巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

墓のかなたを眺望しつつ(内村鑑三)

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人が滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。Ⅱコリント4:16-18

 

しかり、余のすべての善きものは、墓のかなたにおいて在る。余の自由も、余の満足も、余の冠も、すべて来たらんとするキリストの王国において在る。余は今は待望の地位に立つ者である。「農夫、地の貴き産を得るを望みて、前と後との雨を得るまで、久しく忍びてこれを待つごとく、忍びて主のきたるを待つ」(ヤコブ5:7)者である。

 

ゆえに、この世における余の生涯はどうでもよい。憎まるるもよい。誤解せらるるもよい。貧しきもよい。裸なるもよい。余の運命を定める者は、余のために自己(おのれ)を捨てたまいし、余の救い主イエス・キリストである。彼は余のために所を備えんために父のもとに行きたもうた。彼は、「また来たりて、なんじらをわれに受くべし」(ヨハネ14:3)と約束したもうた。

 

余はこの世にありては旅人である。暫時の滞留者である。余は一時、天幕をこの地に張る者である。永久の住み家を築く者ではない。神が余を呼びたもう時には、直ちに天幕の綱を絶ち、これを畳んで、彼の国へと急ぐ者である。

 

『内村鑑三信仰著作全集第15巻』p119より