巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会の性質と目的――「教会」と「イスラエル」について(by ウェイン・グルーデム他)

 目次

 

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Wayne Grudem, Systematic Theology, Chapter 44. The Church: Its Nature, Its Marks, and Its Purposes, p. 859-863 抄訳(小見出しはブログ管理人によるものです。)

 

ウェイン・グルーデム著「教会とイスラエル(The Church and Israel)」『組織神学』第44章

 

イスラエルと教会の関係について、福音主義プロテスタントの間には異なった諸見解が存在します。そしてこの問題は、ディスペンセーション主義的な神学システムを支持する人々によって表面化されてきました。

 

ディスペンセーション主義者によって書かれたもっとも克明な組織神学であるルイス・スペリー・シェイファー(Lewis Sperry Chafer, 1871- 1952)の『組織神学*14』は、イスラエルと教会の間に多くの相違点があると指摘し、そして、旧約聖書の中における神を信じるイスラエルと、新約聖書の教会との間にさえも多くの相違点があると指摘しています(Chafer, Systematic Theology, 4:45-53)。

 

(*14 Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology. ディスペンセーション主義を特徴づける特有な教説は他にもいくつかありますが、神の全体的ご計画の中における「イスラエル」と「教会」という二つのグループをそれぞれ別個のものとみる、という点がおそらく最も重要だと思います。

 その他、ディスペンセーション主義者によって一般に支持されている教説として挙げられるのは、1)患難時代前に教会が天に携挙されるという「患難前携挙説」(本書54章参照)、2)イスラエルに関する旧約預言の将来的字義通りの成就、3)聖書の歴史を7つの時期ないしは、ご自身の民に対する神のお取扱いに関する「ディスペンセーション(経綸)」に分割、3)永遠の神のご計画の中における「挿入句」としての教会理解(「挿入」は、ユダヤ人の大半が救い主としてのイエスを拒絶した時より導入)などです。

 しかし、現在のディスペンセーション主義者の多くは、こういった特有点のいくつかを修正ないしは拒絶しています。体系としてのディスペンセーション主義は、英国のJ・N・ダービー(1800-1882)の著述類によって始まり、『スコフィールド引照・注解付き聖書』を通し、米国にて一般普及するようになりました。)

 

ルイス・シェイファーによれば、神はご自身の贖う二種類のグループの人々に対し、各々二種類の異なる計画を持っておられ、それは、

)イスラエルに対する神のご目的および御約束は、地上的な諸祝福であり、これは未来のある時点で、この地上において成就する。

)それに対し、教会に対する神のご計画および御約束は、天的な諸祝福であり、こういった諸約束は天において成就される、とされています。

 

また、神のお救いになる二つの異なるグループの相違というのは、千年王国期に特に顕在化されるとされます。その理由としては、シェイファーによれば、その時、イスラエルは神の民として地上を治め、旧約の諸約束の成就を享受するようになるのに対し、教会は、聖徒のためにキリストが秘密の空中再臨をされた時点で("rapture, " 携挙)すでに天に引き上げられているからです。

 

尚、この見解においては、教会はペンテコステ(使徒2章)以前にはまだ始まっておらず、旧約の信者たちを、新約の信者たちと共に、継続した一つの教会と捉えることは正しくないとされています。

 

あるディスペンセーション主義陣営においては、こういったシェイファーの立場がその後も影響を及ぼし続けており、一般向けの説教などではさらにその傾向がみられますが、近年ではディスペンセーション主義者の中の多くの指導者たちは、多くの点において、もはやシェイファー説を採らなくなっています。

 

漸進的ディスペンセーション主義(Progressive Dispensationalism)

 

ロバート・サウシー(Robert Saucy)、クレッグ・ブレイジング(Craig Blaising)、ダレル・ボック(Darrell Bock)などの最近のディスペンセーション主義神学者などは、自らのことを「漸進的ディスペンセーション主義者」と呼び(*16)、広範囲の支持層を得ています。

 

(*16. Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism (Grand Rapids: Zondervan, 1993)/ Darrell L. Bock and Craig A. Blaising, eds., Progressive Dispensationalism (Wheaton: Victor, 1993). John S. Feinberg, ed., Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testament (Wheaton: Crossway, 1998). 訳者注:一宮基督教研究所の安黒務師の分析によれば、日本では、例えば、福音聖書神学校の真鍋師の立っておられる位置が、この漸進的ディスペンセーション主義に相当するそうです。一方のフルクテンバウム師および中川健一師の立場は、「古典的デスペンセーション主義のDNAを宿す改訂ディスペンセーション主義(Revised Dispensationalism)」と位置づけられているようです。参照元

 

漸進的ディスペンセーション主義の人々は、教会を、神の計画の中の「挿入部分(parenthesis)」としては見ておらず、神の国の建設に向けた最初の段階として見ています。

 

またこの漸進的ディスペンセーション主義の見解では、神はイスラエルと教会に対し、二つ別々の目的を持っておられるのではなく、一つだけから成る目的――つまり神の国の建設――を持っておられ、この単一の目的の中に、イスラエルも教会も共に包含されていると捉えています。

 

また漸進的ディスペンセーション主義者は、未来の永遠の状態におけるイスラエルと教会の間にも相違を設けていません。なぜなら、その時、皆が一つの神の民となるからです。さらに、彼らは、教会は、千年王国期に、栄化されたからだでキリストと共にこの地上を治めるようになると理解しています。

 

一つの相違点

 

しかしながら、一つの点において、漸進的ディスペンセーション主義者と残りの福音主義の人々の間には相違点が依然として残っています。

 

それはつまり、「イスラエルに関する旧約の諸預言は、――キリストを信じ、全ての諸国家の見倣うべき『モデル国家』としてのイスラエルの地に住む――民族としてのユダヤ人によって千年王国期に成就される」という見解です。

 

それゆえに、彼らは、教会が「新しいイスラエル」であるとは言わず、またイスラエルに関する全ての旧約預言は教会の中で成就される、とも言いません。なぜなら、こういった預言は将来的に、民族的イスラエルにあって成就されると考えられているからです。

 

この問題に関する本書の立場は、ルイス・シェイファーの見解とは著しく異なっており、漸進的ディスペンセーション主義者の見解とも幾分異なっています。

 

しかしながら、一つ申し上げておかなければならないのは、「将来についての聖書の預言が厳密にどのように成就されるのか」という事に関しては、事の性質上、正確にこうだと断定するのが難しいということです。

 

ですから、こういった事項に関しての私たちの結論には、ある暫定性をもたせるのが賢明かと思われます。そのことを念頭においた上で、次のことを申し上げたいと思います。

 

ディスペンセーション主義の外側にいる、プロテスタント神学者・カトリック神学者共に、「教会は、旧約の信者も新約の信者も、一つの教会ないしは一つのキリストのみからだに含まれている」という見解にこれまで立ってきました。

 

また非ディスペンセーション主義の見解においても、将来的に大規模なユダヤ人の回心があるだろうという見解を持ち得ます(ローマ11:12、15、23-24、25-26、28-31)*17しかし、そうであっても依然として、この改宗は、ユダヤ人信者たちが神の唯一のまことの教会の一部分となることを示し、こうして彼らは「自分の台木につがれ」(ローマ11:24)ます。

 

(*17. 本書54、p1098、1104を参照。自分自身は、いわゆるディスペンセーション主義者ではありませんが、依然として、私はローマ9-11章が、将来的に大規模に起こるであろうユダヤ人の回心を説いているという事をこの章で確認・肯定しています。)

 

これに関してですが、私たちは、教会を「新しいイスラエル」もしくは新しい「神の民」と理解している数多くの新約聖書の聖句に留意すべきです。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように」(エペソ5:25)という聖句がこの事を示しています。

 

さらに、教会の何百万人ものクリスチャンに救いをもたらしている現在の教会時代は、神の計画の中における「割り込み」や「挿入」ではなく*18、旧約聖書全体を通し、人々をご自身の元に呼んでおられる事を通して表されている神の計画の継続です。

 

(*18.ここでルイス・シェイファーが用いている語は、「"an intercalation"(挿入、割り込み)」であり、これは、以前計画されていたスケジュールないし出来事の予定表の中に、ある時期が挿入されることを意味します(p41)。ここでシェイファーは、「現在の教会時代は、啓示された予定表ないし――古の預言者たちによって予見されていた――神のプログラムの中への挿入です」と述べています。)

 

パウロはこう言っています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れた(inwardly)ユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」(ローマ2:28-29)。

 

パウロは、肉的にアブラハムを父祖とする人々の内にも確かに字義通りもしくは自然的意味においてユダヤ人と呼ばれる要素があることを認めつつも、「まことのユダヤ人」とは内的に信者であり、心が神によって清められた者――という意味でのより深遠かつ霊的な意味もそこには存在していると言っています。

 

またパウロは、アブラハムは肉的な意味におけるユダヤ人の父としてのみ捉えられているわけではないということを述べています。アブラハムはまた、より深くより真実な意味において「割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、、、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父」です。(ローマ4:11-12、それから16、18節も参照のこと)。

 

それゆえに、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、、、すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる」(ローマ9:6-8)とパウロは言うことができたのです。

 

ここでパウロが含意しているのは、もっとも真なる意味における「イスラエル」であるアブラハムのまことの子どもは、アブラハムを肉の父祖に持つイスラエルの民(nation)ではなく、キリストを信じた人々であるということです。

 

真にキリストを信じた人々が今や、主によって「わが民」と呼ばれる特権をいただく者とされ(ローマ9:25、ホセア2:23からの引用)、それゆえ、今や教会が、神の選ばれた民です。

 

これは何を意味するかと言いますと、将来のある時点で、肉によるユダヤ人が大規模に救われる際、彼らは別箇の神の民、ないしは別箇のオリーブの木として構成されるのではなく、「元のオリーブの木につがれ("grafted back into their own olive tree")」(ローマ11:24)ることになります。

 

この事を示す別の聖句としてはガラテヤ3:29「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」があり、同様に、パウロは、クリスチャンこそ「真の割礼を受けた者」(ピリピ3:3、新共同訳)だと言っています。

 

パウロは教会を、「ユダヤ人とは区別された別箇のグループ」だと考えていないばかりか、かえってパウロは、エペソにいる異邦人信者たちに宛て、彼らがかつては「イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人」(エペソ2:2)であったが、「今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(エペソ2:13)と言っています。

 

そして異邦人たちが教会に導き入れられた時、ユダヤ人と異邦人たちは、一つの新しいからだとして結ばれたのです。そして、神は、「二つのものを一つにし("has made us both one")、隔ての壁を打ちこわし、、、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです」(エペソ2:19-20)とパウロは記しています。

 

それゆえ、異邦人たちは「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民("fellow citizens with the saints")であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペソ2:19-20)。

 

新約の教会に対する旧約の背景を強く意識し、パウロは「異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連な」(エペソ3:6)ると言うことさえできました。

 

この節全体が、キリストにある一つのからだにおける、ユダヤ人信者と異邦人信者の一致を強く述べており、キリストという一つのからだ(教会)に包含されることから離れ、ユダヤ人が救われるのためのなにか別箇の計画があるという事はどこにも表示されていません。

 

教会は、その中に、すべての真の神の民を組み込み、包含します。そして、旧約聖書の中で神の民を表す語として使われているほとんど全ての称号は、一か所ないし数カ所で、新約聖書の教会に適用されています。

 

それに加え、ヘブル人への手紙8章は、イスラエルに関する旧約の諸約束の受領者そして成就としての教会をみる上で、強力な根拠を提供しています。クリスチャンの与る新契約に関して述べている文脈の中で、ヘブル書の記者は、エレミヤ31:31-34から長い引用をし、次のように言っています。

 

「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家おとびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る、、、わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」(ヘブル8:8-10)。

 

ここで記者は、主がイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ日が来るという主の御約束を引用し、その新しい契約が今や教会と結ばれた(結ばれている)と言っており、その新しい契約とは、教会の信者たちがメンバーとなっているところの契約なのです。

 

それゆえ、聖書記者は、「――旧約聖書がイスラエルに約束しているところの――神のまことのイスラエルとしての『教会』がその成就である」と捉えているのだと結論付けざるを得ないように思われます。

 

同様に、ヤコブは多くの初代教会に一般的な書簡を書き、自分は「離散している十二部族の人々へ」それを書き送っていると記しています(ヤコブ1:1)。これが示唆するのは、ヤコブが明らかに新約のクリスチャンを、「イスラエルの十二部族」の後継者そして成就として見ているということです。

 

ペテロも同じように言っています。ペテロは冒頭の聖句で、読み手のことを「離散し寄留している人たち("exiles of the Dispersion")*19(1ペテロ1:1)と呼ぶことに始まり、(最後から二番目の節で)ローマ市のことを「バビロン」(1ペテロ5:13)」と呼ぶなど、彼は頻繁に、旧約のイメージ(像;imagery)やユダヤ人に与えられていた諸約束に関する用語で、新約のクリスチャンを表現しています。

 

(*19. 「離散("Dispersion")」という言葉は元々、イスラエルの地の外に散在し、古代地中海世界を通し各地に住んでいたユダヤ人のことを指す用語として使われていました。)

 

そしてこの主題は1ペテロ2:4-10においてとりわけ顕著です(*以下、このパラグラフは大部分、自著Wayne Grudem, The First Epistle of Peter, p.113からの引用によります。)旧約聖書の中でイスラエルに約束されていたほとんど全ての祝福を神は教会にお与えになっているとペテロはここで言っています。神の臨在される場所はもはやエルサレム神殿ではない。なぜなら、クリスチャンが今や新しい神の「神殿(家;temple, oikos )」であるからです。

 

神に受け入れられる犠牲を捧げることのできる祭司はもはやアロンの子孫ではありません。なぜなら、今やクリスチャンが神の御座の前に近づくことのできる真の「聖なる祭司」だからです(4-5、9節)。

 

そして神に選ばれた民というのは、もはや肉的にアブラハムの血筋を引いている人たちではありません。なぜなら、クリスチャンが今、真の「選ばれた種族」です(1ペテロ2:9)。

 

そして、神によって祝福されている国(nation)というのは、もはやイスラエルの国(nation)ではありません。なぜなら、クリスチャンが神のまことの「聖なる国民("holy nation," ἔθνος ἅγιον 」だからです。

 

さらに、イスラエルの人々は、もはや神の人々とは言われず――なぜなら、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも含めたキリスト者たちが、今や「神の民」そして「あわれみを受けた者」(10節)と言われているからです。

 

さらに、ペテロは――いつまでも神に反逆し続け、尊い「隅のかしら石」(6節)を拒絶するご自身の民を神は拒絶するだろうという旧約聖書の文脈から――一連の引用句を用いています。

 

以上の事から、教会が今や、神のまことのイスラエルとなり、旧約聖書においてイスラエルに約束されていたあらゆる祝福をいただくようになるということを私たちは確信をもって結論付けることができると思います。

 

 

【追加資料】ジョージ・ラッド著『終末論』(第2章 イスラエルについてはどうか。)より

 

第1章において、旧約聖書はイエス・キリストにおいて与えられた新しい啓示の視点に立って解釈されなければならないという聖書解釈の原則を確立した。では新約聖書は、イスラエルについて何を教えているのだろうか。

 

旧約聖書は、イスラエルの未来における救いを見ているが、新約聖書はその預言を大幅に再解釈して、それらが教会において霊的に成就されるべきであるとしているのか?すなわち、教会は新しい真のイスラエルなのか?あるいは、神はまだご自身の民イスラエルのための未来を用意しておられるのか?

 

幸いなことに、霊感された聖書の中には、この主題についての詳細な議論が記されている。それがローマ人への手紙9-11章である。パウロは最初に、イスラエル民族がメシヤとしてのイエスを拒絶したことに対し、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(ローマ9:2)と、肉における同胞に対する心底からの関心と愛を吐露している。

 

パウロの最初の論点は、「イスラエル」つまり真の霊的イスラエル――神の民――はアブラハムの肉的子孫と同一ではないということである。「イスラエルから出る者〔本来の血縁の子孫〕がみな、イスラエル〔霊的な子孫〕なのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく・・・・」(ローマ9:6-7)。

 

パウロはこのことを証明するために旧約聖書の歴史を思い起こさせる。アブラハムには二人の息子、イサクとイシュマエルがいた。しかしイシュマエルの家族とその子孫は、アブラハムの本来の血縁の子孫であるが、霊的子孫には含まれない。

 

「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(ローマ9:7)、「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる」(ローマ9:8)。神はイサクを選び、イシュマエルを拒絶された。それゆえアブラハムの真の子孫――真のイスラル――は、生来の肉的な血統において決定されるのはなく、神の選びと約束によって決定される。

 

その意味は明らかである。パウロのいた当時のすべてのユダヤ人が、神の民「イスラエル」を名乗ることができるわけではない、神の民「イスラエル」を名乗ることができるのは、アブラハムの信仰に倣う人、約束の子であると自己証明する人だけである。

 

この原則は、すでにローマ人への手紙の始めの部分に系統立てて述べられている。ローマ人への手紙2:28-29でパウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」と書いてある。

 

この《霊的割礼》対《肉的割礼》の原則は、パウロを起源とするものではない。この主題はすでに、旧約聖書に見い出されるものであり、パウロはそれを繰り返している。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」(エレミヤ4:4)。

 

モーセの律法への外側だけの従順のみでは、神の愛顧を確かに受けているアブラハムの真の子孫であるとは言えない。そこには、それにふさわしい心――そして生活――がなければならない。さもなければ、神の怒りと直面することになる。

 

この原則は、ヨハネの黙示録の二つの節にも適用されている。ヨハネはある人々について、「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である」(黙示録2:9.3:9も参照)と言っている。ここには、ユダヤ人であると(正当に)主張できる人々がいる。

 

確かに彼らは肉において、また宗教的にユダヤ人ではあるが、ヨハネは彼らのことを、霊的にユダヤ人ではなく、実際はサタンの会衆であると言う。メシヤとしてのイエスを拒絶して、イエスの弟子たちを迫害していたからである。

 

次にパウロは、もしそれが事実であるとしたら、神の身勝手さを反映しているのではないかという反論を取り扱う。この反論に対し、厳しいことばで答えている。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」(ローマ9:20-21)。

 

この箇所は、神の選びと個人の救いに対する拒絶という視点から解釈されることが多い。しかし個々人にどのような適用がなされるにせよパウロの論点は、第一義的には贖罪の歴史と、アブラハムに与えられた約束を受け継ぐ者として神がヤコブを選ばれたことである。

 

神は字義上のイスラエルの反逆や背教に多大な忍耐をもって耐えた。「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためなのです」(ローマ9:23)。

 

神は字義上のイスラエルの不信仰に忍耐してこられた。それは、その忍耐を通して、真のイスラエルにあわれみを示すためだった。パウロは同じことを、同じ箇所の後ろのほうで取り上げている。

 

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは〔最終的に、回復不可能あ状態に〕倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」(ローマ11:11)。イスラエルはつまずき、不信仰となったが、そこに神はある目的を持っておられる。

 

神が忍耐をなくしたわけではない。イスラエルのつまずきもイスラエル自身のために起こったわけではない。むしろ、神はイスラエルのつまずきを、異邦人に救いをもたらすために用いたのである。

 

パウロは前のほうの箇所で、この主張を発展させて述べている。「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです」(ローマ9:24)。

 

神が怒りの器――神の裁きの下に立つ不信仰なユダヤ人――に取って代わるものとして選ばれた「あわれみの器」は、ユダヤ人と異邦人から成る混成体である。

 

続いて、パウロは驚くべきことをする。旧約聖書の文脈ではイスラエルに言及している二つの箇所をホセア書から引用し、大部分が異邦人から成るキリスト教会に当てはめているのである。それによって、旧約聖書が異邦人の教会を予見していたことを証明しようとする。

 

「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ』」(ローマ9:25)。

 

ホセアは姦淫の女をめとるように主から命じられた。その女は、イスラエルの霊的姦淫を象徴している。二番目に生まれたのは女の子で、ホセアは「その子をロ・ルハマ〔訳注・新改訳欄外注「愛されない」)と名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ」(ホセア1:6)と告げられた。

 

しかし、イスラエルに対するこの拒絶は最終的なものでも、回復不可能なものでもない。事実は、ホセアは続いて、神の国におけるイスラエルの未来の救いを主張する。ホセアは、弱肉強食が動物界から取り除かれる日を見ている。神は野の獣、空の鳥、地を這うものとの契約を結ぶ。暴力と戦争の武器、弓と剣、戦争そのものをもなくしてくださる。

 

イスラエルは地に安全に住み、安らかに伏す。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ」(ホセア2:19)。

 

それから、ホセアは言う。「わたしは・・・・『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう」(ホセア2:23)と。

 

さて私たちは今、キリスト論で見た同じ現象を終末論の領域でも見ている。旧約聖書の諸概念が根本的に再解釈され、予見されていなかった適用を与えられている。

 

旧約聖書においては字義どおりのイスラエルに適用されているものが、ローマ人への手紙9章25節ではユダヤ人も異邦人をも含む教会に適用されているのである(ローマ9:24)。事実、新約聖書時代の教会で構成上優勢であったのは異邦人であった。

 

パウロは、再びホセア書から引用する。「『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは『生ける神の子ども』と呼ばれる」(ローマ9:26)。

 

ホセアは、息子である第三の子を持った。そして、こう告げられた。「その子をロ・アミ〔訳注・新改訳欄外注「わたしの民でない」)と名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」(ホセア1:9)。

 

ここではホセアは、すぐに続けてイスラエルの未来の救いを知らせている。「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる」(ホセア1:10)。

 

この二箇所で、旧約聖書の文脈では字義どおりのイスラエルに言及している預言が、新約聖書において(異邦人)教会に適用されている。言い換えると、パウロは、ホセア書1:10と2:23の預言が教会において霊的に成就されたと見ているのである。

 

したがって必然的に、異邦人教会における救いの出来事は、イスラエルになされた預言の成就であるということになる。

 

このような事実があるからこそ、筆者を含む聖書を学ぶ者たちは、教会は新しいイスラエル、真のイスラエル、霊的イスラエルであると言わざるをえないのである。

 

この結論は、パウロがクリスチャンを(霊的な)アブラハムの子孫と言っている箇所によって支持される。「彼は、割礼を受けていないとき、信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。

 

すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです」(ローマ4:11-12)。ここでアブラハムは、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者の父と言われている。

 

したがって不可避の結論として、ユダヤ人であるかギリシヤ人であるかとは関係なく、信仰者こそがアブラハムの真の子ども、真の霊的イスラエルであるということになる。再び、ローマ人への手紙2:28-29を思い起させられる。すなわち真のイスラエルは、心の内で割礼を受けた人々であるということである。

 

ローマ人への手紙4:16において、パウロは再び「アブラハムは私たちすべての者の父なのです」と繰り返している。ガラテヤ人に書いたとき、パウロはすでにこの真理を明言している。「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」(ガラテヤ3:7)。

 

ディスペンセーション主義者は、《霊的》解釈を、旧約聖書を解釈するうえで最も危険な方法とみなしている。

 

ジョン・ワルブード教授は、これは現代のローマ・カトリック、現代のリベラル派、現代の非ディスペンセーション系保守の立場の著者たちを特徴づけている解釈であると書いている(The Millennial Kingdom, Dunham, 1959, p.71)。しかし筆者は霊的解釈を採用しなければならないと思っている。

 

なぜなら筆者には、旧約聖書において字義どおりのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用していることがわかっているからである。

 

筆者が霊的解釈を採用するのは、契約神学の立場を採っているからではなく、神のことばに縛られているがゆえである。

 

それでは、教会が真に霊的イスラエルであるのなら、「神はご自分の民〔字義どおりのイスラエル〕を退けてしまわれた」(ローマ11:1)のだろうか。

 

パウロはこの問いに続けて、長めの回答を記している。パウロはローマ人への手紙11章5節で、イスラエルの未来の救いを暗示している。「もし彼ら〔字義どおりのイスラエル〕の捨てられることが世界の和解〔異邦人の救い〕であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」

 

パウロは、このことを有名なオリーブの木のたとえで例証している。オリーブの木は全体として見れば、神の民である。栽培種の枝(ユダヤ人)が栽培種の木から切り取られ、野生種のオリーブの枝(異邦人)が栽培種のオリーブの木に接ぎ木された。しかし、栽培種の木に野生種の枝を接ぎ木するなどという話は聞いたことがない。

 

パウロはその疑問にも気づいていたので、「もとの性質に反して」(ローマ11:2)と語っている。パウロはイスラエルに取って代わった異邦人に、イスラエルに対して誇ってはならないと警告する。神には再び、異邦人を切り取ることもできるからである。

 

逆に、「彼ら〔ユダヤ人〕であっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです」(ローマ11:23-24)。

 

その後、パウロはすばらしい論述によって、全体の状況を要約している。「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いを思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。

 

『救う者がシオンから出て、

ヤコブから不敬虔を取り払う。

これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。

それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である』」(ローマ11:25-27)

 

ここに贖罪の歴史における聖定――栽培種のオリーブの木に生えた栽培種の枝、不信仰ゆえに切り落とされた栽培種の枝、もとの性質に反して接ぎ木された野生種の枝、まだオリーブの木に再接ぎ木されていない栽培種の枝――がある。

 

イスラエルはつまずきの岩――キリスト――につまずいた。しかしいつまでも倒れたままではない(ローマ11:11)。

 

パウロは、「イスラエルはみな救われる」と語っているが、明らかに、かつて生きていたすべてのユダヤ人についてそう言っているわけではない。パウロは贖罪の歴史について語っている。しかし、生きているユダヤ人の大多数、すなわち「イスラエルはみな」救われる日が訪れるということである。

 

イスラエルがどのように救われるのかについて、パウロがもっと詳しく書いてくれていたらと思われるかもしれない。「救う者がシオンから出て」ということばは、おそらくキリストの再臨に言及していると思われる。再臨の目的の一つとして、キリストのもとに教会を集めることとともに、イスラエルを贖うことがあるのだろう。

 

ただし、二つの事柄は明白である。一つは、イスラエルは教会と同じ方法で――つまり、信仰によってメシヤであるイエスに向かうことによって――救われなければならないということ(ローマ11:23)。

 

もう一つは、イスラエルが経験する祝福は、教会が経験している同じ祝福――キリストにある祝福であるということである。

 

それでは、神殿再興についての旧約聖書の詳細な約束についてはどうなるのか。ヘブル人への手紙は、律法には「後に来るすばらしいものは影であっても、その実物はない」(ヘブル10:1)と語り、この問いにはっきりと答えている。

 

神殿といけにえの制度を規定する律法は、キリストにおいて私たちにもたらされた祝福――実物――の影にすぎない。影はその目的を達成した。

 

キリストは今、天にある真の幕屋に入り、私たちの大祭司としての務めを行なっておられる。今、神の贖罪の計画が影の時代に逆戻りすることなどありえない。

 

実際に、ヘブル人への手紙が明確にこのことを断言している。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう」(ヘブル8:6-7)。

 

ここで強調すべき点は、ヘブル人への手紙は、モーセの契約とキリストによる新しい契約を対比させているということである。もしモーセの契約が適切なものであったのなら、第二の契約は必要なかったはずである。

 

ヘブル人への手紙は、エレミヤ書31:31-34からの長い引用によって、このことを証明している。

 

「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。・・・それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

 

ここで、すでに直面した事柄に再び遭遇する。新しい契約が二つあると考えることはきわめて困難である。

 

二つの契約とは、キリストによってキリストの血を通して教会との間で結ばれた契約と、イスラエルとの間で結ばれる未来の新しい契約である。

 

イスラエルとの間で結ばれる契約は、ディスペンセーション主義者によれば、大部分がモーセの契約の更新である。確かにパウロがローマ人への手紙9-11章で、字義どおりのイスラエルはまだ新しい契約の内に入れられていないと教えていることは、すでに見てきたとおりである。

 

しかしその契約とは、十字架を通して教会と結ばれた新しい契約と同じ契約である。別個の契約ではない。ヘブル人への手紙8章は、エレミヤを通してなされた約束を、キリストを通し教会との間に結ばれた新しい契約に適用している。

 

このことは、第二の箇所でさらに明確にされている。ヘブル人への手紙10章11-17節は、罪のための十字架上のキリストの犠牲、続いて神の右への着座、そして「その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」ことについて語っている。

 

それは「キリストは聖なるものをされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」(ヘブル10:13-14)からであると語っている。

 

それらのことばは、ヘブル人への手紙がキリストにより教会との間に結ばれた契約について語っていることを明らかにしている。それから、ヘブル人への手紙は、再びエレミヤ書31章を引用する。

 

「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。(ヘブル10:16-18)

 

エレミヤ31章の新しい契約が、キリストによってキリストの教会との間に結ばれた新しい契約であることは、だれも否定できない事柄である。

 

ヘブル人への手紙から引用した上記の箇所は、赦しのあるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用であると語っている。キリストによって成し遂げられた赦しは、モーセの制度を無用、かつ廃止されたものとした。

 

ヘブル人への手紙は、8:13で同じ真理を断言している。「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます」。

 

それらのことばは、紀元70年のローマ人によるエルサレムの破壊の史実に言及しているのかどうかは別として、少なくとも、贖罪の実体がもたらされたのだから、古いモーセの秩序は消滅したのだと断言している。

 

ここで再び、旧約聖書預言書の根本的な再解釈を手にする。この解釈によれば、モーセの契約は、そこに記された神殿といけにえの制度を含めて一時的なものである。

 

ヘブル人への手紙の議論は、それらがキリストにおいてもたらされた霊的実体を指し示している予型であり影であるということである。予型と影はそれらの目的を達成するやいなや、神の贖罪のご計画から無用のものとして捨てられるというのである。

 

このことは、現在のイスラエルの問題にどんなかかわりがあるのか。三つのことが指摘される。

 

第一に、神はご自身の民を保護してこられた。イスラエルは「聖なる」民(ローマ11:16)のままであり、聖別されており、神の目的を遂行することが定められている。

 

第二に、まだすべてのイスラエルが救われているわけではない。今日のある学者は、千年王国において歴史は、初めて真のキリスト教国を目撃することになるだろうと言っている。

 

第三に、イスラエルの救いは、モーセのいけにえの制度の再興を伴うユダヤ教神殿の再建を通してではなく、すでに教会との間で制定されているキリストの血による新しい契約を通してなされなければならない。

 

ヘブル人への手紙は、モーセのすべての制度は廃止され、消え去ったと断言している。それゆえ、イスラエルは「預言の時計」であるという、よく知られたディスペンセーションの見解は間違っている。

 

近代イスラエルがパレスチナに帰還したことが、イスラエルに対する神の目的の一部分であったとしても、新約聖書はこの問題の解明に何の光も投げかけていない。

 

ただ二千年の間、イスラエルが一つの民族として保持されていることは、神がご自身の民イスラエルを見捨ててはおられないことの一つのしるしではある。

 

【追加資料2】ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムについて(安黒務師;引用元

 

B-2) ミクロの背景―「ディスペンセーション主義イスラエル論」のベクトル

 

 次に、上記の神学的思索の細部のベクトルとして「ディスペンセーション主義」の起源と変遷 [1]を扱う。これは、最も論争的なテーマといわれる「キリスト教シオニズム」の神学的基盤を構成している。

 

「ディスペンセーション主義」は、1800年代初期から中期の英国においてジョン・ネルソン・ダービーとプリマス・ブレザレン運動の下に出現した。

 

ブログ主註:ジョン・ネルソン・ダービーとディスペンセーション主義についてさらに詳しくお調べになりたい方への文献案内)

 

 

それは、リベラリズムとの闘争という時代状況の中で、霊感された書物としての聖書観が危機に瀕したときに、その防御の戦いにおいて「正の貢献」があった。

 

しかし同時に「負の遺産」を生み出した。それは、もうひとつの極端に振れた振り子のように、そこに極端な字義主義を生起させ、極端な聖書解釈をもたらした [2]

 

そして19世紀と20世紀前半に米国において、ディスペンセーション主義は多様化しつつ発展していった。

 

第一段階として「古典的ディスペンセーション主義」の立場は、「イスラエルと教会の間にある多くの相違点」を指摘し、「二つの異なった民に対する二つの別個の計画」の存在を主張した。

 

展開の第二段階として「改訂ディスペンセーション主義」の立場が登場し時代を画した。

 

展開の第三段階は「漸進的ディスペンセーション主義」として知られるものとして結実し、1980年代と1990年代に出現した。

 

 

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歓迎すべき大きな変化が起こり続けているが、「J.N.ダービーの遺伝子」とでも言うべき「民族としてのイスラエル」を軸にした理解は陰に陽に残されたままである [3]

 

今日、「イスラエルを軸とした」聖書理解とか、イスラエルを軸とした「神のマスタープラン」という強調がなされることがあるが、それらの多くは上記のディスペンセーション主義聖書解釈法に由来するものである。

 

B-3) 使徒的イスラエル論とは何か

 さて、マクロとミクロの背景説明を終えた今、次の課題を扱う準備が整った。前節において「使徒的聖書解釈」の原則を確認した。では、その原則に立脚した「使徒的イスラエル論」とは何なのか-これが第二の問いである。

 

旧約は「イスラエルの未来における救い」を見ている。しかし、新約はどうか。新約は、それらの預言が「教会において霊的に成就された」と解釈しているのか。

 

あるいは旧約預言の字義通り「選民イスラエルのための未来を用意しておられる」と解釈しているのか。どちらなのか。

 

契約主義神学は前者の「教会を軸とした」イスラエル論をとり、ディスペンセーション主義神学は後者の「イスラエルを軸とした」イスラエル論をとる。

 

新約でこの課題について、最も詳しく述べている箇所はローマ人への手紙9-11章である。

 

そのローマ人への手紙9章25節の旧約の文脈(ホセア書)では「イスラエルへの言及」である箇所の大部分が「異邦人からなるキリスト教会に適用」されている。

 

これは、「メシヤ預言とキリスト論」の関係でみた「同じ聖書解釈の原則」が「イスラエルに関する預言と教会論」の間でもみられるということである。

 

ここで「旧約の諸概念」は解釈され、旧約では予見不可能なことが言われている。

 

ホセア書からの引用がローマ人への手紙9章26節(ホセア書1章10節)にある。旧約の文脈では「字義通りのイスラエルに言及されている預言」であるが、新約では「(異邦人)教会に適用」されている。

 

ホセア書1章10節、2章23節の預言も「教会において霊的に成就」とされ、教会は「本質的イスラエル性」を内包する「霊的イスラエル」として理解されている。

 

アブラハムが「無割礼のときにもった信仰」の足跡は、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者の父となるためであったのであり、「信仰の内実」を有するアブラハムの子供が「霊的イスラエル」である。これは不可避の結論である(ローマ人への手紙4章16節, ガラテヤ書3章7節)。

 

ディスペンセーション主義者は、「霊的解釈」を最も危険視している。ジョン・ウォルヴォードは、それを「カトリック、リベラル、非ディスペンセーション系保守の特徴」[4]とみている。

 

しかし、ラッドは「旧約において字義通りのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用しているという原則を見出すのであるから、霊的解釈を採用しなければならない[5]と断言する。

 

ここに「使徒的イスラエル理解」の原則があり、「使徒的正統性」を判別する尺度が存在する。

 

この章の註

[1] Clarence B.Bass, Background to Dispensationalism (Eugene, Oregon: Wipf & Stock, 2005), pp.ⅰ-ⅲ. Wayne Grudem, Systematic Theology (Nottingham: InterVarsity Press, 1994), pp.859-863 に、ディスペンセーション主義聖書解釈の三類型とその変遷の記述がある。

 

[2] Bass, Background to Dispensationalism, p.21 において、バスは「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」と記している。

 

[3] Grudem, Systematic Theology, p.863 において、グルーデムは漸進主義ディスペンセーション主義者と他の福音主義との間に残された相違に関し、

「ディスペンセーション主義者は、教会がイスラエルに関する旧約聖書預言の多くの適用の受領者であるとする。しかしそれらの約束の真の成就は今なお民族としてのイスラエルの未来においてもたらされるという点を許容する。」

しかし、教会へのそれらの約束について、教会が唯一無二の成就であることを否定するいかなる強固な理由も存在しないと記している。

 

Vern S. Poythress, Understanding Dispensationalists (Phillipsburg, New Jersey: Presbyterian and Reformed, 1987), p.137(日本語訳ココにおいて、ポイスレスは、古典的立場から修正主義へ、さらに漸進主義へと変遷しているディスペンセーション主義の将来を、ついには「G.E.ラッドが手本として提示している契約主義プレミレニアリズムに安らぎの港を見出すことになる」と予測している。

 

筆者は、その理由として、聖書神学が基本構造としてもつ「神の国の概念、その現在性と未来性の構造」がもたらす必然的結果であると考える。

 

後千年王国説、無千年王国説、歴史的(契約主義)前千年王国説は、現在面と未来面の強調点等の些末な相違はあるものの、この「神の国の神学」の基本構造の認識を共有している。G.E.ラッド『神の国の福音』(聖書図書刊行会、1965年)は、このテーマに関する良き入門書である。

 

[4] John Walvoord, The Millennial Kingdom (Grand Rapids, Michigan: Zondervan, 1959), p.71.

[5] Ladd, The Last Things, p.24.

 

 

A-2) キリスト教シオニズムの諸形態

 

さて、わたしたちは日本にいて、様々なかたちで「ユダヤ人への伝道や支援」に取り組む働き [1]を目にし、また耳にする。

 

しかしキリスト教シオニズムには「どのような形態」があるのか知っているだろうか?

 

よく知らずに新しい教えや運動との関係を深め、後に教会や教派に混乱を起こす。そうならないため、それらの「神学と実践」の「輪郭と本質」を知っておきたい。

 

今日の福音派のキリスト教シオニズムには、大別して「四つの相違する形態」がある。

 

それらは、「教会とイスラエルの関係、伝道、帰還、イスラエルの地、入植、エルサレム、神殿、ハルマゲドン」に関する神学的理解の相違を契機として生まれてきた。

 

それらには、

①契約主義的プレミレニアリズム [2]

②メシヤニック・ディスペンセーション主義、

③黙示的ディスペンセーション主義、

④政治的ディスペンセーション主義の四つがある。」[3]

 

ここでは特徴的な要素のみを取り上げる[4]

 

第一に「契約主義的プレミレニアリズム(ヒグトン、リガン:CMJ, CWI)」はユダヤ人に対する「伝道」とパレスチナへの「帰還」を特徴とし、

 

第二に「メシヤニック・ディスペンセーション主義(ローゼン、ブリックナー、フルクテンバウム:JFJ, AMFI)」はユダヤ人に対する「伝道」とともに、「二契約神学」のゆえに「神殿における実践」を含み、「ユダヤ教的礼拝の復活」をも引き受けている。

 

第三に「黙示的ディスペンセーション主義(リンゼイ、エヴァンズ、ラヘイ:DTS)」はハルマゲドンの熱望というかたちで「終末預言」と「中東の平和に関する悲観主義」の傾向が強い。

 

第四に「政治的ディスペンセーション主義(ロバートソン、ファルウェル:ICEJ, BFP)」は、米国のイスラエルとの「軍事的かつ政治的結びつき」を強固に維持することへの傾倒と、ユダヤ人への「伝道の否認、楽観的な終末論、キリスト教の福音の再解釈」によって他と区別される。

 

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写真 情報源:Support Israel | ICEJ International

 

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写真 情報元:Millions of Christian Evangelists "Ready to Take Action" for Israel: ICEJ - Breaking Israel News

 

政治的ディスペンセーション主義にとって、「教会の目的とはイスラエルを支援し祝福する」ことである。なぜなら、ユダヤ人は「彼ら自身の契約を基盤にして神に受け入れられ」ており、ユダヤ人は「メシヤが再臨される時にメシヤを認める」ことになるからである。

 

「福音主義イスラエル論の座標軸」(注2)において評価すると、契約主義的プレミレニアリズムがキリスト教シオニズムの中で「最も正統的かつ穏健な形態」とみなされ、政治的ディスペンセーション主義は「最も問題を含む形態」であると思われる。

 

それぞれは、重なり合う部分を持つとともに、グループ内に様々なグラデーションある強調点を抱えており、その判別は代表者や唱道者等の発言や著作から、それぞれのグループの「特徴の輪郭」と「教えの本質」を判断することとなる [5]

 

この章の註

[1] 日本における「ユダヤ人伝道」関係には、ローザンヌ・ユダヤ人伝道・日本支部(LCJE)の交わりがあり、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、ミッション・宣教の声、ライフイン・メサイヤ、シオンとの架け橋、アルコ・イリス・ミニストリー、ハティクバ・ミニストリーズ等の参加がある。

 

ユダヤ人伝道関係でバランスのとれた小冊子として、誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.60『ユダヤ人伝道―教会への使命―』(関西ミッション・リサーチ・センター、2006年)がある。

 

また、日本リバイバル同盟(NRA)は、イスラエルに本拠地を持つトム・ヘスの Jerusalem House of Prayer for All Nations の働きに呼応し「祈りの祭典」や、「エンパワード21ムーブメント」に関わるようになっている。

 

 

[2] 『LCJE JAPANジャーナル』2009年10月 Vol.1には、契約主義的プレミレニアリズムの立場に立つトニー・ヒグトンの「キリスト教シオニズムの不適合な要素」に対する批判とJ.R.プライスの幾つかの反論、そしてその反論へのヒグトンの応答がある。私も共感できるヒグトンのこの立場は、G.E.ラッドやM.J.エリクソンと近いものがある。

 

[3] Sizer, Christian Zionism, p.255.

http://www.stephensizer.com/books/christian-zionism/

 

[4] 関連団体等の参照。

CMJ (Church’s Ministry Among Jewish People), CWI (Christian Witness to Israel), JFJ (Jews for Jesus), AMFI (American Messianic Fellowship International), DTS (Dallas Theological Seminary), ICEJ (International Christian Embassy Jerusalem), BFP (Bridges for Peace).

 

[5] キリスト教シオニズムの「聖書、選民、帰還、エルサレム、神殿、未来」等に関する特異な神学的強調に関しては、Sizer, Christian Zionism, pp.106-205 また、idem, Zion’s Christian Soldiers? の全編にわたって詳しく解説されている。

 

【追加資料3】『福音主義イスラエル論: 神学的・社会学的一考察』(安黒 務 著)より一部抜粋

 

使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素  

B-1) 使徒的実践に「適合しない要素」とは何か? 

 

わたしたちは、第一部において、使徒的聖書解釈法と使徒的イスラエル論理解が如何なるものであるのかを考察した。

 

そして、今、考察の焦点である「キリスト教シオニズム」の定義、起源と変遷、そして多様化を概観し、使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素を考察する準備ができた。

 

ここで、今日の「福音主義イスラエル論」において、使徒的実践に「適合しない要素」とは何か、と問いかける。

 

適合しない第一の要素は、「誤った領土的熱望」である。

 

使徒たちが新約においてメシヤとメシヤによる新しい普遍的な共同体においてユダヤ人が熱望してきたものが「成就」していると記しているにも関わらず、

 

キリスト教シオニズムは、ペンテコステ以前の初代の弟子たちのように、1世紀のユダヤ教が保持していた「領土的熱望」を抱き、イエスの王国の到来を「ユダヤ人の王国の回復の望み」の「延期」を意味していると信じ、旧約聖書を誤って読み込んでいる。

 

「使徒的聖書解釈」を記した新約において、それは「延期」ではなく、「成就」である。パーマー・ロバートソンは、神の諸目的のこの啓示の漸進性について

 

「贖罪の歴史のプロセスにおいて、予型から現実へ、影から実体へと劇的に発展させられ、…かつて神の贖罪的働きの特別な局所的なものであった土地は、今、新しい契約の成就の時代において、土地は宇宙を含むものに拡大されてきた。…それゆえ、成就のこの時代において、古い契約のきわめて制限された形態への退歩・後退は期待されていない。実体は影に道を譲ってはならない」[23]と述べている。

 

適合しない第二の要素は、「自民族中心的な民族主義」である。

 

使徒たちが、古代の旧約聖書に記された「ユダヤ人への祝福の約束が、イエス・キリストを通して「解釈」され「成就」されたと記しているにも関わらず、キリスト教シオニズムはそれらの約束を字義的かつ未来主義的に解釈し、「世俗的イスラエル国家」に適用している。

 

土着の古代オリエント東方教会を代表する中東教会協議会(MECC)は、そのような解釈と適用をするキリスト教シオニズムを

 

「その運動はキリスト教の一致と宗教間の相互理解の運動を拒否し、…シオニストの神政政治と自民族中心的な民族主義のモデルを強制し、…福音と成功と軍国主義のイデオロギーの一体化された世界観をクリスチャンに供給している」[24]と厳しく批判している。

 

適合しない第三の要素は、「信仰の内実の欠落した選民意識」である。使徒たちがキリストにある「開かれた民族のあり方」を提示しているにも関わらず、キリスト教シオニズムは旧約の光の下、誤った「民族的排他主義」を扇動している。

 

それが意味するものについてケネス・クラッグは、

「神はユダヤ人を選ばれ、土地は神の賜物でありユダヤ人のものであるとの言明には疑問を抱くことも反抗することもできない最終的なものとする判決があり、それらは、間違いなく聖書信仰のクリスチャンからもたらされている」[25]と批判している。

 

使徒たちがキリストにあってユダヤ人も異邦人(パレスチナ人)もないと語り、キリストにある者に相応しく公義を川のように流れさせることをすすめるのに対し、

 

キリスト教シオニズムはそのような「誤った前提」をもって、中東の平和交渉の公正かつ持続的な成果の可能性を「妨害」し、ラビ的ユダヤ教への「無批判な寛容」を示し、イスラエルの政治的権利を「無制限に是認」し[26]、パレスチナ人の悲劇と地域に根差しているキリスト教の共同体の苦境に対する「許し難い同情心の欠如」をさらし、福音の名前においてユダヤ人による「抑圧を正当化」してきた[27]

 

それゆえ、究極的に、これらの不適合な実践を支えている神学的基盤の問題は二つの神学―「ディスペンセーション主義神学」と「契約主義神学」の間にある。

 

サイザーは言う、「一方は古い契約のを、他方は新しい契約の実体を基盤としている。前者は、世界の救い主であるイエス・キリストを中心とする包括的な神学であるよりは、むしろその土地の中に存するユダヤ人に焦点を当てる排他的な神学となる。

結果的に、それは民族を差別し、隔離し、戦争をすることに対する神学的な保証を提供する。…これは、新しい契約の中心に見出される正義・平和・和解についての包括的な神学に正反対のものである。」[28]

 

B-2 ) 使徒的実践に「適合する要素」とは何か

 

次に、今日の「福音主義イスラエル論」において、使徒的実践に「適合する要素」とは何か、を問う。

 

適合する第一の要素は「神の民理解」である。

 

「契約主義者」[29]は聖書の連続性・漸進性・有機的一体性の理解をもって、神は歴史を通じていつも「ひとつの民」とわたしたちの身代わりの犠牲としての主イエス・キリストという「ひとつの贖いの手段」のみを所有しておられたと教える。

 

それは、キリスト教シオニズムの「誤った選民意識」に基づく偏ったものではなく、契約主義的な前提を基盤とした「パレスチナ人とイスラエル人の闘争に対する聖書的アプローチ」は「両者の平和と安全」に向けて有益な形で機能し、祈りに導く理解である。

 

適合する第二の要素は、「ユダヤ人理解」である。ユダヤ人について、ローマ人への手紙9―11章のような箇所を基盤として、「ユダヤ人は神に愛されている」こと、そして神がキリスト教を誕生に導かれる際に「歴史上のユニークな役割」を達成したことを認め、そしてユダヤ人皆がイエスを「彼らのメシヤと認める日が到来」するよう祈っている。

 

それはキリスト教シオニズムの「誤った自民族中心的な民族主義」ではない理解であり、ユダヤ人とパレスチナ人双方が「本質的な意味・価値・尊厳をもって神の像・似姿に創造」されており、「自己決定の権利、安全かつ国際的に認知されている領域内で生きる権利を所有している」ことを認め合う理解である。

 

適合する第三の要素は、「教会理解」である。教会がキリストにおいて「刷新され回復されたイスラエル」であり、そして今それはあらゆる民族の人々を包含するかたちに広げられていると主張している。[30]

 

キリスト教シオニズムが根拠の薄弱な聖書的・神学的主張によって国家としてのイスラエルを正当化し、神聖化するのに対し、教会をそのように理解する契約主義は相互の認知と和解の上に、正義と平和についての聖書的原則を基盤とした国際的な平和への努力推進を強く支持する理解である。[31]

 

サイザーは言う、「クリスチャンはキリスト教シオニズムの不適合な要素を否認することによって、ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助けることができる。」[32]  

 

この章の註

[23] O.Palmer Robertson, 'A New-Covenant Perspective on the Land', in Johnston and Walker (eds.), Land of Promise (Leicester: Apollos, 2000), p.140.

 

[24] Middle East Council of Churches, What is Western Fundamentalist Christian Zionism? (Cyprus: Middle East Council of Churches, 1988), p.13.

 

[25] Kenneth Cragg, The Arab Christian (London: Mowbray, 1992), pp.237-238.

 

[26] 左派の労働党と並ぶ、イスラエルの二大政党の一つ「リクード」には、領土拡大(大イスラエル主義)と国家のユダヤ性の保持(ユダヤ人多数派の確保)という党是がある。

森まり子『シオニズムとアラブ―ジャボティンスキーとイスラエル右派―』(講談社、2008年) 234頁

 

[27] ジョン・ハジーは、「聖書はきわめて親イスラエルの書物である。もしクリスチャンが『私は聖書を信じている』と認めるなら、私は彼を親イスラエル支持者とすることができる。あるいは彼らの信仰を非難しなければならないことになる」(Sizer, Zion's Christian Soldiers? ), p.11と語る。

 

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ジョン・ハジー(John Hagee)

 

しかし、そのような聖書観は正しいと言えるのだろうか?

モルトマンは、イスラエル国家建設がイスラエルに対する祝福とともに、パレスチナから排除された人々に呪いとなっているという両義性に言及し、

「ユダヤ人も、究極的に、…その土地とシオンを越えて、来たらんとする神とその贖おうとする御国を待望するであろう」と書き記している。ユルゲン・モルトマン『聖霊の力による教会』(新教出版社、1981年)224-225頁

 

[28] Sizer, Christian Zionism, p.260.

 

[29] ラッドとサイザーの「旧新約の啓示の連続性・漸進性・有機的一体性」を主張する契約主義の側面を理解する良き資料としては、

G. ヴォスの二冊の著作、Biblical Theology (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 1988)とPauline Eschatology(Phillipsburg, New Jersey: Presbyterian & Reformed, 1986)があり、

創造から再創造に至る視野の中における特別啓示の歴史性、有機性、多様性が主張されており、これらの三要素を考慮して聖書神学は、歴史的一貫性、また多様性における超自然的な啓示の有機的展開の提示と定義される。

 

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書評欄より(ゲルハルダス・ヴォスの聖書神学。組織神学に重きを置く改革主義の中で、その神学的骨格を見事に聖書神学に受肉させた力作。徹底した正統主義聖書論に基づく緻密な釈義と展望によって、聖書が本来持つダイナミズムを聖書解釈に発揮させつつ、リベラリズムを反駁するという離れ技をやってのけています。)

 

[30] J.R.W.ストットは、

(1)ユダヤ人のその土地への帰還についての旧約聖書の約束は、ユダヤ人の主への立ち帰りの約束に付随しているものである。世俗的で、信仰が伴っていない国家としてのイスラエルの成立を、旧約聖書の預言の成就であると理解することは困難である。

 

(2)土地に関する旧約聖書の約束は、新約聖書で繰り返されている箇所は皆無である。ローマ人への手紙11章は、きわめて多くのユダヤ人がキリストに立ち返るであろうという預言であり、土地に関しては言及されていないし、政治的存在としてのイスラエルへの言及もない。

 

(3)使徒たちによれば、旧約聖書の約束は、キリストとキリストにある、民族を超えた共同体において成就されている。

新約聖書の著者は、アブラハムの子孫への約束を、イエス・キリストに適用している。

使徒たちは、土地の約束そして相続されるべき土地のすべて、つまり乳と蜜の流れる地をイエス・キリストに適用している。

それは、わたしたちの空腹を満たし、わたしたちの渇きを癒すのは、イエス・キリストにおいてなされるゆえである。ユダヤ民族主義への回帰は、イエスにおいて形成されている、民族を超えた共同体という新約聖書の捉え方とは相いれない」と述べている。

Donald E.Wagner, Anxious for Armageddon (Scottdale, Pennsylvania: Herald Press, 1995), p.81に引用されたストットの見解。

 

[31] Jerusalem Sabeel Document: Principles for a Just Peace in Palestine-Israel (2004). http://www.sabeel.org (参照 2014-9-30) は、この文脈を理解する上で参考になる文書である。

 

[31] Sizer, Christian Zionism, p.263