ れ て い る こ と か ら 、 教 会 論 的 な 理 解 が ふ さ わ し い (Beale (1999) P.572-585 )。

 

と す る な ら 、 こ の 「 1260 日 」 は 、 地 上 に 立 て ら れ た 神 の 教 会 が 、「 世 の 光 」 と し て 証 言 を 続 け る 働 き の 全 体 を 示 し て い る こ と に な り 、 あ ら ゆ る 時 代 の 、 教 会 の 証 人 と し て の 役 割 に 関 係 し て い る 。

 

さ ら に 患 難 (θλιψις ) の 用 例 ( 新 約 聖 書 で 45回 ) は 、 未 来 の 大 き な 患 難 が 、 現 在 の 苦 難 と 質 的 に 連 続 し て い る こ と を 示 唆 す る 。

 

や が て 来 る 未 来 の 患 難 を 意 味 し て い る 用 例 は 四 回 あ り 、 そ れ ら は オ リ ー ブ 講 話 に お い て 現 れ る が ( マ タ イ 24 ・ 2、 29 、 マ ル コ 13 ・ 9、 24・ 29)、 他 の 40回 の 用 例 は す べ て 、 す で に 起 こ っ て い る 患 難 を 示 し 、 ま た 「 陣 痛 」 を も 意 味 す る ( ヨ ハ ネ 16・ 21 )。

 

す な わ ち 終 末 の 大 患 難 は 、 初 代 教 会 が 受 け た 、 ま た 全 時 代 の 教 会 の 受 け て い る 苦 難 と 、 質 的 に は 連 続 し て い る 。 来 臨 の 前 に 、 そ れ ま で は 局 地 的 で あ っ た 迫 害 が 、 全 世 界 的 な 規 模に 拡 大 し 、 か つ て な か っ た ほ ど に 激 化 す る 。

 

し か し そ の 違 い は 、 量 的 な も の で あ っ て 、 質 的 な も の で は な い 。

 

「 三 年 半 」 は 、 す で に 来 た 過 去 の 期 間 、 来 つ つ あ る 現 在 の 期 間 、 そ し て や が て 来 る 未 来 の 期 間 を 意 味 し て い る 。

 

「 獣 」 は 1世 紀 の ロ ー マ 帝 国 で あ る と と も に 、 世 界 史 の 中 で た び た び 現 れ た 自 己 神 格 化 し た 国 家 で も あ り 、 ま た 来 臨 直 前 の 大 患 難 期 に 現 れ る 全 世 界 を 支 配 す る 反 神 的 な 権 力 で も あ る 。

 

「 三 年 半 」 に 象 徴 さ れ る 患 難 と は 、 黙 示 録 が 書 き 送 ら れ た 1 世 紀 の 教 会 の 現 実 で あ る と と も に 、 あ ら ゆ る 時 代 に お い て 真 の 教 会 が 地 上 で 直 面 す る 苦 難 の 総 称 で も あ り 、 ま た そ の 頂 点 と し て の 来 臨 直 前 の 全 世 界 的 な 大 き な 患 難 で も あ る 。

 

神 の 国 が 現 在 性 と 未 来 性 の 二 つ の 面 を 持 つ こ と は 、 す で に 詳 し く 論 じ ら れ て 来 た 。

 

(G. E. Ladd, The Presence of the Future: The Eschatology of Biblical Realism. (London: S.P.C.K., 1974) P.23-42, 149-170. を 参 照 せ よ 。)

 

し か し 患 難 期 の 持 つ こ の よ う な 多 様 な 時 間 的 側 面 に つ い て は 、 こ れ ま で ほ と ん ど 指 摘 さ れ て は い な い 。

 

( 患 難 期 前 携 挙 説 は 「 三 年 半 」 の 未 来 性 の み を 強 調 し 、 ま た 千 年 期 後 再 臨 説 は 「 三 年 半 」 の 過 去 性 の み を 強 調 し て 、 そ れ ぞ れ 他 の 重 要 な 側 面 を 見 落 と し て い る 。)

 

黙 示 録 が 書 か れ た の は 、 1世 紀 末 、 強 大 な ロ ー マ 帝 国 の 支 配 の 中 で 、 少 数 者 と し て 苦 し む 神 の 民 を 励 ま す た め で あ っ た 。

 

し か し 同 時 に 、 そ れ は 困 難 な 戦 い の な か に 生 き る 全 時 代 の 神 の 民 を 奮 い 立 た せ 、 ま た 終 末 の 患 難 の 時 代 に 向 け て 、 神 の 民 を 訓 練 し 、 整 え 、 備 え て ゆ く た め の も の で あ る 。

 

苦 難 か ら 栄 光 へ

 

こ の よ う に 黙 示 録 の 終 末 論 、 い や 聖 書 の 終 末 論 の 核 心 に あ る の は 、 患 難 期 に お け る 教 会 の あ り 方 へ の 深 い 洞 察 に 基 づ い た 励 ま し で あ る 。

 

患 難 期 に お い て 、 教 会 は 迫 害 を 受 け る が 、 そ の 中 で も 神 の 保 護 は 完 全 で あ り 、 証 言 を 続 け て 、 殉 教 を も 恐 れ る こ と は な い 。

 

ま た 神 の 国 と 獣 の 国 、 光 の 支 配 と 闇 の 支 配 、 神 の 民 の 祝 福 と 患 難 は 、 キ リ ス ト 教 終 末 論を 形 成 す る 二 つ の 要 素 で あ り 、 双 方 を 視 野 に 入 れ る こ と な く し て 、 真 に 聖 書 的 な ダ イ ナ ミ ッ ク な 終 末 論 を 構 築 す る こ と は で き な い 。

 

(H. Berkhof は 鋭 い 歴 史 的 洞 察 に よ っ て 、 両 者 の 対 照 の 重 要 性 を 指 摘 し て い る 。Christ the Meaning of History. (1962) Tr. by L. Buurman (Grand Rapids: Baker, 1979) P.101-177.)

 

混 在 し つ つ 成 長 し 続 け て い た 「 麦 」 と 「 毒 麦 」 ( マ タ イ 13・ 30) は 、 収 穫 の 時 を 迎 え 、 そ れ ぞ れ の 本 質 的 な 特 徴 を あ ら わ に す る 。

 

最 終 的 な 「 刈 り 取 り 」 を 前 に 、 神 の 国 と 獣 の 国 が 鋭 く せ め ぎ あ い 、 光 の 国 と 闇 の 国 と の 戦 い が 激 化 し 、 そ の 究 極 の 姿 を 明 ら か に す る 。

 

と く に 来 臨 前 の 患 難 期 に お い て 、 両 者 は そ の 相 違 を 明 確 に し 、 地 上 の 民 は 、 神 の 民 と 獣 の 民 と に 二 分 さ れ て ゆ く 。

 

獣 の 民 は 、 大 バ ビ ロ ン の 不 品 行 の 「 黄 金 の 杯 」( 黙 17 ・4) か ら 飲 み 、「 獣 の 刻 印 」( 黙 13・ 16) を 受 け る が 、 神 の 民 は 、 キ リ ス ト の 血 に よ る 「 新 し い 契 約 の 杯 」( Ⅰ コ リ 11・ 25 ) か ら 飲 み 、 生 け る 「 神 の 名 」( 黙 3・ 12 、 22・ 4 ) を 額 に 記 さ れ る 。

 

イ エ ス が 十 字 架 の 苦 難 を 経 て 、 復 活 の 栄 光 を 受 け 、 天 に 着 座 さ れ た よ う に 、 キ リ ス ト の 教 会 も 、 地 上 の 患 難 を 通 っ て 、 栄 光 に 輝 く 天 の エ ル サ レ ム の 門 を く ぐ る 。

 

「 三 年 半 」 の 苦 難 に お い て 、 キ リ ス ト の 十 字 架 の 苦 し み に あ ず か っ た 者 が 、「 千 年 」 の 祝 福 、 キ リ ス ト の 復 活 の い の ち に あ ず か る 。

 

神 の 民 が 地 上 で 受 け る 「 今 の と き の 軽 い 患 難 」 は 、 や が て 天 の 「 測 り 知 れ な い 重 い 永 遠 の 栄 光 」( Ⅰ コ リ ン ト 4・ 17) へ と 変 え ら れ て い く 。

 

や が て キ リ ス ト の 来 臨 に よ っ て 闇 の 力 は 完 全 に 滅 ぼ さ れ 、 す べ て が 新 し く さ れ 、 神 の 栄 光 の み が 輝 き わ た る 。

 

し か し 主 の 来 臨 ま で は 、「 三 年 半 」 の 間 、 一 時 的 に 獣 の 国 が 勝 利 し 、 支 配 し て い る か の よ う に 見 え る 。 そ れ ゆ え 神 の 国 は 、 再 臨 ま で は 、 地 上 に お い て 、 小 羊 の 王 国 、 苦 難 の 王 国 と し て 逆 説 的 に 表 さ れ る 。

 

苦 難 と 結 び 合 わ さ れ た 王 国 、 パ ト モ ス 島 で 、 ヨ ハ ネ は 、 ま さ に そ の 王 国 の 真 実 を 知 っ た 。 「 私 ヨ ハ ネ は 、 あ な た が た と と も に 、 イ エ ス に あ る 苦 難 と 王 国 と 忍 耐 と に あ ず か っ て い る 。」( 黙 1・ 9 )。

 

暴 力 化 が 進 む 現 代 に お い て 、 患 難 期 の 研 究 、 特 に 患 難 期 と 教 会 と の 関 係 の 終 末 論 的 考 察 は 、 急 務 で あ る に も か か わ ら ず 、 特 殊 な 神 学 と 結 び つ い た 終 末 論 や 、 世 界 の 「 進 歩 」 を 信 じ る 楽 観 的 歴 史 観 の 影 響 に よ っ て 、 軽 視 さ れ て き た 。

 

そ の 結 果 、 日 本 の み な ら ず 、 世 界 で も 、 こ の 問 題 に 関 す る 本 格 的 な 研 究 は ま だ な さ れ て い な い 。

 

し か し キ リ ス ト 教 終 末 論 の 最 大 の 課 題 と は 、 患 難 期 に お け る 教 会 の あ り 方 を 明 ら か に す る こ と で あ ろ う 。

 

20 世 紀 後 半 、 日 本 の 教 会 、 特 に 福 音 派 は 、 ア メ リ カ の フ ァ ン ダ メ ン タ リ ズ ム 運 動 の 特 殊 な 終 末 論 の 強 い 影 響 下 に あ っ た 。

 

ま た 一 方 で は 、 ポ ス ト ・ コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス 体 制 に 貫 か れ た 、「 西 欧 」 近 代 キ リ ス ト 教 「 文 明 」 社 会 の 思 想 に も 深 く 影 響 さ れ て い た 。

 

し か し 新 し い 世 紀 を 迎 え よ う と し て い る 今 、 も は や こ の よ う な 過 去 の 「 神 学 」 に 囚 わ れ る こ と な く 、 終 末 に 関 す る 聖 書 の 警 告 に 真 剣 に 耳 を 傾 け 、 患 難 期 の 研 究 を 深 め 、 そ れ に よ っ て 、 日 本 か ら 世 界 へ 、 独 自 の 神 学 を 発 信 す る こ と が 、 求 め ら れ て い る の で は な い だ ろ う か 。

 

ー完ー

 

(1) こ の 論 文 は 2000 年 5 月 、 イ ギ リ ス の セ ン ト ・ ア ン ド リ ュ ー ズ 大 学 に 提 出 し 受 理 さ れ た 、 黙 示 録 の 神 学 に 関 す る 学 位 論 文'Irony in Revelation: the Paradox of the Lamb's Kingdom and the Parody of the Beast's Kingdom' ( 全 七 章 ) の 第 六 章 「 千 年 期 と 患 難 期 」 の 一 部 ( 特 に 一 節 と 四 節 ) を 要 約 し 、 加 筆 し た も の で あ る 。( 脚 注 の 多 く は 省 略 し た 。)

 

(2) G. B. Caird, The Revelation of Saint John. BNTC. (Peabody: Hendricksen, 1966) P.159. イ ス ラ エ ル の 歴 史 に お い て は 、 エ リ ヤ の 祈 り に よ る ア ハ ブ 王 の 時 代 の 「 三 年 半 」 の き き ん ( 1列 17・ 1 、 18・ 1 、 ル カ 4・ 25 、 ヤ コ ブ 5・ 17 ) や 、 シ リ ヤ の 王 ア ン テ ィ オ コ ス ・ エ ピ フ ァ ネ ス に よ る 前 一 六 七 年 か ら ほ ぼ 「 三 年 半 」 に 及 ぶ 神 殿 の 冒 涜 な ど と の 関 連 が 考 え ら れ る 。 こ の 点 に 関 し て は 、G. K. Beale, Commentary on Revelation. NIGTC. (Grand Rapids: Eerdmans 1999) P.565-568. を 見 よ 。)

 

(3)「 反 キ リ ス ト の イ メ ー ジ は 、 あ ら ゆ る 種 類 の 進 歩 的 ユ ー ト ピ ア 主 義 と 真 っ 向 か ら 矛 盾 す る 。 そ れ は 全 人 類 の 歴 史 の 共 通 の 未 来 を 、 最 終 的 に 実 現 さ れ る パ ラ ダ イ ス と し て で は な く 、 遂 に 完 成 さ れ る バ ベ ル の 塔 、 人 類 の 最 も 邪 悪 で 、 偶 像 礼 拝 的 な 性 向 の グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン と し て 描 き 出 す 。」R. Bauckham, and T. Hart, Hope Against Hope: Christian Eschatology in Contemporary Context. (Darton: Longman and Todd Ltd, 1999) P. 114.

 

(4) G. L. Archer は 、 こ の 書 の 中 で 、 患 難 期 中 携 挙 説 ( 患 難 期 を 前 半 と 後 半 に 二 分 し 、 キ リ ス ト は そ の 中 間 点 で 再 臨 す る と い う 説 ) を 主 張 し て い る が 、 こ の 立 場 を 取 る 者 は ご く 少 数 で あ る の で こ こ で は 論 じ な い 。

 

(5) 注 目 す べ き こ と に 、 竜 、 海 の 獣 、 地 の 獣 、 大 淫 婦 の 四 者 は 、 神 の 国 を 模 倣 し て い る 。 特 に 初 め の 三 者 は 、 そ れ ぞ れ 父 な る 神 、 子 な る 神 、 御 霊 ( に よ っ て 霊 感 さ れ た 「 ふ た り の 証 人 」) に 対 応 し て お り 、 多 く の 注 解 者 に よ っ て 「 悪 魔 的 三 位 一 体 」 と 呼 ば れ て い る 。

 

さ ら に 「 大 淫 婦 ー 大 バ ビ ロ ン 」 と 、「 聖 な る 花 嫁 ー 新 し い エ ル サ レ ム 」 と は 「 女 性 ー 都 市 」 と し て 鮮 明 に 対 比 さ れ て い る 。

 

(6) ま た こ の 迫 害 ・ 保 護 ・ 証 言 と い う 三 つ の 要 素 は 、 黙 示 録 の み な ら ず 、 オ リ ー ブ 講 話 に お い て も 顕 著 で あ る 。「 い ま だ か つ て な か っ た よ う な 苦 難 の 日 」( マ タ イ 24 ・ 21) に 、 神 の 民 は 苦 し み に 会 い 、「 憎 ま れ 、 ま た 殺 さ れ る 」( マ タ イ 24 ・ 9 、 ル カ 21・ 17 )。 し か し 迫 害 の 中 で も 神 の 守 り は 完 全 で あ り 、「 髪 の 毛 一 筋 も 失 わ れ る こ と は な い 」( ル カ 21・18)。

 

神 の 敵 は 、 た と え か ら だ を 殺 す こ と は で き て も 魂 を 殺 す こ と は で き な い 。 さ ら に こ の 迫 害 の 時 は 、 神 の 民 が 「 証 言 を す る 機 会 」( ル カ 21・13 ) と な り 、 福 音 が 「 全 世 界 に 宣 べ 伝 え ら れ て 、 す べ て の 国 民 に あ か し 」 さ れ る 時 と な る ( マ タ イ 24・14 )。

 

す な わ ち 終 末 の 患 難 の 日 に 関 し て 、 黙 示 録 の 幻 と 福 音 書 の 預 言 と は 、 表 現 の 形 式 は 違 っ て い て も 内 容 に お い て 深 く 結 び 合 わ さ れ て い る 。

 

(7) 書 簡 の 著 者 ヨ ハ ネ も 同 様 な 終 末 観 を 示 し て い る 。「 今 や 多 く の 反 キ リ ス ト が 現 わ れ て い ま す 。 そ れ に よ っ て 、 今 が 終 わ り の 時 で あ る こ と が わ か り ま す 。」( Ⅰ ヨ ハ ネ 2・18)。

 

(岡山英雄、 福 音 教 会 連 合 ・ 東 松 山 福 音 教 会 牧 師 )

 

 

【追加資料8】千年王国とイスラエル(日本語)

千年王国諸説(①千年王国前再臨説、②無千年王国説、③千年王国後再臨説)に関しては、

 

1. 無千年王国説と千年王国後再臨説:麦の成長と神の国の現在性の強調

2.千年王国前再臨説:毒麦の成長と神の国の未来性の強調

3.両者ともに、キリスト教終末論の重要な側面…双方を視野に入れ、健全な聖書的終末論の構築をはかる

4.三つの解釈…択一的ではなく、相補的

5.千年王国の解釈の相違は、神の教会の一致を妨げるものではない。」

引用元

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1.「千年王国は、イスラエル民族への特別な期間である」という説の問題

2.終末における「イスラエル民族」の位置づけには意見の相違

3.二つの極端な立場

 ① イスラエルの普遍性のみ強調…置換神学

 ② イスラエルの民族性のみ強調…ディスペンセーション主義

4.歴史の終末的完成において、イスラエル民族になんらかの計画-ローマ11章で終末的完成としての「イスラエル」の救いへの言及

引用元

 

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ジョージ・ラッド著『終末論』第9章 神の国より一部抜粋

 

「・・・ディスペンセーション主義千年王国前再臨説という、もうひとつの千年王国前再臨説に言及すべきである。おそらくこれは、米国で最も人気のある千年王国前再臨説である。

 

この説は、千年王国において第一義的に対象とされているのはユダヤ人であると考える。イスラエルは土地を回復され、神殿を再建し、旧約聖書のいけにえの制度は再び設けられる。

 

この時点で、ひとつの国家としてのイスラエルについての旧約聖書預言のすべてが「文字どおり」成就される。これは、神が明確に異なる二つの民をもっておられるという確信からの推論である。

 

そこでは、イスラエルと教会は、二つの異なった計画と別々の祝福をもつ。神のイスラエルに対する計画は、神政的であり地上的であり、教会に対する神の計画は普遍的であり霊的である、と主張される。

 

筆者はこのディスペンセーション主義神学の中で育てられたのだが、もはやその立場を受け入れることができない。それについては、イスラエルの未来について論じている本書の第2章を参照していただきたい。

 

ヘブル人への手紙8章は、祭儀において示されている実体がキリストにおいてもたられたのだから、旧約聖書の祭儀制度という型と影の時代は廃止されたと、明確に語っている。ローマ人への手紙11章は、民族としてのイスラエルは救われる、ただし教会と同様、キリストへの信仰という同じ条件において救われる、とはっきりと語っている。

 

今日、教会は霊的イスラエルである。そして字義どおりのイスラエルは、やがて再びオリーブの木に接ぎ木され、神の真のイスラエルに含まれることになる。それゆえ、千年王国を、第一義的にユダヤ的な特色をもつものと考えることは不可能である。」(以上)

 

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「『置換』神学ではなく、『拡大』神学」

16 "The Church as the Israel of God " (MP3) by K.Riddlebarger

 

【追加資料9】【アミレ】The Church, Israel, and "Replacement" Theology (教会、イスラエル、そして『置換』神学 by Sam Storms)【英文】

 

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Recently a friend wrote to me, asking my opinion on whether or not Israel has a biblical right to the Holy Land. That is to say, can Israel appeal to the covenant made with Abraham, Isaac, and Jacob as grounds for their presence in and possession of the land of Palestine? My friend wondered if the view I espouse is what many have called “Replacement” theology. Let me take this opportunity to address the point.

 

Before I do, two words of introduction are needed. First, I want to make an appeal to all who engage in this debate that we do so with civility and generosity towards those with whom we disagree.

 

I make this request because I have noticed that to disagree with what has come to be known as “Christian Zionism” exposes one either to the charge of anti-Semitism or a demonically induced blindness. I hope we can all agree that this is an issue that requires careful and patient examination of the Scriptures and a willingness to dialogue with an open mind.

 

Second, while I was ministering in Georgia recently I read a disturbing article in The Atlanta Journal-Constitution (Thursday, October 27, 2005). Then again a day later I read a similar news item on The Drudge Report.

 

Both articles reported that the president of Iran, Mahmoud Ah-madinejad, called for Israel to be “wiped off the map.” He also denounced attempts to recognize Israel or normalize relations with it.

 

According to the article, the Iranian president declared that “anybody who recognizes Israel will burn in the fire of the Islamic nation’s fury.” After numerous heads of state denounced the Iranian president for these comments, mass demonstrations broke out in Iranian cities that expressed rage and contempt for the existence of the nation of Israel.

 

Let me be perfectly clear. I hope and pray that all American citizens, whether Christian or not, would stand firmly in their opposition to this sort of evil and irresponsible rhetoric. I believe that Israel has every right to exist and flourish as a nation and I hope that the United States will maintain its vigilance in defense of Israel against all such Islamic threats and future attacks.

 

Clearly, then, I believe Israel has a right to exist in the land and that we have a moral and political obligation to stand with her against all enemies. But this is not the same thing as saying that Israel has a biblical or covenantal right to the territory over which so much blood has been shed in recent years (indeed, in recent centuries). Nor does it address the question of what role, if any, the “promised land” will have in God’s redemptive purposes for his people and this earth. To that particular issue, I now turn.

 

First, I believe that when God established his covenant in Genesis 12, he affirmed that the seed (some translations render it “offspring”) of Abraham would inherit the land of Canaan (among other things) in fulfillment of the promise.

 

But we must never read such promises, or anything in the Old Testament, as if Jesus had not come and the New Testament had not been written. Or to put it in more positive terms, the Old Testament must always be read in light of the New.

 

I never read such OT texts without immediately asking, “Does the NT shed additional light on how I am to understand the nature of such promises and their recipients?”

 

There are several texts that shed considerable light on how we are to understand the covenant made with Abraham and his progeny.

 

(1) Consider Romans 9:6-7. The context of this passage is Paul’s response to the charge that God cannot be trusted because so many Israelites, his “kinsmen according to the flesh” (9:3), are in unbelief. If God cannot be trusted to fulfill his covenant promise to OT Israel, how can he be trusted to fulfill any of his promises to the NT Church?

 

Or again, we could put it this way: If Israel is God's covenant people, to whom so many glorious privileges have been given (Romans 9:4-5), why are so few Israelites saved? Why are so many of them "accursed, separated from Christ?" Has God's word failed?

 

Has God's covenant promise and eternal purpose come to nothing? Has the rejection of Jesus Christ by the majority of Israelites thwarted God's purpose? Have the trustworthiness and finality of God's word been undermined by the unbelief of so many Jews? His response to the question is a resounding No!

 

If God's word of promise and covenant is that all ethnic Israelites, i.e., all those who are physically descended from Israel, are to be saved, then clearly his purpose has failed and his word is void. But Paul denies that God ever intended to save all ethnic Israelites.

 

His purpose has always been to save a remnant within, but not the entirety of, ethnic Israel. This is the force of his declaration that “not all who are descended from Israel belong to Israel” (9:6).

 

There is an Israel within Israel. There is a spiritually elect remnant within the physicalnation. John Murray sums up:

 

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"The purpose of this distinction is to show that the covenantal promise of God did not have respect to Israel after the flesh but to this true Israel and that, therefore, the unbelief and rejection of ethnic Israel as a whole in no way interfered with the fulfillment of God's covenant purpose and promise. The word of God, therefore, has not been violated" (10).

 

Simply put: Not every person who is a physically ethnic Israelite is a spiritually elect Israelite.

 

Doug Moo summarizes this way:

 

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"If the OT teaches that belonging to physical Israel in itself makes a person a member of God's true spiritual people, then Paul's gospel is in jeopardy. For were this the case, the gospel, proclaiming that only those who believe in Jesus Christ can be saved (cf. 3:20-26), would contradict the OT and be cut off from its indispensable historical roots.

 

Paul therefore argues in [Romans 9] vv. 6b-29 that belonging to God's true spiritual people has always been based on God's gracious and sovereign call and not on ethnic identity. Therefore, God is free to 'narrow' the apparent boundaries of election by choosing only some Jews to be saved (vv. 6-13; 27-29). He is also free to 'expand' the dimensions of his people by choosing Gentiles (vv. 24-26)" (569).

 

Thus we see that the initial promise in Genesis 12 did not mean that all physical descendants of Abraham, Isaac, and Jacob would be saved or inherit the blessings, such as the land, entailed by that covenant. We must remember, says Paul (with added paraphrase), that “not all who are descended from Israel [i.e., the physical seed] belong to Israel [i.e., the spiritual seed], and not all are children of Abraham [which is to say, heirs of the promise] because they are his [physical or ethnic] offspring” (9:6b-7).

 

(2) This isn’t the only passage that provides clarification concerning the identity of “true” Israel, which is to say, the people for whom the covenant promises will be fulfilled. Perhaps the most explicit text is found in Ephesians 2.

 

We’ve already seen in Romans 9:6-7 that simply being a physical descendant of Abraham does not guarantee that one is a recipient of the covenant blessings. One must believe in Jesus as the Messiah. Does this suggest therefore that only believers who are the physical progeny of Abraham are heirs of the covenant blessings? No. Look with me at Ephesians 2:11ff.

 

As I read this chapter I discover that because of the work of Christ the meaning of “Israel” has now expanded. No longer does it refer simply to the physical descendants of Abraham who believe in the Messiah. Certainly it includes them.

 

But now Gentile believers are “no longer strangers” to the covenants of promise or “aliens” when it comes to the commonwealth of Israel, but are “fellow citizens” with them and “fellow heirs” of all the blessings of the covenant (see Ephesians 2:11-19and 3:6).

 

Contrary to how some have taken this, no one has been “replaced”. Rather, believing Gentiles have been “included”, such that now, as Paul says in Ephesians 2:14-15, there is only “one new man”, i.e., the Church.

 

Notice again that by virtue of his work Christ has created “in himself one new man in place of the two” (Eph. 2:15). This body, this new man, the Church, is the only true people of God who will inherit the promises made to Abraham. This one new man, the Church, consists of both believing Jews and believing Gentiles, both of whom are now co-heirs of all the promises.

 

This is why Peter can take those special privileges and titles reserved for OT Israel (Exodus 19:5-6) and apply them freely to the NT Church. This one new man, the Church, says Peter, is the “chosen race, a royal priesthood, a holy nation, a people for his own possession” (1 Peter 2:9).

 

The apostle Paul could not have said it with more clarity: “No one is a Jew who is merely one outwardly, nor is circumcision outward and physical. But a Jew is one inwardly, and circumcision is a matter of the heart, by the Spirit, not by the letter” (Romans 2:28-29a). The “real circumcision,” says Paul, comprise those “who worship by the Spirit of God and glory in Christ Jesus and put no confidence in the flesh” (Phil. 3:3).

 

An objection is often raised at this point that sounds something like this: “But when I read Genesis 12:7 and 13:15-16 and 17:7-8 it says so clearly that God established his covenant and bequeathed the land to Abraham and his seed or offspring. Doesn’t that settle it once and for all?” No, for we must also ask, “In view of the coming of Jesus Christ, what does the NT tell us about the identity of the ‘seed’ to whom this promise was given?”

 

(3) The answer to this question is found not only in Romans 9 and Ephesians 2 but also in Galatians 3 where Paul makes an astounding statement. He provides us with an inspired commentary on or interpretation of those OT passages.

 

In v. 16 he declares, “Now the promises were made to Abraham and to his offspring [or, seed]. It does not say, ‘And to offsprings’ [or ‘seeds’], referring to many, but referring to one, ‘And to your offspring [seed],’ who is Christ.” Amazing!

 

Here Paul unequivocally says that the “seed” or “offspring” of Abraham with whom God established his covenant and to whom the land and all its blessings were promised was ultimately only ONE of Abraham’s physical progeny, Jesus the Messiah! Jesus is “THE SEED” of Abraham whom God had in mind when he made his covenant promise.

 

Upon reading this one might think that the door has now been shut on everyone else, whether Jew or Gentile, and that only Jesus will inherit the promises.

 

But just when you think that Paul has narrowed it down to one person and one person only, he throws wide open the gate into God’s kingdom blessings by saying at the close of Galatians 3, “There is neither Jew nor Greek, there is neither slave nor free, there is neither male nor female, for you are all one in Christ Jesus. AND IF YOU ARE CHRIST’S, THEN YOU ARE ABRAHAM’S OFFSPRING [I.E., SEED], HEIRS ACCORDING TO PROMISE” (vv. 28-29).

 

Here is Paul’s stunning point: Jesus the Messiah is the one seed or progeny or offspring of Abraham to whom the promises were given. But, if you are “in Christ” through faith and thus belong to him, then you too “are Abraham’s offspring” or “seed” and thus you too are an heir of the covenant promises!

 

This is why Paul can say “that it is those of faith who are the sons of Abraham” (Gal. 3:7) and that “those who are of faith are blessed along with Abraham, the man of faith” (Gal. 3:9; cf. 3:14).

 

Paul’s conclusion is that in the final analysis one’s ethnicity has nothing to do with who will or will not inherit the promises. Neither does gender (“neither male nor female”) or socio-economic status (“there is neither slave nor free”).

 

The only relevant criterion is whether or not you are related by faith to the one seed of Abraham for whom the covenant promises were intended. Are you “in Christ”? If so, you (regardless of ethnicity, gender, or social status) no less than he, are Abraham’s seed and thus the ones for whom the covenant was intended and in whom the covenant blessings will be fulfilled.

 

Someone might say, “But wait a minute. That’s not what the OT texts say. They say that the promises were only given to and will be fulfilled in believing Jews.” That’s right.

 

That’s why Paul said as clearly as he could in Ephesians 3:4-6 that Gentile inclusion as co-heirs is the “mystery” of Christ “which was not made known to the sons of men in other generations” (i.e., in the time of the OT) but has “now been revealed to his holy apostles and prophets by the Spirit” (3:5).

 

Believing Gentiles are as “Jewish”, in the only way that matters to God, i.e., spiritually (cf. Rom. 2:28-29), as any of the physical descendants of Abraham, Isaac, and Jacob.

 

So, yes, it is true that only believing “Jews” will inherit the promises given to Abraham, Isaac, and Jacob. But the “true Jews” who are heirs include all of any ethnic derivation who are “in Christ”.

 

There are numerous other NT texts that affirm the same truth (see Part Two of this series). My point here is simply to clarify why I see the Church as the “one new man,” the true Israel of God in and for whom all the promises will be fulfilled.

 

The promises will not be fulfilled exclusively in and for a separate “nation” of ethnic Israelites but in and for all believing ethnic Israelites together with all believing ethnic Gentiles, that is to say, in the Church.

 

(4) Much the same point is made in Romans 11 where Paul uses the imagery of the olive tree. Replacement theology would assert that God has uprooted and eternally cast aside the olive tree which is Israel and has planted, in its place, an entirely new one, the Church. All the promises given to the former have been transferred to the latter.

 

But this is not what Paul says. He clearly states that there is but one olive tree, rooted in the promises given to the patriarchs. In this one tree (i.e., in this one people of God) there are both believing Jews (natural branches) and believing Gentiles (unnatural branches). Together they constitute the one people of God, the true Israel in and for whom the promises will be fulfilled. This one people is, of course, the Church.

 

Neither believing Jew nor believing Gentile has any advantage over the other. When it comes to inheriting the promises, which is inclusive of the “land”, they are co-heirs. Indeed, when it comes to inheriting the promises, ethnicity is irrelevant. The only relevant factor is one’s relationship to Jesus Christ by faith.

 

I earlier said that there are other NT texts that address the same point, and I will briefly take note of several of them in Part Two of this series. Then, in Part Three, I will return to address the issue that prompted this study in the first place: the “land” promised to Israel and the dispute in Palestine today as to who has territorial rights.

 

PART II

In Parts One and Two of this study I argued that the New Testament provides us with an expanded definition of what constitutes an “Israelite” or a “Jew”.

 

Or perhaps we might say that the NT provides us with a “Christified” perspective on the people of God. Ethnicity is no longer the primary concern. Having Abraham’s blood in one’s veins is not the primary consideration, but rather having Abraham’s faith in one’s heart.

 

Jesus is the true “seed” of Abraham to whom the promise was given. But if anyone is “in Christ” by faith, he or she is the “seed” of Abraham and thus an heir according to the promise.

 

Where we left off is with the question of the ultimate disposition of the land that was included in the Abrahamic covenant. What becomes of that element in the promise?

 

I believe that promise will be literally fulfilled, but not merely (or even primarily) in the land of Canaan. It’s important we note that the initial covenant promises of the land of Canaan to Abraham (Gen. 12,13,15,17) undergo considerable expansion in Scripture, an expansion of such a nature that the ultimate fulfillment could only be realized on the New Earth.

 

I find Anthony Hoekema’s description helpful. He refers to Gen. 17:8 and the land promise to Abraham, and says:

 

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“Note that God promised to give the land of Canaan not just to Abraham’s descendants but also Abraham himself. Yet Abraham never owned as much as a square foot of ground in the land of Canaan (cf. Acts 7:5) – except for the burial cave which he had to purchase from the Hittites (see Gen. 23).

 

What, now, was Abraham’s attitude with respect to this promise of the inheritance of the land of Canaan, which was never fulfilled during his own lifetime? We get an answer to this question from the book of Hebrews. In chapter 11, verses 9-10, we read, ‘By faith he [Abraham] sojourned in the land of promise, as in a foreign land, living in tents with Isaac and Jacob, heirs with him of the same promise.

 

For he looked forward to the city which has foundations, whose builder and maker is God.’ By ‘the city which has foundations’ we are to understand the holy city or the new Jerusalem which will be found on the new earth. Abraham, in other words, looked forward to the new earth as the real fulfillment of the inheritance which had been promised him – and so did the other patriarchs” (The Bible and the Future, p. 278).

 

And again:

 

“When we properly understand biblical teachings about the new earth, many other Scripture passages begin to fall into a significant pattern.

 

For example, in Psalm 37:11 we read, ‘But the meek shall possess the land.’ It is significant to observe how Jesus’ paraphrase of this passage in his Sermon on the Mount reflects the New Testament expansion of the concept of the land: ‘Blessed are the meek, for they shall inherit the earth’ (Matt. 5:5).

 

From Genesis 17:8 we learned that God promised to give to Abraham and his seed all the land of Canaan for an everlasting possession, but in Romans 4:13 Paul speaks of the promise to Abraham and his descendants that they should inherit the world – note that the land of Canaan in Genesis has become the world in Romans,” (pp. 281-82).

 

As Hoekema noted above, a significant passage that addresses this issue is found in Hebrews 11.

 

Let me begin with a question: How do we explain that when Abraham finally arrived in the land of promise he only sojourned there, “as an alien . . . as in a foreign land”? (Heb. 11:9,13).

 

Philip Hughes rightly asks:

 

"In what sense could he be said to have received this land as an inheritance when it was a territory in which he led no settled existence and to which he had no claim of ownership?" (467). We need not speculate an answer, for the text provides its own in v. 10, "for he was looking for the city which has foundations, whose architect and builder is God."

 

What is this city? It is that city which God has prepared for them (v. 16), mentioned again in Heb. 12:22 as the "city of the living God, the heavenly Jerusalem." See also Heb. 13:14, where we read, "for here [that is, on this present earth] we do not have a lasting city, but we are seeking the city which is to come."

 

This surely refers to the heavenly Jerusalem of Heb. 12:22, the city which has foundations (v. 10). Note also Rev. 21:1-2, especially v. 2 where we read that John "saw the holy city, the new Jerusalem, coming down out of heaven from God" (cf. 21:9-11). The reason, then, why Abraham was a sojourner and exile in Canaan was because he viewed that earthly land to be a type of the heavenly and more substantial land/country.

 

The point is that the patriarchs did not seek in the physical land of Canaan their everlasting possession. The focal point of the OT land promise was on land, to be sure, but on the heavenly land (Heb. 11:16) of the new earth with its central feature, the New Jerusalem.

 

Abraham, the one to whom the land of Canaan was originally promised, is said to receive the fulfillment of that promise, not in geographic Canaan, but in the heavenly Jerusalem.

 

Abraham is heir, not merely of Canaan, but of the world! Indeed, according to Heb. 11:9-10, it was Abraham's expectation of permanent and perfect blessing in the heavenly city that enabled him to submit patiently to the inconvenience and disappointments during his pilgrimage in Canaan.

 

Look also at Heb. 11:13-16. The patriarchs themselves “acknowledged that they were strangers and exiles on the earth” (v. 13). They died without receiving the promise, having only seen it from afar. Their hope was not focused on any this-earthly-inheritance, but, as v. 16 indicates, on “a better country, that is, a heavenly one.” F. F. Bruce sums it up well by noting that, according to v. 16,

 

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"their true homeland was not on earth at all. The better country on which they had set their hearts was the heavenly country. The earthly Canaan and the earthly Jerusalem were but temporary object-lessons pointing to the saints' everlasting rest, the well-founded city of God" (305).

 

The Abrahamic land promise, as well as prophecies such as Isa. 65:1766:2232:1535:2,7,1011:9, which speak of a restoration of the cosmos, are to be fulfilled on the new earth in the new creation, not on a millennial earth in the old one.

 

Typically at this point someone will ask:

 

“But doesn’t the fulfillment have to sustain a literal one-to-one correspondence with the promise?” In other words, the fulfillment must consist of what can only be called a “photographic reproduction” of the promise. Therefore (so goes the argument), God has failed to carry through on his covenantal commitment to the nation Israel if he does not bring her into possession and enjoyment of the precise geographical dimensions as outlined in Genesis 12, 13, 15, and 17.

 

Clearly, I believe this fundamentally misunderstands the nature of promise and fulfillment as well as the relationship between the two testaments.

 

But consider this illustration, as provided by Greg Beale in his excellent book, “The Temple and the Church’s Mission” (IVP). Imagine that a father, in 1900, promises his young son a horse and buggy when he grows up and gets married:

 

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“During the early years of expectation, the son reflects on the particular size of the buggy, its contours and style, its beautiful leather seat and the size and breed of horse that would draw the buggy.

 

Perhaps the father had knowledge from early experimentation elsewhere that the invention of the automobile was on the horizon, but coined the promise to his son in terms that his son would understand. Years later, when the son marries, the father gives the couple an automobile, which has since been invented and mass-produced. Is the son disappointed in receiving a car instead of a horse and buggy? Is this not a ‘literal’ fulfillment of the promise?

 

In fact, the essence of the father’s word has remained the same: a convenient mode of transportation. What has changed is the precise form of transportation promised. The progress of technology has escalated the fulfillment of the pledge in a way that could not have been conceived of when the son was young.

 

Nevertheless, in the light of the later development of technology [corresponding to the redemptive impact of the coming of Christ], the promise is viewed as ‘literally’ and faithfully carried out in a greater way than earlier apprehended” (352-53).

 

Finally, we come now to the current nation of Israel and its claim to possession of the land in which it dwells. I can do no better here than to quote the words of John Piper in a sermon he preached on Romans 11. His comments deserve a wide hearing:

 

“The promises made to Abraham, including the promise of the Land, will be inherited as an everlasting gift only by true, spiritual Israel, not disobedient, unbelieving Israel. In other words, the promises cannot be demanded by anyone just because he is Jewish. Jewish ethnicity has a place in God's plan, but it is not enough to secure anything. It does not in itself qualify a person to be an heir of the promise to Abraham and his offspring. Romans 9:8says it clearly: ‘It is not the children of the flesh who are the children of God, but the children of the promise are counted as offspring.’ Being born Jewish does not make one an heir of the promise – neither the promise of the Land nor any other promise.

 

Be careful not to infer from this that Gentile nations (like Arabs) have the right to molest Israel. God's judgments on Israel do not sanction human sin against Israel. Israel still has human rights among nations even when she forfeits her present divine right to the Land. Remember that nations which gloated over her divine discipline were punished by God (Isaiah 10:5-13Joel 3:2).

 

So the promise to Abraham that his descendants will inherit the Land does not mean that all Jews inherit that promise. It will come finally to the true Israel, the Israel that keeps covenant and obeys her God.

 

Therefore, the secular state of Israel today may not claim a present divine right to the Land, but they and we should seek a peaceful settlement not based on present divine rights, but on international principles of justice, mercy, and practical feasibility.

 

[Therefore] . . . we should not give blanket approval to Jewish or to Palestinian actions. We should approve or denounce according to Biblical standards of justice and mercy among peoples. We should encourage our representatives to seek a just settlement that takes the historical and social claims of both peoples into account. Neither should be allowed to sway the judgments of justice by a present divine claim to the land. . . .

 

Therefore Jewish believers in Jesus and Gentile believers will inherit the Land. And the easiest way to see this is to see that we will inherit the world which includes the Land.

 

Jewish Christians and Gentile Christians will not quibble over the real estate of the Promised Land because the entire new heavens and the new earth will be ours. 1 Corinthians 3:21-23, ‘All things are yours, whether Paul or Apollos or Cephas or the world or life or death or the present or the future – all are yours, and you are Christ's, and Christ is God's.’ All followers of Christ, and only followers of Christ, will inherit the earth, including the Land.”

 

In yet another sermon from Romans (this time, 9:25-26), Piper declares that

 

“a covenant-breaking people does not have a present claim on covenant promises. Therefore it is wrong for America or for Christians to be unquestioningly pro-Israel and anti-Palestinian in the political and geographical situation of the Middle East.

 

It may be right to be pro-Israel or pro-Palestinian on any given issue, but while Israel is breaking the covenant with her God by rejecting his Messiah, the criterion for what is right in the Middle East should be equally applied standards of justice and mercy among nations, not divine rights or covenant privileges.

 

Our relation to Jews and Palestinians should be to love them and treat them with mercy and justice, as we do all others. Anti-Semitism is sin. And unquestioning rejection of possible rights of Palestinians is sin.”

 

I’ll close with two important observations.

 

(1) The view that I’ve defended in these three lessons is consistent with either historic premillennialism or amillennialism. John Piper, among many others, is a premillennialist. I, on the other hand, am an amillennialist. But we both agree there is only one people of God, the Church, comprised of believing Jews and believing Gentiles.

 

(2) In all of this discussion I have not addressed the question of whether the Bible teaches a mass salvation of Jewish people at the close of this present age. Piper believes that in Romans 11 Paul affirms just such a massive salvific ingathering of ethnic Jews in some way associated with the Second Coming of Christ.

 

Whatever view one may take on that point (and the interpretation of Romans 11:25-27), more important still is that whoever among the Jewish people is saved, regardless of when that may occur, will enter the kingdom in the same manner and on the same terms as do Gentile believers.

 

Whether that salvation is eschatological (at the end of the present age) or historical (progressively, throughout the course of the present age), I do not believe it is God’s purpose to reconstitute or re-establish a theocratic nation separate from the Church. The Church is the only “holy nation” (1 Peter 2:9) that will inherit the promises of the covenant.

 

Therefore, any and all Jewish people who come to faith in Jesus Christ will become members of the Church, the “one new man” of Ephesians 2.

 

They will be grafted back into the one olive tree (Romans 11) where they, together and in complete unity with Gentile believers, the “seed” of Abraham, will inherit the promises made to the patriarchs.

 

PART III

There are numerous passages in the NT where OT prophecies concerning Israel’s regathering and restoration are applied to the Church, indicating that the latter is the “true Israel” comprised of both believing Jews and believing Gentiles in whom the promises will be fulfilled.

 

Or, to put it in other terms, the Church does not replace Israel but takes up and perpetuates in itself the believing remnant within the nation as a whole. 

 

The “true Israel” of God, which in the OT was comprised of all ethnic Jews who were circumcised in heart, finds its NT expression in the Church, now comprised of all believing ethnic Jews and all believing ethnic Gentiles.

 

Or, to use Paul’s imagery from Romans 11, the one Olive Tree = True Israel = the Church in which are both natural (Jewish) branches and unnatural (Gentile) branches, but in all cases “believing branches.” 

 

This is the only way I can explain or account for those many texts in which prophecies and promises and titles and privileges descriptive of Israel in the OT are applied to and fulfilled by the Church in the NT. A few representative examples will have to suffice. 

 

(1) In Acts 15:14-18, James interprets the prophecy of Amos 9 that describes the rebuilding of David’s tabernacle as finding its fulfillment in the calling out of Gentiles and the progressive formation of the Christian Church. (For a complete exposition of this passage, see my article titled “Acts 15:14-17 and the Rebuilding of David’s Tabernacle,” found under Eschatology in the Theological Studies Section of the website, www.SamStorms.com). 

 

(2) In Romans 9:25-26, Paul cites two passages in Hosea (2:23 and 1:10) that were addressed to the 10 apostate northern tribes of Israel before the Assyrian exile in 722-21 b.c.

 

They describe both the rebellious condition of Israel ("not my people" / "not beloved") and her prophesied future restoration ("my people" / "beloved" / "sons of the living God"). But here Paul applies them to the calling or salvation of Gentiles. I agree with George Ladd that "Paul deliberately takes these two prophecies about the future salvation of Israel and applies them to the church.

 

The church, consisting of both Jews and Gentiles, has become the people of God. The prophecies of Hosea are fulfilled in the Christian church. If this is a spiritualizing hermeneutic, so be it. But let no one say that it is liberalism. It is clearly what the New Testament does to the Old Testament prophecies.” 

 

According to this view, the OT prophetic promise of Israel's regathering in covenant faith to Yahweh is being progressively fulfilled in the salvation of believing Jews and Gentiles in this present age, that is to say, in the Church. The calling out of Gentiles from among every tribe, tongue, people, and nation is the prophesied restoration of Israel, for the Church is the continuation and maturation of Israel's believing remnant. 

 

(3) In Revelation 2:17, John (quoting Jesus) promises to overcomers (i.e., the Church) a “new name” that “no one knows except the one who receives it.”

 

This is a clear reference to the prophecy in Isa. 62:2 (“And the nations will see your righteousness, and all kings your glory; and you will be called by a new name, which the mouth of the Lord will designate”) and 65:15 (“but My servants will be called by another name”) about Israel’s future kingly status and restoration to Yahweh, both of which are now applied to individuals within the church. 

 

(4) Revelation 3:9 is especially instructive. Here Jesus promises the Church in Philadelphia that he “will make those of the synagogue of Satan who say that they are Jews and are not, but lie – behold, I will make them come and bow down before your feet and they will learn that I have loved you.”

 

There are two important points to make. First, he refers to people who “say they are Jews and are not, but lie” (for an almost identical statement, see Rev. 2:9). Clearly, in one sense, these people are Jews, the physical descendants of Abraham, Isaac, and Jacob, who met regularly in the synagogue to worship.

 

Yet, in another sense, i.e., inwardly and spiritually, they are not Jews, having rejected Jesus and now persecuted and slandered his people. Indeed, their gatherings at synagogue are energized by Satan himself. But if they are false Jews, who, then, are the true Jews? If they are a synagogue of Satan, who, then, constitutes a synagogue of God? John does not provide an explicit answer, but the implication seems clear. Ladd explains: 

 

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情報源 

 

“true Jews are the people of the Messiah. Paul says the same thing very clearly: ‘For he is not a real Jew who is one outwardly, nor is true circumcision something external and physical. He is a Jew who is one inwardly, and real circumcision is a matter of the heart, spiritual and not literal’ (Rom. 2:28-29).

 

That this ‘Judaism of the heart’ is not to be limited to believing Jews but includes believing gentiles is clear from Paul’s words to the Philippians: ‘For we are the true circumcision, who worship God in spirit, and glory in Christ Jesus’ (Phil. 3:3). We must conclude, then, that John makes a real distinction between literal Israel – the Jews – and spiritual Israel – the church” (43-44). 

 

The second important thing about this text is that in it we find an allusion to several OT texts in which it is prophesied that Gentiles will come and bow down before Israel in the last days. For example: 

 

“And the sons of those who afflicted you will come bowing to you, and all those who despised you will bow themselves at the soles of your feet; and they will call you the city of the Lord, the Zion of the Holy One of Israel” (Isa. 60:14).

 

“Thus says the Lord, ‘The products of Egypt and the merchandise of Cush and the Sabeans, men of stature, will come over to you and will be yours; they will walk behind you, they will come over in chains and will bow down to you; they will make supplication to you: “Surely, God is with you, and there is none else, no other God”’” (Isa 45:14).

 

“And kings will be your guardians, and their princesses your nurses. They will bow down to you with their faces to the earth, and lick the dust of your feet; and you will know that I am the Lord; those who hopefully wait for Me will not be put to shame” (Isa. 49:23).

 

But as David Aune points out, “The ironical use of this motif is clear: in all these passages the Gentiles are expected to grovel before Israel, while in Rev. 3:9 it is the Jews who are expected to grovel before the feet of this (largely gentile) Christian community” (1:237-38). 

 

What makes this even more intriguing is the fact that in Isa. 60:14 “they” (the Gentiles) will call “you” (the Israelites) “the city of the Lord, the Zion of the Holy One of Israel”. This is precisely what we see in Rev. 3:12, except that in the latter it is said of the Church! There we read that these very overcomers before whom these Jews prostrate themselves are given the name of . . . 

 

“the city of My God, the new Jerusalem”! And be it noted that the name by which Jesus identifies himself to the Philadelphian believers is “the Holy One” (thereby reinforcing the link between Rev. 3 and Isaiah 60). 

 

Similarly, the words they will “know that I have loved you” may be an allusion to Isa. 43:4 (“Since you [Israel] are precious in My sight, since you are honored and I love you . . .”), thereby reinforcing the notion that John saw in the church the fulfillment of these OT prophetic promises. 

 

In other words, the fulfillment of these Isaianic prophecies “will be the reverse of what the Philadelphian Jews expect: they will have to ‘bow down before your feet’, and acknowledge ‘that I have loved you’. Let the Christians take heart, for it is on them that the Lord has set his favour” (Wilcock, 54). 

 

(5) Revelation 7:15 speaks of the saints in God’s heavenly “temple” and of God “spreading his tabernacle over them.” This is a clear allusion to Ezek. 37:26-28, a passage that in its OT context is a prophecy of Israel’s restoration.

 

There God says, “I will establish my sanctuary in the midst of them forever. And my tabernacle will be over them . . . when my sanctuary is in the midst of them forever.” 

 

Consider Beale’s comments: 

 

“The link with Ezekiel is confirmed from the parallel in Rev. 21:3, where Ezek. 37:27 is quoted more fully and is immediately followed in 21:4,6b by the same OT allusions found in 7:16-17.

 

Yet again, the innumerable multitudes of redeemed in the church are viewed as the fulfillment of a prophecy concerning Israel’s latter-day restoration.  

 

The application of Ezek. 37:27 to the church is striking because Ezekiel emphasizes that when this prophecy takes place the immediate result will be that ‘the nations will recognize that I am the Lord who sanctifies Israel, when my sanctuary is in their midst’ (37:28).

 

Therefore, Ezekiel 37 was a prophecy uniquely applicable to ethnic or theocratic Israel in contrast to the nations, yet now John understands it as fulfilled in the church” (440). 

 

The comforts and blessings of God’s presence are portrayed in terms drawn from Isaiah 49:10, yet another text that refers to the results of Israel’s restoration:

 

“They will neither hunger nor thirst, nor will the desert heat or the sun beat upon them. He who has compassion on them will guide them [i.e., he will be their shepherd] and lead them beside springs of water.” As if that were not enough, another prophetic promise tied to Israel’s restoration is appended to this list of blessings now applied to the church: “God will wipe away every tear from their eyes” (Isa. 25:8Rev. 7:17). 

 

There seems to be no escaping the fact that John sees the OT hope of Israel’s restoration and all its attendant blessings fulfilled in the salvation of the Christian multitudes who comprise the church, both believing Jews and Gentiles. 

 

(6)In Revelation 21:14 the wall of the New Jerusalem has “twelve foundation stones” on which were written the names of the twelve apostles (v. 14). The number “24”, the sum of the 12 tribes and 12 apostles, has already occurred in 4:4. Some point to David’s organization of the temple servants into 24 orders of priests (1 Chron. 24:3-19), 24 Levitical gatekeepers (26:17-19), and 24 orders of Levites (25:6-31). 

 

I agree with Beale that “the integration of the apostles together with the tribes of Israel as part of the city-temple’s structure prophesied in Ezekiel 40-48 confirms further . . . that the multiracial Christian church will be the redeemed group who, together with Christ, will fulfill Ezekiel’s prophecy of the future temple and city” (1070). 

 

Thus here again we see an emphasis on the one people of God, comprised of believing Jews and believing Gentiles, who together equally inherit the promises. 

 

These are by no means all of the texts that affirm this truth. To delve into the Synoptic Gospels alone (perhaps something I’ll do in a subsequent study) would reveal numerous other instances in which the Church is portrayed as the continuation and maturation of the believing remnant of OT Israel and thus heirs according to promise. Let me say it again clearly before ending.

 

Not one single ethnic Jew who believes in Jesus Christ as the Messiah has been “replaced” or lost his/her inheritance in the blessings of the covenant. Rather, every single ethnic Gentile who believes in Jesus Christ as the Messiah has been “included” in the commonwealth of Israel and grafted into the one olive tree.

 

Thus the true Israel, the true “seed” of Abraham, which is to say, any and all who are “in Christ” by faith, regardless of ethnicity, will together inherit the blessings of the covenant. In the third and final installment of this brief series I will address the question of the holy land. Whose is it, now and into eternity, and on what basis? 

 


【追加資料10】【歴史的プレミレ】Dispensational vs. Historic Premillennialism(「ディスペンセーション主義前千年王国説と歴史的前千年王国説の9つの違い」by Wick Broomall)【英文】 

 
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Dispensational Premillennialism and classic Historic Premillennialism are two very different systems of eschatology:

 

1. Older Premillennialism2 taught that the church was in the fore-vision of the Old Testament prophecy; Dispensationalism teaches that the church is hardly, if at all, in the Old Testament prophets.
 

2. Older Premillennialism taught that the great burden of Old Testament prophecy was the coming of Christ to die (at the First Advent) and the kingdom age (at the Second Advent). Dispensationalism says that the great burden of Old Testament prophecy is the kingdom of the Jews.
 

3. Older Premillennialism taught that the First Advent was the specific time for Christ to die for man's sin; Dispensationalism teaches that the kingdom (earthly) should have been set up at the First Advent for that was the predicted time of its coming.
 

4.Older Premillennialism taught that the present age of grace was designed by God and predicted in the Old Testament; Dispensationalism holds that the present age was unforeseen in the Old Testament and thus is a "great parenthesis" introduced because the Jews rejected the kingdom.
 

5. Older Premillennialism taught that one may divide time in any way desirable so long as one allows for a millennium after the Second Advent; Dispensationalism maintains that the only allowable way to divide time is in seven dispensations. The present age is the sixth such dispensation; the last one will be the millennial age after the Second Advent. It is from this division of time that Dispensationalism gets its name.
 

6-1. Older Premillennialism taught that the Second Advent was to be one event; Dispensationalism holds that the Second Advent will be in two sections - "the Rapture" and "the Revelation." Between these two events they put the (to them) unfulfilled seventieth week (seven years) of Daniel 9:23-27, which they call "the Great Tribulation."
 

6-2. Older Premillennialism taught that certain signs must precede the Second Advent; Dispensationalism teaches that no sign precedes the "rapture-stage" of the Second Advent, which may occur "at any moment." However, there are signs that precede the "revelation-stage" of the Second Advent. The "Rapture" could occur "at any moment," but the "Revelation" must take place after the seven years of the Great Tribulation. The first stage is undated and unannounced; the second stage is dated and announced.
 

7. Older Premillennialism had two resurrections-the righteous before the Millennium; the unrighteous after the Millennium. Dispensationalism has introduced a third resurrection - "tribulation-saints" at the "revelation-stage" of the Second Advent.
 

8. Older Premillennialism usually held what is called the "historical symbolic" view of the book of Revelation. This view makes Revelation a picture in symbolic form of the main events in the present age. Dispensationalism holds generally to the "futurist" view of the book of Revelation, which view makes almost the whole book (especially chapters 4 to 19) a literal description of events to take place during "the Great Tribulation" or Daniel's seventieth week, which Dispensationalism considers as yet unfulfilled.
 

9. The general attitude of older Premillennialism was on the whole mild and reverent in its approach to Scripture. There have been some outstanding scholars who have been persuaded that the premillennial is the correct view. In contrast, Dispensationalism has assumed a far more dogmatic attitude. It has introduced a number of novelties in prophetic interpretation that the church never heard of until about a century ago 3 .

 


Summary Chart(チャート表)

 

Dispensational vs. Historic Premillennialism (ディスペンセーション主義前千年王国説 VS 歴史的前千年王国説) 

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)---The church is hardly, if at all, in the Old Testament prophets 

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説)

The church was foreseen in Old Testament prophecy  

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)The great burden of Old Testament prophecy is the kingdom of the Jews.

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説) 

Old Testament prophecies are primarily about the coming of Christ to die (at the first advent) and the kingdom age (at the second advent). 

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)-The earthly kingdom should have been set up at the first advent, for that was the predicted time of its coming

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説)

The first advent was the specific time for Christ to die for man's sin. 

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)The present age was unforeseen in the Old Testament and thus is a ``great parenthesis'' introduced because the Jews rejected the kingdom. 

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説)

The present age of grace was designed by God and predicted in the Old Testament.  

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)Time is usually divided into seven dispensations. The present age is the sixth such dispensation.

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説)

One may divide time in any way desirable so long as one allows for a millennium after the second advent. 

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)The second advent will be in two sections - "the rapture'' and "the revelation.'' Between these two events is the unfulfilled 70th week (seven years) of Daniel 9:23-27, called ""the great tribulation.''

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説)

The second advent will be one event. 

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)

No sign precedes the ``rapture stage'' of the second advent, which may occur "at any moment.'' However, signs will precede the "revelation stage'' of the second advent.

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説)

Certain signs must precede the second advent.  

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)There will be a resurrection of ""tribulation saints'' at the "revelation stage'' of the second advent.

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説)

There are two resurrections - the righteous before the millennium, the unrighteous after the millennium 

 

Dispensational Premillennialism(ディスペンセーション主義前千年王国説)

Usually holds to the "futurist'' view, which makes most of Revelation a literal description of events to take place during "the great tribulation'' or Daniel's 70th week.

Historic Premillennialism(歴史的前千年王国説)

Usually holds the "historical symbolic'' view of Revelation - a picture in symbolic form of the main events in the present age 4

 

 

註 

1 Quoted from: The Bible And The Future by Dr. Wick Broomall.

2 Dr. Broomall uses the term “older Premillennialism” to mean "Historic Premillennialism" Wick Broomall, THB, THM (1902-1976) was a Presbyterian pastor, author, and theologian. He taught at Columbia Bible College and Erskine Theological Seminary. Rev. Broomall was one of the founders of the PCA.

3 Referring to Darby “discovering” the pretrib rapture in the early 19th century.

4 Today most historic Premillennialists hold to the futuristic view.

 

【追加資料11】神の国をめぐっての還元主義を避けるために――「すでに始まっている終末論(inaugurated eschatology)」と「未来主義の終末論(futurist eschatology)」との間に存在する緊張関係について(by D・A・カーソン、日本語)

 

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Q & A on the Kingdom (D.A. Carson) 抄訳

 

問い:

神の国(kingdom:王国、御国)を理解し、宣べ伝えるにあたって、私たちの犯しやすい誤解や誤りというのがあるのでしたら、それはどのようなものでしょうか。

 

D.A.カーソン:

 

それはこういったクリスチャンの方々が還元主義(reductionism)の誤謬に陥ってしまっていることです。こういった人々はたしかに真理の一側面を正しく見極めてはいるのです。

 

しかしその後、それを絶対化して捉えてしまうため、彼らは――本来、聖書の中では非常に広範囲にわたる言及(referents)や含み(overtones)を有している――「神の国」の概念を、正しく理解することができずにいます。

 

明証(事実)の一部のみを絶対化することは、解釈学的なナンセンスをもたらし、それゆえに、聖書の述べている神の国(ならびにその他の関連表現)についての包括性・理解を歪める結果となります。それだけでなく、しまいにそれは、歪曲された神学的体系(synthesis)を生み出すことにつながっていきます。

 

まず第一に、ある神学の体系は、「神の国 “kingdom”」と「教会」の間に、一時的な「仕切り」を挿入しています。つまり、教会は、今のディスペンセーションに属し、それに対して、神の国は後のディスペンセーションに属する、というのです。

 

*C・I・スコフィールドの提唱した「神の国」と「天の御国」の区分についての詳細は以下の記事をご参照ください。

 

しかし、少なくともいくつかの聖句は、そういった見解に合致していません。

 

)神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に(into the kingdom of the Son移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。コロサイ1:13-14

 

しかしそれとは正反対の誤謬が起きることもあります。例えば、ティモシー・ドゥワイトの作曲した古い讃美歌によって、「神の国」と「教会」が同じものを指す、という見解が広まりました。次のような歌詞です。

 

♪ 主よ、汝の御国(kingdom)を愛しています。汝の住まわれる家、われらの贖い主がご自身の血をもって救ってくださりし教会。

 

しかしこれは「カテゴリー」に関する誤謬です。「教会」という語は、集い、ないしは人々の集まりのことを指しています。それに対し、「神の国(kingdom)」は、「統治(“reign”)」というダイナミックな観念を指すものです。(そしてこの「統治」の観念は、それぞれ特定の文脈とのかかわりの中で、より明確な意味を帯びます。)

 

たといある意味において、神がご自身の「教会」を統べ治めるやり方が、「万人」を統べ治めるやり方と異なったものであるとしても、依然として「教会」と「神の国」は異なるカテゴリーに属するものであり、それを同義語として扱うことはできません。

 

こういった誤謬により、「教会とは、信者と不信者から成り立つものだと考えるべきです」と主張し、その根拠として麦と毒麦のたとえを引いてくる人々もいます(マタイ13:24-29、36-43)。

 

しかしここでイエスは明確に「これは御国のたとえです」と言っておられます。そしてこれから見ていくように、このたとえは、ある部分において、現在および未来に関する立場を打ちたてるよう意図されたものです。従って、それは、教会の概観図(profile)を私たちに示すものではありません。そして、三番目に取り上げるべき領域は、

 

1)すでに始まっている終末論(inaugurated eschatology)

〔=神の国はすでに来ている。the kingdom has come〕と、

2)未来主義の終末論(futurist eschatology)

〔=神の国はやがて終わりに来る。the kingdom comes at the end〕

 

という、二種類の聖書的記述の間に存在する緊張についてです。一方において、イエスは、いくつかの御国のたとえを用い、待望されている「ビッグ・バン」はまだ来ていないということを言っておられます。

 

例えば、種まきのたとえなどがそうです。蒔かれた御言葉に対し、それぞれ異なった受容があり、実の結び方に関してもそこにはそれぞれ相違があります。

 

御国は即座に来て、完全に効率的な分割をもたらしたわけではありませんでした。そうではなく、それはゆっくりと、それぞれ異なる応答を受けつつ、やって来たのです。また他の箇所では、イエスの復活と栄化という側面、天と地における一切の権威は主のものである旨が記されています。

 

換言すれば、イエス・キリストは――今はまだ、万物および万人が喜んで主に恭順している姿を私たちは目にしていないけれども――、それにもかかわらず、主は統治しておられるのだということです。

 

1コリント15章のパウロの言葉を借りるなら、イエスはすべての敵をその足の下に置くまで、そして最後の敵である死それ自体を滅ぼすまでご支配せねばならないということです。

 

ですから、御父の王としての権威は今やことごとく、キリストを通してもたらされているのです。そしてイエスは――最後の敵が滅ぼされるまで抵抗にあわなければならないにも関わらず――、依然として統治しておられるのです。こういった表象や聖句(*他にも多数あります)から神の国の像が導き出されます。つまり、それは、

 

すでにここにあり(already here)、

すでに機能しており(already operating)、

すでに始まっており(already inaugurated)、

尚かつ、今もって抵抗に遭っているのです(still contested)。

 

しかしながらその一方、予見者ヨハネは、後に起こること、すなわち「この世の国は私たちの主およびそのキリストのもの(kingdom)となり、主が永遠に支配される」(黙11:15)ということ、そして、暗闇の勢力が壊滅的な敗北に遭うこと(黙19:11-21)を予見していました。

 

パウロもまた、すべてのひざが跪く時がくること(ピリピ2:10-11)を述べています。このように多くの聖句が、信者が最終的に御国を「相続するようになること(“inheriting”)」を描写しています。

 

このように「すでに “already”」統治しつつある神の国と、「今もってまだ(到来していない)“not yet”」神の国との間に存在するこういった現行の緊張・摩擦には、牧会的適用もなされるでしょう。例えば、次のような言及がなされています。

 

「コリントの信者たちは、『過度に実現化されすぎた終末論(over-realized eschatology)』により試みを受け、自分たちのことをあたかも統治する王であるかのように考え始めていました(1コリ4:8)。そしてそれゆえに、彼らは、使徒たちと同様に自分たちもまたキリスト者としての苦難の道に召されている事実を見落としていたのです」と。

 

それとは対照的に、テサロニケの信者たちの内、何人かは、すでに受けていた福音の祝福でもって十分に満足することができず、こうして「もう、すぐにでも神の国は到来するのだ!」と考えた彼らは、それを熱心に待望しすぎる余り、日常のさまざまな生活責務をないがしろにしていたとされています。

 

聖書のバランスが崩される時、このような否定的影響がでてくるのです。

 

還元主義にまつわる誤謬として四番目に挙げられる領域は次のものです。聖書のある箇所において、「神の国」というのは、その統治から漏れるものは何もなく、天にあるものも地にあるものも、贖われた人もそうでない人も皆ことごとく含まれるような、そのような全面的・包括的なカテゴリーとして言及されています。

 

しかしながら他方において、他の聖書箇所を読むと、そこには「神の国」とは、神の全面的・包括的、そして摂理的主権の「部分集合(subset)」であることが示されています。その下に、神による赦しおよび永遠のいのちが存在しているのです。

 

そして(前者のカテゴリーには万人が属しているけれども)後者の「統治」および「神の国」には皆が皆が属しているわけではないのです。こういった事実について、多くのクリスチャンはそれを見落としています。

 

こういった対の両サイドを示す聖句を探すのは容易です。例えば、詩篇の中には、「主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める」(詩103:19)とあります。前述した「麦と毒麦のたとえ話」も、この状況になぞられるでしょう。

 

つまり、最終的な分離がなされる終わりの時まで麦も毒麦も混ざった状態にあるということです。このように「神の国」というのは非常に広範囲なものを包含していますから、そういった意味において、全ての人は「神の国」に入れられていると結論づけなければならないでしょう。つまり、私たちは麦か毒麦か、どちらかなのです。

 

それはまた次のようにも言えます。「好むと好まないにかかわらず、私たちは皆、神の統治下に生きている。皆、主の統べ治める摂理の下に生きているのだ」と。

 

しかしながら他方において、イエスはこのようにも言っておられます。人は新生しなければ、神の国に入ることはできない(ヨハネ3:3,5)と。ここの文脈における「神の国」というのは明らかに、より限定的な意味を有するものです。つまり、その中に入れられている人もいれば、そうでない人もいる、というわけです。

 

前者の側面にばかりに注目してしまった結果、「人類はみな、神の子どもです。皆、神の国の中に入れられているのです」という感傷論に陥る人々がいます。もしその理論でいくなら、ポル・ポトも、アドルフ・ヒットラーも、ジョセフ・スターリンも皆等しく、神の主権的守りの中、庇護を受け、神の国に生きながらえているということになります。しかしながら、分別のある人々なら、そのようなユートピア的包括主義を抱くようなことはないでしょう。

 

しかし一方、ヨハネ3章に提示されている意味における神の国にのみ注目した人がいたとしましょう。その場合、その人は新生した人の集まりにだけに注目する余り、――たといそれが二次的原因によって引き起こされるものだとしても――神の統治がまさしくすべての上に君臨しているという、神の全面的・包括的方法を見落とす結果になってしまっています。

 

五番目の点に入ります。ここ数十年の間に、二つの騒々しいグループが勢力を増しています。

 

こういった群れが主張している強調点は、それが、神の国に関し聖書が言及している他のすべての箇所とよく統合している限り、問題はないといえます。しかし、そういった強調点だけが特化される時、「神の国の」という形容詞は、自らの都合の良いように使われ始め、こうして彼らは誤謬を犯すことになります。

 

このようにして近年、私たちは「神の国の倫理 Kingdom Ethics」という言葉をよく聞くようになったのです。こういった声は、まず、改革派陣営のある一角から聞こえてくる場合があり、その際彼らは「文化を贖うことについて」流暢にまくしたてています。

 

他方、その声がアナバプテスト/スタンリー・ハワーワス派/イマージング運動等の陣営の一角から聞こえてくることもあります。彼らはまた彼らで、平和主義もしくは1920年代のリベラル主義などにひどく共感の相槌を打っています。

 

もちろん、どちらの陣営も完全に間違っているわけではありません。なぜなら、救いを与えし神の統治の下に生きる時、人は確かに変えられ、その変化の中には当然、倫理的生活も含まれているからです。しかし、それによって神の国に関する他の聖書的強調点がないがしろにされることは問題です。

 

現在の風潮にあって、私は「神の国」という言葉を単に形容詞的にのみ使っている人を信用できません。というのも、往々にしてそれは、自らの神学的ないしは倫理的アジェンダを是認するためのお上品な神学的方策にすぎないからです。

 

こういったアプローチの中でも特に悪性のものは、トニー・キャンポロの言う、いわゆる「赤文字クリスチャン(*英語の聖書の中には、イエス様の言葉を赤文字で印刷しているものがあります。訳者注)」と言われている人々によってなされています。

 

こういった「赤文字クリスチャン」は、一般の福音主義クリスチャンと同じような神学的見解を有してはいますが、彼らはその中でも特にイエスの言葉を真剣にとらえ、他のクリスチャンたち以上に、貧しい人や、飢えた人、戦火にある人などに注意を向けようとしています。

 

しかしこれは自分の趣向にあった神学に合わせ、「正典の中の正典」を探そうとする幾多の不毛な試みの中の一つにすぎません。これが「赤文字クリスチャン」によって一般に引き起こされている深刻な誤謬の片面です。

 

しかしもう片面の誤謬はさらにひどいものです。イエスの言葉を読み、それを各福音書の語りとしての枠組みから切り離したところで強調するなら、そしてそれらの筋が読者をイエスの贖いの死と復活に導いているにもかかわらずそこから切り離したところで強調するなら――、

 

その時、それはイエスの死と復活を軽視する結果を招くばかりか、赤文字のイエスの言葉が実際に指し示していることを真に理解することも、そして差し迫った主の十字架の業の重要性を理解することもできなくなってしまうのです。

 

換言すると、イエスの十字架と復活こそ「最もたいせつなこと(“of first importance”)」(1コリ15:3)であり、コリントの人々の間でイエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した(1コリ2:1-5)のは、パウロだけではなく、実に、各福音書の語りの形態自体が、同じことを言っているのです。

 

各々の場合において、福音書の語りはどれも十字架と復活に向かい性急に進んでいきます。そうです、十字架と復活こそがそのクライマックスなのです。

 

ですから、――赤文字のイエスの言葉を含めた――福音書の言説を解釈する際、もしそれを(言説の突進するところである)十字架と復活から切り離した所で解釈するなら、それは必然的に、福音書自体を歪曲する結果につながります。

 

福音書の中における受難に関する記述のいくつかは特にそのことを明確に示しています。例えば、マタイの福音書で、イエスは繰り返し、「ユダヤ人の王」としてあざけられています(27:27-31、37、42)。しかしマタイはこの福音書の冒頭より「イエスが王であること」を明示しており、読者にとってもそれは既知のことでした。

 

約束されたダビデの子孫の王として、彼が(『ヤーウェは救う』という意味の)「イエス」という名を与えられたことが最初の章に書かれているのです。なぜなら、イエスはご自身の民を罪から救うために来られたからです。

 

最初の三世紀に渡り、初代教会のクリスチャンたちが、――野蛮なローマの拷問と恥辱の道具である――十字架の上からイエスが「統治されていた」というアイロニーについてしばし黙想していたのも不思議ではありません。

 

そう、十字架のこの側面、復活のこの側面、すべての権威がイエスに属していることを私たちに知らしめてくれたのがマタイです(28:18-20)。これらが語りの枠組みの部分を構成しているのであり、それなしにはイエスの赤文字の言葉も、神の国の描写も、正当には理解しえないのです。

 

最後に申し上げます。真摯なクリスチャンは、還元主義をぜひとも避けるべきです。私たちは慎重に「神の国」の範囲・領域を学び、直接的な文脈に注意を払いつつ、御言葉全体が、「最もたいせつなこと」として宣言していることに忠実であるよう努めるべきです。

 

―おわり―