読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ポスト近代と新歴史主義、同性愛、そして聖書解釈【後篇】――真の同胞愛を祈り求めつつ

前篇〕〔中篇〕からの続きです。

 

     f:id:Kinuko:20170126040737p:plain

結語

多くの人が自らのアジェンダでもって、キリストのことばを解釈しようとしています。新歴史主義が、公認された文芸評論として認められるよりはるか以前に、C・S・ルイスは、そのように「非適格な意味」による聖書解釈がもたらす結果について次のように洞察力ある指摘をしています。

 

f:id:Kinuko:20170126010507p:plain

C.S.Lewis

 そうなると、私たちは次のような結論を出さざるを得なくなるだろう。つまり、キリストのことばの真の意味は、――①キリストと同時代に生き、同言語を話していた人々に隠されており、②世界に遣わすべく主ご自身が使者としてお選びになった弟子たちにも隠されており、③後に続くあらゆる時代の人々にも隠されていた。が、ついに私たちの生きるこの時代に到って初めてその意味が発見されたのだと。

 

 もちろん、こういった事を信じがたいとは思わない人たちもいることも私は知っている。ちょうど、プラトンやシェークスピアの真の意味が――奇妙にも彼らの同時代や後継者たちにはずっと隠されていたところが――現代に入り、一人か二人の教授たちによって見事に全容が明かされたと主張する度胸のある人々が存在するのと同様に。

 

 しかし私としては、そういった釈義メソッドを神聖なる事がらに適用することはできない。そういった釈義はすでに、自分の世俗研究の中で軽蔑と共に拒絶してきた。

 

 どんな理論であれ、そのベースを、いわゆる――福音書から抜け出した――「歴史的イエス」なるものに置き、キリスト教の教えに刃向かってくるようなものは、疑わしいとみるべきである。

 

 これまで実に多くの歴史的イエスたち(Jesuses)が登場してきた。リベラル派イエス、霊師イエス、バルト派イエス、マルクス主義イエス。。。そしてこれらはいずれもそれぞれの出版社目録に載っている安っぽい収穫物であるにすぎない、、、こういった幻像の内に、私は自分の信仰や救いを見い出したくない。C.S. Lewis, The Weight of Glory (New York: HarperCollins, 1980), pp. 87–88.

 

                   f:id:Kinuko:20170126035317p:plain

 

C・S・ルイス自身はイエスのことのみを言及していますが、引用文の文脈は、キリストの御言葉だけにとどまらず、聖書全体の御言葉にも当てはめて考えることができるでしょう。

 

もし私たちが聖書の各聖句を、その自然的な文脈および様式の中で読みつつ、真剣に取り扱っていかないのなら、私たちがその中に真理を見い出す望みは絶たれてしまいます。新歴史主義やその他のポストモダン的考え方の影響により、聖書は誤った解釈のプレイグラウンドと化しています。なぜなら、人は、自分自身の思想を聖書の中に読み込もうとする傾向があるからです。

 

新歴史主義の諸要素は、同性愛理論やジェンダー学といった、他の多くのポストモダン思想の領域にも浸透していっています。ミッシェル・フーコーをはじめとする新歴史主義者たちが――周縁化されてきた――と彼らの考える人々に対する情熱をもっている事はたしかですが、悲しいことに、罪により、自分が守るべき・正当化するに値するものと捉える、その観点自体が人の内で損なわれてしまっています。ヤコブは、この世で私たちが守るに値するもののいくつかについて次のように述べています。

 

ヤコブ1:27

父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 

マルコ12:30-31には、私たちが神を愛し、隣人を愛しなければならないことが記されています。同性愛行為、中絶といった行為を是認することは、その二つの掟の両方共を破る行ないです。罪深い言動の内にあえて参与し続ける人は、「周縁化された人々」という特別な地位を受けるに値しません。

 

上記のようなロジックをさらにワンステップ推し進めるなら、こうなるでしょう。ある連続殺人者が、監獄で無為に人生を浪費している、「周縁化された」殺人囚仲間たちを釈放すべく、大量殺人行為に対する彼自身の同情の念を聖書の中に読み込もうとするのは、はたして妥当なことでしょうか。

 

真の愛と同情は、罪との対峙および、未信者への福音宣教を私たちに強います。神は私たちにご自身の御言葉をくださいました。そして聖書のシンプルなみことばは明瞭です。――私たちが個人的アジェンダや感情に訴えることなく、御言葉をそのまま素直に受け取るなら、その時、聖書の真理が取り間違えられるようなことはありません。

 

(執筆者:スティーブ・ゴールデン師)

 

関連記事: