巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

信仰の鍛錬(三谷隆正)

エレミヤ20章7-13節

7 主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。

8  私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ。」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。

9  私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

10  私が多くの人のささやきを聞いたからです。「恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。」私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。「たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう。」と。

11  しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。

12  正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。

13  主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。

 

ここで預言者エレミヤは、その胸臆にひそむ苦悩を、何のつつみかくしなしに、赤裸々に言い出て居る。否、預言者はその想いをつつみかくすことができなかったのである。赤裸々に己が苦悩を披瀝せずしては、已み得なかったのである。

 

それはつくらずたくまざる人の、つくらずたくまざる告白である。抑へもしないし、誇張もしない。誠実真摯なる信頼の人がたまらなくなって神様に訴えたその苦衷である。

 

「神様、私はあなたにだまされました」という。「私の生まれた日は詛はれてあれ」(14節)という。生まれなかった方がよかったのだという。誰がエレミヤの遭いしが如き苦難に会うて斯く叫ばずに居られようか。

それは預言者らしくないと非難されるかもしれない。神を信ずる者が左様のことではいけないと言われるかもしれない。まことにいけないでもあろう。しかしこの訴え事の故にこそ、エレミヤは如何に人間らしくあることか。いかにエレミヤがかさかさの道学者先生に似たらずして、熱血たぎる預言者らしくあることか。

 

預言者は先ず人でなければならぬ。つくらずたくまざる人でなければならぬ。その真摯なる人間性こそ預言者をして神の人たるを得しむる原因である。預言者とは人間のうちの最も人間らしき者の謂である。もっとも人間らしくあるが故に預言者はまた、もっとも神らしき敬意を神に向け得たのである。人間のうちのもっとも人間らしき者に対する、神のもっとも神らしき態度、そういうものが預言者に臨みたる神の言葉であると言って、ほぼ間違いはないであろう。

 

であるから例えば、上掲の20章7節以下にしたところが、なにも特別に人間離れのした偉人が、かれにのみ特有なる異常の経験を語っているわけではない。それは一個のいとも人間らしき人間の極めて真摯なる告白にほかならない。われらその言を理解する為に、別に特別なる用意が要るわけでない。ただわれらも一切の気取りを去って、誠実真摯なる衷情を打ちひらけばよい。そうして我らが有りのままなるこころを開いて、エレミヤの飾らざる告白をそのままに聞けばいい。然るとき預言者のこの告白が如何に切々としてわれらの心琴にせまることか。

 

茲にひとりの真摯なる人間の、真摯なる生活と、その真摯なる生活の裡より溢れ出てとどめ兼ねたる告白とがある。それは世の常の芝居ではない。まじりなき赤心の吐露である。その偽らざる告白を聞いて、それをわが事のように痛感することのできない人は、どうかしているのである。いふ勿れ、「私はそんな偉い預言者ではない」と。偉くないから理解できないのではない。偉がるから理解できないのである。

 

いったいわれわれは誰でも、ある程度に於いて預言者たることを余儀なくされているのである。蓋し預言者とは起つて神の為めに証言するものである。そうしてわれわれは誰でも、事に当たって自家の立場を明らかにするとき、正義に組するか、利益と妥協するか、神につくか、悪魔に屈するか、二つに一つを明らかにしなければならぬ。どんなに静かな生活をしている人でも必ずそういう岐路に逢着する場合がある。再三再四ある。

 

そういう場合は、すなわち、我らが神の為めに証言するか、悪魔のために証言するか、どちらをとるかの場合である。我らはこの二つのうちいづれか一つ、そうして一つのみをとる事を余儀なくせられるのであって、どっちつかずの第三の立場というものはあり得ないのである。

 

言いかえれば、我らは神の預言者たらんとするか、悪魔の預言者たらんとするか、そのいづれかひとつをとらざるを得ないのである。この意味に於いて、我らは一人のこらず、ある程度に於いて預言者たるべき責務を免れ得ないものである。

 

殊にわれら自ら祈りて基督者たらんとする者たちは、また人の世のなんらかの方面ないし場面に於いて、預言者たるの職責を負はざらんとすとも得ない。しからばまた、エレミヤのあの苦悩の声が、なんで我らに縁なき他人事であり得ようぞ。

 

「信ずる者を試み、その心腸を見たまう者」たる神は、彼によりて起たんとする者をただ甘やかしておくことを決してし給わない。人親さえ、「かわいい児には旅をさせろ」と言う。神は彼を「信ずる者を試み」ずして置き給わない。神は必ず、彼に頼る者を旅に出したもう。追い立てるようにして突き出したもう。

 

故に神に信頼する者は、その信頼の最も熱切なる時、必ず一度は、神の御許を遠く離れたる旅路に於いて己を見い出す。神に突出されたる経験である。これほどまでに熱誠をこめたる信頼を、みごと神によりて裏切られたかという感じである。それがエレミヤ謂う所の「ヤーウェよ、汝、我をたぶらかし、我亦たぶらかされたり」である。騙す者も騙す者なら、欺される者も欺される者、我ながら馬鹿々々しいといった悲嘆である。

 

これは独り古の預言者にのみ特有な経験でない。また伝道者にのみ特有な試練でもない。おおよそ誠実に生活せんとし、真摯に自己の天職をかえりみる者の、必ずや一度は味わわなければならぬ苦杯である。この苦杯を通さずして、確乎たる天職の自覚に至ることはできない。

 

神は一人ひとりに与えられたるその天職をこよなく尊重し給うが故に、みこころに適う者を責め鍛えて、その天職の自覚を錬りたもう。その間の消息をもらすものがエレミヤの斯言である。そうして、この試練に遭いつつ、終にヤーウェより他に己が苦悩を訴ふべき対者を見い出し得ずして、すべての愁訴をそのままにヤーウェに訴えることをしたる者が、預言者エレミヤの真摯なる信頼の信仰である。

 

幸いなるかな、ヤーウェに棄てられたりと感じたるその同じ瞬間に、己がかなしみのままにヤーウェに訴え、ヤーウェにつぶやくことを為す者。かかる者こそ真の信仰の人、最も人らしき人である。かかる人こそ預言者の名にふさわしい。

 

〔中略〕エレミヤの場合に於いても、事態はよく似て居った。神はそのめでたまふ者に対しては、彼が少しでも神第一でなく、真理第一でない往き方をして、些少なりとも人間一個とその幸福とに執しようとする時、さまでに為(し)給はずとも思わるるほどに、激しき警告を与え給う。神の預言者らに対する殊寵のしるしは、預言者らに対しては、神がかれらの些細なる過誤をも激しくたしなめ給うことである。

 

しかし彼らの心の歩みの正しき時は、神は別段に特殊なる積極的激励を送り給わない。否、却ってこの時とばかり、一層手荒くかれらを鍛え給うことすらある。神の諫止のないこと、この消極的事実が、預言者の意識し得る唯一の安心である。おそらくは斯して預言者の独立を保全し、預言者をして真の信頼の何であるかを知らしめんが為めの、神の深遠なる御計らいから出ることであろう。

 

兎に角して、エレミヤはソクラテスと同じような立場に置かれたのである。而もエレミヤのヤーウェ神に対する信頼の親しさは、ソクラテスのダイモニオンに対するそれどころのものでなかった。故にエレミヤとしては、事の重大なる場合、彼を攻めんとする敵の勢の猛く旺(さかん)なる場合、ヤーウェ神の積極的なる激励を期待するの情は、抑えんとして抑え難きものであった。

 

然るにヤーウェは黙して声をかけたまわず。エレミヤは余りのさびしさに得耐えずして、神我をすてたまへり、我を欺きたまへりとまで感ぜざるを得なかった。其感の偽らざる告白が例えば第20章7節以下である。

 

しかしかくて絶望にちかき苦悶の訴えをエホバに向けたるその瞬間に於いて、エレミヤはやはり「エホバ我と共にいまして、たけき勇士の如く」あることを知ったのであった。神かれを捨てたまへりとみえたその時こそ、エレミヤにとっては、最も深刻にヤーウェ神の力強き後援を悟り得たる時であった。

 

神はわれらを温室作りにして、独立独行に耐えぬような弱虫にまで育てあげることを、深刻に忌みたまうであろう。獅子がその仔を谷底に蹴落とすが如く、神もわれらを突き放して、われらを独立人たるべく教育したまうものの如くである。なぜならば、われらの神に対する信頼は、卑屈にして不精なる奴隷的依頼でなくして、毅然たる丈夫の信頼でなければならぬから。

 

故に、神はエレミヤの如き、大預言者を突き放したまうのみならず、われら凡々の一人一人に対しても、われらが真の信頼を学ばんとして真摯なればなるだけ、容易にその鍛錬の手をゆるめ給わない。中々積極的激励を賜わらない。われらも亦ソクラテスの如く、エレミヤの如くして起つことを要求したもう。それが神の我ら人間に対する教育法である。神の驚くべき深慮より出づるところの限りなき愛育法である。エレミヤは身を以てこの事を証言する。

 

そうしてそれは決してエレミヤにのみ特有の経験ではない。概ね真摯なる生活者、真理に忠ならんとする者一般に、すべて共通なる経験である。われらのこの世に於ける職業が何であろうとも、われらの現実なる生活が、われらの持ち場持ち場に応じて、何らかの意味に於いて預言者たるの職責を負わされざるを得ざるものである以上、われらの亦一人として、ソクラテスが経験し、エレミヤが苦しみたるが如き、ある恐るべき寂寞、世の人はまだしも、神にさえすてられたる感じ、その落莫たる心境を通らずして已むことはできないであろう。

 

しかし友よ、喜び勇め。その落莫たる心境に於いてこそ、我らは最もしめやかに神と相語り得るのである。その時こそ世につけるあらゆる雑音が我らから遠ざかって、我らの心耳は天来の秘音を捉え得るほどに澄むのである。そうして我らが天の父に対する深刻なる信頼を固うせられるのである。まことに神の愛育法は、おどろくべく親切である。その智慧のいかに深きことかな。

 

三谷隆正「信頼の鍛錬」より