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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「世からの分離」と「世人への愛」

詩・祈り・エッセー

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「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、愛された」(ヨハネ3:16a)

 

をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」(1ヨハネ2:15)

 

私たちの神さまは、「世を愛し」つつ、尚且つ、私たちに「世を愛してはならない」と厳命しておられます。それはどういうことなのでしょうか。

 

『新約聖書ギリシア語小辞典』の編者織田昭氏は、ヨハネ3:16で「世」と訳されているコスモス(κόσμος)を、「すべての人間、世にいる人間」と定義し、それに対して、1ヨハネ2:15の「世(コスモス)」は「倫理的な意味での、世、この世、神を離れている人間世界」と定義・分類しています。

 

そうすると、この辞典の解釈から引き出される理解としては、神が「世を愛し」と言った場合の「世」は、世にいる人間という意味合いであり、それに対し、「世を愛してはいけない」の「世」は、人ではなく、一般的に神を離れている人間世界であるということになると思います。世を否みつつ、キリストの心をもって世人を愛す――。

 

しかし言葉の定義の上ではこのようにきれいに「分類」できても、実際、私たちがクリスチャンとしてこの世に生き、この世に関わりつつ(あるいは避けつつ)生活する上で、両者は往々にして激しい緊張(対立)関係に置かれ、あるいは逆に、混合・融合・迎合・一体化・世俗化の危険にさらされつつ、私たちクリスチャンのあり方にさまざまな意味で挑戦を与えているのではないかと思います。

 

先日、このテーマに関し、とても考えさせられる出来事がありました。ある保守的キリスト教出版社の方と意見交換をしたのですが、その時私は、現在自分が取り組んでいるある新神学の教えについて、この方およびこの方の属する教派は歴史的にどのような立場を採ってきたのか、論稿のリンクと共に、質問をしてみたのです。

 

するとていねいなお返事をいただき、このようにインターネット界に蔓延する偽教理の攻撃から教会を守るため(特に若者たちを守るため)に、この方およびこの方の教会は、インターネットのアクセスの領域自体を規制するよう試みているとのことでした。それが具体的にどのような「規制方針」として教会で適用・勧告されているのかは分かりませんでしたが、それゆえに、この方は私が送ったリンクもお読みにならなかったようでした。

 

私はこの事について熟考してみました。上記のようなスタンスを採る方々は、「『世からの分離』という意味の本質を取り間違っている。私たちは修道院のように世から『隠遁』することで聖くなれるわけではなく、それは聖書的な『分離』でもない。本当にバランスの取れた霊性の持ち主なら、むしろ、証し人として積極的にこの世の潮流を研究し、この世の人々の『いる』所に出かけて行って、キリストの真理を弁証するべきだと思う」とよく批判されますし、確かにその批判には的を射たところがあると思います。

 

しかしながら、その一方、彼らの(過度と思われるほどの「この世」に対する)警戒ぶりにも、やはり無視できない妥当な理由がそれなりにあると思います。例えば、ジェンダー問題に関する最近のティモシー・ケラー氏の言説などを読んでいても、「これほどの有能な伝道者(弁証家)であっても、『ミイラ取りがミイラになる』という危険性から完全に自由になれるわけではないのだ」ということを感じざるを得ません。

 

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ただ私としては、同胞クリスチャンであるこの兄弟が、自分の送ったリンクの論稿を読んで、私と一緒にこの問題を考えてくださったらうれしかったなと正直思いました。

 

この方がそうされなかった理由もよく分かるし、また、それをそれとして受け入れること自体が、多様性あるキリストのからだの中における、他者理解と受容の一つのあり方なのかもしれません。でも、(自分を含め)ある人々にとっては、「こういう考え方は聖書的にはどうなんだろう?どこが間違っていて、どこが正しいのだろう?」という問いに共にタックルしてくれる人がいてくれたら、やはりとてもうれしいと思うのです。

 

誰かが何かを自分にシェアしてくれる時、何かの問題を打ち明けてくれる時、私は送られてくる「モノ」や「情報」もそうですが、それ以上に、その「モノ・情報」と共に運ばれてくる相手のをいつくしみ深いものと感じます。また、誰かが私のいる(霊的・信仰的)地点にまで降りて来てくれて、私の現在いる所で共にその問題を考えてくれ、意見をくれたり考えをシェアしてくれる時、自分は愛されている・理解されていると感じます。

 

「世からの分離」と「世人への愛」。この二つを完全な形で実践されたのがイエス・キリストだと思います。でもとかくバランスを崩しやすい自分にとっては、これは抽象論では決して片付けることのできない日々の活問題であり、今後も一歩一歩、聖霊にきき、またキリストのからだの中で教えられつつ、この領域においても成長・成熟していくことができたらと願っています。