巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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クリスチャンは苦難や死に対しどのような態度をとるべきか?――殉教者キプリアヌスの手紙【3世紀、カルタゴ】①

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           キプリアヌス(引用元

訳者はしがき

3世紀の半ば、非常に激しい疫病が北アフリカ全地域を襲い――クリスチャン、異邦人の違いに関わらず――、何千何万という人命が失われていきました。ある地域では、死者の数が生存者のそれを上回るほどでした。地獄のようなこの惨事を前に、ある人々は終末が近いと考えました。また多くのクリスチャンが、なぜ異邦人だけでなく、自分たち信仰者もこの災難の痛手を受けているのか理解に苦しんでいました。そんな混沌とした状況の中で、キプリアヌス牧師は信徒たちに向け、次のような励ましと勧告の手紙を記しました。尚、キプリアヌスの伝記をお読みになりたい方は次の二つの記事をご参照ください。

 


キプリアヌスの手紙

愛してやまない兄弟たちよ。あなたがたの内に、私は不動な精神と堅い信仰をみています。現在、疫病により多数の死者が出ている中にあっても、あなたがたの敬虔な魂は動揺させられていません。

 

あなたがたはこの世の荒れ狂う攻勢と時流の猛波をも粉砕する、強靭な岩のようです。実際、あなたがたは現在、それらの試練によって試されているのです。しかしながら、幾人かの兄弟姉妹は、あまり堅固に立つことができず、神より来る不屈の精神を働かすことができずにいます。

 

愛する兄弟たち。神のために闘いをしている者は、自分のことを天的な戦地に配属された者と考え、すでに天的な事がらに希望を置いているべきです。そうすれば、この世の嵐や旋風に遭ってもおびえることはなくなります。兄弟たち、事実、神の国はもうすぐに近いのです。人生の報い、そして永遠の救いの喜びは今すでに来つつあります。そしてそれらと共に、かつて失われていた永続なる喜び、そしてパラダイスが再び与えられるのです。そして世は過ぎ去っていきます。すでに天的な事がらが、地上的な事がらに取って代わりつつあるのです。

 

ですから、不安や心配をするには及びません。こういった試練の中でおびえ悲しむのは、キリストにある希望や信仰なしに生きている人たちではないでしょうか。死への恐れは、キリストの元に行こうという意思のない人々に属するものです。死を恐れるということは、すなわち、その人が今後キリストと共に治めるようになるということを実際には信じていない証拠ではありませんか?

 

義人は信仰によって生きると書いてあります。もしあなたが義人なら、そしてあなたが信仰によって生きているのなら、そしてあなたが本当にキリストを信じているのなら、あなたは実際にキリストに呼ばれているのです。そのことに対する確信はありますか。あなたはもうすぐキリストと共にいるようになるのです。あなたは主の御約束の内に安全に守られています。ですから、「悪魔からついに自由になれる」と、今むしろあなたは喜んでいるべきではないでしょうか?

 

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       初代教会の殉教者たち(引用元

 

キリストにまみえることは喜ぶことです。実際、キリストにまみえるまでは、私たちは真の喜びなど持つことができません。ああ、災いや刑罰や涙に満ちたこの世に未だに愛着をもつことの愚かさと盲目さよ!むしろ、決して奪われることのない喜びに向かって私たちは歩みを速めるべきではないでしょうか。

 

兄弟たち。ですから問題は信仰にあります。問題は、あなたがたが実際には、神が約束されたことを本気に受け取っていないことにあります。しかし、主は真実なるお方です!私たち信仰者に与えられている主のみことばは永遠にして不変のものです。もし品行方正かつ実直な人があなたに何かを約束したら、きっとあなたは彼の言ったことに信頼を置くでしょう。そしてそんな彼に裏切られるとはつゆも思わないでしょう。

 

しかし今、あなたにこの約束をしてくださっているのは、神ご自身なのです!それなのに、あなたは信仰のない者のように、疑心暗鬼の中を揺れ動いているのですか。この世を離れた後に不死と永遠が与えられることを神があなたに約束してくださっているのです。それでもあなたは疑いますか。もしそうなら、あなたはまったく神を知っていないことになります。そしてそのような不信はキリストの御心を害するものです。

 

主がまもなくこの世を去るということを聞いた弟子たちが悲しんでいた時、キリストは彼らに次のように仰せられました。「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです」(ヨハネ14:28)。ここで主は、自分たちの愛する人がこの世から去る時、悲しむのではなくむしろ喜ぶよう教えておられます。この真理に照らし合わせ、使徒パウロも書簡の中で同様のことを言っています。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(ピリピ1:21)。

 

しかしながら、この伝染病の力が、異邦人たちだけでなく私たち信仰者をも襲っているという事実に動揺している人たちが何人かいます。――あたかも私たちがキリストに信仰を持つ目的は、この世の人生を満喫し、病気にかかることのない健康ライフを送るためであるとでも言っているかのように!そうではなく、私たちは、将来に約束された喜びのため、この地上において、そういった全ての苦しみや試練をくぐり抜ける者として自らのことを考えるべきです。

 

また他の異邦人たちと同様、私たち信仰者も伝染病で死んでいくことに対して動揺している人々がいます。しかしこの世にあって、彼らと私たちで何か共通でないものはあるのでしょうか。肉体がこの世にある間は、私たちは自然的誕生の法則の下にあります。そしてこれは私たち信仰者にも、異邦人にも共通したものです。

 

しかしながら、にあって、私たちと彼らの間には違いがあります。それゆえ、この地が不作に見舞われる時には、飢饉はどちらにも襲います。また敵が都市を占領するなら、クリスチャンもそうでない人も皆同じように捕囚として引かれていきます。また雨が降らない時、干ばつの被害は万人に及びます。荒岩によって船が破損するなら、破船の被害は乗客員すべてに及びます。眼の病気、高熱、手足の衰えなどは皆に一般的なものです。私たちの肉がこの世にある限り、それらのことは存在し続けます。

 

実際、この点においては、むしろ私たちクリスチャンの方がさらにひどい苦しみを受けなければならないのです。なぜなら、悪魔の攻撃に対し、クリスチャンはもっと熾烈な格闘をしなければならないからです。歴代の義人たちは常に忍耐し続けてきました。主の命令により、使徒たちもその掟を遵守しました。

 

彼らは困難の中にあっても不満を言わず、この世で彼らの身に起こるすべてのことを勇敢に、そして忍耐をもって耐え忍びました。ですから、愛する兄弟たち、私たちも同じようにすべきです。なぜなら聖書にこう書いてあるからです。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(詩篇51:17)。

 

同じように、アブラハムは神をお喜ばせしました。そうするに当たり、彼は息子を失うことや犠牲として捧げることさえも甘受したのです。自分の息子を自然死によって失うことさえあなたがたは耐えられないと感じていますが、それなら、〔アブラハムのように〕自分の息子を「殺す」よう言われたなら一体どうするつもりですか。

 

現在のこの苦難を、つまずきとは捉えず、むしろ「闘い」と考えましょう。そしてそれらによって私たちのキリスト信仰が弱められるようなことがないようにしましょう。その反対に、これらを通し、私たちクリスチャンの力がこの世に証されますように。覚えておきなさい。初めに戦うことなしに、勝利はあり得ないということを。

 

もし何も危険がないのなら、私たちの信仰は空虚な見せかけのようになってしまうでしょう。葛藤や苦難は、私たちの信仰の真実を試すものです。地中に深く根を張った木は、激しい風の攻撃に遭っても揺らがされません。頑丈な木材で造られた船は、荒波がそれに激しく打ちつけても砕けません。脱穀場に麦が運ばれる時、強く栄養の詰まった麦粒は風をものともしません。しかし空のもみ殻は、一瞬の風でどこかに運び去られていってしまいます。

 

このような荒廃と死の熾烈な攻撃に対し、不屈の精神の限りを尽くし闘っている魂のなんと気高いことでしょう!人類の悲惨と荒廃のただ中にあっても、神に望みを置かない人々のように絶望することなく果敢に立ち続けることのなんという喜びでしょう。

 

さらに、この疫病は一見したところ悲惨以外の何物にもみえないかもしれませんが、その実、これは時にかない、私たちに必要なことなのです。つまり、それは各人の義を光の下にさらし出すのです。それは、健康にある者が、はたして病人を世話するのか、そして私たちが真実に隣人を愛しているのかを調べます。その他、主人が衰弱している召使たちを憐んでやるのか否か、医者たちが嘆願する病人に対して忠実であるのか否か、横暴な者が自らの暴力を抑制するのか否か、高慢な者がへりくだるのか否かを調べます。

 

そして仮に、この疫病によって何ら得るところがなかったにしても、それは私たちクリスチャンである神のしもべには次のような意味で有益です。つまり、死を恐れないことを学んでいく中で、私たちは次第に喜んで殉教の道を受け入れることができるようになるのです。ですから、これは私たちにとって死ではなく、単に鍛錬にすぎないのです。

 

②に続きます。