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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「万人祭司説というのは、聖書の真理です。ですから、女性も牧師になることができるのです」という主張はどうでしょうか。

女性牧師問題で悩んでいる方々へ 対等主義(Egalitarianism)

(自ブログ「地の果てまで福音を」より再掲載) 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and the Biblical Truth, chap.10        

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対等主義者側の主張:

新約聖書の「万人祭司説」から分かるのは、男性だけでなく、今や、女性にも牧会職につく資格が与えられているということです。

 

 応答:

「万人祭司説 "priesthood of all believers"」というのは、私たちが神の前にでる際、人間の祭司を介する必要はないということを意味しています。旧約時代はレビ族出身の祭司たちだけが神殿に入ることができました。そして大祭司だけが至聖所に入ることができたのです(ヘブル9:6-7)。

 

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しかしこういった旧約時代の状況と今は異なっています。新約においては、イエスが私たちの偉大な大祭司となられ、私たちは新契約に属する者とされたのです(ヘブル9:11-12)。そしてイエスを通し、すべての信者は神のご臨在なされる所に入ることができるようになりました(ヘブル10:19-22)。

 

この霊的真理は、イエスが息を引き取られた時に「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(マタイ27:51)ことからも明示されています。それゆえ、ペテロは、私たちが皆、「聖なる祭司」(1ペテロ2:5)であり、「王である祭司」(1ペテロ2:9)であると言うことができたのです。そうです、新契約の中にあって、すべての信者は「祭司」なのです。しかし、そうだからといって、皆が皆、教会の牧師や長老になる適性資格を得たということになるのでしょうか。

 

対等主義の方々の中には、そう考えておられる人もいます。例えば、スタンリー・グレンツは次のように主張しています。

 

「全権をもつ御霊が、さまざまな人々に、教会内における多様な役割につくよう呼びかけておられます。―監督職をも含めて。万人祭司説の原理が示すところによれば、御霊はなにがしかの考慮の上に、選択のベースを置いています。しかしその際、ジェンダーというのは、牧会職への資格(適正・不適性)を測る要素とはならないのです。」Grenz, Women in the Church (1995), 188

  

またレベッカ・グルースイス(Rebecca Groothuis)は次のように書いています。

  

「存続可能にして、聖書的に一貫性のあるセクシュアリティーの神学は、以下のような聖書的原則に堅く根付いている必要があります。それはつまり、1)等しく神のかたちに似せて造られた男性と女性という創造、2)万人祭司説、3)特異なキリストの大祭司性、4)キリストの中にある女性と男性の霊的地位における平等性、です。これらの基本原則から明らかに導き出されること―それは、いかなる普遍的ヒエラルキーないし、男性優位の宇宙的原則も、これを否定・除外しなければならないということです。」Groothuis, Good News for Women (1997), 232-33」

 

回答1.

「祭司」と、「長老・牧師職」には違いがあります。

 

地上の神殿や人間の祭司を介することなしに、私たちが祈りや礼拝において神に近づくことができるという意味において、確かに全ての信者は祭司です。

 

しかしだからといって、全ての信者が教会の長老や牧師や教師になる適性資格が与えられているわけではありません。長老職(ないしは牧師職)にはそのリーダーシップに関し、特定の適性条件が求められています。(例:1テモテ3:1-7、テトス1:5-9)。

 

だからこそ、教会で次のように呼びかける人は誰もいないのです。「さあ、みなさん。来週の日曜日、説教したい方はどなたでもご自由にどうぞ!なぜならうちの教会は、万人祭司説を信じているのですから。」もしくは、「今朝、みなさんに志願ペーパーを回しますね。誰でも長老になりたい方はそこに記入してください。その方々には今年、長老職を務めていただきます。というのも、うちの教会は、万人祭司説を信じていますので。」等、、、

 

子どもや信じたばかりの方であってさえも私たちは皆、神に近づくことができるという意味で、全ての信者は確かに祭司です。しかし、長老や牧師、教師として適任とされるのは全ての信者ではないのです。

 

回答2.

新約聖書の記者たちは、牧師・長老の適性資格条件のことを論じた際、万人祭司説にその論拠をおいてはいませんでした。

 

彼らは―適任者は男性という条件も含め―いくつかの他の資格条件を挙げています。1テモテ3:2、テトス1:6、両箇所とも、監督(長老)は「ひとりの妻の夫」でなければならないと言っています。

〔*訳者注:この「ひとりの妻の夫」に関しての検証記事のご紹介。

牧師・長老・監督の適性(2)ひとりの妻の夫 - an east window

 

それに加え、1テモテ2:12には、女性は「教えたり、男を支配したりすることを許しません」とあり、こういった奉仕は教会の長老や牧師によってなされるものです。従って、新約記者たちは、「万人祭司説」がイコール「女性が牧師や長老になってもいいのですよ」ということを含意しているとは考えていなかったのです。

 

 回答3.

聖書の一か所だけを持ち出し、それを基に他の聖句箇所を否定ないしそれとは矛盾するような結論に持っていく―これは、決してやってはならないことです。しかし残念ながら、冒頭の主張において対等主義の方々は、そういった事をしています。

 

もし聖書が正しく解釈されるなら、それは(聖書の他の箇所とも)内的に調和しており、互いに矛盾するということはないのです。詩篇の119篇には次のような御言葉があります。

 

「あなたのみ言葉の全体(sum)は真理です。あなたの正しいおきてのすべては、とこしえに絶えることはありません。」(詩119:160)

  

ここの「全体(sum)」は、私たちが御言葉のさまざまな箇所を合わせた時、そしてそれらを結合させた時、どうなるかということを示しています。どうなるのでしょう?そうです、その結果は、依然として「真理」なのです。実際、もしも聖書のすべての箇所が神の言葉であり、神が「決して偽ることのない」(テトス1:2)神であるなら、御言葉は、内的に調和しており、自己矛盾していないと私たちは理解できるわけです。

 

しかしここに挙げた福音主義フェミニストの方々の主張は、実質上、次のことを認めるよう私たちに要求しているのです。―つまり、聖書の中にある一つの真理(万人祭司)を片手に、他の聖句(1テモテ2:12、3:2、テトス1:6等)を破棄ないしは否定しなさいと。

 

そうした結果、こういった聖句箇所の真実性および権威が無効にされてしまっているのです。