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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

宗教改革の土台――礼拝における規制原理(Regulative Principle of Worship)について

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礼拝の中における信仰の良心を守るべく、山中での集会を余儀なくされた英国の非国教徒たち。17世紀。(引用元

 

Greg Price, Foundation for Reformation: The Regulative Principle of Worshipより抄訳

 

 

キリスト教会は、これまで何百年に渡り、礼拝に関する二つの根本的な問いを巡って議論し続けてきました。

 

最初の問いは、「いかにして神は礼拝をお受けになるのか?」です。つまり、神に礼拝を捧げるにあたり、何が適切にして主に受け入れられるあり方なのかという問いです。地上の諸王に関してでさえ、彼らに謁見する際には、なにがしかの「儀典・作法("protocol")」が守られなければなりません。

 

古代世界においては、この儀礼を侵すことは、その人の命そのものを危険にさらすものでした。例えば、エステル記に記されているアハシュエロス王の王宮の内庭に入る者は、規定の儀典に沿わない場合、文字通り命を失うこともあり得ました。

 

すると、神の権威の下で統治し、神のしもべであるに過ぎない地上の王たちに対してこのような敬意が求められるのだとしたら、王の王である主ご自身に対しては尚更のこと、私たちは、より一層の敬意をもって礼拝に臨むべきではないでしょうか。なぜなら、主もまた、ご自身の民によって礼拝をお受けになる際、「儀典」を持しておられるからです。

 

そして第二番目の問いは、「権威を授与されている教会指導者(牧会者)たちが、信徒たちに対し、ある種の礼拝形態を強行する際、彼らに授与されているその権威の制限範囲はどこにあるのか?」です。

 

つまり、教会が礼拝のために集い、教会リーダーたちが会衆をリードする際、彼ら指導者は、多様な礼拝形態をうち建てるに当たって、いったいどこまで合法的にそれを行なうことができるのかという問いです。

 

この二つの問いの重大さを分かっていただくために、一つ譬えを挙げたいと思います。私たちが共にあずかる聖餐というのは、神礼拝の一要素であり、主の恵みが民に注がれる栄光ある儀式です。

 

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しかし例えば、(牧会者である私が)聖餐式の前に、皆さんお一人お一人にピンを配りながら、こう言ったと仮定してみてください。

 

「みなさん。どうぞ聖餐にあずかる前に、お手元のピンでご自分の指を刺してください。そうすることにより、十字架の上であなたのためにお苦しみになったキリストをより深く理解することができるようになると信じます。指を刺した時に、ちくっと痛みを感じるでしょう?それはですね、聖なる神の無限なる怒りを負い、無限の苦しみを忍ばれたキリストの苦難を覚える、ささやかな一つの印となるでしょう」と。

 

それを教会の信徒のみなさんに勧める私の意図自体は真摯なものかもしれません。しかし、そういった礼拝行為ははたして主に受け入れられるものでしょうか。私は、自分自身が「これは神礼拝に有益であり、ふさわしいものだ」と判断するものを礼拝に導入する、そのような合法的権威をはたして持っているのでしょうか。

 

そして、こういう理由づけの元に、これまで礼拝の中に数多くの慣習が導入されてきました。冒頭に挙げた「(聖餐前の)ピン刺し行為」という、人間の作り出した伝統が、教会内で実践されることになったのなら、それがおそらく100年の歳月の内に、多くの諸教会の中で「実際に欠くことの出来ない礼拝要素」となっていくだろうことは想像に難くありません。

 

そしてこれと同じような事が16世紀の英国で実際に起こりました。彼らは「聖餐に与る者は各々、前に進み出、キリストの贖罪死に対する畏敬の念をもって聖体(パンと葡萄酒)の前に跪かねばならない」と主張し、そういった人間の作った伝統を教会に導入しました。

 

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このようにして神礼拝の場にもたらされた人間のイノベーション(新発想・企画)の実例は、本当に枚挙にいとまがありません。神への敬拝の場におけるこういった一切の、人間による考案について問われるべき根本的問いは次のものです。

 

つまり、「動機自体は真摯なものであっても、依然として人間のイノベーション(工夫)であるこういったものが主の礼拝にもたらされる時、神ははたしてそれをお受けになるのか?」と。

 

イエス・キリストのしもべであり奉仕者である自分が、(私なりに、「これはあなたの霊的成長にとって益になる」と信じるやり方や形態で)神を礼拝するようあなたに強行することは、私の権威内に存することなのでしょうか。

 

1662年5月19日、イングランド議会で、「英国国教会における祈祷と儀式に関する統一条例(=統一令, Act of Uniformity)」が制定されました。

 

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これによりイングランド内の全ての聖職者と学校の教師は、聖公会祈祷書の承認を義務づけられ、すべての儀式と式典で聖公会祈祷書が使用されるべきことが定められたのです。

 

 

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このような教会的専制政治に対し、ジョン・オーウェンは、「礼拝とその強制について(A Discourse Concerning Liturgies And Their Imposition)」という論文を書き、優れた応答をしました。

 

 

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 John Owen (1616 – 1683)

 

こうして2000名余りの忠実な牧師たちが、彼らの良心を束縛するような、人造の礼拝行為、パフォーマンス、ないしは儀式などを拒絶したかどで、英国教会から追放されました。

 

訳者註:条例に反対した2000名余りの牧師の中に、かの有名なリチャード・バクスターもいました。詳しくは次の記事をお読みください。

キッデルミンスターのリチャード・バクスター(その3) | 地の果てまで福音を

 

親愛なるみなさん、イエス・キリストのしもべである私たちもまた、神の御言葉によって権威付けられていない礼拝行為、儀式、パフォーマンスを神礼拝の中に導入する時、かつての英国議会が犯したような誤謬に陥ってしまうのです。

 

こうして私たち牧会者は、そういった人造の礼拝形態を人々に押し付けることになります。そしてその時点で、もしも、教会の信徒さんたちが正当にも礼拝参加を拒むような状況が発生した場合、その時、彼らの良心の上に君臨しようとする私たちの熱心により、彼らは礼拝から締め出されてしまうことになります。

 

そしてその時、私たちは彼らの真正なる「キリスト者としての自由」を否定することになり、実質上、教会的〈専制君主〉になってしまうのです。

 

親愛なるみなさん。冒頭の二つの問いに対するシンプルな回答は、礼拝における規制原理(Regulative Principle of Worship, 以下RPW)にあります。RPWは、礼拝に関する、神によって定められた法です。

 

「礼拝のための法ですって?」とお尋ねになるかもしれません。「それってかなり律法主義的な響きがしますよ。私の考えでは、私たちは神を礼拝する時、自由でなければならないと思います。つまり、御霊によって導かれなければならないのです。」

 

しかしながら、そのような「御霊の法則」に従っていると言っている個人や教会は、実際のところ――RPWに従っている人と同様――結局は、礼拝に関する彼ら自身の法を確立しています。

 

礼拝の中で神に近づくあり方には、その意味で、中立性はありません。啓示された御言葉(つまりRPW)に従って生ける神に近づくのか、それとも啓示された自分たち自身の言葉に従って生ける神に近づくのか、その二者択一です。神であれ人であれ、とにかく誰かの言葉が、礼拝の中で、私たちをはっきりと導いていくようになります。

 

ここで問われるのはただ一つ、「どちらの言葉が私たちを導くのか?神の言葉か、それとも人間の言葉か?」です。

 

その際、さまざまな理由が打ち出されます。(例:「礼拝の中で自由になるため。」「御霊に導かれるため。」「もっと多くの人を惹きつけるため。」「人々の気分を良くさせるため。」「神の臨在をビジュアル的・感覚的に感じさせるお手伝いをしたいから。」等)。

 

そして、人間の作った伝統を導入していく上でもそこには――真摯さ、もしくは喜び、ないしはいわゆる「信仰と愛」等――さまざまな動機が存在します。

 

しかしながらたといその理由や動機がどんなものであれ、御言葉の中で神によって制定されていない礼拝行為は、人間の権威によって制定されたものであり、よって、主の教会の中におけるキリストの権威を侵害します

 

ですから親愛なるみなさん、問題は、「礼拝のための諸基準や規則がなければならないのか否か?」ではないのです。そうではなく、問われることはただ一つ、「礼拝の中で、どちらの基準や規則が常に遵守されなければならないのか」です。

 

そしてRPWは、「神が礼拝をお受けになるにあたり、主の聖なる御言葉の中で語られる神の御霊だけが、ふさわしい礼拝方法を私たちに提供することができる」と言明しています。