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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

【悩み相談】新約聖書によれば、女性も預言することができます。ですから、彼女たちも神の言葉を教え、牧師になることができると思うのですが、どうでしょうか。

John Piper and Wayne Grudem, 50 Crucial Questions About Manhood and Womanhood | Desiring God, 2016

 

Q. あなたがたはどうして、教会で女性たちが「預言すること」を認めていながら、女性牧師制度には反対しているのですか。牧師や長老という役割の根幹には、「預言」があるのと思うので、女性も牧師になれると思うのですが、、、

 

応答:

いいえ。牧師・長老職の主要な役割は、「治めること(governance)」と「教えること」です(1テモテ5:17)。長老の適性条件が挙げてあるリストの中に、「預言の賜物」は言及されてありませんが、「教える能力」は記されてあります(1テモテ3:2)。

 

エペソ4:11で、預言者は、牧師・教師と区別されています。そして、たとい男性たちが女性たちに与えられた預言から学ぶことはできても、パウロは、依然として、預言の賜物と、教える賜物を区別しています(ローマ12:6-7、1コリ12:28)。女性が預言することを禁じる聖句はどこにもありません。1コリント11:5-10においては、パウロとしてはただ、男性の霊的リーダーシップの原則に妥協しないよう、女性たちが預言する際の振る舞い(demeanor)を規制しているのです。

初代教会の礼拝における預言というのは、旧約聖書にある預言のように権威があり、完全無欠な啓示といったものではありませんでした。11 それは聖霊から与えられる自然で(任意の; spontaneous)、個人的な啓示に基づく人間のことばの中でなされる報告でした(1コリ14:30)。そしてそれは、建て上げ、励まし、慰め、確信、導きといった目的のためになされていました(1コリ14:3、24-25、使徒21:4、16:6-10)。

 

また、それらの預言の中に、人間の誤りが混じってしまうことも、なきにしもあらずでした。ですから、使徒的(聖書的)教え(1コリ14:36-38、Ⅱテサ2:1-3)に基づいた預言の吟味が必要とされたのです(1テサ5:20-21、Ⅰコリ14:29)。

 

初代教会における預言というのは、今日でいう「(講壇)説教」や、公的な聖書の解き明かしに該当するものではありませんでした。女性も男性も立ち上がり、「預言する」―つまり、教会の益のために、神が自分に与えてくださったと信じる内容を皆にシェアする―ことができました。しかし、そういった言葉の公的吟味や、定期的な聖書講解ミニストリ―は、長老・教師の責務でした。そして、この後者の役割を、パウロは、男性にだけ任命しているのです。12

 

Q. それなら、使徒2:17、21:9や、1コリ11:5にあるように、女性が公に預言する自由というのを、あなたがたは認めておられるのですか。

はい。13

 

註:

11. Some contributors to Recovering Biblical Manhood and Womanhood do not endorse this view of New Testament prophecy. They would say that the New Testament gift of prophecy does not continue today because it was part of that uniquely revelatory moment in history and consisted of words having the infallible authority of God. They would say that women could prophesy in this sense but not teach because authority attached so distinctly to the words, not to the person or exposition as it does in teaching.

12. This understanding of prophecy in the New Testament is developed and defended in Wayne Grudem, The Gift of Prophecy in the New Testament and Today (Wheaton, IL: Crossway, 1988); Graham Houston, Prophecy: A Gift for Today? (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1989); D. A. Carson, Showing the Spirit: A Theological Exposition of 1 Corinthians 12–14 (Grand Rapids, MI: Baker, 1987). This view of New Testament prophecy is the one held by the authors of this book, but some contributors to Recovering Biblical Manhood and Womanhood hold a different view.

13. See notes 11 and 12.

―――――― 

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☆このテーマについてさらに考察を深めたいみなさんへ

(Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, Chapter 7より一部抜粋)

 

対等主義の主張:

新約聖書(1コリント11:5)によれば、女性もまた預言することができます。そしてこれは、女性たちもまた神の言葉を教え、牧師や長老になることができるという事をも意味しているのです。

 

多くの対等主義者の方々がこの主張を繰り広げています。ギルバート・ビレジキアンは、次のように述べています。

 

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「『より優れた賜物』やそれに付随した働きに関するパウロの量りによると、預言というのは、使徒の次に位置しています(1コリント12:28)。こうしたパウロの教えにより、初代教会において、男性も女性も共に、このミニストリーに従事していたのです。」 Bilezikian, Beyond Sex Roles, 199

 

また、リンダ・ベレヴィール(Linda Belleville)はこう言っています。

 

「預言者がしていたことの中に、『教え』も含まれていました。『あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって』とパウロはコリントの信者たちに言い、『それにより、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです』と言っています(1コリント14:31、cf.14:19『教える、katecheo』)。コリントには女性の預言者もいたわけですから(1コリ11:5)、彼女たちの果たしていた役割の中に、教えも必ずや含まれていたはずです。」 Belleville, Women Leaders and the Church, 59

 

アイダ・スペンサーは、次のように言っています。

 

「預言者は、礼拝の中で、今日でいう説教者の役割を果たしていました、、新約聖書の中には、預言者と呼ばれ、「預言をしていた」と記されている女性たちの明瞭な例が示されています。預言者というのは、パウロの賜物のリストの中では二番目に位置しており、教会に与えられた人々のリストの中でも二番目に位置しています。」Spencer, Beyond the Curse, 103, 106. また、Brown, Women Ministries, 247; Grady, Ten Lies, 44; Perriman, Speaking of Women, 73, 83も参照。

 

応答1.

預言と教えというのは同一のものではありません。新約聖書の中において、両者は常に、別々の賜物として取り扱われています。

 

「預言することは、説教すること/教えることは、同一のことであった」もしくは、「ある女性が預言できるのなら、その人はまた同時に聖書を教えることもできる」と主張している人々は、新約聖書がどれほど明瞭に、預言と教えを区別しているかを理解できずにいるのです。預言と教えというのは常に、別々の賜物とみなされています。

 

ローマ12:6,7

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが『預言』であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、『教える』人であれば教えなさい。」 

1コリント12:28、29

「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に『預言者』、次に『教師』、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。みなが使徒でしょうか。みなが『預言者』でしょうか。みなが『教師』でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。」

エペソ4:11

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を『預言者』、ある人を伝道者、ある人を牧師また『教師』として、お立てになったのです。」

 

応答2.

新約聖書における預言というのは、神が任意に(spontaneously)思い・心にもたらしてくださったなにかを伝えることであるのに対し、教えというのは、御言葉(Scripture)ないしは使徒たちの教えを説明し適用させることです。

 

預言者の権威は、教師のそれとは異なっています。1コリ14:30-31で、パウロは、一人の預言者が話している様子を描いた後、「もしも座席に着いている別の人に『黙示(revelation)』が与えられたら、先の人は黙りなさい。あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、、」と言っていますが、そのように、預言というのは常に、「神が任意に(spontaneously)心・思い(mind)にもたらしてくださったなにかを伝えること*」です。神は突如として、ある事を誰かの思いにもたらしたのです。

*Grudem, Gift of Prophecy (2000). Grudem, Systematic Theology, p1049-61.

 

また1コリント14:25には、信者でない者たちが入ってきた際に、皆が預言していたら、「心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」と書いてあります。つまり、神は突然、人々がそれ以前には知りもしなかった事を彼らの心に示されたのです。

 

その他関連する諸聖句をみる限り、新約聖書の預言というのは皆、こういった種類の、聖霊による突発的な促しによる示しに基づいていると考えられます。

 

飢饉に関するアガポの預言も、そのような黙示に基づいていたはずですし(使徒11:28)、エルサレムでのパウロの投獄に関する予告もそうです(使徒21:10-11)。

 

またツロにいた弟子たちは、エルサレムでパウロの行く手に待ち受けている危険について、神より何らかの示しを受けていたと考えられます(使徒21:4)。それからヨハネ11:51で、カヤパが自らの知らないうちに、イエスが人々のために死のうとしておられることを「預言」しました。その一方、新約の教会の預言が、御言葉の聖句解釈や適用によって成っていることを指し示すような箇所は、ただの一か所もありません。

 

しかし「教え」は違います。預言の賜物とは対照的に、「教え」(=didaskalia, didache)と呼ばれる人間の発話、もしくは「教師」(=didaskalos)によってなされる行為、ないしは、「教える」(=didasko)という動詞で描写されるものが、新約聖書の「黙示(revelation)」を基に言明されている箇所は一つもありません。そうではなく、教えというのは、通常、御言葉の説明であり適用なのです。

 

使徒15:35で、パウロとバルナバは、アンテオケにおいて、「ほかの多くの人々とともに」、「『主のみことば』を『教え』、宣べ伝え」ました。またパウロはコリントに一年半腰を据え、「彼らの間で『神のことば』を『教え続け』」ました(使徒18:11)。

 

ヘブル人への手紙の著者は、こう言っています。「神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです」(ヘブル5:12)。さらにパウロはテモテに、「聖書はすべて」、「『教え』、、のために有益です」(Ⅱテモテ3:16)と言っています。

 

 使徒たちの著述は、旧約聖書の書物と同じ権威を持っていたため(Ⅱペテロ3:2、15-16参)、パウロがテモテに対し、エペソ教会に宛てて出した自分の諸指示に関し、「これらのことを命じ、また教えなさい」(1テモテ4:11)、「これらのことを教え、また進めなさい」(1テモテ6:2)と言っていることは驚くに当たりません。

 

ここにおける預言との違いは実に明確です。テモテはパウロの諸指示を「預言」するようには言われませんでした。彼がなすべきことは、それらを「教える」ことでした。また、パウロは、各教会で道(やり方)を預言したのではなく、あくまでそれらを教えました。またテサロニケの信者たちは、自分たちにー「預言された」言い伝えーではなく、彼らに「教えられた」言い伝えを堅く守るよう指示を受けたのです。

 

教義的および倫理的規範を提供するのは、預言ではなく、教えであり、これによって教会は統制(regulate)されています。監督(elder)は、「預言する能力」ではなく、「教える能力」(1テモテ3:2、cf.テトス1:9)がなければならないのです!

 

またテモテにしても、「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい」(1テモテ4:16)と指示されども、けっして「自分自身にも、預言する事にも、よく気をつけなさい」とは言われなかったのです。ヤコブもまた、ー預言する人々に対してではなくー、教える教師たちに対し、「(あなたがたは)格別きびしいさばきを受けるのです」と警告しています(ヤコブ3:1)。

 

ですから、新約の書簡における教えというのは、神のことば、ないしは等しく権威のあるイエスや使徒たちの教えを説明し、応用(apply)することから成っているわけです。新約の書簡における「教え」というのは、今日私たちが「Bible teaching」と呼ぶ、それに非常に類似していました。

 

今日、カリスマ・ペンテコステ派の諸教会の多くは、「教え」と「預言」の違いについて熟知しています。―預言というのは、他の奇蹟を伴う賜物と同様、教会の牧師・長老たちから成る統治権威(governing authority)の下に置かれています。そして、預言と教えというのは、それぞれ異なる賜物です。

 

応答3.

ですから(前項で挙げた理由により)、女性は教会で「預言することはできる」が、「教えることはできない」という二者間には整合性があるわけです。

 

預言することは、「教えること」に付随する権威と同じではありませんでした。だからこそ、パウロは女性たちに預言することは許す一方で、教えることは禁じたのです。そして教会を治めた(governed)のは、教える者ー特に長老たちーだったのです。

 

さらに、それは、パウロが「女性たちは教会で預言することができるけれども、声を上げ、預言を吟味することはできない。なぜなら、預言を吟味することは、公同集会の上に統治権威(governing authority)を行使することであるから」と言っていたこととも整合します。

 

初代教会において、教父テルトゥリアヌス(AD160/170~215/220)は、女性が預言することはできても、教会で教えることは許されていないことを述べ、次のように言っています。

 

「それと全く同様、女性たちは教会の中で黙っているよう言いつけられている。ー単に学びたいがためだけに語ってはいけないと。(彼女たちには預言をする権利が付与されているが、預言をする女性はベールを頭を覆わなければならないと彼はすでに言及している。)〔女性たちの沈黙に関し〕彼は、その制裁(sanction)を「女性たちは、従順であらなければならない(should be under obedience)」という掟に置いているのである。」Tertullian, "Against Marcion," 5.8.11, Ante-Nicene Fathers, 3:446, col.2.

 

彼はまた次のようにも言っています。

「女性は、教会の中で語ることを許されていない。そしてそれは、女性が教えること、バプテスマを授けることに関しても同様である。」Tertullian, "On the Veiling of Virgins" 9.1, ANF 4:33, col.1.

 

ここから分かるのは、教会史の草創期の時点において、少なくとも何人かは女性たちに預言をする権利があることを認めてはいたけれども、しかし、女性たちが教会の中で教えることは許されていなかったということです。

 

応答4.

私たちは預言から学ぶことができます。しかし、だからといって、それをもって「従って、預言者は教師と同じである。」という結論に持っていくことはできません。

 

1コリント14:31でみられるように、私たちは預言から学ぶことができます。「あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が『学ぶこと』ができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」

 

しかしそれは、預言者が教会で「聖書を教えること」を意味してはいません。私たちは多くのことから『学ぶ』ことができます。例えば、歌や、個人的な証、誰かの罪の告白、試練の中にあってそれでも主にあって喜んでいる人の生など、、から私たちは多くを学びます。しかし、ー預言を含めたーそういった一連のことが、「聖書を教える行為」と同じかといいますと、それは違います。前項で挙げた、預言と教えを区別する数々の聖句が、その事実を明らかにしています。

 

これと同じ線上の議論が、リンダ・ベレヴィール(Linda Belleville)によってなされています。彼女は、1コリント14:19で使われている「教える "instruct"」(katecheo, κατηχεω)が指し示すのは、「預言者が、教会の中で『教える役割』を果たしていたということである」と主張しています。(Belleville, "Women in Ministry," 97,99-100)

 

しかし、彼女のこの主張には正直さがありません。彼女は、預言者が「教える(instruct, teach)」ことができることの根拠として、繰り返しこの聖句を引用しているのですが(*)、実は、ここの聖句というのは、そもそも預言のことを言っている箇所などではないのです!しかし彼女は読者の方々にその事実を告げていません。*Belleville, "Women in Ministry," 87, 97, 100.

 

だから、彼女は1コリント14:19の聖句自体を決して実際には引用していないのです。―そうするなら、読者の方々は事実を知ってしまいますから。そうです、19節にはこのように書いてあるのです。

 

「教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教える(katecheo, κατηχεω)ために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。(1コリ14:19)」

 

パウロはこの節で預言のことについては何も触れていません。ここで彼は、教会の中で語られる「知性を用いたことば」と異言を比較しています。「教え」については、すでに6節の文脈で言及がなされており、おそらくそれが、19節で彼が「ほかの人を教えるために」と述べた時、彼の脳裏にあったことだろうと考えられます。

 

応答5

他の聖霊の賜物と同様、預言も、長老たちに付与されている「教える権威」(=teaching authority)に従うものです。

 

新約聖書は、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」(ヘブル13:17)と言っています。また「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。」(1ペテロ5:5)、「よく指導の任に当たっている(rule well)長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです」(1テモテ5:17)とあります。

 

初代教会において、長老たちには統治権威(governing authority)が付与されており、教える権威(teaching authority)は、長老たちに属するものでした。

 

しかし預言は、諸教会の統治権威に従わねばなりませんでした。パウロはこう言っています。「預言をないがしろにしてはいけません。すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」(1テサ5:20-21)。「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい」(1コリ14:29)。ですから、預言の賜物には、教える権威も、教会に対する統治権威も含まれていなかったわけです。それゆえに、女性たちは預言することはできますが、公同の教会において教えることはできないのです。

 

応答6

新約における預言の賜物は、旧約における「完全に神の霊感による預言(fully inspired prophecy)」と同じものであったと信じている方々がおられます。そして、そういう方々でもやはり、「預言」と「教え」を区別をしておられます。

 

エヴァンジェリカル界でも、この見解に同意しない人々も多数おられます。この見解を支持される方々は、「新約聖書における預言の賜物は常に、神の言葉そのものを宣言するものであり、それには絶対的な権威が付随しており、そこに決して誤謬はなかった*」と考えています。しかし、こういう方々もやはり、「預言」と「教え」を区別しておられます。

*例えば、Richard Gaffin氏がこの見解を支持しています。参照:Are Miraculous Gifts for Today: Four Views (1996), ed. Wayne Grudem, esp.41-60.

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関連論文:

Wayne Grudem, Prophecy--Yes, but Teaching--No: Paul's Consistent Advocacy of Women's Participation Without Governing Authority, JETS 30/1 (March 1987), p11-23

[比較研究]

(こちらは終焉説(Cessationism)の立場に立つジョン・マッカーサー師の、〔Continuationist〕ジョン・パイパー師に対する応答記事です。)

John MacArthur, Fallibility and Female Prophets