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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

用語の「ひとり歩き」に注意したい

知ることについて(epistemology) ブログ内の用語説明・定義

少し前に、伝統教会系のカルト化した某団体からやっとの思いで脱出することのできたある姉妹から連絡をいただきました。

 

実際に中に入ってみなければ分からない内部の実態や魂を監督する「牧者」からのメンバーに対する巧妙な心理的操作などに、なにかホラー映画を観ているような恐ろしさを感じると共に、その環境や縛りから、主の力強い御手によって、彼女が出エジプトを果たすことができたことに対し、私たちは主に感謝を捧げました。

 

用語のひとり歩きに注意したい

 

さて、その団体の教えや背景を調べる中で私が痛感したのが、言葉の定義の大切さでした。例えば、この団体では「初代教会および初代教父たちの教えに立ち返る」というのが一つの力点となっており、それ自体は別に問題ではないと思うのですが、私が「あれっ?」と首をかしげたのが、「初代教会」とか「初代教父」といった用語の非常にあいまいな使われ方でした。

 

「初代教父たちは・・」と彼らが言う時、それはニカイア公会議以前(つまり、ローマ帝国内でキリスト教が国教化される前)の使徒教父たちのことを指しているのか、それともラテン教父・シリア教父・砂漠の教父たちなども含むニカイア公会議以後の教父たちをも総括した「初代教父」なのか、そこらへんの定義がまったくなされておらず、註書きもなく、年代も記されていませんでした。

 

前に、「神の国」という用語についてのD・A・カーソンの記事()を掲載しましたが、この用語に限らず、聖書の中のどのキーワードも、私たちがそれらを当たり前のものとして、「正統派」の名の下に胡坐をかき、定義づけをせず、聖霊の光に照らした検証やガードを怠っているうちに、知らず知らずの内に、用語だけがひとり歩きを始め、次第にその本来の意味や範囲を越えたところまで滑走を始め、ついには私たちを誤謬に至らせる可能性が近くにも遠くにもあるのではないかと思わされました。

 

「恵み」という用語の概念について

 

数年前に、ものみの塔の刊行する新世界訳聖書を少し読んでみたことがありました。その中で私にとって印象的だったのが、ものみの塔聖書翻訳委員会が、Χάρις(charis)を通例の「恵み」ではなく、「ご親切」と訳していたことでした。

 

確かに、charisには grace, favor, kindnessという辞書的意味がありますので、委員会が、kindnessに対応する和訳として「ご親切」という訳語を選んだのだろうということは予想がつくのですが、私の注目を引いたのが「ものみの塔委員会はなぜ、『恵み』という慣例の訳に倣わず、あえて『ご親切』という新しい訳語を選んだのか?」という訳語選択の背後にある「動機」でした。

 

その動機に関する資料を読んだわけではないので、以下は単なる私の推測にすぎませんが、もしかしたらそこには、プロテスタント的な意味での「恵み」というcharisの概念(解釈)との間にあえてくっきり差異をつけたいという委員会側の意図があったのかもわかりません。

 

そして実際に、この「恵み」という語も御霊の錨(いかり)で常にしっかりと私たちの信仰に結び付けられていなければ、いつの間にやらアンチノミアン(無律法主義)の滑走路に迷い込み、「ハイパー・グレイス(極端な恵み)」という、とんでもない終着点につくようになる可能性があることを私たちは目の前にみていると思います。(参:アンチノミアニズム(無律法主義)①-6つの類型 ハイパーグレイス(極端な恵み)

 

私もものを書く人間として、自分が使う用語(特に頻用語)の定義にこれからはもっと気を付けていきたいと自戒しています。

 

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