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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ポスト近代と福音主義フェミニズム(スティーブ・ゴールデン)

ポストモダニズムと聖書の真理 キリスト教リベラリズムの形態 知ることについて(epistemology)

 

 

Steve Golden, Feminism, The Influence of Postmodernism, March, 2013より抄訳

福音主義フェミニズムと聖書的権威(Evangelical Feminism and Biblical Authority)

このシリーズで取り扱ってきたその他のポストモダン思想と同様、フェミニスト理論もまた、各種の「小前提(assumptions)」と個人的アジェンダを基に稼働しています。

 

ウェストモント大学の聖書学教授トレンパー・ロングマン、そしてビオロゴスの元上級研究員ピーター・エンズが、次のように、フェミニスト聖書解釈について説明しています。

 

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 Tremper Longman

その本質そのものにおいて、フェミニスト解釈は、多元主義的です。つまり、そこに正しい/間違った読み方というのは存在していません。それゆえ、フェミニスト論者たちは同じ聖句であっても相互に異なり、相矛盾する読み方を推奨することもあるわけです。さらに、フェミニスト聖書解釈の出発点というのは、聖書本文それ自体にあるのではなくフェミニズムへの利害・関心から始まっています

Dictionary of the Old Testament, ed. Tremper Longman III and Peter Enns (Downers Grove, Illinois: InterVarsity Press, 2008), s.v. “feminist interpretation.”

 

こういった思想、どこかで聞いたことありませんか?出発点が聖書にあるのではなく、「正しい読み方も、間違った読み方も存在しない」・・・換言すれば、フェミニスト批評を突き動かしている原動力はパーソナル・アジェンダにあるということです。ロングマンとエンズは続けて、そのアジェンダの概要を次のようにまとめています。

 

 文明史の中にあって、女性たちがこれまで、周縁化され、権威や影響力ある立場へのアクセスを拒まれてきたという認識に立ち、フェミニスト学者たちは、支配を正当化しようとしてきた男たち、ないしは従属することによりそれを奨励してきたところの女たちの連座・共謀という一連のストラテジーを暴き出すよう努めています。

 そして「聖書における特定の事例の中には、聖書が、主として『男たちにより、男たちのために造り出されたものである』ことを示す多大な証拠がある、と彼らはみています。

Dictionary of the Old Testament, ed. Tremper Longman III and Peter Enns (Downers Grove, Illinois: InterVarsity Press, 2008), s.v. “feminist interpretation.”

 

実際、フェミニスト陣営にいる多くの人が、歴史自体が、生来的に女性に対する偏見に基づいて書かれていると信じています。そして聖書が「男たちのために男たちによって」書かれたものであるのと同様、歴史もまた、男たちに益をもたらすために男たちによって書かれたのだと論じています。

 

福音主義フェミニズムと権力(Evangelical Feminism and Power)

脱構築(déconstruction)や新歴史主義(new historicism)と同様、フェミニスト理論もまた、権力やそれがどのように二項対立(<脱構築理論の創始者であるジャック・デリダが取り組んでいたテーマ)と関わっているかに関心をもっています。

 

実際、脱構築や新歴史主義の諸要素は、フェミニスト・イデオロギーに顕在しています。その理由はおそらく、ここ数十年に渡り、アカデミズムに多大な影響を及ぼしてきたジャック・デリダ、ミッシェル・フーコー、その他の著名なポスト近代論者たちが皆一様に、その著作群の中で、ポスト構造主義的見方を打ち出していたからではないかと考えられます。

 

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Jacques Derrida

 

ポスト構造主義というのは、デリダやフーコーといったフランスの哲学者たちによって提唱され、1960年代から70年代にかけ一世を風靡した思想です。

 

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Michel Foucault

 

彼らの著作にはいくつか類似のテーマがあります。例えば、「言葉の中には、固定された意味とか固有(内在)の意味とかいったものは存在しない。」「男性/女性といった二項対立は、社会的に構築されたものに過ぎず(つまり、この男女という二項対立は、時の経過とともに発展してはきたけれども、本質からは確定され得ないものであり)、そういうものは、人々の上に権力を行使すべく構築されたものである。」といったものです。

 

そして、こういった思想は、フェミニスト理論に不可欠であるだけでなく、同性愛理論やジェンダー学にとっても不可欠のものです。

 

福音主義フェミニズムにおける力関係の中心課題は、結婚の中における聖書的ジェンダー役割についてです。ここでもまた、夫/妻という二項対立が鍵となります。なぜなら、フェミニストは、夫を支配的にし、妻を被抑圧者としむけるような社会的構築の存在を、聖書の中に見ようとするからです。そして、ポスト近代主義者の観点からみれば、家庭の中の男性かしら性という聖書的思想は、単にパワー・プレーであるに過ぎないのです。

 

結語

福音主義フェミニスト(そしてフェミニズム一般)にとり、夫/妻の関係における主要な懸念は、権力です。これまでラディカル・フェミニズムが「恭順(submission)」という語に、きわめて否定的な意味合いを持たせようと働いてきましたので、現在、この語は、キリスト者たちを含め、社会の大部分において、あからさまに回避されています。

 

言葉の中に内在的意味が存在しないというフェミニズムの見解により、「夫」とか「妻」とかいった称号も事実上、無意味化されますので、それによって、家庭内における権力再配分がずっと容易にできるようになります。

 

言葉を額面通りに受け取ることは不可能であるという、こういう思想からの影響は、〔上述したミミ・ハダッドギルバート・ビレズィキアンといった〕C.B.E(Christians for Biblical Equality)の学者たちの聖書解釈の中に反映されています。