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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神への恐れ(J・グレシャム・メイチェン)

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J・グレシャム・メイチェン (1881-1937)

Gresham Machen, The Fear of God(全訳)

 

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10:28)

 

これはジョナサン・エドワーズの語った言葉ではない。コットン・マサーの言葉でもなく、カルヴァンやアウグスティヌスやパウロの語った言葉でもない。これはイエスの語った言葉である。

 

そして福音書の中にある上記の言葉と類似の他の多くのみことばと合わせて鑑みるに、近年、新しく構築されつつある「イエス像」が全くの虚偽・虚構であることが明らかになるのだ。先日、エルウッドによる人気の信仰書『宗教の再構築』を読んでいて、「イエスご自身は、死後の人生についてほとんど考えておられなかった」という著者の驚くベき主張に出くわした。

 

このような主張を眼前にし、歴史を学ぶ学徒ならば誰でも驚愕の念を禁じ得ないだろう。もしかすると我々自身は死後の人生についての教理をさほど重んじていないのかもしれない。しかしイエスがそうであったのか否かという問いは、趣向の問題ではなく、歴史的問いであり、この問いは、歴史的資料の吟味という基盤の上にのみ解答を得られ得るものである。そしてその資料とは、われわれが福音書と呼ぶところのものである。

 

そしてもしあなたがこの問いに答えたいのなら、私がやった事をあなたもするようお勧めする。そう、シンプルに福音書を初めから終わりまで読み通し、イエスが死後の人生における祝福と災いについて語っている聖句を書き留めていくのである。

 

その結果、あなたは驚くことになるかもしれない。いや、もしもあなたが、――今日、キリスト教文学に溢れているイエスの虚像によってほんの僅かにでも影響を受けてきたのなら、間違いなく驚くだろう。

 

なぜと言うに、イエスが、天国に関することだけでなく、地獄に関することも一貫して教えておられることにあなたは直面するからだ。それは四福音書全部に顕れており、――福音書の根柢をなすといわれ、正か誤か、近代批評学により再構築されているところの――諸資料の内にも顕れている。それはどんな批評過程によっても取り除くことのできない要素であり、イエスの教えおよび生涯全体に満ちているものである。

 

またそれは最も特徴的なイエスの譬えの中にも一貫して存在するものである。――金持ちとラザロのあの厳粛な譬え、不正な管理人、ミナの譬え、タラントの譬え、毒麦の譬え、邪悪なしもべ、王の息子の婚宴、10人の乙女の譬え等。

 

そしてその他のイエスの教えの中においてもそれは等しく顕著である。マタイ25章の裁きの場面は、福音書の至る所に見い出されるものの一つの頂点にすぎない。「こうして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の命に入るであろう」(マタイ25:46)。それゆえ、他の数々のイエスの言葉の中にあって、この聖句になにか特異なものは全く存在しない。

 

この世の宗教の支持のために利用し得なかった宗教教師がかつて存在したとするなら、そして、この世を永遠の観点で見ていた教師がかつて存在したとするなら、それはナザレのイエスを他において誰もいない。

 

こういった諸聖句およびこれに類似する厖大な他の聖句は、福音書の中の至るところに織り込まれている。私の知る限り、もっとも急進的批評でさえも、イエスの教えの中のこの要素を取り除こうとはしなかった。

 

しかし印象的なのは死後の人生についてのイエスの教えの多さだけではない。それにも増して印象的なのはその教えの性質・特徴そのものである。それは福音書の中の「無用の長物」としてではなく、またそれを除去したところで依然として残りの教えが損なわれないような――そのような代物として存在してはいない。

 

もし聖書の中のこの要素が取り除かれたら、何が残るのだろう?当然、福音は残らないし、イエスの救いの御業という良き知らせも残らない。なぜなら、これは永遠の命と死という上述の事がらに関することだからである。

 

いや、それだけではない。イエスの倫理的教えでさえも残らないのだ。「イエスは倫理から神学を引き離した」あるいは「もしも我々が、神や裁きについてのイエスの信条や、邪悪な者たちのための死後の災い/正しい者たちのための死後の祝福といった主の神学を取り除いたとしても、主の倫理的教えは損なわれない」と思い込むほど大きな間違いは他に存在しない。

 

その反対に、イエスの倫理の驚くべき深刻さは、神の裁きの座についての絶えざる思想に基づいているのである。「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である」(マタイ5:29)。

 

こういった言葉は、イエスの教え全てを貫く特徴であり、主の掟の驚くべき深刻さは、永遠の至福か災いかという二択と深く関わっているのである。そしてこの二択こそ、人間の内に恐れの念を生じさせるべくイエスがお用いになったものである。「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」

 

そしてルカも類似のイエスの言葉を記録している。「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい」(ルカ12:4,5)

 

キリスト教から「恐れ」というのは払拭されなければならないと私たちに説く人々がいる。曰く、われわれは「地獄への恐れ」などというものをもはや心に抱くべきではない。恐れとは、卑しく恥ずべきものであると。このように言う人々は当然、自らの主張をイエスに訴える権利を何ら持ち合わせてはいない。なぜなら、イエスご自身、粘り強く、恐れという動機をお用いになり、それを語っておられたからである。

 

もしもあなたがキリスト教からこの動機を回避し、除き去ろうとするなら、その時、あなたはイエスご自身に対し矛盾した態度をとっていることになるのである。

 

他の多くの点と同様、ここにおいてもわれわれは選択を迫られる。―真のイエスを選ぶか、それとも今日単に主の名前を帯びただけの「虚像」を選ぶか、その二択である。しかるに、いったいそのどちらが正しいのだろう。イエスが正しいのか、それとも地獄の恐れを頭から締め出した彼らが正しいのか?恐れというのは全くもって卑しく恥ずべきものなのだろうか。恐れるという行為により、人は不可避的に劣化するのだろうか。

 

友よ、全ては、われわれがどちらを恐れるかにかかっているのだ。この聖句は、恐れに対する厳粛なる教示であると同時にまた、恐れに対する明々白々な非難でもある。つまり、「この方を恐れよ」は、「(彼らを)恐れるな」と均衡を保っているのである。

 

「神への恐れ」は、ここで「人への恐れを克服する道」となっている。そしてキリスト教史において勇敢な信仰者たちを輩出した時代が、その効能を如実に物語り、また証言している。神への恐れに満たされ、信仰の英雄たちは、王や支配者たちの前に立ち、大胆にこう宣言できたのである。「我、ここに立つ。私はこうするより他ない。神よ、我を助けたまえ!アーメン。」

 

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人の手による拘束や死を恐れることは確かに卑しく恥ずべきことである。またこの世の権力を行使し義人を抑圧しようとする者たちを恐れることも確かに卑しく恥ずべきことである。そうなっては神への恐れさえも堕落したものとなってしまうかもしれない。それら一切のことはひとえに、どのような「存在」をあなたが神として捉えているかにかかっているのだ。もしあなたが神を、あなた自身のような存在としてしか考えていないのなら、神に対するあなたの恐れは、堕落したものにならざるを得ない。

 

もしあなたが神のことを気まぐれな独裁者であり自らの造った被造物に嫉妬心を抱いているような者だと考えているのなら、あなたはキャリバンの卑屈な恐れのレベルから決して這い上がることはできないだろう。(訳者注:キャリバン:シェイクスピアのThe Tempestに登場する醜い野蛮な怪物で、Prosperoの奴隷。)

 

しかしもしもあなたが宇宙のあらゆる倫理秩序の源である方の臨在の内に立つなら、その時、話は全然違ってくる。園の中を神がこちらに向かって歩いてこられ、あなたにはもはや一切の弁解の余地がない時、話はまったく違ってくる。そして小賢しい数々の欺きがはがれ落ち、あなたが全く無力なあり様で、義なる神の裁きの座の前に立つ時、話はまったく違ってくる。

 

そして他の人たちの罪ではなく、あなた自身の犯してきた数々の罪が裁かれるその時、話はまったく違ってくる。友よ、私たちは本当に神の裁きの座の前に来、自らの「正しさ」の上に恐れなく立つことができるだろうか。

 

私たちは本当に、ウィリアム・ヘンリーと共にかの有名な句を復唱することができるだろうか?「私を覆う漆黒の夜/鉄格子にひそむ奈落の闇/私はあらゆる神に感謝する/我が魂が征服されぬことを。」もしくはこの句を。「門がいかに狭かろうと/いかなる罰に苦しめられようと/私が我が運命の支配者/私が我が魂の指揮官なのだ」〔"Invictus ," William Ernest Henley〕と?

 

これが恐れを克服する道なのだろうか?全くもって「否」である。こういった言葉は、事実に向き合わずそれを無視するという―偽装した臆病さ―によってのみ復唱可能であろう。事実、われわれの魂は「征服されぬ」ものではない。そしてわれわれは自らの運命の支配者でもなく、魂の指揮官でもない。

 

多くの人間は、初めのうち、自分の犯した不潔な行為を思い、ぞっとする思いでこう言うのだ。「ああ、こんなことをする自分とは犬か何かではないか?」しかしそうこうするうちに、彼はいとも容易に穴に落ちてゆき、次第にその倫理的性質が弱体化してゆき、昨日までは身の毛もよだつように恐ろしく不快に思われていたものが今日にはなにか弁解可能なもののように思われてくるのだ。こうしてついにある悲哀の時、―そう、自分の犯した罪の恐ろしさへの記憶が未だ脳裏にある中―、彼はすでに自分が泥沼の中に落ち込み、そこで転げ回っているという惨状に気づき愕然とするのである。

 

それが罪より来たる恐ろしい硬化である。地上での人生においてすら、われわれは、己の運命の支配者ではない。そして自分自身の肉体の指揮官でないばかりか、おそらくは自分の魂の指揮官でさえないだろう。

 

そこに現存する事実を無視した上で、恐れを克服しようと努めるのは、みじめな臆病、それに他ならない。「われわれは自らの運命の支配者だ」と言うことで、運命の支配者になれるわけではない。こういった高慢のから騒ぎは、実際、無益なのであるが、その無益性の中にあってさえ高尚とは言い難い。気まぐれな独裁者に反抗するのはあるいは高尚なことかもしれないが、神の倫理的掟に対し反抗を企てるのは高尚なことではない。

 

それならば、私たちは永遠に恐れの奴隷であり続けなければならないのだろうか。われわれ罪びとは、ただ裁きと憤怒を震えながら待つより他に道はないのだろうか。「否!」イエスはそう宣言すべくこの地上に来られた。主はわれわれを恐れから解放するためにやって来られたのである。

 

但し、主は、歴然たる事実を隠した上でそうするような事はなさらなかった。罪と協定を結ぶような、そのような「ご愛想の良い」偽りの神像を描いたりはされなかった。主はまた、人間の能力についての巧言令色な幻想を人々に信じ込ませようともされなかった。

 

イエスは神聖なる「義の領域」を去った上で、それに対抗するものとしての「愛の領域」をお建てになったのではない。そうではなく、主はご自身の贖いのわざにより、この世に統一性と一致をもたらされたのである。彼の死は神聖なる義を廃棄するためではなかった。それは神の義を満足させ、私たちを神と和解させるための死であったのだ。

 

人としてこの世に在った時、主はそのご行為を指し示しておられた。そう、主は後に来る御約束により、人の信頼に訴えかけていたのだ。私たちは今、そのようにしてすでになされた御業を振り返るのである。われわれの喜びは、すでに成し遂げられ得られたその救いの内にある。そしてわれわれの誇りはただ十字架の内にのみある。

 

キリスト者もまた神を恐れなければならない。しかしそれは別の種類の恐れ、つまり、キリストの内にもし、いなかったとしたらわれわれに何が待ち受けているのだろうという恐れである。そのような恐れなしに、真の愛は存在し得ない。なぜなら、救い主の愛は、われわれ人間が一体何から(どこから)救われたのかというそのおぞましい恐怖に比例するからである。そして、ああ、そのような愛に満たされた人生のなんという力強さよ!そういった信仰者たちの人生が勇猛であるのは、人生の現実をなおざりにしているからではなく、初めの時点でそれらが対峙されたからなのである。神の恵みという堅固な土台の上に建てられた人生。ああ、そのような人生がわれわれの生の歩みとならんことを!

 

全き愛は恐れを締め出す。しかし仮に恐れを締め出したのがわれわれの愛であった場合にも、その愛とは、神の愛なる御業に対するわれわれの応答の表れであるにすぎない。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(1ヨハネ4:10)。

 

そしてここにおいて我々は恐れの頂点と同時にまたその変質をみるのである。そう、イエスは仰せられたのだ。「だから人の前でわたしを受け入れる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受け入れるであろう」(マタイ10:32)と!