巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「創世記1-3章によれば、男性のかしら性(male headship)というのは、人類が堕落する以前には存在していませんでした。ですから、これは罪がもたらした負の産物です。」という主張はどうでしょうか。【後篇】

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Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 3

 (前篇からのつづきです。) 

回答2.

抑圧的な男性支配というのが堕落以前には存在していなかったというのは真です。しかし、結婚の中における男性のかしら性(male headship)および固有な男性の権威それ自体は、堕落以前にすでに存在していました

 

第1章で説明しました通り(p.39-40)、堕落後、神がアダムとエバを罰し、「彼はあなたを支配することになる」(創3:16)と仰せられたこの言明は、より強大な力による統治を示しており、これは、罪深い人間の間にあって、しばし、過酷で抑圧的な支配を生み出す結果となりました。そして、これは罪にともなって生じてきた神の呪いの一部であり、私たちは断じて、こういった抑圧的な支配を承認したり、永続させてはなりません。

 

過酷で抑圧的な支配に代わり、聖書は、堕落以前に存在していたアダムとエバの元来の関係の美しさを回復し、次のように言っています。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません」(コロサイ3:18、19)。

 

キリストにあって、私たちは新しく造られた者になりました。そして、新約聖書は、アダムとエバの間に元来存在していたそういった麗しい関係が、今や私たちの内に回復されつつあることを述べているのです。

 

回答3.

対等主義者の中には、世界に罪が入ってくる以前に存在していた「男性リーダーシップ」を否定したいが余りに、聖書の御言葉の真実性や純粋性を否定するに至った人々もいます。

 

例えば、レベッカ・グルースイス(Rebecca Groothuis)は、創世記2章が、今日の私たちに〔神の言葉としての〕権威を持っていることを否定しており(3章5項を参照)、ウィリアム・ウェブ(William Webb)は、創世記2章の歴史的正確さを否定するに至っています(3章7項を参照)。

 

また、ギルバート・ビレジキアンとリンダ・ベレヴィール(Linda Belleville)は、アダムがエバよりも先に造られたということから論じ、それを教会生活に適用させようとしたパウロにこそ非があった(Paul was wrong)という主旨のことを述べています(3章12項参照)。

 

訳者注

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ウィリアム・ウェブ氏が、この著書の中で提唱しておられる贖罪的運動解釈法(redemptive-movement hermeneutic)については、代表的な相補主義の論者たちから一様に懸念の声が挙がっており、D・A・カーソンも、ウェブ氏のこの解釈法は、「説得力がない(unconvincing)」と斥けています。

 

〈ウェブ氏のこの論稿に対する相補主義者側からの応答論文のご紹介〉

-Thomas R. Schreiner. “William J. Webb’s Slaves, Women and Homosexuals: A Review Article.” The Southern Baptist Journal of Theology 6, no. 1 (2002): 46–65.(here)

それから、下の書評は、次のような重要な問いで始まっています。「いかにして今日を生きるクリスチャンは、どの部分の聖書箇所が『文化的に相対的で』、どの部分が、すべての文化圏に住むすべての信者に普遍的に適用されるべきものなのかを知ることができるのでしょうか?」

-Wayne Grudem. “Review Article: Should We Move Beyond the New Testament to a Better Ethic? An Analysis of William J. Webb, Slaves, Women and Homosexuals: Exploring the Hermeneutics of Cultural Analysis.” Journal of the Evangelical Theological Society 47 (2004): 299–346.(here)

 

また、ベンジャミン・レアオフという米国ピッツバーグで牧会されている牧師さんが、ウェブ氏の文化的解釈のアプローチに危機感を持ち、それに応答する形で次の著作を書きました。結論の部分で、彼は、「What is at stake?(ここに何がかかっているのか)」と、牧師として、夫として、親としての切実な思いを書き綴っておられましたので、その箇所を一部抜粋して、この記事を終わりにさせていただきたいと思います。

 

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「これらの論争に私たちの何がかかっているのか?」

本書は、私にとって、単なるアカデミックで抽象的な試みではありません。牧師として、私は、男性像・女性像を含め、信徒のみなさんお一人お一人が生活のすべての面において神に栄光を帰すことができるよう、聖書を教え、説教し、導いていきたいと強く願っています。

 

エペソ5章で提示されている結婚の型を探求していく中で、夫と妻は、教会に対するキリストの関係を活き活きと映し出してゆくようになり、こうして彼らの周りにいる人々に福音を証していくことになります、、私は、自分の教会のみなさん、そして他の教会のみなさんに、私たちを男性そして女性に創造された神のみわざのこの美しさをぜひ知っていただきたいと切望しています。

 

、、最後に、父親として、私は自分の子供たちに、聖書的男性像・女性像の明確なビジョンを伝え、継承させたいと願っております。現在、私たちの文化は倫理的混乱で満ちています。ですから尚更のこと、私は自分の息子に、そして二人の娘に、「男であることの意味」そして「女であることの意味」を知ってほしいのです、、、そしていつの日か、子どもたちが自分の伴侶を求めるその時に、なにを基準に自分の将来の夫・妻を見い出してゆくべきなのか、そういうことを分かるようになっていてほしいと願います。

 

ですから、この論争にかかっているものは非常に大きいのです。そうです、これは、私たちの教会、結婚、家庭のこれからに直結した問題です。ジェンダーの役割を巡る論議はこれから激化することはあっても、沈静化する見込みはないように思われます。しかし私たちは、聖書の中に啓示されているこの美しい、相補的な男女像を擁護するのに倦み疲れてはなりません。

 

なぜなら、聖書のこの側面を軽視することにより、私たちの視点の世俗化がますます進行してゆき、神が自らの民のために備えられた元来の喜びがますます失われていくことでしょう。この立場を擁護することは、今日では非常にcounter-culturalなことであり、困難を伴うものです。しかしたといどんなにその流れが激化していくとしても、私たちは神の御言葉の教えの下にみずからを服従させ、神のご計画された男性像・女性像を是認し、それに従ってゆく喜びを見いだしていきましょう。(Benjamin Reaoch, Women, Slaves, and the Gender Debate: A Complementarian Response to the Redemptive-Movement Hermeneutic, pp.159-60より一部抜粋)

 

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