巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

1コリント11章「祈りのベール」問答①:適切な髪の長さは、「自然」ではなく、「文化」によって規定されるのでしょうか?

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Jeremy Gardiner, Are Appropriate Hair Lengths Dictated by Culture?

 

反論:適切な髪の長さは、「自然(nature)」によって規定されるのではなく、「文化」によって規定されるのです。ネイティブ・アメリカンのように、多くの文化圏では、男性の長い髪というのは、規範的なこととされています。ですからパウロが「自然」と言う時、彼はそれを、その当時の人々にとって適切だと考えられていた文化的理解に訴えていたのです。

 

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男性の長髪を「不自然」と呼ぶことに対する反論の一つに、「多くの文化圏では、男性の長髪は無礼なものと捉えられてはいない」というものがあります。そしてそこでよく引き合いに出されるのが、長髪にしているアメリカ先住民の男性たちです。

 

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そして反論される方々は言います。「このように男性の長髪が容認されている文化圏だってあるのです。それなのに、どうして『自然』は逆のことを教えている、などと言えるでしょう?」

 

自らの目に正しいと見えるもの

まず、大切な点は、「ある文化が何かを受容しているからといって、それが正しいとは限らない」ということです。中国のモソ族などがその良い例だと思います。というのも、この民族において、家長は女性だからです。

 

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      モソ族(中国)

 

彼ら自身の目にそれは正しい事のように映っているのかもしれませんが、これは元々神がご計画されたあり方ではありません。それは神の創造の秩序のをいくものです。(1 コリント11:3)

 

男性の長髪は恥ずべきものだったのでしょうか? 

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     クリスチャン・ロックバンド Stryper

 

またもう一つ別の誤解もあります。それは、パウロの生きていた当時の文化に対する誤った見解です。

 

1コリ11:14でパウロが男性の長髪のことを「恥ずべきもの(dishonorable)」と述べていることから、髪の長さについて文化的見解を持っている人々は、「ああ、当時、男性の長髪は、恥ずべきものとみなされていたんだな」と思い込んでおられます。しかしながら、こういった見解の問題点は――堅実な歴史資料自体はそれとは別のことを証している――という点にあります。

 

シンティア・L・トンプソン(イエール大Ph.D)は、聖書考古学の著作の中で、ディオ=クリュソストモス(AD40-115)を引用しつつ、男性が短髪にすることに関し、当時、顕著な例外が存在していた事実を示しています。

 

 図象学(iconography)でも認証されるように、パウロは当時の一般的なギリシャ・ローマの慣習と調和していました。

 しかしながら――普遍的な意味における「自然(φύσις)」を根拠にした――「男性は髪を短くしなさい」というパウロの教えに関してですが、パウロはここでいくつかの重要な例外を度外視して言っています。そういった諸例外については、ギリシャ語の素養のあるローマ市民であった彼は知っていたに違いありません。 

Hairstyles, Head-coverings, and St. Paul: Portraits from Roman Corinth, by Cynthia L. Thompson (Biblical Archaeologist, June 1988) p104

 

さらにトンプソン氏は続けて言っています。

  

「哲学者、祭司、農民、未開人たちは、男の短髪という規則から外れた例外者である」ということを、ディオ=クリュソストモスが述べています。ディオは、著書の中で、「長髪」と「倫理的優位性」を一つに結びつけたがっている当時の哲学者たちのことを批判しつつ次のように言っています。

 「私は今でも次のように考えている。――つまり、長髪 [koman]は、美徳のしるしとして捉えるべきでは絶対ない、ということである。

 多くの人間は、なにがしかの神性ゆえに、髪を長髪にしている。一方、哲学用語など一語だって聞いたことのない農民たちも、髪を伸ばしている。またゼウスにより、異邦人たちの大半も長髪にしている。――ある者は覆いのために、またある者は「長髪が似合う」と自分で思い込んでいるがゆえに。そして、いずれの場合にしても、長髪の人が憎悪や愚弄の対象になることは全くない。」(同著 p104)

 

クリュソストモスはここで、当時、長髪の男性が多く存在していたこと、そしてそういった彼らの存在が、「憎悪や愚弄の対象となることなかった」ということを言っています。つまり、それは「普通のことだった」ということです。それだけでなく、――長髪を、「美徳のしるし」と考えていたと言う通り――彼らは既存社会への反抗のしるしに髪を伸ばしていたわけでもなかったのです。

 

この点は非常に重要です。というのも、文化的議論を推し進める人々は、「パウロの生きていた当時のコリントは、この問題に関し、現代の西洋世界とはまったく異なる見解を持っていた」と考えているからです。そしてこういった人々は次のように言っています。

 

「当時の文化において、男性が長髪姿で歩こうものなら、人々はびっくり仰天、公の場におけるその恥ずべき姿に、驚きの余り口をあんぐり開けショックを受けていたはずです。」

 

しかしご一緒に検証してきました通り、そういった描写は、史実とまったくかみ合っていません。

 

②に続きます。

  

参考になる証(昔、長髪だった牧師さんの証です。):