巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ポスト近代と新歴史主義、同性愛、そして聖書解釈【前篇】――ミッシェル・フーコーの苦悩の人生

はしがきからの続きです。 

answersingenesis.org

 

新歴史主義は、1980年代に勃興しましたが、この用語自体が、いくつかの諸理論(例:文化的唯物主義)をカバーする傘カテゴリーとなる傾向が往々にしてあります。新歴史主義も、文化的唯物主義も、ほぼ同時期に現れ、どちらの分野の批評家たちも、

 

1)人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティー、それから、

2)権力を行使してきた諸機関(例:キリスト教会、君主制など)が、いかに社会に特定のイデオロギーを押し付けてきたのか、そしてそれが、いかに今日の私たちのテキスト理解に〔負の〕影響を及ぼしてきたのか、

 

という点に注目しています。尚、本稿で、新歴史主義という語を用いる際には、文化的唯物主義の分野も含めることにします。

 

新歴史主義が、他のポストモダン理論と違っている点は、これが過去およびテキストの文化的文脈を取り扱っている事です。しかしながら、彼ら批評家たちの、歴史に対する見方・捉え方・分析方法というものにはやはり、私たちを躊躇させるものがあります。ベッドフォードのセント・マーティン出版社は、大学書籍を扱う出版社として有名ですが、彼らは新歴史主義の特徴を次のようにまとめています。

 

 「彼らは、従来の歴史批評家たちに比べ、『事実・出来事中心』という観点に乏しいといえます。その理由としては、おそらく、『本当に起こった出来事についての真実が、はたして純粋にないしは客観的に知られ得るものなのか否か』という点で彼らが不信を抱くに至ったからかもしれません。

 また彼らは、歴史を、――現在に向け発展しつつある、線状かつ漸進的なもの――とは捉えない傾向にあります。さらに彼らは、歴史を、明確かつ持続・一貫性をもった各時代精神(zeitgeist)から成る「特定の諸時代」という観点でも捉えない傾向にあると言っていいでしょう。

 それゆえ、彼らの間には、『文芸テキストというものには、単一ないしは容易に特定できるような歴史的文脈というものは内蔵されていない』と主張する傾向が強いわけです。」

“Definition of the New Historicism,” Bedford/St. Martin’s, bcs.bedfordstmartins.com/virtualit/poetry/critical_define/crit_newhist.html.

 

要するに、新歴史主義者は――少なくとも私たちの大半が理解するところの――「歴史」に対する不信感を抱いています。そして彼らの不信感の大部分は、今日の社会というものが実は、「ある特定の時期においてある事がらは~~だった」という事を信じさせるべく、条件付けられたものであるという彼らの見解から生じています。

 

ミッシェル・フーコーの苦悩の人生

フランスの哲学者であり歴史家でもあるミッシェル・フーコー(1926–1984)は、ポストモダニズムの代表格の一人です。

 

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フランス哲学が絶頂期にあった当時、大学生であったフーコーは、フリードリヒ・ニーチェを初めとする主要な哲学者たちから多大な思想的影響を受けました。そして後年、そのフーコーの思想が、新歴史主義が発展していく過程で主要な影響を及ぼしていくことになります

 

*訳者注:福音派の哲学者であるエスター・L・ミークも、著書 Longing to Know, The Philosophy of Knowledge for Ordinary People の中で、「ニーチェの思想が、ポストモダニズムの先駆け的存在であることが認識され始めると同時に、最近再び、彼の著作が人気を博すようになってきています」と記しています(3章註8)。

 

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「すべての事は、われわれの解釈次第だ。ある時期に優勢を誇る解釈――それがどんな解釈であれ、それは権力による機能であって、真理によるものではない。」フリードリヒ・ニーチェ)

 

しかしながら、フーコーの人生は苦悩に満ちたものでした。英国レスター大学の歴史学講師であるジョン・コーフェイ氏は、フーコーの人生を次のように要約しています。

 

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John Coffey 

 1948年、ミッシェル・フーコーは自殺未遂を図りました。当時、彼は有名校エコール・ノルマルの学生でした、、、彼は首都にある、非合法のゲイ・バーに夜間、足しげく通っていましたが、その事に関しての罪責感に苦しめられていたようでした。彼の父親は厳格な人で、以前にも息子を最も統制の厳しいカトリック学校へ送り出していましたが、その父が、精神病院に息子を検査入院させるべく取り計らいました。

 

 しかしそれでも死への囚われは彼から離れず、自分を首吊りする様をジョークにしたり、こうして彼はさらなる自殺未遂を重ねました。ホモセクシャル、自殺行為、精神錯乱といった青年期のこれらの体験が、その後のフーコーの知的発展の決定的要素となっていきました。

 

 後年の彼の著作群で取り扱われているテーマは、彼自身のこういった経験から生み出されたものです、、、フーコーの知的キャリアは、社会によって、「周縁化され」「収監され」「抑圧され」ている人々に代わっての、彼自身の、生涯に渡る十字軍遠征となっていきました。

For a more detailed biography of Foucault, see Stanford Encyclopedia of Philosophy, s.v. “Michel Foucault,” plato.stanford.edu/entries/foucault.

 

フーコーの「十字軍遠征」と、新歴史主義が為そうとしていることの間のパラレル関係については、後述していきますが、ここでまずフーコーの人生の終わりの事に触れておこうと思います。

 

1984年6月、フーコーはエイズに感染しました。コーフェイ氏は次のように結語しています。「エイズ感染の恐れがますます明らかになっていく中にあって、彼はそれでもあえてバスハウスへの頻行をやめようとはしませんでした。そうする事により、狂気、性的倒錯、拷問、死といった観念に取りつかれていた己の人生に、それにふさわしいクライマックスをもたらそうとしていたのかもしれません。」Stanford Encyclopedia of Philosophy, s.v. “Michel Foucault,”)

 

換言していうと、実のところ、フーコーはエイズに感染したがっていた可能性が大であり、こうして、意図的に自らを感染し得る状況に置くことで、(倒錯した意味において)自らの人生を有意味なものにしようとしていたのだと考えられます。

 

フーコーと新歴史主義

フーコーの影響と個人的選択は不幸なものでしたが、彼によって新歴史主義にもたらされた影響というのもまた由々しきものがあります。新歴史主義は、マルクス主義思想に負うところ大です。マルクシズムは、主として経済と階級関係を軸にした政治思想体系です。これが実践のレベルに移されると、社会主義や、ひいてはカール・マルクスの推進した、コミュニズムへとその経過を辿っていきます。

 

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コミュニスト政権下のブルガリア(引用元

 

実践面においてマルクス思想は、再三再四、失敗してきましたが、文芸理論の分野におけるマルクス派は、現在でも全米の英文学科内でその生命線を保ち続けています。

 

文学や歴史を読むにあたり、マルクス主義理論は経済や社会階級に注目し、そういった要素が、テキストの中の権力均衡にいかなる影響を及ぼしているのかをみようとします。そういったマルクス主義理論と同じように、新歴史主義もまた、権力の行使に注目します。しかしながら、新歴史主義者たちは、それよりももっと社会問題や、周縁化された諸グループ、そして当時(キリスト教会などのように)権力を行使していた諸機関などに目を向けようとします。

 

そして、ここにおいてフーコーの思想が力を発揮するのです。彼は著書『監獄の誕生―監視と処罰(Naissance de la prison, Surveiller et punir)』の中で、多くの人々の考えとは反対に、拷問や公開処刑が現代刑務所に取って代わることとなったのは、全く肯定的なことではないと主張しています。これに関し、コーフェイ氏は次のように要約しています。

 

フーコーによれば、現代の刑務所というのは、ただ単に人々の身体に働きかけるだけではない。それは、彼らの精神をもコントロールしようとしているのである。囚人たちは専門家によって分類され、監視員の下に置かれ、観察され、操作される。さらに、刑務所というのは、現代社会の縮図である。つまり、われわれは皆、監視員の下に置かれており、官僚制によって分類され、逸脱や異常が見い出された際には監禁されるのである。Stanford Encyclopedia of Philosophy, s.v. “Michel Foucault” )

 

フーコーは特に、パノプティコンと呼ばれる建築の構想図に批判的でした。これは、18世紀にジェレミー・ベンサムによって設計された建築物であり、学校や、監獄、その他の諸機関の中に秩序を保つべく造られました。この建築物は円形になっていて、中心部に監視塔が配置され、そこを中心に円状に独房が配置されていました。そして、監獄に対して光が入るために、囚人からは、監視員が見えない一方、監視員は囚人を観察できる仕組みになっていました。

 

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ベンサムは、理論上、囚人たちが時には、まったく監視されていない状態にあることも可能だと考えていました。なぜなら、監視員がそこにいるのかいないのか、囚人たちには知る由がなかったからです。こうして彼らは、あたかも常時、監視員に見られているかのように、行動し(*ポストモダン用語では、「演じ "perform”」)ることを余儀なくされることになります。

 

そしてフーコーによれば、これは、社会の他の側面においても見ることのできる抑圧形態の象徴なのです。「フーコーは、普遍的規範というのが、実は権力者による抑圧の道具に他ならないということを自分は暴露すると主張しました。」Stanford Encyclopedia of Philosophy, s.v. “Michel Foucault,” )

 

新歴史主義者たちは。フーコーのこの思想から霊感を受け、歴史の中にそういった抑圧の諸形態を見い出そうとし始めました。抑圧の諸形態――そこでは人々が、あるイデオロギーに沿って演じ行動することを余儀なくされている〔とされています〕。

 

人々はそのイデオロギーに同意しているか否かに拘らず、それを演じなければならない。なぜなら、彼らの上に置かれた権力者たちが常に彼らを監視しているから。。このようにして、新歴史主義者たちにとって、万事は「権力」に帰着するのです。

 

中篇につづきます。