巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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キリストの栄光のからだ ③――見える一致への切望と努力(R・B・カイパー)

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R・B・カイパー著、山崎順治訳『聖書の教会観―キリストの栄光のからだ―』より抜粋

The Glorious Body of Christ: The Ideal of Visible Unity, by R. B. Kuiper (1886-1966)

 

目次

 

 

現実的理想主義

 

キリストの教会は、その内面的実在と同様に、理想的には外見的にも一つになるべきであるということは、否定できません。その意味で、初代教会に似るべきです。初代教会は、後の時代の教会の模範としての意義をもっています。

 

訳者註:当時のローマ社会も、初代教会クリスチャンの偽りのない兄弟愛に注目し、「見よ。彼らはなんと互いに愛し合っていることか!」と感嘆の声を挙げていたとテルトゥリアヌスは記しています。Tertullian, Apology, chapter 39.

また、終末論に関しても、千年王国のことや預言の解釈(文字通りの成就か否かなど)で、初代教会の中にも多少のばらつきがありましたが、その意見の違いが分裂につながることはありませんでした。例えば、歴史的前千年王国説を信じていた殉教者ユスティノスは、無千年王国説を信じる仲間のクリスチャンたちのことに触れ、次のように言っています。「前にも述べたように、私やその他多くの者は、この意見を持しており、このような形で、こういった預言が成就すると信じている。しかし、他方において、前にも言ったように、純粋で高潔な信仰をもち、まことのキリスト信者である多くの人々は、これとは違った風に考えておられます。」Justin Martyr, Trypho, chapter 80.)

 

キリストが、あの執り成しの祈りの中で、信徒の霊的一致を祈られた時、その一致の外面的顕示も覚えておられたはずです。「あなたが、わたしをつかわれたことを、世が信ずるように」と言われたからです(ヨハネ17:21)。可見性と不可見性という属性は別としても、見えない教会の属性を具現しなければなりません。見えない教会のもっとも光栄ある属性の一つが、その一致にあることは言うまでもありません。ですから、見える教会がその属性を現わしていないという意味で、外見的な姿は、内面的実在を裏切っています。

 

従って、「神が定められた自然的要因から生まれたものである限りその教派は正しい」という、正統派陣営を長年支配してきた考えは、拒否されなければなりません。

 

理想ははっきりしています。しかしながら、キリスト教会内の分離の根本原因すなわちが、これまでと同様、今日も、そしてこれからも有力に働き続けることは疑う余地がありません。このような現実と真っ向から対決するということは、はたはだやっかいなことです。そうする者は、控え目に言っても、主の再臨までにいつか一つの教会が起こることなど考えられないでしょう。

 

理想的現実主義

 

そうすると、私たちは理想を捨てなければならないのでしょうか?いいえ、決してそうではありません!達することのできないものに向かって努力するのが、キリスト教の本質というものです。この世においては、道徳的完全の目標に到達しないことを十分に知りながらも、クリスチャンはその目標を目ざして、全力を尽くして走らなければなりません。

 

同じように、かしらであられる主が来られるまで分かれたままであると確信していても、教会はその分裂の回復のためにたえず労苦すべきです。エキュメニカル運動について言えば、私たちはこの運動のように、理想主義をたけり狂わさせるべきでないのは確かですが、かといって現実主義を、「何もせず突っ立っていること」の弁明にしてはなりません。私たちの理想主義が、現実主義的であることをわきまえるべきであると同時に、私たちの現実主義は、理想主義的であることが重要なことも忘れるべきではありません。

 

どうしたら、キリスト教会の見える一致の理想に向かって、足が地についた努力ができるのかという問題について、2、3の提案をしておきましょう。

 

第一に、私たちは、ある自己流のキリスト教会を、キリストの教会として認めることを拒む勇気をもつべきです。真のキリスト教教派は、基本的なキリスト教真理を公然と否定しているような自称教会を、背教者と断ずべきです。このことが軽率に、少なくともパリサイ的に行なわれるべきでないのは言うまでもありません。

 

ユニテリアン主義が三位一体の神を否定することによって、キリスト教の名に価しないとすれば、キリストの本質的神性、処女降誕やからだのよみがえりという超自然的な出来事を否定し、近代主義の支配を喜び勇んで受け入れている教会が、どうしてキリスト教と呼ばれる権利があるでしょうか。

 

そのような教会は、偽りの教会と呼ばれるべきですし、キリスト教のわくの外にあると断言されねばなりません。そうされたならば、見える教会の統一にとって、最大のつまずきの一つが除かれるでしょう。なぜなら、神学的リベラリズムは、世界教会、エキュメニズムを自ら叫びながらも、他の何にもまさって有力に、キリスト教会の分裂に貢献しているからです

 

第二に、リベラリズムが侵入はしているものの、まだこのキリスト教の敵に征服されていない教派は、直ちに教理的論争に注目すべきです。もしそうしているなら、この国のほとんどすべての教派が現在、論争に懸命なはずです。その中の多くは、ずっと前に分かたれていたでしょう。

 

しかし、そのようなことは、見える教会が万が一にも統一された姿を示すことがあっても、必ず生じることです。平和の君が、わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではなく、剣を投げ込むためであると宣言されたとき(マタイ10:34)、真の平和がもたらされる唯一の方法は、偽りの平和を破壊することによってであるという事実を、心に描いておられたのです。

 

ほとんど例外なく、今日の教派は偽りの平和を楽しんでいるか、楽しもうとしています。真理と虚偽とは手を取り合って歩いています。過誤を犯している教会員に、正当な悔い改めの機会が与えられなければならないのは確かです。けれども断固、虚偽は罪に定められ、真理が固持されるべきですから、虚偽と真理のそれぞれの支持者たちは、交わりを断つことになるでしょう。このことは、分離――真実の一致にとって欠くことのできない分離を意味することになります。

 

第三に、保守主義者も、自分たちが罪を犯しており、キリストのからだの見える一致を傷つけていることを、率直に告白しなければなりません。その罪は、多くの形をとっています。多くの場合は、神の言葉の前に、従順に腰をかがめなかったことに根ざしていました。聖書を神のことばとして公然と認めておきながら、究極的な聖書解釈者として、聖書そのものの代わりに、しばしば人間理性をたてました。

 

また、保守主義者が、人間的伝承を神の啓示と同等のものとすることは、珍しくありません。そのようにして、聖書の十全性を否定するのは、なにもイエス時代のパリサイ人やローマ・カトリック教会に限りません。教会員は、十戒でなく、十一戒、十二戒に従って生きるという、まじめくさったクリスチャンの主張によって、プロテスタント教会は分裂しました。敬虔という徳が、偽善という悪徳に堕落しているといわれるのは、このことです。

 

同時に、分派主義の罪も、醜い頭をもたげました。神の言葉によれば〈アディアフォラ〉の問題、すなわち神が禁じても命じてもおられない一般的事柄で、教会を分かつのが分派の本質です。

 

繰り返しますが、聖書のすべての教えを、有機的に均衡をもって主張することに失敗し、その結果、他のすべての部分を無視して、その中の一、二のことを強調する誤りが、キリストの教会の見える一致をしばしば破壊してきました。神学的道楽にふけることは、決して罪のない娯楽ではありません。このような罪について、悔い改めなければならない教会が到るところにあります。

 

第四に、聖書を無条件に神の誤りない言葉をして受け入れ、三位一体の神、キリストの永遠の御子であること、聖霊の神性と人格性、代償的贖罪、恩恵的救い、主イエス・キリストの人格的な可見的再臨、からだの復活、信者と不信者の永遠的分離といった、これらの聖書の基本的教理を受け入れてはいますが、重要な他の教えの解釈に関して、明らかに異なっている諸教会は、互いに学びとろうとすべきです。

 

また、できる限り協働すべきです。このような線に沿った提携の努力は、それに従事する諸教会の活動を促進するばかりでなく、かれらが本質的に一つであることを具現することにもなるでしょう。

 

最後に、自らの確信を互いに妥協させなくとも合併できるほど、神の言葉の解釈において一致しているキリスト教諸教派があります。ためらうことなく、組織的な統合は彼らの義務であるといえます。彼らにとって、分かれたままでおることは罪です。例えば、アメリカ北部にある保守的バプテスト教会と、南部にある同じように保守的なバプテスト教会とが、別々の教派として存在しておることを是認できる理由は、見あたりません。

 

真理を犠牲にしないで、キリストのからだの見える一致のために努力することは、その栄光の輝きをいや増すことになるでしょう!