巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

はたして「文化」が、私たちクリスチャンのあり方を規定するのでしょうか?――初代教会クリスチャンの「文化」に対する姿勢

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 グラディエーター(剣闘士)、3世紀、キプロス

 

先日、私は、次のような記事を書きました。

 


そして、その中で、私はみなさんに、「はたして現代文化が、みことばに対する私たちの従順を規定するのでしょうか?それともその逆でしょうか?」という問題提起をいたしました。

 

1)現代文化  みことば 

(現代文化が、みことばを規定する)

2)現代文化  みことば 

(みことばが、現代文化を規定する)

 

初代教会と「文化」

 

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古代ローマ演劇の模倣 (ここに映っている役者は全員男性です)、Roman Theater

 

初代教会のクリスチャンたちの生きていたローマ帝国では――現代と同じように――きわどい「R-指定エンターテイメント」が目白押しでした。演劇では、犯罪物、不倫物のストーリーが人気を博し、上流階級のローマ人の恰好の娯楽でした。

 

また、闘技場での、残忍な戦車レースや、野獣同士の殺し合い、剣闘士たちの殺し合いなどは、上流階級の人々だけでなく、一般市民にとってもかなり魅力あるエンターテイメントでした。

 

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それでは、初代教会のクリスチャンたちは、自分たちを囲むそういった文化に対し、どのような姿勢をとっていたのでしょうか。演劇鑑賞に関し、ラクタンティウスは次のように言っています。

 

「舞台の及ぼす悪影響は、もしかして闘技場のそれよりも、さらにひどいものなのではないかと思う。喜劇の扱うテーマは、処女の凌辱や、娼婦の情事などだ・・同じように、悲劇では、悪王の犯す親殺しや、近親相姦が、観客の前にこれみよがしに披露されている。

 

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 ローマの演劇

 

 パントマイムはまだましだと言えるだろうか?彼らは、身振り手振りで、不倫の仕方を教えているではないか!こういう事が、恥も外聞もなく演じられ、その上、誰もがしきりにそれを観たがっている――それを私たちの子どもや若者たちが観たら、いったいどんな反応をするだろうか。」(『初代キリスト教徒は語る――初代教会に照らして見た今日の福音主義教会』p28)

 

また、テルトゥリアヌスも次のように言っています。

 

「わが処女の娘に、どんな汚れた言葉も聞かせまい」と油断なく娘を守り、保護している父親みずからが、当の娘を劇場に連れていくのだ。そして娘を、ありとあらゆる下劣な言葉や身振り行ないにさらしている。はたして、やってはいけないことでも、それを「観る」分には構わないのだろうか

  こういう類の下劣な言葉が、口から出ていく時、人を汚すのであるとすれば、目や耳に入ってくる、そういったものははたして人を汚さないだろうか?(マタイ15:17-20参)」Tertullian, The Shows, chap.21, 17

 

また闘技場エンターテイメントに関し、ラクタンティウスはこう書き記しています。

 

「一人の人間が殺されるのを見て、満足感を覚える人は――たとえ、その殺された人が有罪判決を受けていた者であったとしても――己の良心を汚している。その人は事実上、「共犯者」であるか、または秘密裡に犯された殺人の「意図的な傍観者」であるのと同然だ。にもかかわらず、彼らはそれを「スポーツ」と呼んでいる。そこで人間の血が流されているのに!

 

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 ある一人の男(剣闘士)が、死の一撃を前に、観客に憐れみを乞うている・・・それを見ながら、男が殺されるのを許すだけでなく、「奴を殺せ!」と迫る彼らは、はたして正しいと言えるだろうか。彼らは、流血や、深い切り傷だけでは満足できないのだ。だから、このようにして残酷で、非人間的な死の票を入れている。

 

  実際、剣闘士は、傷ついて、地面に倒れているのだ。それなのに、彼らは、彼をもう一度攻撃するよう、ただ単に死んだふりをしていないか確かめるため、死体を殴打するよう命じるのだ。

 

 剣闘士の一方が迅速に殺されないでいると、群衆は怒り出す始末だ。あたかも人間の血に飢えているかのように。彼らは、殺人に手間取るのが大嫌いなのだ・・そして、この悪事にどっぷり浸かることによって、彼らは人間性を失ってしまっている。

 

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 従って、義の道にとどまろうと努める私たちクリスチャンが、このような公の殺人行為にあずかるわけにはいかない。神が「殺すなかれ」と仰せられる時、禁じておられるのは、公法によって有罪と宣告される暴力だけではない。神はまた、人の目には、合法的とみられる暴力をも禁じておられるのだ。」 Lactantius, Institutes, bk.6, chap.20

 

 

でも、どうでしょう。もし2016年現在、どなたかクリスチャンが、ある種のテレビドラマ、映画、書籍、音楽、あるいはキック・ボクシングなどのスポーツやエンターテイメントに対し、まともに警告のメッセージを発し、公に声を挙げ始めたら、、、

 

そういう人は、「愛のないパリサイ人」「偏狭なファンダメンタリスト」「律法主義者」等、この世の人々からだけでなく、仲間のクリスチャンたちからも嫌がられ、煙たがられ、非難されるのがおちではないでしょうか。

 

その一方、Seeker-friendly(求道者にやさしい), Culture-friendly(文化にやさしい)アプローチをとるクリスチャンは、敵を作らず、いたるところで歓迎される――そういう傾向が強いように思います。たとえば、現在、次のようなことを公に言い切るクリスチャンは、皆にどう思われるでしょう?

 

「女性の中には、特殊な薬を服用し、自分自身の体内に宿っている、未来の人間の生命を絶っている人たちがいます。彼女たちは、そのようにして、出産前にすでに殺人を犯しているのです。」

 

ちなみに、↑は、初代教会のマルクス・フェリクスの発言です。(M.Felix, Octavius, chap.30)

 

おわりに

 

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 剣闘士

 

クリスチャンと現代文化というのは、短絡的な答えを出すことのできない深いテーマであり、祈りつつ謙遜に探求していくべき課題だと思います。

 

D・A・カーソンは、Christ & Culture Revisitedという著書の中で、リチャード・ニーバーによる古典Christ & Culture(1951)を批評しつつ、21世紀のクリスチャンがどのように「文化」問題に取り組んでいくべきかを、さまざまな角度から考察しています。

 

この中で氏は、「クリスチャン」と「文化」というのは、互いに区別し得る二つの異なる実体でありつつも、相互に対し完全に排他的な実体でもない、という興味深い指摘をしています。(同著、p75)

 

そう考えると、私たち自身、現代文化の「一部である」ことは避け得ようのない事実ですし、また一般恩寵により、周囲の文化の中にも「良いもの」はたしかに存在しています。

 

しかし、またカーソン氏が言うように、私たちクリスチャンの中には、「神を中心をせず、イエスを主と認めないあらゆる文化的スタンスは、悪である」という確固としたキリスト教世界観が存在していることもまた事実です。

 

その意味において、この記事で取り上げた初代教会のクリスチャンの、「文化」に対する妥協のない態度は、そういったキリスト教世界観の顕れの一つではないかと思います。どうでしょうか。

 

ローマ12:2a

「この世と調子を合わせてはいけません。」

 

ヤコブ4:4a

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。」

 

1ヨハネ2:15a

「世をも、世にあるものをも、愛してはいけません。」