巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

娘が旅をつづけていると、

 

娘が旅をつづけていると

 

人づてに、「旧友の J が M 村に越してきたから

そこを訪れるように」と知らせが入った。

 

そこで娘は足取りかるく、きびすを返し、

M村へつづく路をてくてく歩いて行った。

 

でも、行けども行けども、村は見えてこない。

 

だんだん人家もまばらになり、

村の番犬たちが、次々に娘に吠え立てるので、

彼女はおっかなくなって、半分べそをかきながら、

急な斜面を上っていった。

 

「こんなところに、ほんとに J は住んでいるのかしら?」

 

もうこれ以上は上れないという高台まで来て、

はあはあ息をはずませながら、左の方を向くと、

 

雲ひとつない秋空のようなブルーに縁取られた 

小さな石造りの家が ぽつりとあった。

 

吸い寄せられるように その家の前にいくと、

はたして そこに J がいた。

 

これほどに「辺鄙(へんぴ)な」という形容詞が

似合う場所はないと思えるような―、

そんなところに J は新しい庵を構えていた。

 

門をくぐると、これまた白とブルーの内壁で

囲まれた内庭が目の前にあり、

 

真ん中の長テーブルの上には、とほうもなく大きな

パンプキンが3つ、4つ置いてあった。

 

長ひょろいテーブルにお客は誰もいなかったけれど、

なんというか、そのテーブルも、テーブルの持ち主も

そういうことは てんで気にしていないようだった。

 

誰かを待つという風でもなく、

かといって拒む様子もまったくなく、

そのひょうひょうたるさまが なんとも自然かつ

超然としていて 私はまたたくまに

この世界に引き込まれてしまった。

 

ーーー

 

鄙辺(ひなべ)には

こうした味わい深い人間たちがけっこういる。

 

もちろん ここでいう「鄙辺」とは、

目に見えない領域におけるエリアやあり方のこと。

 

ここに息づく人々は

自分でモノを考えていると思う。

いや、考えようと必死に生きている。

 

そして与えられた生と死に向き合いつつ、

信じること、生きることの本質を追い求めている。

  

 

人生における転換期に、

人はいろいろなことを考える。

いろいろな人を見、いろいろな生き方を想う。

 

そんなとき、鄙辺の人たちのことが

せつないほどに なつかしく 

かつ愛しさをともなって

心に入り込んできた。

 

この人たちの「内」には、そして「間」には、

たしかに目に見えない神の国がある。

 

 

自分の内に起こされた内的変化のひとつー、

それは、

彼らを観察するだけにとどまらず、

いまや、私自身、

こうした鄙辺の住民の一人になるべく、

彼らのエリアに霊的「引っ越し」をしつつあること

、、かもしれない。