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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

宗教改革、ルネッサンス、そして全的人間(by フランシス・A・シェーファー)

 

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宗教改革期の教会

 

Francis A. Schaeffer, Escape from Reasonより抄訳

 

ルネッサンスと宗教改革思想との間の相違は、多くの実際的結果を生みだした。例えば、ルネッサンスは女性たちを「解放」し「自由」にした。そしてそれは宗教改革とて同様である。――しかし後者が女性たちにもたらした自由は前者のそれとは大きく異なっていた

 

1860年にスイスのバーゼルで出版されたヤコブ・バークハルト(1818-1897)の著書『イタリアにおけるルネッサンス文明(The Civilization of the Renaissance in Italy)』は、今日においても、この主題に関する標準的文献である。

 

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彼は言う。「イタリア・ルネッサンス時代の女性たちは自由であった。しかしその自由とは一般的不品行という高い代価を払った上でのものであった。」

 

なぜそうであったのか?それを考えるには、私たちは当時の「自然/恩寵」観までさかのぼる必要がある。これらはけっして単なる理論上のものではない。なぜなら、人間というのは結局、自らの思考のとおりに行動するからだ。

 

 抒情詩人たち―「霊的愛」―理想的愛

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 小説家/喜劇詩人たち―肉感的愛

 

《上部》には、「霊的愛」や理想的愛を説いていた抒情詩人たちがいた。それに対し、《下部》には、肉感的愛を説く小説家・喜劇詩人たちがいた。

 

そしてその当時、イタリアにはポルノ本が洪水のように溢れていたのだが、ルネッサンス期のこの要素は、書籍だけにとどまることをせず、そこに生きる人々のありとあらゆる人生にもその影響を及ぼしていたのである。

 

こうして自律的人間は、二元論を追う者としての自分を見い出したのだ。例えば、ダンテはある女性に一目ぼれし、一生涯にわたってその女性を愛し続けた。他方、彼は別の女性と結婚し、彼女に自らの子どもを産ませ、自分の食皿を洗わせていたのである。

 

このようにして、「自然ー恩寵」の分裂は、ルネッサンス・ライフのあらゆる側面に流れ込み、自律的《下部》はいつも《上部》を消耗させていたのである。

 

全的人間(The Whole Man)

 

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それとは対照的に、宗教改革の聖書的見解は、ルネッサンスのそれとは非常に異なっていた。(そして現在も異なっている。)それはプラトン的な見方ではない。つまり、宗教改革は、「魂は肉体よりも重要である」というプラトン的見解を取っていないのである。

 

神は私たちを全的人間として創造され、それゆえ〔霊肉双方を含んだ〕全的人間が重要なのである。また、死者の肉体のよみがえりという教理は、時代遅れなものではない。この教理が教えているのは、神が全的人間をお造りになり、全的人間を愛しておられ、全的人間は重要であるということである。

 

それゆえ、聖書的教理は、(上部の)魂を非常に重要なものとみなす一方、(下部の)肉体にほとんど重きを置かないプラトン的見解に相反しているのだ。

 

それと同時に聖書的見解は、ヒューマニスティックな立場――つまり、肉体および人間の自律的精神が重要視される一方、恩寵はほとんど無視され、あらゆる普遍的なもの、絶対的なものが失われているという見解――にも反対している。

 

こうして、宗教改革期に強調された聖書的立場は、プラトン的見解をも、ヒューマニスト的見解をも斥けた

 

はじめに神は全的人間を創造され、そして主は全的人間に関心を持っておられる。第二番目に、歴史的(時空間における)堕落が起こった時、それは全的人間に影響を及ぼしたということである。

 

そして三番目に、救い主としてのキリストの御働きを基に、そして御言葉の啓示の中で、この全的人間のために贖いが存在するのである。そして将来的に、この全的人間は、死者の中からよみがえり、完全な形で贖われるのだ。

 

ローマ6章でパウロは、現在においてさえも、全的人間の贖いに関する本質的リアリティーを私たちは持つべきであると言っている。そしてそれは――たといこの地上の人生においては完全なものとされずとも――流されたキリストの血潮を基にし、信仰を通した聖霊の御力の中になければならない。

 

全的人間の上には、キリストによる真のロードシップが存在する。そしてこれが宗教改革者たちの理解していたことであり、聖書が教えていることである。するとそれは何を意味するのだろうか。そう、それはキリストが、〔恩寵/自然〕両方の領域において等しく『』であるということを意味しているのである。

 

恩寵

――

自然

 

そこに自律的なものは何も存在しない。――イエス・キリストのロードシップおよび聖書の権威から独立したものは何一つ存在しないのである。神は全的人間をお造りになり、全的人間に関心を持っておられ、それゆえ、その結果は、一致と調和である。

 

ルネッサンスは「現代人の誕生」をもたらした。そしてこういった人本主義的ルネッサンスが「人間のジレンマ」をもたらしたその時期に、宗教改革はそのジレンマに対する答えを持っていたのである。

 

それとは対照的に、ルネッサンス人間の中の二元論は、現代の形態におけるヒューマニズムを生み出し、それはまた、現代人の悲嘆をも生み出す結果となったのだ。