巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神は《男性》でしょうか?ー現代のジェンダー戦争

(自ブログ「地の果てまで福音を」からの再掲載) 

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Kyle Pope, Is God Male?, Ancient Road Publications™ 

 

新聞『カンザス・シティ・スター』はある特集欄で、某教派の牧師およびユダヤ教のラビに対し、次のような問いを出していました。

 

「私たちは神のことを〈彼〉と呼ぶべきか、〈彼女〉と呼ぶべきか、それとも〈それ〉と呼ぶべきか?」

 

二人の聖職者はそれぞれ異なった角度からこの問いに接近していたものの、両者ともほぼ同じ結論に達していました。曰く、どういう代名詞を「選ぶ」かはそう重要ではない。なぜなら、聖書は神の属性を表すのに、女性メタファーも男性メタファーも用いているから、と。私はそこになおざりにされている、いくつかの根本的な問題が反映されているように思いました。

1.人間のジェンダー

神は人や動物を創造された際、彼らを「男と女(動物の場合は雄と雌)」にお造りになりました(創1:27、5:2、6:19)。こういった区別は地上の生殖に不可欠なものです。何をもって男性であるか女性であるか(動物の場合、雄か雌か)を決定するかといえば、それは生理学、化学、解剖学の領域でなされています。

 

ほとんどの場合、もしある被造物が雄性器官およびXとYの染色体を持っていれば、それは男(雄)です。逆に、雌性器官および二つのX染色体を持っていれば、それは女(雌)です。聖書は、神が生殖するとか、配偶者がいるとか、性差のある生殖器官ないし染色体を有しておられるなどとは教えていません。神は霊です(ヨハネ4:24)。

 

にもかかわらず、神のことを言及する際、聖書は実際に、男性名詞および代名詞を用いています。しかし、「御父」と「御子」としての神とイエスの描写が、人間の生殖的関係とはなにかしら違ったものを反映しているのと同様、(神にかかわる)ジェンダー描写は、地上的なジェンダー概念とは違った意味合いにおいて理解されなければなりません。

 

2.聖書のことを表すのには聖書の名前を

奇妙なのは、上述の二人とも、この問題を、人間の選択にかかわる事項として取り扱っていたことです。「自分自身の礼拝様式、教理、振る舞いを自在に選ぶことができる」と思い込んでいるこの世は、自分の都合のいいような神像を選ぶことができるとも思っているのです。

 

でも本当に大事なのは、神がご自身のことを何と言及されているかということです。創1:27は、地上におけるジェンダーに関することが言及されている最初の箇所です。

 

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された(創1:27)。」

 

この聖句は幾つかの点において重要です。まず、「神」はヘブル語elohimからの訳です。他の多くの言語と同様、ヘブル語にも男性名詞、女性名詞の区別があります。そしてこのelohimは、男性名詞です。

 

また二番目に、「創造された」という動詞に留意する必要があります。英語と違い、ヘブル語の動詞は、人称(私、あなた、彼/彼女/それ)だけでなく、ジェンダーをも表し伝えるのです。この箇所で「創造された」と訳されているヘブル語 yivrahは、男性単数形であり、文字通り、「彼は創造された」という意味です。

 

最後に、「ご自身のかたちに」という語句をみてみます。ヘブル語では、「ご自身の(“His”)」という代名詞は、かたち(“image”)という名詞の後ろにつく接尾辞として表されます。そしてここでの場合、その代名詞は、三人称男性形です。

 

もし私たちが、神がご自分のことを指しておられる通りに、神のことをお呼びするのなら、私たちは男性形でもってお呼びしなければなりません。それ以外の試みは、「選択」云々の問題ではなく、改変行為となります。

 

3.聖書的区別

男性も女性も神のかたちに創造されました(創1:27)。また、それと同時に、ある意味において、男女に付随する、この似姿(ないしは反映された栄光)の性質という点で、両者には差異があるということも聖書ははっきり教えています。1コリント人への手紙の中で、パウロはそういった問題に言及せざるをえませんでした。

 

コリントにいた女性たちの中には、男性の権威に従うしるしとして当時、広範囲に行なわれていたかぶり物の慣習を拒絶していたようなのです。こういった状況を是正するため、パウロは創造そのものに言及しています。そして使徒パウロは聖霊を通して次のように書きました。

 

「男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」(Ⅰコリント11:7-9)。

 

この箇所でパウロは、創造の順序(すなわち男が最初に造られた)それから、創造の手段(すなわち男のあばら骨から女は造られた)に言及しています。そして男女の間では、神の似姿および栄光という点で違いがあることを言っているのです。この文脈では、男は神の栄光であり、女は男の栄光であるとされています。

 

これは女性の価値をおとしめるものでは決してありません。これはあくまで順序、関係、そして権威に関することにすぎないのです。とは言っても、聖書の箇所をないがしろにしないならば、そこに無視することのできないある差異があることをこの箇所は明示しているのです。

 

4.現代のジェンダー戦争

女が男のように振る舞い、男が女のように振る舞うよう仕向けようとしているこの世代が、現在、世界を疫病のごとく席巻しているジェンダー戦争に、神をも巻き込もうとしているのは想像に難くありません。

 

一連の問題提起は、はたして神様の特性をもっと正しく知りたいという願いからきているのでしょうか。それとも、フェミニズムに対する政治的公正(political correctness)に遠慮した結果、なされているものなのでしょうか。でも結局のところ、多くの人は、創造について、男女の役割について、両性における神のお取り扱いについて聖書が教えていることに、不愉快さを覚えている――それが現状ではないでしょうか。私にはそんな気がします。

 

聖書が神のことを男性形で言及しているのだとしたら、それは女性を侮辱することになるのでしょうか。もちろん、そんなことはありません!神様は両性をお造りになられた創造主であられます。もし、男が最初に造られて、女が男から造られたのだとしたら、それは「神様は、男性を愛するようには、女性のことを愛しておられない」ということになるのでしょうか。もちろん、否です!

 

イエス様は男性のためにも、女性のためにも死んでくださいました。権威と責任という点で、神様が、男女間に異なる役割をお与えになったということ、それは「神さまが女性を虐待している」ことになるのでしょうか。もちろん、そんなことありません!男性に子を産む能力が与えられていないこと(創3:16)が男性に対する虐待でないのと同じく、女性に、家のかしらとなる役割が与えられていない(エペソ5:22、23)のは女性に対する虐待ではないのです。