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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

宗教改革者たちの叫び(10)―ゲオルグ・ブラウロック(16世紀、スイス・オーストリア)

もしもプルータルコスの『対比列伝』の16世紀ヴァージョンを作れるとしたら、私はスコットランドのジョン・ノックス(改革派)と、スイスのゲオルグ・ブラウロック(再洗礼派)を一組にして列伝したいです。どちらも豪健かつ勇敢な巨漢であり、性格的にも相当な凄みと迫力があったようです。

 

ブラウロックは1491年に、スイスのグラウビュンデン(Graubünden)という所で生まれました。

 

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成人後、ローマ教会の司祭となるも、宗教改革思想に触れた彼はローマ教会を離れ、やがて(幼児洗礼のことでツヴィングリと決別した)青年グループと共に1525年1月21日、信仰によるバプテスマを受けました。彼は何をも恐れない炎の伝道者となり、こうして村から村へ、町から町へと福音を携え、駈け廻る日々が始まったのです。

 

その後、彼は官憲に捕縛され、仲間のフェリクス・マンツと共に投獄されましたが、ブラウロックはチューリッヒ市民ではなかったため、――マンツと違い――彼に対しては溺死刑ではなく、全身むち打ちとチューリッヒからの永久追放令が出されました。その時の勇ましい場面を、歴史小説『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』から少しのぞいてみることにしましょう。

 

マルクスは、判決文の読み上げる声が充分に聞こえる所まで近づいていって耳をすませた。「執行人はゲオルグ・ブラウロックの両手を縛り、腰のところまで服を脱がせなければならない、、、」言葉はすべて聞きとれたが、マルクスは肘で押し分けならが、さらに近づいていった。

 

「、、、そしてこの者は市から追放されなければならない。追放される際、彼は魚市場通りからニーデルドルフ市門を通過するのであるが、途中、血が出るまで鞭で打たれ続けなければならない、、、そしてこの者は二度と戻ってきてはならない。仮に戻ってくるなら、――それがいつであるかに関係なく――この者は捕えられ、フェリクス・マンツと同様、溺死刑に処される。したがって、本人はこの事をしかと覚えておくように、、、」

 

ちょうどその時、叫び声が耳に入ってきた。マルクスは声のする方をじっと見た。――ゲオルグ・ブラウロックがこちらに向かって走ってきていたのだ!

 

この大男は腰までむき出しで、縛られた両手を前に、よろめきながら走ってきた。

 

彼の真後ろには、鞭を振り上げた官憲たちが続き、全力で彼を鞭打っていた。ブラウロックは鞭打ちを避けようと、こちら側に、あちら側にと絶えず身をかわしていた。しかし何といっても官憲の数はあまりに多く、どんどん打ってくるので、とてもかわし切れるものではなかった。

 

「ああ、彼はこのまま打ち殺されてしまう!」飛び起きながら、マルクスは叫んだ。

 

彼らが二人の方にどんどん迫ってき、走りすぎる中、マルクスは執行人たちに、慈悲を願った。しかし、気の狂った者を見るかのように彼らはそんな彼を一瞥しただけだった。これはあくまで彼らの職務であり、彼らは、手ぬかりなく職務を遂行するよう言い渡されていたのだ。

 

見物人の一行がハアハアと肩で息をしながら、こちらに走ってきていた。マルクスと爺さんもニーデルドルフ市門を目指していたため、この一行よりも先に着こうと歩みを早めた。

 

ついにゲオルグ・ブラウロックは無事、門を通過した。鞭打ちの官憲たちの及ぶ範囲はここまでで、この門を越えては、何もできなかったのだ。ブラウロックは、門のすぐ外の地面にくずれこんだ。

 

それを見たマルクスは、この怪我人の方へと急いだ。真っ赤に腫れあがったむち打ちの跡が、彼の筋骨たくましい背中を交差していた。そしていくつかの強打によって皮膚が切れ、そこから血が流れ出ていた。

 

こうしてマルクスと爺さんも市門を通り抜けたのだが、ブラウロックは片膝で自分の体を起こし、ちょうど立ちあがったところだった。彼は二人の方を振り向き、、、、そして、なんとニコッと笑ったのだ。マルクスは自分の目を疑った。

 

しかしまた、この笑顔には、フェリクス・マンツが処刑前に語ったあの印象深い言葉と相つながるものがあった。そう、この微笑もまた、ある意味、彼らの「内なる勝利」を物語っていたのである。

 

「僕は大丈夫だ。」ブラウロックは二人を安心させた。

 

それから、爺さんやマルクス、そして集まっていた群衆が見守る中、ゲオルグ・ブラウロックは風変わりな事をした。意図的に彼は自分の靴を脱ぎ、チューリッヒ市の方向に向かって、足のちりを払い落したのである。(*マタイ10章14節参照。訳者註。)ゲオルグ・ブラウロックが二度と、この市に戻ってこないであろうことをマルクスは心に感じた。

 

その後、マルクスは上着を脱ぎ、背中があざだらけのゲオルグに渡した。風は冷たかった。ブラウロックは喜んで上着を受け取り、身につけた。それから彼は――チューリッヒおよび、彼が平安のうちに信仰に生きることを許そうとしない当局の人々から離れ――、どこか遠い場所に向かって、道を下り始めたのだった。

 

『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』第32章より

 

追放されたブラウロックは、今度はオーストリアのチロル地方(クラウゼン、グフィダウン、リッテン、ヴェルズ、ブライテンベルグ等)へ赴き、そこでまたパワフルに御国の福音を伝え、命がけの伝道を続けていきました。1529年6月2日、ミカエル・キリシュナーというチロル地方の再洗礼派牧師がカトリック当局により火あぶりの刑に処せられたことを聞くや、ブラウロックは、危険をも顧みず、無牧になった群れをケアすべくその地方に急ぎました。しかし2カ月後の8月14日、ついに当局に捕縛されるところとなり、残酷非道な拷問を受けた後、9月6日、火あぶりにされました。

 

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在世中、ひたすら追われる身であったブラウロックが、この地上に残すことができた書き物は、生涯最期の3週間に獄中で書いた一通の手紙、それから二つの讃美歌――この三つでした。(一つは ♪Gott Führt Ein Recht Gericht〔神は義なる裁きをされる〕、もう一つは ♪Gott, dich will ich loben〔神よ、私はあなたを讃えます〕です。)

 

しかし彼の信仰、そして生き方そのものが何にも勝る力強い「キリストの手紙」(2コリ3:3)でした。事実、神を讃えながら火あぶりにされていくブラウロックの壮絶な死に様を、瞬きもせずじっと見つめている8才の男の子がいました。パウロ・ウォルポット(Paul Walpot)です。やがて時が経ち、ブラウロックの死後、今度は、この青年が、チロル地方の大伝道者として命の福音を伝えていく器とされていったのです。

 

♪神よ、私はあなたを讃えます。(ブラウロック作詞)

、、おお御父よ、私を忘れないでください。

とこしえまで私の傍にいてください。

汝の御霊がわが盾となり、私を教えてくださいますように。

そうすれば、激しい苦難の中にあっても、

汝のなぐさめを私は見い出すでしょう。

そしてこの闘いにあって、果敢に

汝の勝利を得ることができるでしょう。