巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

心理学エピデミックとその治療――「クリスチャン・カウンセリング」のあり方を問う(by ジョン・F・マッカーサー)

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John F. MacArthur, Jr, The Psychology Epidemic and Its Cureより抄訳

 

今日使われている表現としての「キリスト教心理学」は、それ自体、矛盾語法(oxymoron)となっています。

 

心理学という語は、もはや心(精神)についての学を言及しておらず、根本的にヒューマニスティックな各種セラピー、あるいは諸理論の寄せ集めを描写するものとなっています。

 

諸前提や、大半の心理学教説は、キリスト教信仰にうまく統合することができません(PsychoHeresy 5-6)。それに加え、教会の教えの中に注入される心理学により、「行動修正」と「聖化」との間のラインがぼかされてきています

 

世俗心理学の諸教説を受容しようという人々の熱狂は、おそらく現代教会の生命を脅かす最も深刻なる脅威といえます。こういった諸教説は、サタンがまことしやかに、そしてそれらがあたかも神から来た「力強く人生を変えるような真理」であるかのように印象づけつつ、教会の中に植え込んでいる人間の諸発想の山です。

 

多くの心理学者は、ネオ・グノーシス主義の典型であり、彼らは、人々の抱える真の問題を解決するに当たり特別な知識(ギ:gnosis)を取得していると考えています。その中のある人々は、「クリスチャン・カウンセリング」と称しつつ、その実、霊的問題を取り扱うにあたり、単に聖句を上乗せした世俗理論を用い、治療テクニックを実施しています。E.g. Frank B. Minirth, Christian Psychiatry (Old Tappan, NJ: Revell, 1977)186.

 

その結果、シンプルに御言葉を用いる牧師、聖書学者、一般の信徒たちは、往々にして「あの人は、単純すぎて、カウンセラーとしてはちょっと不十分」だとして軽蔑される傾向にあります。

 

また、聖書を読んだり、祈ったりしたところで、うつ病や不安に葛藤する人々に対して、それらは完全には解決を与え得ず、従ってそのような従来のやり方は「紋切り型の答え」だとして見下されています。Larry Crabb, Understanding People [Grand Rapids: Zondervan, 1987], 203

 

聖書、聖霊、キリスト、祈り、恵み・・というのは、これまでキリスト者のカウンセラーたちが人々をそこに向かわせようとしてきた対象でした。しかしながら今日一般のクリスチャンは、「そういったものは、人々の抱える諸問題に、本当には解決を与え得ない」と考えるようになってきています。

 

現代の心理学者たちは、互いに相反する無数の諸理論をベースに、何百というカウンセリングモデルやテクニックを用いていますので、それがあたかも統一され一貫性のある科学であるかのように心理療法のことを語ることは不可能です。Sigmund Koch, "Psychology Cannot Be a Coherent Science," Psychology Today (Sept 1969) 66. 

 

しかしながら、次に挙げる諸見解は、心理学タンクの詰め合わせの中から、キリスト教会にろ過され浸透し、今や教会に、深刻にして憂慮すべき影響を及ぼしているものです。

 

―人間本性は、基本的に善いものである。

―人々は自らの内側に、自分の抱える諸問題に対する答えを持っている。

―ある人の態度や行動を理解し是正する鍵は、その人の過去の人生のどこかに在る

―個々人の抱える諸問題は、誰か他の人がその人に対し為してきたことの結果である。

―人間の諸問題は、霊的ないしは肉体的状態になんら関係をもたない、純粋に心理学的なものであり得る。

―根の深い諸問題は、専門のカウンセラーが用いるセラピーによってのみ解決が可能である。

―ある種の問題解決にあたっては、聖書や祈りや聖霊といったものは不十分にして単純化し過ぎた供給源である。

 

多くの心理学者たちは高額な治療費でもって人々に「治療」を提供しているだけでなく、彼らはまた、(クライアント側に)さらなる「治療」の必要を生み出すべく、さまざまな新種の病名を発案し、創作しています。

 

彼らのマーケティング戦略には驚くべきものがあります。「あなたは○○症候群です。」「あなたは○○障害です。」と彼らは人々にこれでもかこれでもかと病名を吹き込みます。こうして人々は次第に自分が救いようもなく病んだ人間であると思い込まされ、こうしてまた、新たなる「治療法」が行商されるのです。

 

その中のある問題などは、実際、痛ましいほどに普通のものです。セルフ・イメージ、外見、共依存、更年期障害、満たされなかった望み・・今日「弱さ」と称されているものの多くは、ひと昔前までは、より正確に言って、「自己中心によりもたらされる痛み」とみなされていました。

 

自己中心性(Egocentricity)は、多くのサイコセラピストにとっての恰好のマーケット戦略となっています。自己に夢中になる(self-indulgence)という、人間の自然な傾向を助長することによって、心理学は、それを熱望する大衆に、自らを売り渡しています。そして教会は愚かにも、そのパレード楽隊車に乗り込んでしまったのです。

 

心理療法を受容しようという教会内の態度はかつてないほどです。仮に、キリスト教メディアが、キリスト教界のバロメーターとしての役割を果たすのだと考えるなら、確かに現在、劇的なシフトがなされつつあります。

 

例えば、キリスト教放送というのはこれまで、聖書の教えおよび賛美の砦としての役割を果たしてきましたが、それらは現在、トーク・ショー、通俗心理学、電話相談でのサイコセラピーに圧倒されています。聖書講解というのは受けません。こうして心理学者やラジオ・カウンセラーたちが今や福音主義界の新しいヒーローとなっています。

 

その結果、教会は心理学からかなりの投薬を受け、摂取し、世俗の「知恵」を取り入れ、これを「聖書的なもの」と呼ぶことによってなんとか「聖別」しようとしています。こうして、彼らは福音主義教会のもっとも根本的な価値観を再定義するようになっていっています。

 

「メンタル面・感情面での健康」というのが目下、流行の合言葉です。これは聖書的な概念ではありませんが、多くの人はこれを霊的な完全性(wholeness)と同一視してしまっています。

 

こうして、罪は「病(やまい)」と呼ばれるようになり、その結果、人々は、自分には悔い改めではなく、セラピーが必要なのだと考えるようになりました。

 

また習慣的な罪は、中毒的ないしは強迫的行動と呼ばれるようになったため、多くの人はそれらの解決に自分が必要なのは、倫理的矯正というよりはむしろ、医療的ケアであるのではないかと考えるようになっています。(参:O. Hobart Mowrer, The Crisis in Psychiatry and Religion (Adams, Competent xvi-xvii)).

 

より世俗性の強い心理学が教会に影響を及ぼしていけばいくほど、人々はますます諸問題やその解決にあたっての聖書的観点からどんどん遠ざかっていきます。

 

マンツーマンのセラピストたちが、――神の恵みの主要な手段である――御言葉(1コリ1:21、ヘブ4:12)に取って代わる存在となりつつあります。そしてこういったプロたちの施す助言は、しばしば人々の人生に霊的惨事をもたらしています。

 

先日、私はある心理学者によるラジオ電話相談番組を聞いていて、唖然となりました。このカウンセラーは、相談者の男性に、自分の担当セラピストに対し(卑猥なジェスチャーをしながら)怒りの感情を表現するよう助言していたのです。

 

「そう。爆発させればいいですよ!」と、このラジオ・カウンセラーは相談者に言いました。「それがあなたの感情の正直な表現なんです。内に怒りを抑え込もうとしてはいけません。」

 

「それじゃあ、自分の友だちに対してはどう振る舞えばいいでしょうか?」相談者は尋ねました。「カチンと来た時には、友だち皆にも、そういう風に反応する方が望ましいのでしょうか?」「おお、もちろん、そうです!」カウンセラーは請け合いました。

 

同じ週に、私は別のクリスチャン・カウンセラーが全国規模の電話相談のライブ中継を行なっているのを観ました。ある女性が電話をかけて来、「私は長い間、強迫的乱交(compulsive fornication)という問題を抱えているのです。その乱交僻を止めることができず、この習慣を変えるに自分はあまりに無力だと感じる」と相談してきました。

 

それを聞いたカウンセラーは言いました。「あなたのその行動は、あなたなりの《逆襲》行為なのです。つまりそれは、消極的な父親と高圧的な母親によって過去あなたが受けてきた傷によるものなのです。」

 

そして彼は続けてこう言いました。「この回復は一筋縄ではいきませんね。あなたの抱えるその問題はすぐには無くなりません。それは一種の中毒症状ですから、一定以上のカウンセリング期間を要するでしょう。」

 

そうした助言の後、このカウンセラーは、この女性に、彼女を乱交へと「促す」「過去の痛ましい心の傷」が癒されるまで、彼女をそのまま寛容に取り扱ってくれるような教会を探し、そこに集うようアドバイスしました。

 

私は耳を疑いました。まず、このカウンセラーは、事実上、「不品行を避けなさい」(1コリ6:18、1テサ4:3)という明確な聖書の命令に対する従順を引き延ばしにする許可をこの女性に与えています。

 

二番目に、彼は、この女性の両親を責め、両親に対する彼女の復讐行為を正当化しています。三番目に、彼は――セラピー治療によって――彼女は徐々にこの罪を犯さなくなっていくだろうということを匂わせています。

 

さらに、彼は全国の視聴者に向け、聖霊の力によって、すぐさま人の心や行動が変えられるということに対しての信仰は自分には実際ないということを明言しています。さらに悪いことに、彼は諸教会に対し、セラピー治療が始動するまで、こういった人の性的罪に対してあくまで寛容を示すよう助言しているのです。

 

それに対し、ガラテヤ5:16「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」という御言葉の深遠なシンプル性は、冒頭の両カウンセラーのアドバイスと鮮やかな対照をなしています。

 

このようなカウンセリングのあり方は、全く聖書的に正当化され得ません。事実、これははっきり神の御言葉と矛盾しています。使徒パウロはコリントの教会に対し、不品行を行なう者をサタンに引き渡し、教会の交わりから外に出すよう指示したのです(1コリ5章)。

 

しかし感謝すべきことに、教会の中には、他の人々にカウンセリングする際、あくまで聖書に寄り頼み、悩み苦しむ人々の心を神にそして御言葉に向けさせ、主に祈るよう励ます敬虔な助言者たちがいます。

 

また、苦しむ人々が、自分の行動に対し外的コントロールをすることができるよう手助けする上で、コモン・センスないしは社会科学の知識を活用されている人々もいますが、それ自体も差し支えないことだと思います。

 

これは彼ら苦しむ人々に真の霊的治療を施す上での、最初のステップとしてあるいは有益なものでしょう。しかし賢明な助言者たちは、そういった行動セラピーは表面的な段階でその役割を終え、魂の実際のニーズはキリストの内にあってのみ解決され得るのだということをわきまえておられます。

 

他方、聖書や執り成しの祈り、神の全き十全性以上に、心理学を高揚するような人々に対しては寛容が示されてはなりません。心理学を、聖なる供給源と混ぜ合わせ、その混合物を、霊的万能薬として売り歩くような人々を私たちは警戒しなければなりません。

 

なぜなら、そういった人々の方法論を受容することは、事実上、「神がキリストの内に与えてくださったものでは十分ではなく、また、苦しむ人々の最も深いニーズに答えるにも十分ではない」という事を暗黙の内に認めることに他ならないからです。