巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「もし、人類の堕落以前にすでに『男性の権威(male authority)』が存在していたのなら、男性の方が女性よりも優越しているということになり、男女は平等ということではなくなってしまいませんか?」という疑問に対する応答。

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   Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 3

 

平等というのが、役割における同一(no difference)を意味していると対等主義の人々は考えています。そしてそういった対等主義的観点でみるなら、男性の権威というのは必然的に男性の優位性を意味することになり、従って、男女の平等性というのは否定されてしまいます。

 

アイダ・スペンサーは次のように書いています。「男性と女性に、同じ尊厳が与えられているように、男女はまた、同じ権力そして権威を共有しているのです。」そして「アダムとエバは、地位においても平等であり、神のかたちとしても平等でした」と述べた後すぐに、スペンサーは、権威における平等性を主張し、次のように言っています。「女性と男性に対する神の元来のご意図は、仕事においても結婚においても、男女が役割(task)を共有し権威を共有することにありました。」Spencer, Beyond the Curse, 23, 29

 

回答1.

「平等(equal)」や「優位(superior)」といった言葉を、定義付けなく曖昧に用いることで、論点がぼかされてしまいます。

 

もしここで述べられている「平等」というのが、「同一・均一(the same)」もしくは、「権威における同一性」を意味しているのだとしたら、もちろん、その場合、アダムとエバは「平等ではない」ということになります。

 

しかしここで真に問われているのは、はたして男女が価値において平等であり、神のかたちに創造された被造物として平等であるか否かという点です。そしてその意味において私たち男女は平等です。しかしそれは権威における平等ではありません。「優位」という言葉に関しても同じことが言えます。もしも優越した「権威」のことを言っているのであれば、アダムには優越した権威(superior authority)があったということができます。しかし優越した「価値」という点で言うならば、男女は平等です。

 

回答2.

この議論は、「権威における相違がそのまま、価値における相違をも意味する」ということが前提になされていますが、それが真でないことは人間関係の内にも見い出されます。

 

前項でお話しましたように、日常生活でのさまざまな例をみても、人間としての価値や重要性においては同等でありながら、人は依然としてより大きい権威(greater authority)を持ちうるこということが分かります。バスケのマネージャーと選手たちとの間の関係、両親と子どもたちとの間の関係、市長と市民との間の関係など、いろいろ挙げることができます。ですから、アダムはより大きな権威を持っていましたが、「より大きな」価値は持っていなかったのです。

 

回答3.

権威における相違というのが、価値における相違を含意するわけではないことは、三位一体の神の内にも見い出されます。

 

御父・御子・御霊は価値において、神性において、あらゆる属性において、等しく(equal)あられます。しかし、例えば、御父は、御子の有しておられない権威を持っておられ、この宇宙の創造や人類の救いにおいて、御子や御霊がなすみ業を、御父が導く(direct)といったことの中にも、御父の権威は見い出されます。同様に、御子は御霊よりも、より大きい権威をもっています。(このテーマについて、本書の10章2-5項で詳しく取り扱っています。)従って、三位一体の神の〔位格間における〕真正なる「平等」および、役割と権威における「相違」をここに見い出すことができます。

 

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