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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「CCM賛美に問題があるのなら、ワーシップの部類は全てNGなのでしょうか?」というご質問を受けて。――礼拝賛美についての一考察

先日の記事に関し、親愛なる姉妹の方から、次のような真摯なご質問を受けました。

 

「私の母教会もワーシップによる賛美のみを歌っていたので、私は讃美歌を全く知らないのです。ワーシップは全て駄目なのでしょうか?ワーシップの部類は全てNGだと思われますか?やはり讃美歌を覚えて賛美歌のみを歌った方がいいのか思案しています。けれど旧約聖書のどこかに『新しい賛美を歌え』というような言葉があって、ワーシップの中にもセーフのものもあるのではないかとも思います。その線引きはどのようにしたらいいのか教えて頂けたら嬉しいです。」

 

はじめに

主に喜ばれる礼拝がどのようなものであるかを探求していらっしゃる兄弟姉妹のみなさんと共に、このように共に問題に向き合い、考察し、タックルすることができる恵みを感謝します。

 

このテーマだけに限りませんが、私たちは一人一人、背景も、育ってきた霊的環境も、受けてきた教えも異なり、その多様性や(人としての)限界性ゆえに、なかなか全体的・包括的・永遠的な視点でテーマを捉え、理解し、見解の一致をみることがむずかしい有限の存在であることを自分自身、痛感します。

 

しかしながら、その有限性ゆえにこそ、私たちはより一層、お互いの存在やperspectivesを必要としており、こうして私たちはキリストのみからだの中で、愛のうちに補い合いつつ、より一層近くされ、結び合わされ、成長していくことができるのではないかと思います。

 

賛美の本質 

 

「ワーシップは全て駄目なのでしょうか?ワーシップの部類は全てNGだと思われますか?」というご質問ですが、私個人としてはワーシップの部類が全てNGだとは考えていません。そして姉妹のおっしゃる通り、「新しい賛美を歌え」という主の掟は今日性を持つと信じます。また西洋の讃美歌の多くは、敬虔な信仰者の深い献身と霊性から生み出され、正統教理の教えに富み、これまで世界中の教会で何百年と歌い継がれてきたキリスト教会の豊かな霊的宝庫だと思います。

 

しかしながらその一方、例えば、ハ音調中心の西洋讃美歌は、へ音調を好む中東圏(それから東方世界)の信仰者たちの心には届きにくいという現実的な問題があり、神の御心はむしろ、それぞれの文化圏に息づく新生したキリスト者たちが(古今東西キリスト教会の)過去の壮大な霊的遺産から賛美の泉を汲みつつさらに、詩篇の御言葉通り、主に向かって「新しい賛美」を歌っていくことなのではないかと思います。

 

例えば、下はアラム語の賛美ですが、こういった賛美は中東圏の求道者やクリスチャンの心の琴線に深く触れているようです。

 


それからこちらはロシア系、教会スラブ語による賛美。東方ビザンツ世界の賛美は、西洋賛美とはまた違った旋律です。

 


 

そうすると、問われる根幹は、「現代ワーシップ」VS「古い(西洋)讃美歌」というよりはむしろ、「キリスト教賛美の本質は何であるか?」という命題を突きつめ、また祈り求めていくことではないかと思います。以前の記事でも引用しましたが、あるキリスト者の方がその本質について次のような深い洞察をされています。

 

賛美とは、父なる神が求めている「霊と真理による礼拝」から生まれる「実」であると私は考えています。それゆえ、霊的礼拝の核であり、根源であり、命である「キリストの十字架」から派生する賛美は、おのずとCCMの音楽性を取り入れた賛美がもつベクトルとは完全に異なるものだと思っています。

 

例えば、ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私の世界に対して十字架につけられたのです。」の御言葉が啓示している霊性と、多くのCCMが私たちに提示する霊性にどのような調和があるのか、私にはそれを見いだすことができません。

 

聖霊は、賛美として歌われていた多くの詩編のその旋律を記録に残さず、み言葉そのものを残すことを選ばれました。それは賛美が、神のみ言葉から直接溢れ出る霊性から派生するものであることを意味していると思います。世俗の音楽性に「聖句を貼り付けた」賛美とは、本質的に異なるものだと信じます。

 

コロサイ3:16「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、詩と賛美と霊の歌によって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」

 

ここでは、「心から神をほめたたえる」賛美が、「キリストの言葉が豊かに宿った心」から生まれることを啓示しています。引用元

 

踊り

それから、賛美の中の「踊り」についてもついでに触れておきたいと思います。例えば、短期宣教で中東圏の教会に派遣されてくる方々が、「Worship danceや賛美フラダンスなどを披露するのはどうですか?」と訊いてこられる時があります。

 

これは踊りの種類やそれを上演する人々の霊性にもより、一概に良いとも悪いともいえないと思いますが、一つ言えることは、中東圏では、何千年と続くスーフィズム(イスラム神秘主義)の長い歴史と伝統もあり、divine reverent dance(敬虔な踊り)とsensual dance(世俗的・肉感的踊り)を峻別する感覚の育っている人が結構多いのではないかということです。

 

例えば、下のショート・ビデオは、スーフィーたちによる有名なsama' danceです。「天の舞」という意を持つsama' danceは、トルコを中心に、イラン、クルディスターン地域で(公式・非公式に)上演されています。イスラム圏の宗教文化、そして人々の宗教メンタリティー理解の一環としてご参照ください。

 

(*イスラム諸国のスーフィー迫害について。歴代、スーフィやスーフィの礼拝所はイスラム政権による弾圧の対象になってきました。トルコ共和国では、1925年、スーフィたちが新しい世俗秩序に反対したことから、全てのスーフィ―院および集会に禁令が出されました。またイラン・イスラム共和国では、アヤトラー・ホメイニー師の『イスラム統治体制("governance of the jurist")』(→シーア派最高法学者が同時にまた国家の政治指導者になるべきだという政治宗教理論)をスーフィーたちが支持しないということで、これまで繰り返し、彼らは弾圧の対象となってきました。参照 ココの第七項)

 


 (2017年2月14日追記。中東出身の牧会者で、これまで海外からの短期宣教チームなどの受け入れもしてきた方に、worship danceや賛美フラダンスについて今日、直接質問してみたのですが、この方のこれまでの牧会経験によれば、「80-90%の中東圏の信者や求道者は、キリスト教会の中で上演されるこういったダンスにつまずきを覚えていると思います」とのことでした。今後、この宗教文化圏に宣教に行かれる方々のご参考になればと思って追記することにしました。)

 

線引きと識別

 

「ワーシップの中にもセーフのものもあるのではないかとも思います。その線引きはどのようにしたらいいのでしょうか?」という部分についてですが、この問いを考える上で一つの重要な命題が私たち一人一人の前にもたらされると思います。それは、「音楽というものは、はたしてamoral(道徳性に無関係のもの)か、それとも moral(道徳性に関係あるもの)か?」という問いです。

 

そして、この命題に対し、前者の立場にYesと言うか、後者の立場にYesと言うかで、線引きや音楽のジャンル・楽器の選択*1などにも違いが出てくると思います。

 

立場① Yes, Music is Amoral(=音楽は道徳性とは無関係である)の代表的見解の一例

 

音楽とは手段であって、メッセージではありません。もしも音楽がメッセージを伝達するという理由で、音楽がmoral(道徳性のあるもの)だとしたら、私たちは「それでは言語はmoralだ」と前提しなければならないでしょう。そうすると、ある言語は善であって、別のある言語は悪ということになってしまわないでしょうか?音楽の意味は、それを聴く者によって音楽にもたらされます。「音楽には生来的メッセージが包含されている」と主張する人々は、そのメッセージがすべての時代、すべての場所で、すべての人々に合意されてはじめて妥当とされるのです。引用元

 

立場② Music is Moral(=音楽は道徳性と関係がある)の代表的見解の一例

 

音楽は、道徳性と関係があります。意味をもたらすために、音楽は歌詞を必要とはしません。歴代の音楽家たちは皆、このことを熟知しています。もしも音楽の意味がただ歌詞からだけ来るのだとしたら、それなら詩の朗読でもそれに代用できるということになります。

 

すべての音楽には同じ意味があるのでしょうか。もしそうなら、なぜ人々はこれほどまでに自分の好みのスタイルの音楽にこだわるのでしょうか。また、もしも音楽が意味を含んでいるのなら、なぜ私たちはその意味を、amoral(道徳とは関係のない)領域に制限しなくてはならないのでしょうか。あるものには良い意味があり、あるものには悪い意味が内蔵されているのでしょうか。

 

音楽は良いあるいは悪い意味を持ち得ない――それは本当でしょうか。誇り高い作曲家は、なんら意味を持たない音楽を手掛けるでしょうか。道徳性に関係のないamoralなものは、良くも悪くもありません。

 

作曲家の大半はなにか「良いもの」を作曲しようとしていると言って差し支えないでしょう。「音楽というのが意味を伝達しようとしている」という事実が暗示するの何かというと、作曲家がそれを「ことば(language)」だとみなしているということです。伝達能力は善であり、それゆえことば(language)は善です。しかしながら、ことばを通してコミュニケートされるものは、良いものである場合もあれば、悪いものである場合もあります。

 

そして意味には倫理性が含意されます。音楽は一つの手段として意味を持ちます。そして手段としての音楽は、意味を運びます。それゆえ、音楽は道徳性に関係あるもの、つまりmoralです。引用元

 

みなさんはどう思いますか?音楽は、道徳性と関係のないものなのでしょうか。それとも関係のあるものなのでしょうか。歌詞がどんなに聖書的であっても、ある種類の音楽ジャンルはその音楽そのものの性質ゆえに拒絶されるべきものなのでしょうか(立場②)。それとも、ロックであれラップであれ、若者伝道や魂の救いのためになら、教会礼拝の場にそういった種類の音楽を積極的に取り入れていくべきなのでしょうか(立場①)。*2

 

*1)楽器の選択についですが、教団・教派の中には、礼拝賛美の中に楽器を一切取り入れず、アカペラだけの賛美形態をとっている無楽器派の教会もあります。私自身はこの立場を採っていませんが、この見解に立つ兄弟姉妹の聖書的弁証には敬意を払っています。参考までに無楽器派の方々の弁証記事をいくつか挙げておきます。

-Foundation for Reformation: The Regulative Principle of Worship(ココ

-Biblical Worship (ココ

-Why Not Instruments In Worship?(ココ

-Biblical Singing in Worship(ココ

-Why Instruments of Music Should Not Be Used in Christian Worship(ココ

-Is It Scriptural To Use Instrumental Music In Worship?(ココ

*2)本ブログは②の立場に立っています。

 

先日、礼拝賛美に造詣の深い、ドイツ在住のキリスト者の方とこういったテーマについてじっくり話し合う機会をいただきました。この方は現代アメリカCCMはもちろんのこと、その他さまざまな時代のさまざまなジャンルの賛美に広く深く通じた方で、私はこの方に、どのように多様性あるCCM賛美一般を考え、また線引き・識別してゆくことができるのか助言を請いました。

 

そうするとこの方は次のように回答してくださいました。「日本のエヴァンジェリカル界は全体としてここ数十年、現代アメリカCCM一辺倒になっており、これまで2000年に渡りキリスト教会が生み出してきた深く豊かで多様な霊的賛美を知る機会自体に乏しい環境に置かれていると思います。

 

私は日本の若い兄弟姉妹のみなさんに、歴史的にも、地理的にも、もっともっとさまざまな種類の『聖なる賛美』に触れてほしいと願っています。そうする中でより深い霊性が育まれていき、その中から新しい世代に向けての豊かな賛美が生み出されていくのではないかと期待しています。」

 

おわりに

 

「霊的礼拝の核であり、根源であり、命である『キリストの十字架』から派生する賛美」が主の聖所の中に響きわたる時、この地上において、主の聖さ、美しさ、力強さ、栄光、誉、権勢が輝き出で、人々はそこに主の豊かなご臨在をみるのだと思います。

 

CCM賛美のあり方に関しては賛否両論あり、これからもこの論争は続いていくと思います。私たちは提示された命題に対し、誠心誠意取り組み、その結果、導かれた結論や立場を告白することに躊躇してはならないと思いますし、「多様性を認める寛容」という表看板の下に、誤を誤と指摘せず、ご愛想主義に安住する秘かなる自己愛の余地を残してもいけないと思います。

 

しかしその一方、自分と同様に誠心誠意このテーマに取り組み、その結果、自分とは異なる結論に導かれた兄弟姉妹の見解やあり方に対して、偽りのない敬意を払うことを忘れてはいけないと思います。

 

マルティン・ブーバーが、「本来盲目的なものは憎しみである」と言った後で、次のような印象深い言葉を残しています。「ひとは、存在の一部分だけを見るとき、憎むのである」と。キリストのからだの分裂や仲たがいの大半は、もしかしたら、こういった相手の「一部分だけを見る」行為から生じる肉的憎悪を因としているのかもしれません。

 

このテーマに関して私たちがどういう立場や見解を採っていようと、その中心にあるのは、「霊と真理による礼拝」を捧げたいという私たち礼拝者の切なる願いであり、主に対する愛であると思います。その意味で私たちは皆、一致しており、そしてこれからも愛による一致の内を歩んでいくことができると信じます。May God bless you all! アーメン。

 

 

↓ は、このテーマに関し、複数のキリスト者の方々が意見を述べておられ、自分にとって非常に為になるビデオでした。