巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「神の義」と「人の義」――女性牧師問題に関しての個人的所感

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ある人々は、女性牧師を認めないことは、周縁化(marginalized)され、疎んじられている弱者に対するある種の「差別行為」だと受け取っておられます。次のような声明文がそのことをよく表現しています。

 

「私たちは、イエス・キリストが差別されている人たちの解放を願って祈り行動したように、〔某教団〕が、女性指導者の必要性を認め、私たち、、の祈りに応えて下さり、、女性牧師を受け入れるよう祈りつつ声明します。」

 

しかしながら、私は思うのです。現在、キリスト教界の中で最も「周縁化」され、激しい「差別」の対象になっている第一人者は、私たちの神ご自身をおいて他に誰もいないのではないかと。

 

神は全権を掌握しておられる主権者なる方ですから、この方に「権利」ということばは本来付随しませんが、それでもあえて今、この言葉を使わせていただきますと、現在、私たちの神、そしてロゴスなる主イエス・キリストほど、「人権蹂躙(神権蹂躙)」され、「名誉棄損」の痛みに苦しんでおられる方はどこにもいないと思います。

 

「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23b)。

 

「イエス・キリストが『差別されている人たちの解放』を願って祈り行動したように、これまで差別され周縁化されてきた弱者なる女性たちを牧師として受け入れるべきだ」という大義は、この世の大義であり、「人の義」ではあっても、「神の義」ではないと私は考えます。

 

そして、キリスト教会内で、この両者が巧妙に入れ替わる時、人のことを思う善と義が、「神の義」を押しのけて王座に就き、こうしてロゴスの支配ではなく、人の義による支配、つまりヒューマニズムによる支配が、神ご自身を「周縁化」「差別化」させるべく働いてきます。

 

神の義は、偽りなき神の言葉である聖書に啓示されており、そして、この聖書がはっきりと女性牧師を非聖書的だと定めています(検証記事一覧表はココ。人のことを思う私たちの善も義も、それらはすべてまず、十字架を通り、死に渡され、そして主による復活の内にある「神の義」にconquer(征服)される必要があると信じます。