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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

キリストの栄光のからだ ②――その「一致」と「分離」(R・B・カイパー)

 

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R・B・カイパー著、山崎順治訳『聖書の教会観―キリストの栄光のからだ―』より抜粋

The Glorious Body of Christ: Unity and Division by R. B. Kuiper (1886-1966)

 

キリストの教会の霊的一致は、否定できない現実です。それは一つのからだ、すなわちキリストの神秘的な唯一のからだです。

 

この霊的個体性である一致を破るものは何もありません。ほとんど無数に近い分派と教派に分かれた、外見的に絶望的な教会の分離ですらも、それを破ることはできません。一方、教会の現在の分割が、その一致をはななだしく〈不鮮明〉にしていることも認めなければなりません。それは、悲しい事実です。教会は、この悪をいやすために、打って一丸となって努力すべきではないでしょうか。

 

これに対して、要約すると三つの姿勢があります。それは、①極端な教派主義(Extreme Denominationalism)、②極端な合同主義(Extreme Unionism)、③現実主義的理想主義(realistic idealism)の三つです。

 

極端な教派主義(Extreme Denominationalism)

 

非常に多くのクリスチャンが、「信徒の霊的一致、それだけが問題であって、組織的一致、それは取るに足らないことである」という考えを持っています。ある人々などは、組織的な不統一を悪徳どころか徳であるとさえ考えています。

 

この人たちは、理由にならない理由で、新しい教派を作ることをなんとも思いません。仮に、A牧師には、聖書が信仰者の神秘的狂喜を教えているようには考えられなかったとします。一方、B長老は、その説が聖書的であると確信しておるだけでなく、それに夢中になっていたとします。彼の心は、自分が熱狂にかき立てられるまで満たされることはないでしょう。その結果、その教会に分裂が生じたとすれば、どうでしょうか。要するに、極端な教派主義は、多様性と教派主義とを同一視する誤りを犯しています。

 

おそらく、極端な教派主義の顕著な表れは、〈無教派〉教会でしょう。その会員たちは、教派無用と誓うでしょう。しかし、事実はまったく逆で、彼らは各個教会すべてがあ、それぞれ独立自主の教派であることを欲しています。

 

このような教派主義が、使徒的教会の模範から遠く離れたものであることは明白です。使徒時代においても、様々な地域に住む信徒たちの間に、大きな相違がありましたが、個々の教会は皆、一つキリスト教会のうちに結ばれていました。そして、教派は少しも問題になりませんでした。

 

使徒行伝15章は、異邦人教会を悩ましたある問題が、エルサレム母教会の長老たちと使徒たちによって討議され、その決定は、全教会を束縛するものであると考えられた、と語っています。実に使徒行伝15章の教えるところは、無教派、単立教会に向かって叫ばれているのです。

 

極端な教派主義がキリスト教会の霊的一致を、うす暗いますの下におき、教会の栄光の輝きを少なからず暗くしていることは、議論の余地がありません。それは実際、罪あることです。キリスト教会内の、この分離の態度は文句なく、定罪されなければなりません。

 

極端な合同主義(Extreme Unionism)

 

極端な教派主義の正反対が、極端な合同主義です。これは、ローマ・カトリック教会と、現代の近代主義諸教会によって主張されています。

 

ローマ・カトリックは、ただ一つの教会があるべきであるというだけではなく、実際に唯一の教会が存在するという立場をとります。その一つの教会とは、ローマ教会自身です。いわゆる他のすべての教会は、まったくその名に価しないものであり、かれらは真の教会からの分離を悔いて立ち帰らねばならないと言います。ブログ管理人註:本書が書かれたのは1947年です。)

 

近代主義者の合同論は、ローマ的強要とは大差ありませんが、動機は異なります。ローマの主張の背後には、ローマは真理の独占権をもっているという、とんでもない仮定がありますが、近代主義者の主張の背後には、「諸教派間の教理的相違などは、取るに足らない。教理は大した問題ではない」というまったく不真面目な考え方が潜んでいます。

 

真理に関する無関心は、現代における近代主義的エキュメニカル運動の、もっとも顕著な特徴の一つです。背後にある神学的不一致を忘れ去って、社会的不正の浄化と、世界の福音化の協同運動のために、諸教会は溶けあうべきであると言います。

 

 

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U.S. Christians Hope for an ‘Ecumenical Spring,’ 2012(引用元

 

 

このような議論の愚かしさは大きく、かつ明白です。神の言葉に従えば、キリストの教会は、「真理の柱・真理の基礎」(1テモテ3:15)です。教会は、真理の管理者、擁護者です。教会が組織的一致のために払う代価としては、真理は余りにも尊いものです

 

たとえ、その代価でもって、完全な組織的一致に達したとしても、教会は自滅することになるだけでしょう。なぜなら、真理の存するところに教会は存し、キリストの神性や代償的贖罪としての十字架の死といった真理を売り渡す教会は、〈サタンの会堂〉でなくてなんでしょう?(黙2:9)

 

 

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 1986年、アッシジで開催された他宗教者間の合同礼拝(引用元)*The Pope Video – Inter-religious Dialogue - January 2016 - YouTubeもご参照ください。

 

 

自由主義的教会エキュメニカル運動の指導者たちの幾人かは、キリストの教会を破壊することによって、それを一つにしようとしました。黙示録13章は、小羊のいのちの書にその名が記されていない、地に住むすべての者は、海から上がって来た獣を拝むであろうと語っています(黙13:8)。

 

その預言の成就には、おそらく幾段階もあることでしょう。しかし、疑いもない最後の段階は、反キリストのもとに全人類の宗教を統一することでしょう。今日の勝ち誇った、しかし妥協的な合同主義が、その出来事を早めるのに役立っているのは決定的です

 

――――

 

極端な教派主義も合同主義も、キリスト教会の分離に対する救治策になりません。前者は、救治に関心を抱いていませんし、その疾患を手に負えないものにすることになりましょう。後者は、その病をこえた致命的な救治策を提供しています。私たちには、救治策はないのでしょうか。その解答は、次章にゆずります。

 

しかしながら、キリスト教会の霊的一致が現実であり続けることは、今も覚えられなければなりません。現存する分離は、教会の一致をおぼろげにしていますが、それを破壊してはいません。極端な教派主義は分離を促して、かつてないほどに教会の一致をおぼろげにしていますが、それを破壊することはできません。極端な合同主義は、教会の破滅を意味しますが、教会にしろ、その一致にしろ、快して実際に破壊することは許されないでしょう。

 

神の右におられる教会の栄光の主、全能のかしらキリスト・イエスが、教会の存続を保証しておられます。教会の一致の存続は、教会そのものの存続と一つに結ばれています。一致は、キリストのからだの本質であるからです。

 

 

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