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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会の性質と目的――「教会」と「イスラエル」について(by ウェイン・グルーデム)

 

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Wayne Grudem, Systematic Theology, Chapter 44. The Church: Its Nature, Its Marks, and Its Purposes, p. 859-863 抄訳(小見出しはブログ管理人によるものです。)

 

教会とイスラエル(The Church and Israel)

 

イスラエルと教会の関係について、福音主義プロテスタントの間には異なった諸見解が存在します。そしてこの問題は、ディスペンセーション主義的な神学システムを支持する人々によって表面化されてきました。

 

ディスペンセーション主義者によって書かれたもっとも克明な組織神学であるルイス・スペリー・シェイファー(Lewis Sperry Chafer, 1871- 1952)の『組織神学*14』は、イスラエルと教会の間に多くの相違点があると指摘し、そして、旧約聖書の中における神を信じるイスラエルと、新約聖書の教会との間にさえも多くの相違点があると指摘しています(Chafer, Systematic Theology, 4:45-53)。

 

(*14 Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology. ディスペンセーション主義を特徴づける特有な教説は他にもいくつかありますが、神の全体的ご計画の中における「イスラエル」と「教会」という二つのグループをそれぞれ別個のものとみる、という点がおそらく最も重要だと思います。

 その他、ディスペンセーション主義者によって一般に支持されている教説として挙げられるのは、1)患難時代前に教会が天に携挙されるという「患難前携挙説」(本書54章参照)、2)イスラエルに関する旧約預言の将来的字義通りの成就、3)聖書の歴史を7つの時期ないしは、ご自身の民に対する神のお取扱いに関する「ディスペンセーション(経綸)」に分割、3)永遠の神のご計画の中における「挿入句」としての教会理解(「挿入」は、ユダヤ人の大半が救い主としてのイエスを拒絶した時より導入)などです。

 しかし、現在のディスペンセーション主義者の多くは、こういった特有点のいくつかを修正ないしは拒絶しています。体系としてのディスペンセーション主義は、英国のJ・N・ダービー(1800-1882)の著述類によって始まり、『スコフィールド引照・注解付き聖書』を通し、米国にて一般普及するようになりました。)

 

ルイス・シェイファーによれば、神はご自身の贖う二種類のグループの人々に対し、各々二種類の異なる計画を持っておられ、それは、

)イスラエルに対する神のご目的および御約束は、地上的な諸祝福であり、これは未来のある時点で、この地上において成就する。

)それに対し、教会に対する神のご計画および御約束は、天的な諸祝福であり、こういった諸約束は天において成就される、とされています。

 

また、神のお救いになる二つの異なるグループの相違というのは、千年王国期に特に顕在化されるとされます。その理由としては、シェイファーによれば、その時、イスラエルは神の民として地上を治め、旧約の諸約束の成就を享受するようになるのに対し、教会は、聖徒のためにキリストが秘密の空中再臨をされた時点で("rapture, " 携挙)すでに天に引き上げられているからです。

 

尚、この見解においては、教会はペンテコステ(使徒2章)以前にはまだ始まっておらず、旧約の信者たちを、新約の信者たちと共に、継続した一つの教会と捉えることは正しくないとされています。

 

あるディスペンセーション主義陣営においては、こういったシェイファーの立場がその後も影響を及ぼし続けており、一般向けの説教などではさらにその傾向がみられますが、近年ではディスペンセーション主義者の中の多くの指導者たちは、多くの点において、もはやシェイファー説を採らなくなっています。

 

漸進的ディスペンセーション主義(Progressive Dispensationalism)

 

ロバート・サウシー(Robert Saucy)、クレッグ・ブレイジング(Craig Blaising)、ダレル・ボック(Darrell Bock)などの最近のディスペンセーション主義神学者などは、自らのことを「漸進的ディスペンセーション主義者」と呼び(*16)、広範囲の支持層を得ています。

 

(*16. Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism (Grand Rapids: Zondervan, 1993)/ Darrell L. Bock and Craig A. Blaising, eds., Progressive Dispensationalism (Wheaton: Victor, 1993). John S. Feinberg, ed., Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testament (Wheaton: Crossway, 1998). 訳者注:一宮基督教研究所の安黒務師の分析によれば、日本では、例えば、福音聖書神学校の真鍋師の立っておられる位置が、この漸進的ディスペンセーション主義に相当するそうです。一方のフルクテンバウム師および中川健一師の立場は、「古典的デスペンセーション主義のDNAを宿す改訂ディスペンセーション主義(Revised Dispensationalism)」と位置づけられているようです。参照元

 

漸進的ディスペンセーション主義の人々は、教会を、神の計画の中の「挿入部分(parenthesis)」としては見ておらず、神の国の建設に向けた最初の段階として見ています。

 

またこの漸進的ディスペンセーション主義の見解では、神はイスラエルと教会に対し、二つ別々の目的を持っておられるのではなく、一つだけから成る目的――つまり神の国の建設――を持っておられ、この単一の目的の中に、イスラエルも教会も共に包含されていると捉えています。

 

また漸進的ディスペンセーション主義者は、未来の永遠の状態におけるイスラエルと教会の間にも相違を設けていません。なぜなら、その時、皆が一つの神の民となるからです。さらに、彼らは、教会は、千年王国期に、栄化されたからだでキリストと共にこの地上を治めるようになると理解しています。

 

一つの相違点

 

しかしながら、一つの点において、漸進的ディスペンセーション主義者と残りの福音主義の人々の間には相違点が依然として残っています。

 

それはつまり、「イスラエルに関する旧約の諸預言は、――キリストを信じ、全ての諸国家の見倣うべき『モデル国家』としてのイスラエルの地に住む――民族としてのユダヤ人によって千年王国期に成就される」という見解です。

 

それゆえに、彼らは、教会が「新しいイスラエル」であるとは言わず、またイスラエルに関する全ての旧約預言は教会の中で成就される、とも言いません。なぜなら、こういった預言は将来的に、民族的イスラエルにあって成就されると考えられているからです。

 

この問題に関する本書の立場は、ルイス・シェイファーの見解とは著しく異なっており、漸進的ディスペンセーション主義者の見解とも幾分異なっています。

 

しかしながら、一つ申し上げておかなければならないのは、「将来についての聖書の預言が厳密にどのように成就されるのか」という事に関しては、事の性質上、正確にこうだと断定するのが難しいということです。

 

ですから、こういった事項に関しての私たちの結論には、ある暫定性をもたせるのが賢明かと思われます。そのことを念頭においた上で、次のことを申し上げたいと思います。

 

ディスペンセーション主義の外側にいる、プロテスタント神学者・カトリック神学者共に、「教会は、旧約の信者も新約の信者も、一つの教会ないしは一つのキリストのみからだに含まれている」という見解にこれまで立ってきました。

 

また非ディスペンセーション主義の見解においても、将来的に大規模なユダヤ人の回心があるだろうという見解を持ち得ます(ローマ11:12、15、23-24、25-26、28-31)*17しかし、そうであっても依然として、この改宗は、ユダヤ人信者たちが神の唯一のまことの教会の一部分となることを示し、こうして彼らは「自分の台木につがれ」(ローマ11:24)ます。

 

(*17. 本書54、p1098、1104を参照。自分自身は、いわゆるディスペンセーション主義者ではありませんが、依然として、私はローマ9-11章が、将来的に大規模に起こるであろうユダヤ人の回心を説いているという事をこの章で確認・肯定しています。)

 

これに関してですが、私たちは、教会を「新しいイスラエル」もしくは新しい「神の民」と理解している数多くの新約聖書の聖句に留意すべきです。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように」(エペソ5:25)という聖句がこの事を示しています。

 

さらに、教会の何百万人ものクリスチャンに救いをもたらしている現在の教会時代は、神の計画の中における「割り込み」や「挿入」ではなく*18、旧約聖書全体を通し、人々をご自身の元に呼んでおられる事を通して表されている神の計画の継続です。

 

(*18.ここでルイス・シェイファーが用いている語は、「"an intercalation"(挿入、割り込み)」であり、これは、以前計画されていたスケジュールないし出来事の予定表の中に、ある時期が挿入されることを意味します(p41)。ここでシェイファーは、「現在の教会時代は、啓示された予定表ないし――古の預言者たちによって予見されていた――神のプログラムの中への挿入です」と述べています。)

 

パウロはこう言っています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れた(inwardly)ユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」(ローマ2:28-29)。

 

パウロは、肉的にアブラハムを父祖とする人々の内にも確かに字義通りもしくは自然的意味においてユダヤ人と呼ばれる要素があることを認めつつも、「まことのユダヤ人」とは内的に信者であり、心が神によって清められた者――という意味でのより深遠かつ霊的な意味もそこには存在していると言っています。

 

またパウロは、アブラハムは肉的な意味におけるユダヤ人の父としてのみ捉えられているわけではないということを述べています。アブラハムはまた、より深くより真実な意味において「割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、、、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父」です。(ローマ4:11-12、それから16、18節も参照のこと)。

 

それゆえに、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、、、すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる」(ローマ9:6-8)とパウロは言うことができたのです。

 

ここでパウロが含意しているのは、もっとも真なる意味における「イスラエル」であるアブラハムのまことの子どもは、アブラハムを肉の父祖に持つイスラエルの民(nation)ではなく、キリストを信じた人々であるということです。

 

真にキリストを信じた人々が今や、主によって「わが民」と呼ばれる特権をいただく者とされ(ローマ9:25、ホセア2:23からの引用)、それゆえ、今や教会が、神の選ばれた民です。

 

これは何を意味するかと言いますと、将来のある時点で、肉によるユダヤ人が大規模に救われる際、彼らは別箇の神の民、ないしは別箇のオリーブの木として構成されるのではなく、「元のオリーブの木につがれ("grafted back into their own olive tree")」(ローマ11:24)ることになります。

 

この事を示す別の聖句としてはガラテヤ3:29「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」があり、同様に、パウロは、クリスチャンこそ「真の割礼を受けた者」(ピリピ3:3、新共同訳)だと言っています。

 

パウロは教会を、「ユダヤ人とは区別された別箇のグループ」だと考えていないばかりか、かえってパウロは、エペソにいる異邦人信者たちに宛て、彼らがかつては「イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人」(エペソ2:2)であったが、「今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(エペソ2:13)と言っています。

 

そして異邦人たちが教会に導き入れられた時、ユダヤ人と異邦人たちは、一つの新しいからだとして結ばれたのです。そして、神は、「二つのものを一つにし("has made us both one")、隔ての壁を打ちこわし、、、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです」(エペソ2:19-20)とパウロは記しています。

 

それゆえ、異邦人たちは「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民("fellow citizens with the saints")であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペソ2:19-20)。

 

新約の教会に対する旧約の背景を強く意識し、パウロは「異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連な」(エペソ3:6)ると言うことさえできました。

 

この節全体が、キリストにある一つのからだにおける、ユダヤ人信者と異邦人信者の一致を強く述べており、キリストという一つのからだ(教会)に包含されることから離れ、ユダヤ人が救われるのためのなにか別箇の計画があるという事はどこにも表示されていません。

 

教会は、その中に、すべての真の神の民を組み込み、包含します。そして、旧約聖書の中で神の民を表す語として使われているほとんど全ての称号は、一か所ないし数カ所で、新約聖書の教会に適用されています。

 

それに加え、ヘブル人への手紙8章は、イスラエルに関する旧約の諸約束の受領者そして成就としての教会をみる上で、強力な根拠を提供しています。クリスチャンの与る新契約に関して述べている文脈の中で、ヘブル書の記者は、エレミヤ31:31-34から長い引用をし、次のように言っています。

 

「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家おとびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る、、、わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」(ヘブル8:8-10)。

 

ここで記者は、主がイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ日が来るという主の御約束を引用し、その新しい契約が今や教会と結ばれた(結ばれている)と言っており、その新しい契約とは、教会の信者たちがメンバーとなっているところの契約なのです。

 

それゆえ、聖書記者は、「――旧約聖書がイスラエルに約束しているところの――神のまことのイスラエルとしての『教会』がその成就である」と捉えているのだと結論付けざるを得ないように思われます。

 

同様に、ヤコブは多くの初代教会に一般的な書簡を書き、自分は「離散している十二部族の人々へ」それを書き送っていると記しています(ヤコブ1:1)。これが示唆するのは、ヤコブが明らかに新約のクリスチャンを、「イスラエルの十二部族」の後継者そして成就として見ているということです。

 

ペテロも同じように言っています。ペテロは冒頭の聖句で、読み手のことを「離散し寄留している人たち("exiles of the Dispersion")*19(1ペテロ1:1)と呼ぶことに始まり、(最後から二番目の節で)ローマ市のことを「バビロン」(1ペテロ5:13)」と呼ぶなど、彼は頻繁に、旧約のイメージ(像;imagery)やユダヤ人に与えられていた諸約束に関する用語で、新約のクリスチャンを表現しています。

 

(*19. 「離散("Dispersion")」という言葉は元々、イスラエルの地の外に散在し、古代地中海世界を通し各地に住んでいたユダヤ人のことを指す用語として使われていました。)

 

そしてこの主題は1ペテロ2:4-10においてとりわけ顕著です(*以下、このパラグラフは大部分、自著Wayne Grudem, The First Epistle of Peter, p.113からの引用によります。)旧約聖書の中でイスラエルに約束されていたほとんど全ての祝福を神は教会にお与えになっているとペテロはここで言っています。神の臨在される場所はもはやエルサレム神殿ではない。なぜなら、クリスチャンが今や新しい神の「神殿(家;temple, oikos )」であるからです。

 

神に受け入れられる犠牲を捧げることのできる祭司はもはやアロンの子孫ではありません。なぜなら、今やクリスチャンが神の御座の前に近づくことのできる真の「聖なる祭司」だからです(4-5、9節)。

 

そして神に選ばれた民というのは、もはや肉的にアブラハムの血筋を引いている人たちではありません。なぜなら、クリスチャンが今、真の「選ばれた種族」です(1ペテロ2:9)。

 

そして、神によって祝福されている国(nation)というのは、もはやイスラエルの国(nation)ではありません。なぜなら、クリスチャンが神のまことの「聖なる国民("holy nation," ἔθνος ἅγιον 」だからです。

 

さらに、イスラエルの人々は、もはや神の人々とは言われず――なぜなら、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも含めたキリスト者たちが、今や「神の民」そして「あわれみを受けた者」(10節)と言われているからです。

 

さらに、ペテロは――いつまでも神に反逆し続け、尊い「隅のかしら石」(6節)を拒絶するご自身の民を神は拒絶するだろうという旧約聖書の文脈から――一連の引用句を用いています。

 

以上の事から、教会が今や、神のまことのイスラエルとなり、旧約聖書においてイスラエルに約束されていたあらゆる祝福をいただくようになるということを私たちは確信をもって結論付けることができると思います。