巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会の性質と目的――「教会」と「イスラエル」について(by ウェイン・グルーデム)

 

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Wayne Grudem, Systematic Theology, Chapter 44. The Church: Its Nature, Its Marks, and Its Purposes, p. 859-863 抄訳(小見出しはブログ管理人によるものです。)

 

教会とイスラエル(The Church and Israel)

 

イスラエルと教会の関係について、福音主義プロテスタントの間には異なった諸見解が存在します。そしてこの問題は、ディスペンセーション主義的な神学システムを支持する人々によって表面化されてきました。

 

ディスペンセーション主義者によって書かれたもっとも克明な組織神学であるルイス・スペリー・シェイファー(Lewis Sperry Chafer, 1871- 1952)の『組織神学*14』は、イスラエルと教会の間に多くの相違点があると指摘し、そして、旧約聖書の中における神を信じるイスラエルと、新約聖書の教会との間にさえも多くの相違点があると指摘しています(Chafer, Systematic Theology, 4:45-53)。

 

(*14 Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology. ディスペンセーション主義を特徴づける特有な教説は他にもいくつかありますが、神の全体的ご計画の中における「イスラエル」と「教会」という二つのグループをそれぞれ別個のものとみる、という点がおそらく最も重要だと思います。

 その他、ディスペンセーション主義者によって一般に支持されている教説として挙げられるのは、1)患難時代前に教会が天に携挙されるという「患難前携挙説」(本書54章参照)、2)イスラエルに関する旧約預言の将来的字義通りの成就、3)聖書の歴史を7つの時期ないしは、ご自身の民に対する神のお取扱いに関する「ディスペンセーション(経綸)」に分割、3)永遠の神のご計画の中における「挿入句」としての教会理解(「挿入」は、ユダヤ人の大半が救い主としてのイエスを拒絶した時より導入)などです。

 しかし、現在のディスペンセーション主義者の多くは、こういった特有点のいくつかを修正ないしは拒絶しています。体系としてのディスペンセーション主義は、英国のJ・N・ダービー(1800-1882)の著述類によって始まり、『スコフィールド引照・注解付き聖書』を通し、米国にて一般普及するようになりました。)

 

ルイス・シェイファーによれば、神はご自身の贖う二種類のグループの人々に対し、各々二種類の異なる計画を持っておられ、それは、

)イスラエルに対する神のご目的および御約束は、地上的な諸祝福であり、これは未来のある時点で、この地上において成就する。

)それに対し、教会に対する神のご計画および御約束は、天的な諸祝福であり、こういった諸約束は天において成就される、とされています。

 

また、神のお救いになる二つの異なるグループの相違というのは、千年王国期に特に顕在化されるとされます。その理由としては、シェイファーによれば、その時、イスラエルは神の民として地上を治め、旧約の諸約束の成就を享受するようになるのに対し、教会は、聖徒のためにキリストが秘密の空中再臨をされた時点で("rapture, " 携挙)すでに天に引き上げられているからです。

 

尚、この見解においては、教会はペンテコステ(使徒2章)以前にはまだ始まっておらず、旧約の信者たちを、新約の信者たちと共に、継続した一つの教会と捉えることは正しくないとされています。

 

あるディスペンセーション主義陣営においては、こういったシェイファーの立場がその後も影響を及ぼし続けており、一般向けの説教などではさらにその傾向がみられますが、近年ではディスペンセーション主義者の中の多くの指導者たちは、多くの点において、もはやシェイファー説を採らなくなっています。

 

漸進的ディスペンセーション主義(Progressive Dispensationalism)

 

ロバート・サウシー(Robert Saucy)、クレッグ・ブレイジング(Craig Blaising)、ダレル・ボック(Darrell Bock)などの最近のディスペンセーション主義神学者などは、自らのことを「漸進的ディスペンセーション主義者」と呼び(*16)、広範囲の支持層を得ています。

 

(*16. Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism (Grand Rapids: Zondervan, 1993)/ Darrell L. Bock and Craig A. Blaising, eds., Progressive Dispensationalism (Wheaton: Victor, 1993). John S. Feinberg, ed., Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testament (Wheaton: Crossway, 1998). 訳者注:一宮基督教研究所の安黒務師の分析によれば、日本では、例えば、福音聖書神学校の真鍋師の立っておられる位置が、この漸進的ディスペンセーション主義に相当するそうです。一方のフルクテンバウム師および中川健一師の立場は、「古典的デスペンセーション主義のDNAを宿す改訂ディスペンセーション主義(Revised Dispensationalism)」と位置づけられているようです。参照元

 

漸進的ディスペンセーション主義の人々は、教会を、神の計画の中の「挿入部分(parenthesis)」としては見ておらず、神の国の建設に向けた最初の段階として見ています。

 

またこの漸進的ディスペンセーション主義の見解では、神はイスラエルと教会に対し、二つ別々の目的を持っておられるのではなく、一つだけから成る目的――つまり神の国の建設――を持っておられ、この単一の目的の中に、イスラエルも教会も共に包含されていると捉えています。

 

また漸進的ディスペンセーション主義者は、未来の永遠の状態におけるイスラエルと教会の間にも相違を設けていません。なぜなら、その時、皆が一つの神の民となるからです。さらに、彼らは、教会は、千年王国期に、栄化されたからだでキリストと共にこの地上を治めるようになると理解しています。

 

一つの相違点

 

しかしながら、一つの点において、漸進的ディスペンセーション主義者と残りの福音主義の人々の間には相違点が依然として残っています。

 

それはつまり、「イスラエルに関する旧約の諸預言は、――キリストを信じ、全ての諸国家の見倣うべき『モデル国家』としてのイスラエルの地に住む――民族としてのユダヤ人によって千年王国期に成就される」という見解です。

 

それゆえに、彼らは、教会が「新しいイスラエル」であるとは言わず、またイスラエルに関する全ての旧約預言は教会の中で成就される、とも言いません。なぜなら、こういった預言は将来的に、民族的イスラエルにあって成就されると考えられているからです。

 

この問題に関する本書の立場は、ルイス・シェイファーの見解とは著しく異なっており、漸進的ディスペンセーション主義者の見解とも幾分異なっています。

 

しかしながら、一つ申し上げておかなければならないのは、「将来についての聖書の預言が厳密にどのように成就されるのか」という事に関しては、事の性質上、正確にこうだと断定するのが難しいということです。

 

ですから、こういった事項に関しての私たちの結論には、ある暫定性をもたせるのが賢明かと思われます。そのことを念頭においた上で、次のことを申し上げたいと思います。

 

ディスペンセーション主義の外側にいる、プロテスタント神学者・カトリック神学者共に、「教会は、旧約の信者も新約の信者も、一つの教会ないしは一つのキリストのみからだに含まれている」という見解にこれまで立ってきました。

 

また非ディスペンセーション主義の見解においても、将来的に大規模なユダヤ人の回心があるだろうという見解を持ち得ます(ローマ11:12、15、23-24、25-26、28-31)*17しかし、そうであっても依然として、この改宗は、ユダヤ人信者たちが神の唯一のまことの教会の一部分となることを示し、こうして彼らは「自分の台木につがれ」(ローマ11:24)ます。

 

(*17. 本書54、p1098、1104を参照。自分自身は、いわゆるディスペンセーション主義者ではありませんが、依然として、私はローマ9-11章が、将来的に大規模に起こるであろうユダヤ人の回心を説いているという事をこの章で確認・肯定しています。)

 

これに関してですが、私たちは、教会を「新しいイスラエル」もしくは新しい「神の民」と理解している数多くの新約聖書の聖句に留意すべきです。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように」(エペソ5:25)という聖句がこの事を示しています。

 

さらに、教会の何百万人ものクリスチャンに救いをもたらしている現在の教会時代は、神の計画の中における「割り込み」や「挿入」ではなく*18、旧約聖書全体を通し、人々をご自身の元に呼んでおられる事を通して表されている神の計画の継続です。

 

(*18.ここでルイス・シェイファーが用いている語は、「"an intercalation"(挿入、割り込み)」であり、これは、以前計画されていたスケジュールないし出来事の予定表の中に、ある時期が挿入されることを意味します(p41)。ここでシェイファーは、「現在の教会時代は、啓示された予定表ないし――古の預言者たちによって予見されていた――神のプログラムの中への挿入です」と述べています。)

 

パウロはこう言っています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れた(inwardly)ユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」(ローマ2:28-29)。

 

パウロは、肉的にアブラハムを父祖とする人々の内にも確かに字義通りもしくは自然的意味においてユダヤ人と呼ばれる要素があることを認めつつも、「まことのユダヤ人」とは内的に信者であり、心が神によって清められた者――という意味でのより深遠かつ霊的な意味もそこには存在していると言っています。

 

またパウロは、アブラハムは肉的な意味におけるユダヤ人の父としてのみ捉えられているわけではないということを述べています。アブラハムはまた、より深くより真実な意味において「割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、、、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父」です。(ローマ4:11-12、それから16、18節も参照のこと)。

 

それゆえに、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、、、すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる」(ローマ9:6-8)とパウロは言うことができたのです。

 

ここでパウロが含意しているのは、もっとも真なる意味における「イスラエル」であるアブラハムのまことの子どもは、アブラハムを肉の父祖に持つイスラエルの民(nation)ではなく、キリストを信じた人々であるということです。

 

真にキリストを信じた人々が今や、主によって「わが民」と呼ばれる特権をいただく者とされ(ローマ9:25、ホセア2:23からの引用)、それゆえ、今や教会が、神の選ばれた民です。

 

これは何を意味するかと言いますと、将来のある時点で、肉によるユダヤ人が大規模に救われる際、彼らは別箇の神の民、ないしは別箇のオリーブの木として構成されるのではなく、「元のオリーブの木につがれ("grafted back into their own olive tree")」(ローマ11:24)ることになります。

 

この事を示す別の聖句としてはガラテヤ3:29「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」があり、同様に、パウロは、クリスチャンこそ「真の割礼を受けた者」(ピリピ3:3、新共同訳)だと言っています。

 

パウロは教会を、「ユダヤ人とは区別された別箇のグループ」だと考えていないばかりか、かえってパウロは、エペソにいる異邦人信者たちに宛て、彼らがかつては「イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人」(エペソ2:2)であったが、「今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(エペソ2:13)と言っています。

 

そして異邦人たちが教会に導き入れられた時、ユダヤ人と異邦人たちは、一つの新しいからだとして結ばれたのです。そして、神は、「二つのものを一つにし("has made us both one")、隔ての壁を打ちこわし、、、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです」(エペソ2:19-20)とパウロは記しています。

 

それゆえ、異邦人たちは「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民("fellow citizens with the saints")であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペソ2:19-20)。

 

新約の教会に対する旧約の背景を強く意識し、パウロは「異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連な」(エペソ3:6)ると言うことさえできました。

 

この節全体が、キリストにある一つのからだにおける、ユダヤ人信者と異邦人信者の一致を強く述べており、キリストという一つのからだ(教会)に包含されることから離れ、ユダヤ人が救われるのためのなにか別箇の計画があるという事はどこにも表示されていません。

 

教会は、その中に、すべての真の神の民を組み込み、包含します。そして、旧約聖書の中で神の民を表す語として使われているほとんど全ての称号は、一か所ないし数カ所で、新約聖書の教会に適用されています。

 

それに加え、ヘブル人への手紙8章は、イスラエルに関する旧約の諸約束の受領者そして成就としての教会をみる上で、強力な根拠を提供しています。クリスチャンの与る新契約に関して述べている文脈の中で、ヘブル書の記者は、エレミヤ31:31-34から長い引用をし、次のように言っています。

 

「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家おとびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る、、、わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」(ヘブル8:8-10)。

 

ここで記者は、主がイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ日が来るという主の御約束を引用し、その新しい契約が今や教会と結ばれた(結ばれている)と言っており、その新しい契約とは、教会の信者たちがメンバーとなっているところの契約なのです。

 

それゆえ、聖書記者は、「――旧約聖書がイスラエルに約束しているところの――神のまことのイスラエルとしての『教会』がその成就である」と捉えているのだと結論付けざるを得ないように思われます。

 

同様に、ヤコブは多くの初代教会に一般的な書簡を書き、自分は「離散している十二部族の人々へ」それを書き送っていると記しています(ヤコブ1:1)。これが示唆するのは、ヤコブが明らかに新約のクリスチャンを、「イスラエルの十二部族」の後継者そして成就として見ているということです。

 

ペテロも同じように言っています。ペテロは冒頭の聖句で、読み手のことを「離散し寄留している人たち("exiles of the Dispersion")*19(1ペテロ1:1)と呼ぶことに始まり、(最後から二番目の節で)ローマ市のことを「バビロン」(1ペテロ5:13)」と呼ぶなど、彼は頻繁に、旧約のイメージ(像;imagery)やユダヤ人に与えられていた諸約束に関する用語で、新約のクリスチャンを表現しています。

 

(*19. 「離散("Dispersion")」という言葉は元々、イスラエルの地の外に散在し、古代地中海世界を通し各地に住んでいたユダヤ人のことを指す用語として使われていました。)

 

そしてこの主題は1ペテロ2:4-10においてとりわけ顕著です(*以下、このパラグラフは大部分、自著Wayne Grudem, The First Epistle of Peter, p.113からの引用によります。)旧約聖書の中でイスラエルに約束されていたほとんど全ての祝福を神は教会にお与えになっているとペテロはここで言っています。神の臨在される場所はもはやエルサレム神殿ではない。なぜなら、クリスチャンが今や新しい神の「神殿(家;temple, oikos )」であるからです。

 

神に受け入れられる犠牲を捧げることのできる祭司はもはやアロンの子孫ではありません。なぜなら、今やクリスチャンが神の御座の前に近づくことのできる真の「聖なる祭司」だからです(4-5、9節)。

 

そして神に選ばれた民というのは、もはや肉的にアブラハムの血筋を引いている人たちではありません。なぜなら、クリスチャンが今、真の「選ばれた種族」です(1ペテロ2:9)。

 

そして、神によって祝福されている国(nation)というのは、もはやイスラエルの国(nation)ではありません。なぜなら、クリスチャンが神のまことの「聖なる国民("holy nation," ἔθνος ἅγιον 」だからです。

 

さらに、イスラエルの人々は、もはや神の人々とは言われず――なぜなら、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも含めたキリスト者たちが、今や「神の民」そして「あわれみを受けた者」(10節)と言われているからです。

 

さらに、ペテロは――いつまでも神に反逆し続け、尊い「隅のかしら石」(6節)を拒絶するご自身の民を神は拒絶するだろうという旧約聖書の文脈から――一連の引用句を用いています。

 

以上の事から、教会が今や、神のまことのイスラエルとなり、旧約聖書においてイスラエルに約束されていたあらゆる祝福をいただくようになるということを私たちは確信をもって結論付けることができると思います。

 

 

【追加資料】

出典:ジョージ・ラッド著『終末論』(第2章 イスラエルについてはどうか。)より

 

第1章において、旧約聖書はイエス・キリストにおいて与えられた新しい啓示の視点に立って解釈されなければならないという聖書解釈の原則を確立した。では新約聖書は、イスラエルについて何を教えているのだろうか。

 

旧約聖書は、イスラエルの未来における救いを見ているが、新約聖書はその預言を大幅に再解釈して、それらが教会において霊的に成就されるべきであるとしているのか?すなわち、教会は新しい真のイスラエルなのか?あるいは、神はまだご自身の民イスラエルのための未来を用意しておられるのか?

 

幸いなことに、霊感された聖書の中には、この主題についての詳細な議論が記されている。それがローマ人への手紙9-11章である。パウロは最初に、イスラエル民族がメシヤとしてのイエスを拒絶したことに対し、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(ローマ9:2)と、肉における同胞に対する心底からの関心と愛を吐露している。

 

パウロの最初の論点は、「イスラエル」つまり真の霊的イスラエル――神の民――はアブラハムの肉的子孫と同一ではないということである。「イスラエルから出る者〔本来の血縁の子孫〕がみな、イスラエル〔霊的な子孫〕なのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく・・・・」(ローマ9:6-7)。

 

パウロはこのことを証明するために旧約聖書の歴史を思い起こさせる。アブラハムには二人の息子、イサクとイシュマエルがいた。しかしイシュマエルの家族とその子孫は、アブラハムの本来の血縁の子孫であるが、霊的子孫には含まれない。

 

「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(ローマ9:7)、「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる」(ローマ9:8)。神はイサクを選び、イシュマエルを拒絶された。それゆえアブラハムの真の子孫――真のイスラル――は、生来の肉的な血統において決定されるのはなく、神の選びと約束によって決定される。

 

その意味は明らかである。パウロのいた当時のすべてのユダヤ人が、神の民「イスラエル」を名乗ることができるわけではない、神の民「イスラエル」を名乗ることができるのは、アブラハムの信仰に倣う人、約束の子であると自己証明する人だけである。

 

この原則は、すでにローマ人への手紙の始めの部分に系統立てて述べられている。ローマ人への手紙2:28-29でパウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」と書いてある。

 

この《霊的割礼》対《肉的割礼》の原則は、パウロを起源とするものではない。この主題はすでに、旧約聖書に見い出されるものであり、パウロはそれを繰り返している。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」(エレミヤ4:4)。

 

モーセの律法への外側だけの従順のみでは、神の愛顧を確かに受けているアブラハムの真の子孫であるとは言えない。そこには、それにふさわしい心――そして生活――がなければならない。さもなければ、神の怒りと直面することになる。

 

この原則は、ヨハネの黙示録の二つの節にも適用されている。ヨハネはある人々について、「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である」(黙示録2:9.3:9も参照)と言っている。ここには、ユダヤ人であると(正当に)主張できる人々がいる。

 

確かに彼らは肉において、また宗教的にユダヤ人ではあるが、ヨハネは彼らのことを、霊的にユダヤ人ではなく、実際はサタンの会衆であると言う。メシヤとしてのイエスを拒絶して、イエスの弟子たちを迫害していたからである。

 

次にパウロは、もしそれが事実であるとしたら、神の身勝手さを反映しているのではないかという反論を取り扱う。この反論に対し、厳しいことばで答えている。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」(ローマ9:20-21)。

 

この箇所は、神の選びと個人の救いに対する拒絶という視点から解釈されることが多い。しかし個々人にどのような適用がなされるにせよパウロの論点は、第一義的には贖罪の歴史と、アブラハムに与えられた約束を受け継ぐ者として神がヤコブを選ばれたことである。

 

神は字義上のイスラエルの反逆や背教に多大な忍耐をもって耐えた。「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためなのです」(ローマ9:23)。

 

神は字義上のイスラエルの不信仰に忍耐してこられた。それは、その忍耐を通して、真のイスラエルにあわれみを示すためだった。パウロは同じことを、同じ箇所の後ろのほうで取り上げている。

 

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは〔最終的に、回復不可能あ状態に〕倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」(ローマ11:11)。イスラエルはつまずき、不信仰となったが、そこに神はある目的を持っておられる。

 

神が忍耐をなくしたわけではない。イスラエルのつまずきもイスラエル自身のために起こったわけではない。むしろ、神はイスラエルのつまずきを、異邦人に救いをもたらすために用いたのである。

 

パウロは前のほうの箇所で、この主張を発展させて述べている。「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです」(ローマ9:24)。

 

神が怒りの器――神の裁きの下に立つ不信仰なユダヤ人――に取って代わるものとして選ばれた「あわれみの器」は、ユダヤ人と異邦人から成る混成体である。

 

続いて、パウロは驚くべきことをする。旧約聖書の文脈ではイスラエルに言及している二つの箇所をホセア書から引用し、大部分が異邦人から成るキリスト教会に当てはめているのである。それによって、旧約聖書が異邦人の教会を予見していたことを証明しようとする。

 

「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ』」(ローマ9:25)。

 

ホセアは姦淫の女をめとるように主から命じられた。その女は、イスラエルの霊的姦淫を象徴している。二番目に生まれたのは女の子で、ホセアは「その子をロ・ルハマ〔訳注・新改訳欄外注「愛されない」)と名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ」(ホセア1:6)と告げられた。

 

しかし、イスラエルに対するこの拒絶は最終的なものでも、回復不可能なものでもない。事実は、ホセアは続いて、神の国におけるイスラエルの未来の救いを主張する。ホセアは、弱肉強食が動物界から取り除かれる日を見ている。神は野の獣、空の鳥、地を這うものとの契約を結ぶ。暴力と戦争の武器、弓と剣、戦争そのものをもなくしてくださる。

 

イスラエルは地に安全に住み、安らかに伏す。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ」(ホセア2:19)。

 

それから、ホセアは言う。「わたしは・・・・『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう」(ホセア2:23)と。

 

さて私たちは今、キリスト論で見た同じ現象を終末論の領域でも見ている。旧約聖書の諸概念が根本的に再解釈され、予見されていなかった適用を与えられている。

 

旧約聖書においては字義どおりのイスラエルに適用されているものが、ローマ人への手紙9章25節ではユダヤ人も異邦人をも含む教会に適用されているのである(ローマ9:24)。事実、新約聖書時代の教会で構成上優勢であったのは異邦人であった。

 

パウロは、再びホセア書から引用する。「『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは『生ける神の子ども』と呼ばれる」(ローマ9:26)。

 

ホセアは、息子である第三の子を持った。そして、こう告げられた。「その子をロ・アミ〔訳注・新改訳欄外注「わたしの民でない」)と名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」(ホセア1:9)。

 

ここではホセアは、すぐに続けてイスラエルの未来の救いを知らせている。「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる」(ホセア1:10)。

 

この二箇所で、旧約聖書の文脈では字義どおりのイスラエルに言及している預言が、新約聖書において(異邦人)教会に適用されている。言い換えると、パウロは、ホセア書1:10と2:23の預言が教会において霊的に成就されたと見ているのである。

 

したがって必然的に、異邦人教会における救いの出来事は、イスラエルになされた預言の成就であるということになる。

 

このような事実があるからこそ、筆者を含む聖書を学ぶ者たちは、教会は新しいイスラエル、真のイスラエル、霊的イスラエルであると言わざるをえないのである。

 

この結論は、パウロがクリスチャンを(霊的な)アブラハムの子孫と言っている箇所によって支持される。「彼は、割礼を受けていないとき、信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。

 

すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです」(ローマ4:11-12)。ここでアブラハムは、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者の父と言われている。

 

したがって不可避の結論として、ユダヤ人であるかギリシヤ人であるかとは関係なく、信仰者こそがアブラハムの真の子ども、真の霊的イスラエルであるということになる。再び、ローマ人への手紙2:28-29を思い起させられる。すなわち真のイスラエルは、心の内で割礼を受けた人々であるということである。

 

ローマ人への手紙4:16において、パウロは再び「アブラハムは私たちすべての者の父なのです」と繰り返している。ガラテヤ人に書いたとき、パウロはすでにこの真理を明言している。「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」(ガラテヤ3:7)。

 

ディスペンセーション主義者は、《霊的》解釈を、旧約聖書を解釈するうえで最も危険な方法とみなしている。

 

ジョン・ワルブード教授は、これは現代のローマ・カトリック、現代のリベラル派、現代の非ディスペンセーション系保守の立場の著者たちを特徴づけている解釈であると書いている(The Millennial Kingdom, Dunham, 1959, p.71)。しかし筆者は霊的解釈を採用しなければならないと思っている。

 

なぜなら筆者には、旧約聖書において字義どおりのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用していることがわかっているからである。

 

筆者が霊的解釈を採用するのは、契約神学の立場を採っているからではなく、神のことばに縛られているがゆえである。

 

それでは、教会が真に霊的イスラエルであるのなら、「神はご自分の民〔字義どおりのイスラエル〕を退けてしまわれた」(ローマ11:1)のだろうか。

 

パウロはこの問いに続けて、長めの回答を記している。パウロはローマ人への手紙11章5節で、イスラエルの未来の救いを暗示している。「もし彼ら〔字義どおりのイスラエル〕の捨てられることが世界の和解〔異邦人の救い〕であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」

 

パウロは、このことを有名なオリーブの木のたとえで例証している。オリーブの木は全体として見れば、神の民である。栽培種の枝(ユダヤ人)が栽培種の木から切り取られ、野生種のオリーブの枝(異邦人)が栽培種のオリーブの木に接ぎ木された。しかし、栽培種の木に野生種の枝を接ぎ木するなどという話は聞いたことがない。

 

パウロはその疑問にも気づいていたので、「もとの性質に反して」(ローマ11:2)と語っている。パウロはイスラエルに取って代わった異邦人に、イスラエルに対して誇ってはならないと警告する。神には再び、異邦人を切り取ることもできるからである。

 

逆に、「彼ら〔ユダヤ人〕であっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです」(ローマ11:23-24)。

 

その後、パウロはすばらしい論述によって、全体の状況を要約している。「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いを思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。

 

『救う者がシオンから出て、

ヤコブから不敬虔を取り払う。

これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。

それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である』」(ローマ11:25-27)

 

ここに贖罪の歴史における聖定――栽培種のオリーブの木に生えた栽培種の枝、不信仰ゆえに切り落とされた栽培種の枝、もとの性質に反して接ぎ木された野生種の枝、まだオリーブの木に再接ぎ木されていない栽培種の枝――がある。

 

イスラエルはつまずきの岩――キリスト――につまずいた。しかしいつまでも倒れたままではない(ローマ11:11)。

 

パウロは、「イスラエルはみな救われる」と語っているが、明らかに、かつて生きていたすべてのユダヤ人についてそう言っているわけではない。パウロは贖罪の歴史について語っている。しかし、生きているユダヤ人の大多数、すなわち「イスラエルはみな」救われる日が訪れるということである。

 

イスラエルがどのように救われるのかについて、パウロがもっと詳しく書いてくれていたらと思われるかもしれない。「救う者がシオンから出て」ということばは、おそらくキリストの再臨に言及していると思われる。再臨の目的の一つとして、キリストのもとに教会を集めることとともに、イスラエルを贖うことがあるのだろう。

 

ただし、二つの事柄は明白である。一つは、イスラエルは教会と同じ方法で――つまり、信仰によってメシヤであるイエスに向かうことによって――救われなければならないということ(ローマ11:23)。

 

もう一つは、イスラエルが経験する祝福は、教会が経験している同じ祝福――キリストにある祝福であるということである。

 

それでは、神殿再興についての旧約聖書の詳細な約束についてはどうなるのか。ヘブル人への手紙は、律法には「後に来るすばらしいものは影であっても、その実物はない」(ヘブル10:1)と語り、この問いにはっきりと答えている。

 

神殿といけにえの制度を規定する律法は、キリストにおいて私たちにもたらされた祝福――実物――の影にすぎない。影はその目的を達成した。

 

キリストは今、天にある真の幕屋に入り、私たちの大祭司としての務めを行なっておられる。今、神の贖罪の計画が影の時代に逆戻りすることなどありえない。

 

実際に、ヘブル人への手紙が明確にこのことを断言している。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう」(ヘブル8:6-7)。

 

ここで強調すべき点は、ヘブル人への手紙は、モーセの契約とキリストによる新しい契約を対比させているということである。もしモーセの契約が適切なものであったのなら、第二の契約は必要なかったはずである。

 

ヘブル人への手紙は、エレミヤ書31:31-34からの長い引用によって、このことを証明している。

 

「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。・・・それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

 

ここで、すでに直面した事柄に再び遭遇する。新しい契約が二つあると考えることはきわめて困難である。

 

二つの契約とは、キリストによってキリストの血を通して教会との間で結ばれた契約と、イスラエルとの間で結ばれる未来の新しい契約である。

 

イスラエルとの間で結ばれる契約は、ディスペンセーション主義者によれば、大部分がモーセの契約の更新である。確かにパウロがローマ人への手紙9-11章で、字義どおりのイスラエルはまだ新しい契約の内に入れられていないと教えていることは、すでに見てきたとおりである。

 

しかしその契約とは、十字架を通して教会と結ばれた新しい契約と同じ契約である。別個の契約ではない。ヘブル人への手紙8章は、エレミヤを通してなされた約束を、キリストを通し教会との間に結ばれた新しい契約に適用している。

 

このことは、第二の箇所でさらに明確にされている。ヘブル人への手紙10章11-17節は、罪のための十字架上のキリストの犠牲、続いて神の右への着座、そして「その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」ことについて語っている。

 

それは「キリストは聖なるものをされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」(ヘブル10:13-14)からであると語っている。

 

それらのことばは、ヘブル人への手紙がキリストにより教会との間に結ばれた契約について語っていることを明らかにしている。それから、ヘブル人への手紙は、再びエレミヤ書31章を引用する。

 

「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。(ヘブル10:16-18)

 

エレミヤ31章の新しい契約が、キリストによってキリストの教会との間に結ばれた新しい契約であることは、だれも否定できない事柄である。

 

ヘブル人への手紙から引用した上記の箇所は、赦しのあるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用であると語っている。キリストによって成し遂げられた赦しは、モーセの制度を無用、かつ廃止されたものとした。

 

ヘブル人への手紙は、8:13で同じ真理を断言している。「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます」。

 

それらのことばは、紀元70年のローマ人によるエルサレムの破壊の史実に言及しているのかどうかは別として、少なくとも、贖罪の実体がもたらされたのだから、古いモーセの秩序は消滅したのだと断言している。

 

ここで再び、旧約聖書預言書の根本的な再解釈を手にする。この解釈によれば、モーセの契約は、そこに記された神殿といけにえの制度を含めて一時的なものである。

 

ヘブル人への手紙の議論は、それらがキリストにおいてもたらされた霊的実体を指し示している予型であり影であるということである。予型と影はそれらの目的を達成するやいなや、神の贖罪のご計画から無用のものとして捨てられるというのである。

 

このことは、現在のイスラエルの問題にどんなかかわりがあるのか。三つのことが指摘される。

 

第一に、神はご自身の民を保護してこられた。イスラエルは「聖なる」民(ローマ11:16)のままであり、聖別されており、神の目的を遂行することが定められている。

 

第二に、まだすべてのイスラエルが救われているわけではない。今日のある学者は、千年王国において歴史は、初めて真のキリスト教国を目撃することになるだろうと言っている。

 

第三に、イスラエルの救いは、モーセのいけにえの制度の再興を伴うユダヤ教神殿の再建を通してではなく、すでに教会との間で制定されているキリストの血による新しい契約を通してなされなければならない。

 

ヘブル人への手紙は、モーセのすべての制度は廃止され、消え去ったと断言している。それゆえ、イスラエルは「預言の時計」であるという、よく知られたディスペンセーションの見解は間違っている。

 

近代イスラエルがパレスチナに帰還したことが、イスラエルに対する神の目的の一部分であったとしても、新約聖書はこの問題の解明に何の光も投げかけていない。

 

ただ二千年の間、イスラエルが一つの民族として保持されていることは、神がご自身の民イスラエルを見捨ててはおられないことの一つのしるしではある。