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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ポスト近代と新歴史主義、同性愛、そして聖書解釈【中篇】――権力者とは誰か?

前篇からの続きです。

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The Influence of Postmodernism, Part 4: New Historicism | Answers in Genesis

 

権力者とは誰か?

新歴史主義者にとって、鍵となるのは「権力/権威 "authority"」です。しかしそれは、私たちが普通想像するような権力とは異なる場合も往々にしてあります。

 

例を挙げてみましょう。あなたの友だちから一通の手紙が届きました。

Q「それは誰が書いたものですか?」

A「私の友です。」

そうすると、〔彼らの理解によれば〕あなたの友だちは手紙の上に置かれた「権力」であるということになります。

 

それでは次の質問です。

Q「あなたはこの手紙の内容の正確さに信頼を置いていますか?」

(例外的なケースもあるでしょうが)おそらく信頼を置いているでしょうね。

 

Q「手紙の中になにか隠れた意味を見い出そうとしていますか?」

多分、そんなことはしないでしょう。通常、手紙の意味は明らかであり、その意味解読のためにわざわざ専門家を呼ぶ必要もありません。

 

それでは、今度は、その友だちが、刑務所の中から手紙を送ってきたと想像してみてください。その刑務所では、すべての手紙は監視員によって検閲されます。再び、質問します。

 

Q「誰がこの手紙を書きましたか?」

そうです、あなたの友だちです。しかし今回、彼はある種の情報をあなたと共有することはできないということを知りつつ、手紙を書いています。彼は常に監視されており、囚人としての「演じ」をしなければならないからです。

 

Q 「その場合、手紙の中のすべての情報をあなたは信じますか?」

おそらくそうはできないでしょう。むしろ手紙の中に隠された意味を何とか見つけようとするはずです。

 

そして、もしもこの手紙を新歴史主義者が読むなら、彼はこう言うでしょう。「手紙の上に置かれている『権力者』は、あなたの友だちではなく監獄制度です。なぜなら、その制度が彼のコミュニケーションを統制してきたからです」と。

 

後者の例においては、こういった新歴史主義的読み方は、手紙理解にあるいは有益かもしれません。しかしながら、実際のところ、新歴史主義において、そういった事例は例外中の例外です。なぜなら、彼らは脚本、著作、その他、ほとんどどんなテキストにおいても、その読み方を適用させ、そして言います。「ここには、これまで人類が見過ごしてきたある意味や、歴史が存在するのだ」と。

 

そしてこう続けるでしょう。「このテキストが書かれた当時の諸事情により、権力者が『作者本人』ではなく、権力をもったある『制度』であるような、そのような状況が生じてしまったのです」と。

 

さらに、彼ら新歴史主義者をそのような見方に駆り立てる要因は、「その作者の言葉が完全に信頼のおけるものではないということを立証するれっきとした証拠ゆえ」というよりはむしろ、ある特定グループの人々に対する、その人自身の私情(同情心)である場合がほとんどです。

 

オハイオ州立大学ユダヤ学メルトン研究所の准教授であるD・G・メイヤーは、新歴史主義を突き動かしている真の動機について次のような洞察をしています。

 

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David G. Myers

 彼らの研究の目標は、画家の意図を、彼ら学者自身の同情心と一致させることにあります、、、同情心は、デザインと同じだけの重要性をもった(そして同等の存在論的地位をもった)事実として扱われています。

 はたしてそのデザインが何かと食い違ってはいないのかと自問し確かめる努力はなされず、単に、「それは、そうあらなければならないのだ」という解釈の前提として取り扱われるだけです。すなわち批評家は、自分の感じ方によって、それがそうだと知っているのです。D. G. Myers, “The New Historicism in Literary Study,” Academic Questions 2 (Winter 1988–89): 27–36; available online at dgmyers.blogspot.com/p/new-historicism-in-literary-study.html.

 

新歴史主義者はそういった感情に突き動かされるケースが多いのですが、メイヤー氏がいみじくも指摘したように、そういった方法では客観的な歴史評価はもたらされません。

 

新歴史主義と聖書解釈

聖書解釈の分野において、ある聖書学者たちや指導者たちは、自覚してかせずか、新歴史主義者たちと類似の歴史観を受容しています。しかしながら、すべての信仰者が受け入れる必要がある基本事実というのは、聖書がその原写本において誤りがなく(そして今日私たちの手にあるものは、きわめて正確である)ということです。ですから、どんなに歴史が再解釈されようとも、こういった再解釈は聖書の明瞭なことばの意味ないしは効力に変更を加えることはできないのです

 

個人的信奉がいかに聖書解釈に影響を与えているかを示す一つの実例を挙げます。退職した聖公会司祭であり著名な作家でもあるジョン・シェルビー・スポングは、パウロ書簡に提示されている歴史を、「同性愛サポート」という自らの趣向に基づいて読み直そうと試みています。

 

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彼の聖書分析の目標はだいたい次のようなものです。曰く、「パウロ書簡が書かれた当時、権力をもっていた宗教機関(例:律法の専門家であった律法学者たち、統治権力側に就いていた一部のパリサイ人たち)は、同性愛者たちを抑圧していた。さらに言えば、パウロ自身も同性愛者であったのだが、彼はその願望を抑制しようとしていた。それゆえに、パウロは強いられる形で、ゲイ行動に反対する発言をしなければならなかったのである。」

 

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 然り。私は確信しています。タルソのパウロがゲイ男性であったことを。彼は、深刻に抑圧され、自己嫌悪に苦しみ、非常に禁欲的で、掟に縛られていました(それらの掟によってこの志向を抑えようと望んでいたのです。)彼は〔同性愛行為を〕到底受け入れられないものと考え、それを全く自らのコントロール下に置いていました。

 実際、そのコントロール力は非常に強靭なものであったため、パウロ自身、自分についてのこの事実に向き合う必要性がなかったのです。

 しかし抑制は人を殺します。それは抑制している人を殺すにとどまらず、場合によっては、抑制している人の内に見いだされる防御的怒りが、これに挑戦する人、脅す人、あるいは、彼が深く恐れているそのこと〔=ゲイ行為〕に生きている人を殺しかねないのです。

John Shelby Spong, The Sins of Scripture: Exposing the Bible’s Texts of Hate to Reveal the God of Love (New York: Harper Collins, 2005), p. 140.

 

スポングは知ってか知らずか、フーコー的聖書の見方を採用しています。(【前篇】のパノプティコンの項を参照)。つまり、

①使徒パウロは同性愛行為に力強く反対の声を上げている。

②同性愛行為は律法によって断罪されている。そしてそれはパリサイ人や律法学者たちによって監視されている。

③それゆえ、パウロ自身もおそらくゲイであったに違いないが、彼は異性愛者の役割を過度に「演じて」いた。なぜなら、彼は常に、宗教権威によって「監視」されていたからである。

 

使徒パウロが同性愛者であったとか、パウロが同性愛行為に参入することに同情心を抱いていたとかいうテキスト証拠は皆無です。実際、パウロはある時点で結婚していたかもしれないという指摘もなされています。

 

しかしながら、先にメイヤー氏が指摘したように、スポングは、今日の同性愛行為について彼がそうだと「感じる」あり方ゆえに、〔自らの主張する内容を〕「知っている」と考えているのです。さらに、スポングは、聖書が神のみことばであることを信じていない旨を認め、次のように言っています。

 

「私は聖書が神のみことば(*大文字の "Word")であるとは見ていません。私は聖書のみことば(大文字の"Word")を、聖書の言葉(小文字の"words")を通して聞くものとして理解しています。この両者には非常に大きな違いがあります。」(*下のVTR6:45~の発言)

 

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パウロの言葉は、神のみことばではありません。それらはあくまでパウロの言葉です。両者には大きな違いがあります。ジョン・シェルビー・スポング

 

筆者注:下のビデオは使徒パウロがゲイであったか否かについてのディベート。スポング氏 VS ホワイト氏。収録時間約7分。

 


スポングの「感情に突き動かされた」聖書解釈は、今日いわゆる「周縁化されている」グループ(つまり、同性愛を実践している人々)に対し有利な計らいをするべく為されているのは一目瞭然であり、それにより、パウロの言葉は信用できないものにされています。

 

後篇に続きます。