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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

誰にでもわかるシンプルな聖書のみことばーーエヴァンジェリカル界に出現しつつある新種の祭司階級について

 

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「聖書は永遠の神のことばであって、あらゆる時代に対して、常に新しい力をもって語り、救いのための知恵を人々に与えることのできるものである」と新改訳聖書は〈あとがき〉の所で記しています。

 

それゆえに、神の敵であるサタンは「よし、それなら、救いのための知恵を人々に絶対に与えさせないぞ!」と、この2000年余りに渡り、ありとあらゆる方法で、御言葉を一般の人々から遠ざけようと死にもの狂いの努力をしてきました。

 

中世期には、聖書をラテン語から民衆の口語に翻訳することを禁じ、ただエリート階級の祭司たちだけに神の言葉を独占させるというやり方で、サタンは自らの策略を実行に移していました。例えば、1229年、トゥールーズという所でカトリック宗教会議が開催されましたが、その席で、次のような教会法規が発布されました。

 

一般人が、旧約および新約聖書を所持することを禁ずる。一般人が所持してよいのは、(礼拝用の)詩篇集、聖務日課書、聖母マリヤの小聖務日課書に限る。また、これらの書物を、自国語に訳してはならない(Colman J. Barry, ed., Readings in Church History (Westminster, 1985), 522

 

実際、現在でも時々私は、一部のギリシャ正教徒の方から、「私たち一般信徒が聖書を直接読むのはやはりおこがましく、また危険な行為だと思います。私たちは、祭司さまを介してこそ正しく聖書を理解することができるのです」と聞くことがあります。「祭司さまを介さなければ」「特定宗教団体の機関誌を介さなければ」といった理由づけは、他の宗派やセクトに多々みられるものです。

 

それでは私たちのエヴァンジェリカル界はどうでしょうか。私は、検証記事を訳していく過程で、一つの現実を認めざるを得ませんでした。それは、ヘブライ語やギリシャ語といった原語知識の鍵を「握っている」と思っている神学者たちによる一般人いじめの実態です。

 

最近では、日本語でも英語でもさまざまな逐語訳聖書がオンラインで公開されており、そのため、中世期のように、ラテン語聖書を盾に一般の人々を騙すことはもはやできなくなりました。

 

そこで一部の神学者たちは、自らの特異な聖書解釈を人々の頭に植えこむ方法として、原語いじりを始めました。私は彼らによる一連の行為を、「原語サーカス曲芸」と呼んでいます。曲芸師たちは、目の前にいる観客の大半が、原語知識をもっていないということを熟知した上で、舞台の前で、くるくると新奇な曲芸をしてみせます。

 

「この語はですね、ギリシャ語(or ヘブライ語)では実は○○という意味なんです。知りませんでした?しかも、かくかくしかじかの文法構造の元でこの語が用いられると、意味自体ががらっと変わってしまうんですよ。がらっとね。」

 

それを聴いている聴衆は、狐につままれたような感じでその説明を聞いています。「はたしてこの先生がおっしゃっていることは正しいのだろうか?」「本当に、原語では、この二語が同時に使われると、意味ががらっと変わってしまうのだろうか?」

 

でも、こちら側に原語の知識がなければ、その真偽をどうやって確かめることができるというのでしょう?相手は、とにもかくにも原語に通じている聖書学者なのですから!こうして、(一般信徒からの鋭い反論を受けにくい)原語解釈の領域は、曲芸師たちの独擅場と化し、こうして、信じがたいレベルでの曲解や陰険な闇の働きが横行する結果を生みだしています。

 

しかしそれは裏を返せば、こういった人々の新しい原語解釈なしに、私たち信徒が、シンプルに聖書を読み、その意味を理解する事はもはやできないという主張に他ならないのではないでしょうか。

 

エホバの証人の聖書解釈に「ものみの塔」の雑誌が必須であり、モルモン教徒の聖書解釈に「モルモン経典」が必須であるごとく、プロテスタント教会にも、聖書原語を「正しく」新解釈してくれる新種の祭司階級が必須となる時代が到来したのでしょうか。そうすると、どうでしょう。「万人祭司説」、「聖書のみ」であるはずのプロテスタント宗教改革は、ここにきてついに自家撞着を起こし、外部からの破壊ではなく、むしろこういった「内部浸食」の弊害により、改革前の《暗黒時代》に逆行してしまう危険性さえあるのではないでしょうか。

 

今年は、宗教改革500周年の年です。この年が、信仰の先人たちが闘い、勝ち取り、保持してきた聖書の教え一つ一つを見つめ直す、振り返りと刷新の年となるよう、私は祈っています。

 

最後になりますが、ルターの訳した口語ドイツ語による翻訳聖書が十全性をもった神の言葉であり、そして、アレクサンドリアで訳された七十人訳翻訳聖書が、イエスさまや使徒たちによっても用いられた十全性をもつ神の言葉であったように、私たちの日々読んでいる逐語訳日本語聖書もまた、十全性をもち、聖霊の照らしによって誰にでも理解できる永遠の神の言葉であることを、みなさんと共にここに宣言したいと思います。アーメン。