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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人間性の悲劇(三谷隆正)

信じること、生きること 神観・人間観・世界観・歴史観

史家フライタークは、ルターの生涯を評して言う。「ルターの生涯もまた之を大観する時、すべての偉人のそれと同じように、全体として深刻なる悲劇的感銘を与える」と。

 

フライタークによれば、歴史的偉人にしてほぼその使命をつくすに近いだけの寿命を全うし得た人々について考えてみると、その生涯は大体三期に分かれる。ルターの場合もその通り。

 

第一期はその人の生長期で、激しく環境の影響を受けながら、その人の性格が練られていく。内的にまた外的に波瀾と艱難とはそのつきものである。しかしその波瀾のうちに、思想は深まり、確信は強められてゆく。そうしてついに毅然として自家の信念に立脚しつつ、一世を向こうに廻して自分の戦いを戦わねばならぬはめに逢着する。

 

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それからが第二期である。すなわち盛んなる力闘、痛快なる進軍、衆目をそばだたしむるが如き大勝利の時期である。一人のルターが全ドイツ、然り全世界の運命を決定するかに見ゆる時である。偉大なる個が、百千万の衆庶を率いて、まさに英雄一世を風靡するの慨ある時である。

 

しかしいくら偉くあったところで、人間はやはり人間である。いかなる鬼才偉材といえども、一人の力を以て包容し得るところは、到底全国民百千万の要望に応えつくし得るものではない。必ずや国民が英雄を乗り越える時が到来する。国民は最大なる個人よりも大きい。いわんや全人類に於いてをや。

 

偉人ルターは、ある一つの旗幟をかかげて勇躍した。ひた押しに押し進んで、往く所まで往ってしまった。勢いやり過ぎもあったろう。履きちがえた追従者も出てこよう。人間のする事である。余弊を全く遺さないというわけにはいかない。随って反動は必然必至である。年老いて人生の夕暮迫ると共に、偉人は自家の業績に伴う余弊と、それに対して漸く増し加わる所の反動と、随ってまた徐々に離れゆく一部の人心とを、目睹(もくと)せざるを得ない運命にある。これが第三期である。

 

偉大なる生涯の晩年は、必ず或るひそかなる悲しみと憾(うら)みとを伴うものである。ルターの場合に於いてもそうであった。というのが、フライタークのルター論また偉人論である。

 

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ルターのような国民的英雄の生涯について、フライタークの言ったような悲劇的要素が認められること、そういう悲劇的要素が偉人の生涯そのものに必ず付随すること、そのことは誰にも異論のない事であろうと思う。

 

しかし殊にルターのような宗教的偉人の場合については、偉人の生涯の悲劇というか、真人の生涯の悲劇というか、国民的英雄としての悲劇よりもいっそう深刻な、人間としての悲劇があると思う。それは人間性そのものの悲劇であって、偉人の生涯を見るまでもない、誰人の生涯にもある。

 

すべて誠実に生活せんとして努力したる人は、その人が誠実であればあるだけ一層高度に、この悲劇の主人公である。ただその主人公がルターのような偉材である場合、この人間性の悲劇は圧倒的な迫力をもって、われらの心情に迫ってくる。それは何か。

 

一世を風靡したる英雄が年漸く老いて後、一部人心の徐々に己を離れ去りつつある事を目睹するのは、言いようもなく淋しく悲しき事であるに相違ない。しかし人心の離反が人心の離反だけであるならば、淋しくともそれは人の世の常、静かにあきらめればそれでいい。

 

しかしどうあってもあきらめられないのは、真理そのものへの違背である。われらの真実を込めたる意図さえもが、なおかつ神意にそむくものである事である。神様ご自身さえもが、われらから離反し給うことである。

 

イスラエルの詩人は叫んで言う。「なんぢ我をもたげてなげすて給へり」と。そうして人という人は、どんな偉人でも天才でも、その人が誠実忠信であればあるほど、一層激しく神様からなげすてられる。それは人間の経験し得る、もっとも深刻なる悲劇である。しかしまた人間として避け難き悲劇である。人間は神様からなげすてられることを免れ得ないのである。それは人間性そのものの悲劇である。人間の悲しき宿命である。

 

なぜならその智慧において、また力において、限られたる人間である。人間が考え、人間が企図するかぎり、それがどれほど深遠雄偉なものであろうとも、要するに人間だけの深さ、人間だけの大きさしか持ち得ないであろう事は、余りに当然である。

 

しかしそればかりでない。人間のうち誰が、われこそは如何なる場合にも、純真無雑なる動機からのみ行動すると、曇りなき良心をもって揚言し得るか。人間のうちの最も純真なる者によって抱かるる企図といえども、なんらかの濁りをとどめないものは稀であろう。況やその企図する所の適切さ、用意深さ等にいたっては、「ヤーウェ看てあはれみ笑ひたまはざるべし」と誰が保証し得るか。

 

故に看よ。ヤーウェはけっして人間の企図をそのままの形では成就せしめ給わない。神様はかならず一度、人間の企図を紛砕したまう。人間のうちもっとも誠実なる者が、これこそはと魂こめて造りあげたる、真実の結晶そのものとまで見えるような企図をさえ、神様はけっしてそのままには容れ給わない。かならず一度それを粉砕したまう。

 

これが聖意に適わずして、他の何が聖意に添い得ようぞと思わるるような、そういう忠信なる企図をさえ、情け容赦もなしに粉砕したもう。かかる時、古(いにしへ)の預言者は、慟哭して叫んだ。「ああ我生まれし日は詛(のろ)われよ。わが母の、我を生みし日は祝せられざれ。我いかなれば胎をいでで艱難と憂患とを蒙り、恥辱をもて日を送るや」と。(ヨブ記20:14)。

 

人間の生活にこの悲劇がある。殊に偉大なる高士の生涯に、この悲劇の痕が著しい。おそらくこれが人類の負う罪の詛ひのうちの、最大最深なるものであろう。原罪の教義を嘲笑う者は笑え。人間生活のもっとも真摯なるものに付随する所の、この深刻極まる悲劇を、罪以外の如何なるものをもって説明しようとするか。ルターの生涯にこの悲劇があった。パウロの生涯に同じ悲劇が伴った。エレミヤの生涯に至っては殆どこの悲劇そのものである。

 

しかしこの悲劇は、悲劇であって悲劇でない。なぜならば、それは神様の支配が絶対的であり、また徹底的であることを証するものにほかならないから。神様はすべてを徹底的にみづから看給う。人間的企画のうちにひそむ極めて些細な瑕瑾(かきん)といえども、神様は決してそれをそのままに放置し給わない。必ず身親しく完成のための聖手を加え給う。

 

この聖手に触るる時、それは人間の立場から見て、殊に人間的自我の矜持(きょうじ)から見て、しばしば耐えがたき屈辱敗北である。自矜自身の無慙(むざん)なる蹂躙である。否、真摯なる信仰そのものの蹂躙である。

 

故にまた、人間の経験し得るもっとも深刻なる衝撃である。眼の前が真っ暗になる。魂をかけて愛したる人に裏切られるよりも、もっと悲しい腹立たしい苦杯である。多分サタンが天使の群から反き去ったのは、この種の経験からであったろう。しかしそれはもともと人間的自我に執して事を観るからのこと。

 

真理それ自身、善美それ自体に即して之を観る時、それは人間的な不完全な意図が実現せられずして神様ご自身の聖全なる御企画のみが成就するということである。宇宙を摂理するものは、神様ご自身であって、絶対に人間の猿知恵とその道学的小廉曲謹でないという事である。神の聖意図のみが宇宙間唯一絶対の勝利者であるということである。

 

そうして、その事がとりもなおさず人間の悲劇なのである。ルターが経験し、パウロが経験し、エレミヤが満喫したる悲劇なのである。この悲劇は悲劇であって悲劇でない。もっとも深刻なる悲劇にして同時にまた、もっとも深遠雄大なる喜曲である。

 

神様は今後とも、無慙なる人間的意図粉砕の御手を休めたまわないであろう。多くの偉大なる高士をして起たしめ、また之をなげすて給うであろう。世界歴史の舞台の上には相変わらずエレミヤの悲劇がくりかえされるであろう。

 

私は、人間的意図そのものの成就については、底深い憂愁にうち克つことができない。しかしそれ故にこそ一層強く、神の聖意図の確実なる達成を信ずることができる。全宇宙は間違いなく神のおほみ手の隈なき御摂理の裡にある。

 

人間よ、安んじて汝の企画に励め。基督者よ、信じて汝の勇図に突進せよ。神は汝の過誤に拘らず、ただ神の真理をのみ勝たしめ給うであろう。

 

三谷隆正「人間性の悲劇」より