昨日、ある難民の家族を連れ、夕日を見に、スニオン岬という所に行きました。この岬には海神ポセイドンを祀る神殿があり、観光スポットの一つにもなっています。
海を見ながら、難民のお母さんも二人の幼い子どもたちも、自分たちがボートで漂流した時どんなに波が荒れていて怖かったか、死にそうになる寸前で神さまに助けられたか、熱心に語ってくれました。
さらにこのお母さんは以前の律法やシャリーアの縛りやそれを忠実に守ることのできない自分を責める呵責の人生から、数か月前にいかにイエス様が自分を救い、赦し、解放してくださったのか、救いの喜びを語ってくださいました。
その時、日本語の音が聞こえてきたので横を向くと、日本からのツアーの方々が20-30人ほど岬を見に来ておられるのに気が付きました。
遠く祖国からやって来られた同胞を見つめながら、私は「この中のいったい何人の魂がイエス様の救いに与っているのだろう?」と考えざるを得ませんでした。日本におけるクリスチャン人口を1%と見積もるなら、最悪、この20-30人中、救いに与っている魂がゼロという可能性もある・・・
それにしても何というコントラストなのだろう?着の身着のままボートで命からがらギリシャに到着した難民が、こんなにもどんどん神の国に招き入れられている一方、パスポート一本で難なくヨーロッパに到着することのできるわが同胞が神の国に入ることの何という困難!なんというハードルの高さよ!
霊的にみればむしろ、死と虚無と滅びの海で必死の漂流をしているのは、むしろ私たちの愛する同胞なのかもしれない・・・そう思うと、私は内に嗚咽を抑えることができませんでした。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」マタイ16:26
1.「われに来よ」と主は今、やさしく呼びたもう。
などて愛のひかりを避けてさまよう。
「かえれや、わが家にかえれや」と主は今呼びたもう。
2.つかれはてしたびびと、重荷をおろして、
きたりいこえ、わが主の愛のみもとに。
「かえれや、わが家にかえれや」と主は今呼びたもう。
3.まよう子らのかえるを主はいま待ちたもう、
つみもとがもあるまま きたりひれふせ。
「かえれや、わが家にかえれや」と主は今呼びたもう。(讃美歌517番)
兄弟姉妹と共に、愛する同胞の救いを祈りつつ。