巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

自己凝視ではなく、キリストを見上げたい。

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「自己を1回凝視する間に、キリストを10回見上げなさい。」ロバート・マクチェーン

 

民数記21:8,9

すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」

モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

 

この世界には本当に「聖書的女性像」を具現化したような麗しい女性たちが存在します。

 

彼女たちは霊的に守られた環境で大切に育てられ、アブラハムのしもべに水を飲ませたリベカのように(創24章)、ボアズの足もとにひれ伏したルツのように(ルツ2章)、あるいは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と慎ましく御使いに答えたマリヤのように、「神の御前に価値あるもの」(1ペテロ3:4)とされる内なる美徳の輝きを放っています。

 

そのような女性たちと交わっていると、私は時々、恥ずかしさの余り、どこか遠くの洞穴に隠れたくなります。どんなに努力しても、世俗育ちの私と彼女たちの間には、なんというか霊的「育ちの違い」が歴然としているように思われてならないのです。

 

そして、しとやかで静かで、ちっともargumentativeでない彼女たちと比べると、私は自分があたかも「(霊的)女子プロレスラー」か、海の怪獣か、陸のゴジラのように感じられ、そうしてがっくり落ち込んでしまいます。

 

でもそうやって落ち込むことはいかんせん自己凝視を招き、自己凝視を始めると、人は泥沼に落ちていきます。なぜなら、自分の内側をいくら眺めたり、分析したりしたところで本当にそこに救いはないからです。

 

しかし現代の心理学はまことしやかな声でこうささやきます。「さあ、兄弟姉妹よ。インナーを見つめなさい。あなたの内側を、過去を現在をしかと見つめてください」と。でも聖書は言います。「あなたのその自己凝視をきっぱり止め、今この瞬間にもキリストを見上げなさい」と。「それを仰ぎ見れば、生きる。」(民21:8)

 

ルターもまた、宗教的自己凝視を止め、キリストを見上げた時に真の解放をみました。

 

「十六世紀の宗教改革者マルティン・ルターという人を見ましょう、、、彼は修道院にはいって深い罪意識に苦しみ、ついには気を失って床のうえに倒れるまでに苦行に励んだと言われます。

 

ある時、ルターはシュタウビッツというすぐれた上長の神父に会います。シュタウビッツはルターを一見して彼の深刻な苦悩と彼の誠実な霊性を見ぬきます。そこで忠告するのです。『キリストは威嚇する方ではない。慰めてくださる方です』。この一句は強い矢のようにルターの胸を貫いたと言います。そして更にシュタウビッツ師は言うのです。

 

『イエスの傷を見るが良い。君のために流されたイエスの血を見るがよい。そこに神の憐れみが見えるであろう。贖い主の腕に君自身を投げかけ、彼の義の生涯と犠牲の死により頼むがよい。彼が先に君を愛したのだ。それ故、君も彼を愛するがよい。そして君の難行苦行はすっかり棄ててしまいなさい』と。

 

これを聞いてルターは自分のへそばかり見ていた自分から解放され、ただキリストだけを見上げる人になりました。ルターはあらためて聖書を開きました。そして、あの一句が彼の霊を捉えるのです。『義人は信仰によりて生くべし』(ローマ1:17)、この一句によって宗教改革は始まるのです。引用元

 

確かにうじうじと自分のおへそを見ていたのでは、信仰のレースを走ることはできません(1コリ9:24参)。大盾を取って、「えいっ」と悪い者が放つ火矢を消すこともできません(エペソ6:16)。走る人は前を向いていなければならず、火矢を消すためには悪い者の居所をしっかりマークしなければなりません。それ以外に生き延びる道はありません。

 

そしてこれまでの私の乏しい経験から申し上げますと、私たちがこのように走り、戦うさなかで、キリストのみからだを通し、私たちの癒されるべきところは癒され、是正されるべきところは是正され、必要な愛も励ましも力も回復も時に適ってかならず与えられるということです。

 

野営のハンモックでの、仲間とのわずかなひとときに(参:「戦友」)、塹壕の中で、あるいは戦場を共に走りながら、私たちは必要な癒しとリカバリーを受けていくことができると信じます。

 

ですから目下、「女子プロレスラー」であろうが何であろうが(笑)、私はこれからも兄弟姉妹のみなさんと共に、信仰のこのレースを走り続け、そしてキリストを仰ぎ見続けていきたいです。