巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「1テモテ2:12で、パウロは権威を表す一般的なことば(エクスーシア)を用いず、比較的まれなことば(アウセンテオー)を使っています。そのため、この意味を正確に知ることは非常に困難であり、よってこの節に重点を置きすぎるべきではありません。」という主張はどうでしょうか。

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このテモテの個所におけるもう一つの問題は、「支配する」と訳されているアウセンテインということばの用法です。アウセンテインの意味について統一見解はありません。しかし、一つのことは確かです。それは、もし、パウロが、女性がこのことばの一般的な意味における権威を持つことを抑制するつもりであったら、彼が一般的なことばエクスーシアを使ったであろうと推理するのは妥当です。パウロが全く違う----新約聖書で他には使われていない ----ことばを用いることによって、ここでは全く別のことについて語っていることを示しています

世界福音同盟女性委員会出版 「性差によるのか、賜物によるのかGender or Giftedness by Lynn Smith)」p45 (傍線はブログ管理人によります。)

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 8

対等主義者側の主張:

1テモテ2:12で、パウロは権威を表す一般的なことば(エクスーシア)を用いず、比較的まれなことば(アウセンテオー)を使っています。そのため、その意味を正確に知ることは非常に困難であり、よってこの節に重点を置きすぎるべきではありません。

 

対等主義の人々の中には、「動詞アウセンテオーは新約聖書の中で一回しか使われていない。よって、その意味は不明瞭で私たちには分かり得ない」と主張している方々もいます。レベッカ・グルーシウスはこう言っています。

 

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「そもそも何をパウロが禁じているのか、それさえも不明瞭です。12節で「支配する "to have authority"」と訳されているギリシャ語アウセンテイン(authentein)は、新約聖書の他のどの箇所でも「権威(エクスーシア)の肯定的ないしは正当的使用」を表す意味で用いられていません。実際、この語は、ここの聖句以外、新約のどの箇所にも用いられていないのです。

 

それに加え、この語は古典ギリシャ語の中でさまざまな意味を含む語でした。そしてそういった意味の多くは「支配 "authority"」という意味よりもずっと強いニュアンスを持っており、「暴力」を意味するものさえありました。この聖句における「アウセンテイン」の意味が、これほどまでに不確かであることを考慮する時、「パウロが女性たちに権力を行使することを禁じている」といういかなる確定的言明も、それは不当なものだといえるでしょう。」Groothuis, Good News for Women, 215

 

1985年、チャールズ・トロンブリーはこう書いています。

 

「『支配する』という動詞は、ギリシャ語アウセンテインの訳です。この語は非常にまれな語であるため、聖書中、一か所しか出てこず、また世俗的にも一般的な語ではありませんでした。女性が男性を支配するということを描写するのに、パウロはなぜこのようなまれな言葉を使ったのでしょうか。なぜパウロは、卑猥で下品だと捉えられていたこのまれな動詞を使ったのでしょうか。」Trombley, Who Said Women Can't Teach (1985), 173.

 

アウセンテインという語が、「卑猥で下品だ」という見解を、トロンブリーはキャサリン・クローガーの論稿、"Ancient Heresies and a Strange Greek Verb," The Reformed Journal (March, 1979)から取っています。これまでに発見されたauthenteoの82事例のどれにも、「卑猥で下品」という意味は含まれておらずappendix 7, pp.675-702)、どの辞典にもこの特異な主張を裏付けるようなことは記されていません。尚、アウセンテオーに性的意味があるとするクローガー説についての詳細は、この記事をご参照ください。)

 

回答

パウロがあまり一般的でない言葉を使っているからといって、その語の意味が不明瞭であるとか、解明不能であるということにはなりません。

 

「新約聖書の中のある語があまり一般的な言葉ではないのなら、その語が何を意味しているのか明確には分からない」と考える方がおられるかもしれません。しかし通常、それは違います。

 

古代より厖大な量のギリシャ語文献が現存しており、新約聖書の中で一般的でない語であっても、新約外ではきわめて一般的な語であるということもままあるからです。つまり、新約聖書である語が一回しか登場しないからといって、その語の意味が必ずや不明瞭であるにちがいないということにはならないのです。

 

実際、一回しか登場しない語は、新約聖書中、1934語存在します。(Robert Morgenthaler, Statistik des Neutestamentlichen Wortschatzes (1958), 165) 。その内の大半の語には、新約外のギリシャ語文献で豊富な使用例があり、そのため、そういった語の意味の発見・確認は、堅固な裏付けの内になされています(ibid.)

 

例えば、1テモテの手紙の中だけでも、一回のみ使用の語は、65語あります。(詳しくは、Andreas Kostenberger and Raymond Bouchoc, The Book Study Concordance of the Greek New Testament (2003), 1172をご参照ください。)その一例を挙げます。

 

①διώκτην (diōktēn) ‟迫害者”(1テモテ1:13)

②ἀντίλυτρον (antilytron) ‟贖いの代価、身代金”(1テモテ2:6)

③νεόφυτον (neophyton) ‟回心したばかりの人”(1テモテ3:6)

④ἐξενοδόχησεν (exenodochēsen) ‟旅人を親切にもてなす”(1テモテ5:10)

⑤ὑδροπότει (hydropotei) ‟水を飲む”(1テモテ5:23)

⑥φιλαργυρία (philargyria) ‟金銭欲”(1テモテ6:10)

 

ここでちょっと休憩♡(訳者注):筆者が例として挙げているこの6つの単語は、現在もギリシャ共和国の中でいろんな形で生きています。①、②、⑥は現代語聖書でもそのままの形で用いられています。③のネオフィトンは、正教会では「洗礼を受けたばかりの人」という意味で用いられています。それから、④のxenodocheoは、現在「クセノゾヒオー」という名詞形で生きており、意味は「ホテル」です!例:το ξενοδοχείο Χίλτον(ヒルトンホテル)。あと⑥は、φίλος (親しむ、愛する)+αργύριον(金銭、銀貨)という二語から成る合成語で=「お金に対する愛着・執着、金銭欲」という意味です。アテネには、Αργυρούπολη(アルギルーポリ:銀の町)という地区があり、ここは1923年の「ギリシャとトルコの住民交換」協定により、小アジアのポントスから強制追放されたギリシャ人難民によって開拓された町です。故郷ポントスの地区がアルギルーポリ(現:トルコ Gümüşhane市)だったため、難民たちは、新しいこの異邦の地に望郷の念を込め、「アルギルーポリ」と名づけたのが、現在のΑργυρούποληの名の由来だそうです。oh, どんどん脱線していっていますので、ここらへんでもうやめますね♡

 

ですから、こういった単語が「新約聖書の中でまれな語である」から、必ずやそれらの意味が不明瞭であるということは言えないわけです。

 

アウセンテオー(支配する)についてですが、ボールドウィンの研究によって、現在82の事例が抽出され、ここからきわめて確実性のある諸結論が導かれています。訳者注:ボールドウィンのauthenteo研究については、以下の記事をご参照ください。)


それに加え、いくつかの同語源の語からも証拠を得ています。但し、前述しましたように、関連する諸語が常にその語の意味を示しているわけでありません。が、多くの場合においてそうです。そして当ケースにおいても、アウセンテオーの関連単語から得られる証拠の大半が、ある種の「権威」概念を指し示すものであることが分かっています。例えば、「主人、"mater"」という意味をもつ、アウセンテース(authentes、名詞)、それから「完全統治、権威 "absolute sway, authority"」の意味をもつアウセンティア(authentia、名詞)などです。(Liddel-Scott, 275)

 

もちろん、新約聖書の記者が執筆していた時、彼らは――自分にとっても、読み手にとっても普通の言葉だと思える――ある語が、はたして新約聖書の中で一回しか登場しないのか、それとも、二回、五回、あるいは十回登場しているのか、そのような事は知る由もありませんでした。

 

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エペソにいる信徒たちに手紙を書く獄中のパウロ

 

彼らはただ自分たちの意図する意味をクリアーに伝えられるような単語を用い、そして、読み手がその意味を理解してくれることを前提としていたのです。今日私たちのなすべき事は、自分たちの持ちうる(調べ得る)限りの可能なデータを用いつつ、できる限り正確にこういった語の意味を理解するよう努めることです。

 

それでは、パウロがエクスーシア(εξουσια)ではなくアウセンテオー(αυθεντεο)を用いたことで何かそこに違いが生じているのでしょうか。これについての断定的な回答は難しいと思います。第一番目に、エクスーシアという語は、「権威」を意味する名詞ですが、パウロはここでアウセンテオーという動詞を使っています。アウセンテオーというのは、「権威をもつ、行使する("to have or exercise authority")」という意味です。

 

パウロがここでアウセンテオーを使ったシンプルな理由として考えられるのは、彼がここの意味を伝えようとした際、名詞ではなく動詞を使う必要を感じたということが挙げられるかもしれません。エクスーシアゾー(exousiazo, εξουσιαζω)という動詞もあって、これは「~の上に権限をもつ、権威をふるう」という意味がありますが、この動詞もまた、新約ではあまり一般的な単語ではありません。(4回しか使われていません。ルカ22:25、1コリ6:12、7:4〔二回〕)

 

たしかに名詞のエクスーシアはかなり頻用されている単語ですが(新約の中で102回)、私は、「パウロは頻用語だけを使うべきだった」とか「パウロはこの聖句で(動詞ではなく)名詞を使うべきだった」といった主張の根拠がどこにあるのか分かりません。それに、パウロが、ほぼ同義語でありながら、意味におけるニュアンスの異なる語を使ってはいけない理由がはたしてどこにあるのでしょうか。

 

もしかしたら、彼の避けたかった「エクスーシア」のニュアンスが何かあったのかもしれず、あるいは、彼の含意したかった「アウセンテオー」のニュアンスが何かあったのかもしれません。が、いずれにしても、それが何であったのかを判定することは困難です。ともかく、この聖句で彼が実際に用いた動詞は、「~の上に権威をもつ、支配する, "to have authority over"」という意味であり、現在この意味は――多くの学的研鑽の積み重ねにより――堅固に確証されています。尚、こういったアウセンテオー理解の正当性に対するさらなる裏付けは、1テモテ2章の文脈そのものの中に見いだされます。

 

1テモテ2:11-12

「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい(with all submissiveness, ἐν πάσῃ ὑποταγῇ)。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

 

ここでは「教える行為」および「権威を行使する(支配する)行為」が、「よく従う心をもって」学ぶ行為と対比されており、「従順」(submissivenss, υποταγη)と「支配」というのは、ぴったりとしたコントラストをなしています。