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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「女性」と「ミニストリ―」と「神のことば」と「私」ー包み隠しのない真実の告白

詩・祈り・エッセー 福音主義教会の大惨事―この世への迎合精神について 女性牧師問題で悩んでいる方々へ このブログを開くに至ったいきさつ

 

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制御され ととのえられた力には 

心を落ち着かせるなにかがある

 

海岸線に打ちよせる波  

暖炉のなかで パチパチと燃える薪

 

これが 柔和さというものだろうか、、

制御され ととのえられたところに存在する力。

 

自制。御霊の中にある慎み。

 この美しさを

 私はいまだ知らないのかもしれない。

 

                               ーMaribeth. B(私訳)

 

 

「女性とミニストリ―」という点で私は現在、深い葛藤のプロセスを通らされていますが、その渦中で幾度か思わされたことがありました。

 

それは、この種の葛藤―不器用な生きにくさとでもいいましょうか―は、やはり聖書主義のクリスチャン特有のものであるということです。つまり、形態や葛藤する種類こそ異なれ、私のもがきは、おそらくみなさんのもがきにも共通する、ある種、普遍性をもったなにかであるということです。

ーーー

さて、私の場合ですと、もし自分が福音主義フェミニズムを受容するのなら、その時点で、今自分の抱えている心の葛藤にさっぱりと終止符が打たれます。

 

このキリスト教フェミニズムの世界は何といっても「自由」です。前進しよう、主のために仕えよう、宣教活動しよう、執筆・講演・説教しようとする女性たちに対し、私たちの熱意・情熱・意志、そして「主からの召命」をはばむものは一切ありません。

 

牧師になろうが、聖書学校の教師になろうが、それが「主からの召命」なら、そして心の動機が真摯で謙遜なら、それでいいのです。私たちに「待った」をかける声もありません。けん制も制約も、制御もありません。

 

つまりそれはunlimitedなのです。なぜなら、一連のそのunlimited-nessは、御霊の「自由なる働き」と解釈されるのですから!だから、それでいいんだ、それはすばらしい事なんだ、God is with you! と周りの人は励ましてくれます。

 

今や、無制限なる自由という茫洋たる海原が大地が、私たちの前に広がっています。だから私たちは、前途洋々、ただ主を愛し、主を信じて、そこを突き進めばいいのです。それでいい、のです――。

 

しかしながら、ああ、無制限なる「自由」が、かえって底知れない存在不安を人間にもたらすことは、周知の事実です!ああ、神により、ロゴス(「キリストの律法」1コリ9:21)により、もはや「待った」の声をかけられなくなることの空恐ろしさよ!神の言葉がもはや「制御力」を持たなくなり、最終権威ではなくなった〈自律的人間〉―。このなんたる恐ろしさよ!

 

なぜなら、神のロゴスが人にとって最終権威でなくなる時、その時、人はとどのつまり、自分自身が、自分に対しての「法」となり「権威」とならざるを得ないからです。

 

私たちはキリストの贖いにより、もはや「律法の下にはなく、恵みの下に」(ローマ6:14)に置かれており、「主の御霊のあるところには、自由があります」(Ⅱコリ3:17)。それは事実です。

 

また、対等主義の人々が熱心に説くように、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもとされ、バプテスマを受けてキリストにつく者とされた私たちには、もはや「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷の自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、わたしたちはキリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3:26-28参)―これもその通りです。

 

しかしキリストにあるその自由は、私たちをアンチノミアン(無律法主義)的な意味での「自由」に導くものではなく、むしろ私たちをして、自発的な「キリストの囚人(bondservant, Ιησου Χριστου δουλος)」(ローマ1:1、ピリピ1:1、ヤコブ1:1、Ⅱペテロ1:1、ユダ1:1参)、「キリストに属する奴隷」(1コリ7:22b)、みことばの下に自らを服従(υποτασσω)させる者とせしめるのではないでしょうか。それこそが、自由なる御霊の働きの真実な実ではないでしょうか。

 

御霊により、ガラテヤ3:28で「男子も女子もない」と神の子としての本質的・本体論的な意味における平等を説いた同じパウロが、今度は、その同じ聖霊により、1テモテ2:12で「私は、女が教えたり、男を支配したりすることを許しません。」と厳粛なる命令を出しています。

 

パウロはまた「キリスト・イエスが私を捕えた(I am apprehended of Christ Jesus.KJV訳/I have been taken possession of by Christ [Jesus].Darby訳), κατεληφθην υπο του Χριστου <καταλαμβανω(捕える、逮捕する、自分のものにする、つかまえる。*原文は受動態。)ピリピ3:12」、ーああ私はキリストによってpossessされた、捕縛された、つかまえられたと告白しています。

 

この「捕えられた、つかまえられた(κατεληφθην)」の動詞  καταλαμβανωから派生した名詞 καταληψη(カタリプスィー)は、現代ギリシャでも「占拠」という意味で頻用されており、学生紛争で荒れに荒れた最近の国立アテネ大学においても、自治会が大学を「占拠」し、完全封鎖した際には、入り口にκαταληψη(=占拠:カタリプスィー)と巨大な垂れ幕を掲げていました。ですから、私にとって、自分の全存在をキリストに「捕えられた」というのは、ビジュアル的にも、強烈きわまりない「カタリプスィー」なのです。まさに讃美歌作者イサク・ワッツの言う「Jesus shall reign(=イエス、統治したもう)」です。

 

ヨハネもまた、「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」であり、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」(黙1:9)、パトモスという島に幽閉されていました。

 

神のことばのご支配の下に自らを服従(υποτασσω)させようとした結果、このしもべはいわゆる「自由」をはく奪され、狭い狭い空間に閉じ込められ、苦しめられたのです。

 

ここに、神のことばに忠実に真実に生きようとするキリスト者の壮絶な苦しみがあり、闘いがあり、涙があり、葛藤があるのです。人や普通の環境から隔絶され、忘れ去られ、蟄居を余儀なくされんとも、それでも尚、神のロゴスであるキリストにpossessされ、捕えられ、キリストの囚人としてこの世の精神に逆流しつつ、「世界に対して十字架につけられる」(ガラ6:14)生を生き、生き抜くことがキリスト者の使命なのです。これより道がないのです。

 

聖書の一文字一文字は神の霊感を受けて書かれた生けるロゴスです。このみことばがキリスト教会で読まれ、保持されるために、この2000年余りに渡り、無数の人々の血が流されてきました。

 

ですから、一語、一句の純潔性が保持されるためにたとえ人の人生すべてがそこに注ぎ込まれても惜しくはないほど、それほどに神のみことばは尊いものなのです。

 

女性のミニストリー、私の使命、私の賜物、私のミッション、私の召し、男性の不足、霊的ニーズの満たし?―しかしそれが神のロゴスという御霊の剣により査定され、その私の行為がみことばの純粋性に少しでも影を落とすものであるなら、そして矛盾した証をこの世に与えるのなら、その時、私は、自分の「ミニストリー」をもろともにかなぐり捨て、焼き捨てます。

 

御霊が歴代のキリスト教会を通し証し続け、叫び続けてきた普遍的真理に相反するものは何であれ、私の中から駆逐されなければならないからです。

 

ですから、この闘いは、キリスト教会に浸透しつつある世俗イデオロギーに対する信仰の闘いであると同時に、いや、それ以前にまず、自分自身に対する徹底した闘いなのです。「わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除く」(イザヤ1:25)。

 

それは、矛盾なき神の真理が、そしてみことばが、まずもって、自分自身を貫通しなければならないからです。そこにいかなる障害物があってもならないからです。ああ主よ、どうかこのしもべを憐れみたまえ!そして、私の愛する同胞たちを憐れみ、用いたまえ!