巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「1テモテ2:12の『許しません』は現在形動詞であり、一時的な命令であることを示しています。よって、ここは『私は今この時・・許していないのです』と訳してしかるべきです」という主張はどうでしょうか。【キリスト教リベラリズムの脅威】

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Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 8

 

この対等主義見解は次のようになっています。

 

「ここでのパウロの命令は一時的なものであった。なぜなら、その当時、エペソでは何か普通でない状況が発生していた。おそらく、多くの女性が先陣を切り、偽りの教えを説いていたのだろう。そういった普通でない状況ゆえに、パウロは一時的に『私は、女が教えたり、男を支配したりすることを許しません。』と命じた。しかしその掟というのは、あくまで一時的な性質のものである。よって、この掟は今日の私たちには適用されない。」

 

ギルバート・ビレジィキアンの見解がこの見方を代表しています。

 

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「私は・・許しません」の現在形が、「私は、今この時・・許していない」という効力を持つものであるという事をすでに学者たちが指摘しています。しかしこういった女性たちが、委任された教師たちの前に静かに座り、きちんと教えを受けることを学んだ後には、そして、彼女たちが、「慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保ち」続けるなら、その時にはもう、彼女たちが教師になる事を阻むものは何も残っていません。Bilezikian, Beyond Sex Roles, 180.

 

筆者注:この立場を最初に提唱したのは、ドン・ウィリアムだと思われます。Don William, The Apostle Paul and Women in the Church, 112. またサムナーも同様の見解を述べています。Sumner, Men and Women in the Church, 240.)

 

同様に、ゴードン・フィーも、12節は、「私は今、許していない("I am not permitting")」と訳すのがベストだと述べています。フィーによれば、この節は、「この〔特定〕状況に対する特定の指示」を意味しているということです。(Fee, 1 and 2 Timothy, Titus, 72.)

 

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リチャード&キャサリン・クローガーも同様のことを言っています。「ここの現在形動詞はまた、パウロの命令が『書簡が書かれた同時代の状況』に関わるものであったことを示しています。」(R.and C. Kroeger, I Suffer Not a Woman, 83. それからBrown, Women Ministers, 296も参照。)

 

回答1.

パウロが掟の中でどのように現在形を使っているのかについて、この立場の人々は解釈を誤っています。

 

クレッグ・ブラムベルグは、「許す」というパウロの使った現在形動詞について、正当にも次のような指摘をしています。

 

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Craig L.Blomberg

この現在形は、パウロが一時的な禁令を出しているということを示してはいません。これは格言的指示を出す際の、時代を超越した、ないしは金言的な意味においてしばし用いられています。」Craig Blomberg, "Neither Hierarchicalist nor Egalitarian: Gender Roles in Paul," in Beck and Blomberg, Two Views on Women in Ministry, 361.

 

また、トーマス・シュライナーは、パウロの諸指示についての有益な研究をしました。

 

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Thomas Schreiner

 

そして(現在形動詞が使われている)パウロのその他の命令の型を研究し、その上で上記のような対等主義見解が弁明不可能であるということを実証しました。(シュライナーが研究の対象にしたのは、直説法現在の動詞であり、これは12節の epitrepo〔直説法現在〕に対応しています。)Schreiner, "Interpretation of 1 Timothy 2:9-15," 125-27.

 

1.テモテ2:1

「そこで、まず初めに、このことを勧めます(παρακαλῶ, parakalō、直説法現在)。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」

 (*ここの聖句は、「私は今、一時的にあなたがたが祈るよう勧めます。しかし、この指示は将来的な状況や後の時代の人々には何ら関連しないものです」という意味ではありません。)

 

2.ローマ12:1

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします(παρακαλῶ, parakalō、直説法現在)。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

(*この聖句は、「ローマにいる聖徒のみなさん、私は今、この特定状況において一時的に、あなたがたが自分のからだを生きた供え物として捧げるようお願いします。しかしこの掟は、後の時代や未来の世代には適用されないものです。」とは言っていません。)

 

3.1コリント4:16

「ですから、私はあなたがたに勧めます(παρακαλῶ, parakalō、直説法現在)。どうか、私にならう者となってください。」(*一時的な命令ではありません。)

 

4.エペソ4:1

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます(παρακαλῶ, parakalō、直説法現在)。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」(*これも一時的な命令ではありません。)

 

5.テトス3:8

「これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています(βούλομαι,boulomai)。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」(*これも一時的な命令ではありません。)

 

シュライナーは他にも例を挙げていますが(同著,p126)、要点はもうこれで明らかになったと思います。

 

「現在形だから」とか、「『私は・・許さない』とパウロは一人称を使っているから」といった理由づけによって、この聖句が一時的命令であると結論づけることはできないのです。そういった主張は、パウロの掟の中で使われているギリシャ語現在形動詞の語用に対する誤解です。

 

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もちろん、パウロは特定の諸状況に対し書簡を書いています。しかし聖書は神の言葉であると信じる私たちキリスト者はこれまで正当にも、これらの諸聖句をどの時代のどのクリスチャンにも適用されるべき掟だと理解してきました。しかし、もしも私たちがこれを否定するなら、それは新約聖書の多くの掟の否定へとつながっていきます。

 

回答2.

こういった議論により、近い将来、人々は新約聖書の他の多くの掟をも言い逃れするようになっていくでしょう。他の主張においてもそうですが、本記事の議論においても、対等主義の人々は、私たちクリスチャンが実生活の中で次第に聖書の権威を無効にしていくような――そのような聖書解釈のプロセスを辿っています。

 

おそらく、こういった対等主義見解の内に潜んでいる危険性というのは、すぐには顕在化してこないかもしれません。しかしながら、新約書簡というものが(多くの場合において)特定の諸教会に対する個人的書簡であることを鑑みる時、私たちは次の事実に気づくのです。

 

つまり、「これはただ、その当時のその状況におけるパウロの一時的な掟に過ぎなかったんだ」とか「これは単にパウロの趣向であって、今日の私たちに適用されるべき永続的掟ではない」といった読み方によって、新約聖書のどれほど多くの部分が現在、脅威にさらされているのかということです。

 

パウロ書簡の中だけでも、彼は「私」という主語を約760回使っています。(もっともこれは英語のESV訳による統計結果であって、ギリシャ語原典でのリサーチではありません。ギリシャ語では人称代名詞の「私(εγω)」は省略されることがしばしあります。また、(これもESV訳による統計ですが)パウロは「私に(me)」という語を183回使っています。さらに、パウロは時折、彼自身のことを「私たち」とも表現しています。)こういった掟の個人的性質を理由にこれらを「一時的なもの」と片付けたり、今日の私たちに対する権威を無効にするような議論を繰り広げることは、大部分のパウロ書簡の権威それ自体に疑問を投げかける行為です。

 

同様に、ペテロは自分の書いた書簡全体について次のように言及しています。「私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししましたπαρακαλῶν καὶ ἐπιμαρτυρῶν、両者とも不変化詞現在であり、ペテロが書簡の中で何をしているのかを説明しています。〕」(1ペテロ5:12)。

 

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そしてもちろん、私たちとしては、1ペテロの手紙全体を、「これは古代の特定状況にだけ適用される一時的な掟なのです」と片付けることはできません!しかしながら対等主義の人々の使っているそういった手法は、時をおかずして、そのような拒絶へと人々を導いていくでしょう。そしてこの線上において、大半の新約聖書の権威は軽んじられていくでしょう

 

もし私たちが、使徒たちによって出された新約の掟の長い目録を作った上で、一人称で現在形動詞で書かれた掟(例:「私は・・命じる」「私は・・勧告する」「私は・・許さない」)を片っ端からカットしていくなら、結局、新約の掟のほとんどを削除する結果につながるでしょう。

 

一連のこうした対等主義議論の手法は、教会の中における男女の役割に関し、私たちを誤った結論に導くばかりか、私たちの信仰生活における「御言葉の権威そのもの」を弱体化させるべく脅威を与えるものです