巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ポストモダン神学の諸類型(ミラード・J・エリクソン)

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ミラード・J・エリクソン著(宇田進〔監修〕/安黒務〔訳〕)『キリスト教神学 第1巻』より一部抜粋

 

純粋にポストモダン神学と見なされるものについて、〔デイヴィッド・レイ〕グリフィンは、以下のように指摘している。(David Ray Griffin, "Introduction: Varieties of Postmodern Theology," in Varieties of Postmodern Theology, ed. David Ray Griffin, William A. Beardslee, and Joe Holland (Albany: State University of New York Press, 1989), pp.1-7

 

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1. 脱構築あるいは排除的ポストモダン神学(Deconstructive or eliminative postmodern theology)は、脱構築主義者のデリダ、リオタール、フーコーのような、より急進的なポストモダニズムの哲学者の立場を受け入れる。この神学は、神のような伝統的な教理を取り除いたり、脱構築したりする。〔中略〕

 

2.建設的あるいは改訂的ポストモダン神学(Constructive or revisionary postmodern theology)は、伝統的世界観は保持できないということに同意するが、世界観は、さまざまな土台の上に、改訂された概念を用いて構成されるし、構成されなければならないと考える。〔中略〕

 

3.解放論的ポストモダン神学(Liberationist postmodern theology)は、世界観の基盤についての認識論的問題にほとんど関心を寄せず、社会構造の変革に、より大きな関心をもっている。ハーヴィ・コックスとともに、多くの「解放の神学」の信奉者たちが、このカテゴリーに分類される。

 

4.保守的あるいは再構成的ポストモダン神学(Conservative or restorative postmodern theology)は、相対主義、主観主義、還元主義のようなモダニズムがもつ多くの要素を拒否する。

 その一方で、実在論、真理論における対応説、言語の指示的理解、プレモダンの時代に見いだされる価値を維持しようとする。多くの点でプレモダン神学に類似しているが、モダンの時代の合理的な洞察や諸発見を受け入れる。

 グリフィンは、ローマ教皇ヨハネス・パウロ二世と、ジョージ・ウィリアム・ルトラーを、このアプローチのローマ・カトリックの代表者であると言っている。グリフィンは触れていないが、トーマス・オーデンは、このアプローチの顕著な代表者と思われる。

 保守的なプロテスタント神学者たちの間でも、多くの場合、相違点は、本書第5章で言及した翻訳者と改変者との間の相違に対応している。争点は、「福音主義神学の言明をポストモダンの文化にコンテクスチュライズ(文化脈化)するために、どれくらい修正しなければならないかということ」対、「神学する方法や神学の内容を実際に変更する」ということである。

 両者の実例が、『ポストモダン世界のキリスト教弁証学』という書物の中に見いだされる。ロジャー・ランディンは前者の部類を代表し、フィリップ・ケネソンは後者を代表している。

 

急進的ポストモダニズムに対する批判

同時に、我々は、極端なポストモダニズムに見られるある信念には抵抗しなければならない。我々がここで心に思い描いているのは、次のようなものである。

 

客観的な真理、歴史の包括的な理解、形而上学的実在論、言語の指示的使用、真理論における対応説といったことを否定する諸要素である。こうした主観的とも言える見解には特有の問題点があるし、脱構築の流行も、すでに下降線をたどっているようである。

 

文芸における脱構築、あるいはローティの反実在主義(anti-realism)の中心問題の一つは、何らかの一貫性をもって、その主張を維持することが難しいということである。脱構築はいろいろな人たちによって、それぞれがもっている課題を推し進めるために用いられてきた。

 

フェミニストは、自分たちが父権中心主義的なテキスト(paternalistic texts)と考えるものを脱構築し、マルクス主義者は、圧制に関するテキストについて脱構築を行なってきた。

 

しかし、ジェイムズ・サイヤーが指摘したように、「デリダとダマンが推奨した〈脱構築〉は、結果的に普遍的なものである。・・・どう解釈するかによるが、ニヒリズムは〈脱構築〉の正当な父親にもなり、あるいは摘出子にもなる。・・・いずれにせよ、フェミニズムもマルクス主義も、その辛辣さに対抗することができない。もしテキストにも権威がなく、どの物語にも〈真実性〉がないとしたら、どんなイデオロギーも、その根拠をもつことができない。」(James W. Sire, "On Being a Fool for Christ and an Idiot for Nobody: Logocentricity and Postmodernity," in Christian Apologetics in the Postmodern World, ed. Timothy R. Phillips and Dennis L. Okholm (Downers Grove, III.: InterVarsity, 1995), p.106.)

 

ここで言われているのは、もし脱構築が正しいとしたら脱構築自身もまた、脱構築されなければならないということである。もしも、そのテキストの中に意味が存在せず、解釈者が意味を生み出すとしたら、また、もしも、歴史家が歴史を作るとしたら、もしも、真理がある共同体にとっての善であるとするなら、そのときは、脱構築、ネオ・プラグマティズム、新しい歴史主義に対しても、これを適用しなければならない。

 

脱構築を唱導しつつ、同時に脱構築主義者であることは、非常に難しいことである。脱構築主義者に徹し、自らをそのような維持することは可能かもしれない。

 

しかし脱構築を他者に伝達し、その人がそのことを真実として受け入れるべきであると主張しようとするや否や、理論において公言しているものを実は、実践で否定することになる。なぜなら、行為というものは、言っていることの意味は話し手や書き手が意図する意味であり、そして、そこには、ほかの人も注目できるような共通の指示ポイントがあるということを自明のこととするからである。〔中略〕

 

合理主義が、意味と探求の可能性を制限してしまうため、ポストモダンが、モダン時代の合理主義を拒否したのは適当なことであり、望ましいことでもある。しかしこのことは、すべての合理性が必ず拒否されなければならないということを意味しているわけではない

 

実際、合理性のすべてを拒否して、意味のある思索や伝達に従事し続けるのは不可能なことである。プレモダンとモダンの両時代を特徴づけた合理性を強調することを拒否せずに、モダンの行き過ぎ、つまり啓蒙主義の時代から流れ出てきた独特の主張を確実に拒否することはできる。

 

ポストモダン神学がどうしても受け入れ、また利用しなければならない一つの洞察は、われわれがある特定の観点から研究と思索を行なっており、このことは、われわれの理解の範囲にある制約を設けているという事実である。これは、真理が相対的ではなく、絶対的なものであるという洞察である。だが、その真理についてのわれわれの知識は、われわれ自身の限界に制約されるため、しばしば相対的なものとなっている。

 

「真理」と「真理についての認識」との間にあるこの相違は、しばしば看過され、その結果、不幸な結果を招いてきた。基本的にプレモダンの人たち、批判精神が発展する時代以前の人々(precritical mind)は、啓示された真理の客観性を堅く信じているゆえに、その真理についての彼らの知識は、真理と同等であり、完全であるに違いないと考えてきた。

 

一方、後期モダンやポストモダンの方向性を保持する人々は、認識論において真であるものは、存在論においてもまた真であるに違いないと結論づけた。このアプローチによれば、もしわれわれの知識相対的であるとしたら、真理もやはり相対的であるにちがいないと判断される。しかしながら、これは結局、ある種の主観主義へ導くこととなる