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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ポスト近代におけるキリスト教弁証への召命

 

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「兄弟たち、父たちよ、いま申し上げるわたしの弁明を聞いていただきたい」(使徒22:1)

Ἄνδρες ἀδελφοὶ καὶ πατέρες, ἀκούσατέ μου τῆς πρὸς ὑμᾶς νυνὶ ἀπολογίας.

 

Apologetics(弁証)という言葉は、απολογουμαι(<απο, 強意+λογος, 言葉 / apologeomai, 弁明する)というギリシャ語動詞の名詞形 απολογια(apologia, 弁明、言い開き、弁護)という語に由来しています。ニカイア公会議以前に書かれた教父たちの著述(キリスト教教父著作集全22巻〈教文館〉)の内、実に8割以上が、キリスト教教理の弁証および異端論駁に当てられているという事実からも、その働きの重大性をうかがい知ることができると思います。

 

(以下、自ブログ「地の果てまで福音を」から一部再掲載)

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今日、真理は余りにも曖昧にされている。その一方で、数々の嘘が、頑丈にも打ち建てられている。だから、私たちが努めて真理を愛そうとしない限り、真理はけっして見いだされないだろう。

パスカル(1623~1662)

 

Albert Mohler, “You Are Bringing Strange Things to Our Ears”: Christian Apologetics for a Postmodern Age (here)

 

人類史におけるこの重要な転換期に、今日私たちクリスチャンは、キリストのために立ち上がるよう召されています。現在、真理についてのリアリティー自体が否定されています。

 

ポストモダンの現代人は、「それがはたして真理であるか否か」ではなく、ただ単に「それに意味があるのか否か」で物事を判断するようになっており、あたかも新しいトレンドの服を追うように、迅速かつ手軽に世界観を変えていっています。このように非常に不可解な時勢にあって、私たちクリスチャンは自分たちの信仰を証し、また擁護していくよう召されているのです。

 

伝道というのも困難です。なぜかというと、ほとんどの人が、「自分の根本的問題は、セルフ・イメージの低さにある」と思い、「個人的選択というものこそ、市場(marketplace)において全てを決定するリアリティーだ」と考えているような時代に私たちは生きているからです。

 

また、「弁証(apologetics)」という責務も、こういう状況下にあって、複雑なものになっています。というのも、真理に関して、どんな決断をも下したがろうとしない人々を前に、いかにして信仰を擁護していくことができるというのでしょう?

 

非常にリアルな意味において、信仰の擁護は今、厳しい局面に立たされています。リベラル諸教派は、モダニティーをすっかり迎合し切っている状態にあるため、実質上、彼らにはもはや「守るべき・擁護すべき」何ものも残っていないのです。

 

また「ポストモダニズム」はリベラル諸教会にとって、とっておきの贈り物となっています。なぜなら、これにより、彼らは、――誰かの気分を害すというリスクを犯すことなしに――しかも、なにか大切なことを言っているかのような風をきかせることができるという、新しい方法を得ることができたからです。

 

こういったポストモダンの状況を前に、福音主義クリスチャンは戸惑いを覚えているようにみえます。ある人々は、これを新しい好機と捉えています。曰く、これこそ啓蒙主義的〈合理性〉の終焉なのだと。また別の人々は、これを新しい世紀のためにドレスアップしたモダニティーに過ぎないとみなしています。どちらにしても、ともかく弁証の任務が、以前よりも、より入り組んだものになっているというのは確かでしょう。

 

何世紀も前、弁証のために立ち上がった巨人たちが、この地を歩いていました。

 

アタナシオス、アウグスティヌス、エイレナイオス、キプリアヌス、ミラノのアンブロシウス、カンタベリーのアンセルム、テルトゥリアヌス、クリュソストモスなどは、キリスト教護教のために人生を捧げ切った人たちです。

 

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キリスト教真理を力強く弁証するテルトゥリアヌス(2世紀、カルタゴ)

 

また、中世のカトリック教会にもトマス・アクィナスのような人がいましたし、もちろん宗教改革者たち(ルター、カルヴァン、ツヴィングリ、ノックス等)がいます。

 

 

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忠犬は、主人が何者かに攻撃されたら、吠える。もし、神の真理が攻撃にさらされているのを見ながら、尚も自分が沈黙を保ち続けているのだとするなら、私は臆病者である。―ジャン・カルヴァン(1509-1564)

 

 

米国においても、ジョナサン・エドワーズ、J・グレシャム・メイチェン、カール・F・H・ヘンリー、フランシス・シェーファーなどがいます。こういった人々は、臆さずひるまず、教えの擁護のため、そして真理の宣布のため奮闘した弁証家でした。

 

また彼らには相当数の敵対者もいました。かの有名な懐疑論者デイビッド・ヒュームがかつてジョージ・ホワイトフィールドの早朝伝道集会に姿を現したことがありました。ヒュームの姿に気づいた一人の聴衆が彼をたしなめ言いました。

 

「あなたは確か無神論者のはずですが、、」

 ヒュームは答えました。

 「ああ、そうだ。私は無神論者だ。でもな、私はこの男(=ホワイトフィールド)が神を信じているということに関しては確信を持っているんだ。」

 

近代性からポスト近代性への移行は、「美しいもの」ではありませんでした。相対主義というのは、「否定」以上にもっと有害な敵なのです。というのも、相対主義というのは――意味においては無限の形状を許容してはいても――結局、真理の可能性自体を否定するものだからです。それがゆえに、弁証のタスクはさらに困難なものとなってきています。

 

前近代の時代には、「いったいどちらの超自然的主張が正しいのだろう?」というのが議論の焦点でした。近代に入ると、そもそもの前提が、「超自然的な主張は何一つとして正しくない」に変わりました。

 

それが今度は、ポスト近代という、空気のような靄の中にあっては、「どんな超自然的主張であっても、それは正しいのでしょう。――それが正当化されようが否が。」になってしまいました。

 

ポスト近代にあっては、真理に対するいかなる主張といえども、それは絶対的でなく、普遍的でもなく、また排他的でもないのです。

 

おかしく聞こえるかもしれませんが、そうなると、クリスチャン弁証家たちは、啓蒙的あの合理主義時代にノスタルジーさえ感じるのです。あの時代には、正直・大胆かつストレートにキリスト教を否定する人たちがいて、私たちはそういう人々に真っ正面から向き合うことができたのです。まことの無神論者というのは、少なくとも自分が何を否定しているのかちゃんと知っています。

 

ポスト近代の「まあ、何でもいいんです」というきざな態度は、「神は死んだ。私たちが神を殺したのだ」というフリードリヒ・ニーチェのあの大胆不敵な主張の前に力なく見劣りしています。空虚でぼんやりしたポストモダンの相対主義思考は、こうして麻痺状態を起こしているのです。

 

これは神学的リベラル主義者の仕事もやっかいなものにしています。かつてのルドルフ・ブルトマンの〈非神話化〉(*聖書から神話的要素を取り除くとする解釈法。超自然的なものの否定。)は、現代文化にあっては、〈超・非神話化〉に取りかわっています。

 

こうして私たちは、西洋文明の「再異教化(re-paganization)」をこの目で見ています。古い異教カルトが息を吹き返し、新しいカルトも栄えています。

 

「キリスト教弁証の時代は終わった」とある人々は言います。しかし私はみなさんにあえて申し上げます。――今ほど、そういった弁証や擁護が差し迫って緊急に求められている時代はないと

 

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実際、文化的・思想的移行がなされているこの重大な時期において、クリスチャンの働きは、弁証的な召命として理解される必要があるのではないかと私は思っています。

 

キリスト教弁証――キリスト教の真理を提示し、クリスチャン信仰における唯一無二の真実性を訴える任務――は、ポストモダン時代における主要な働きとならなければならないでしょう。

 

これは何を意味するのでしょう。そうです、私たちは「キリスト教弁証」という働きを、神学校での履修科目の一つ、ないしは、書棚に飾る本のように扱ってはいけないということです。

 

私たちの世代におけるイエス・キリストの大宣教命令は、弁証的働きが伴わなければならないと考えます。福音の証しは、真理の擁護によって補強される必要があります。

 

個人的伝道にはまた、文化的機敏さも要求されてくるでしょう。世界宣教の任務を考える時、私たちは自分たちが今、「世界観をめぐる戦争」のただ中に置かれていることを自覚せずにはいられないのです。

 

ーおわりー