巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書の無誤性についてのシカゴ声明(The Chicago Statement on Biblical Inerrancy, 1978)

 

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聖書の無誤性についてのシカゴ声明

 

出典:『聖書信仰とその諸問題』、聖書神学舎教師会〔編〕pi-ix

 

序文

聖書の権威は、今日の、またあらゆる時代のキリスト教会にとって、枢要な事柄である。

 

イエス・キリストを、主また救主と信じる信仰を告白する者は、自分たちが主の弟子であるという事実を、謙遜に、また忠実に、神の書かれたことばに従うことによって、示すことを求められている。

 

聖書から迷い出るなら、私たちは、信仰あるいは行動において、主に対して不忠実になる。聖書の完全な真理と信頼できる性質を認めることが、聖書の権威を十分に理解し、適切に告白するためには、不可欠である。

 

次の声明は、この聖書の無誤性を、改めて主張し、私たちのそのことの理解を明らかにし、その否定に対して警告するものである。

 

私たちの確信していることであるが、それを否定するなら、イエス・キリストの証言と聖書の証言を無視し、真のキリスト者信仰のしるしである神ご自身のことばの主張していることへの服従を拒否することになる。

 

私たちは、この主張をすることが時宜にかなった私たちの義務であると思う。私たちは、仲間のキリスト者たちの間に、この無誤性の真理から脱落する者が現に出てきており、また広く世において、この教理が誤解されているという事実に直面しているからである。

 

この声明は第三部から成っている。短い要約された形の声明文、主張と否定の条項、それに伴う解説である。これはシカゴで開かれた三日間の会議において起草された。

 

この要約声明文と諸条項に署名した私たちは、聖書の無誤性に関する自らの確信を主張し、互に、またすべてのキリスト者に、この教理の評価と理解をいよいよ増大するよう呼びかけたいと思っている。

 

私たちは短期の集中的な会議によって起草された文書の限界を認め、この声明に信仰告白文のような重さを与えるように提議することはしない。

 

しかし共同の討議を通して深まっていった私たち自身の確信を喜びとし、私たちの署名したこの声明が教会の信仰、生活、伝道において、新しい改革に向かって用いられ、神の栄光が顕わされるようになることを祈っている。

 

私たちは、この声明を論争の心ではなく、謙遜と愛の心をもって提案し、神の恵みにより、私たちの語ったことから生じる将来の対話においても、この心を維持することを志すものである。

 

私たちは聖書の無誤性を否定する者の多くが、その信仰と行動の他の面において、この否定の導き出す諸結果を示してはいないことを喜んで認める。

 

また私たちは、この教理を告白する者がしばしば現実生活の中でこの教理を、思想と行為、伝統と習慣を神のことばに従わせることに失敗することによって、否定することがあるのを知っている。

 

私たちは、聖書の光によって、聖書に関するこの主張を修正する理由があるとする人であるなら、どなたからでも連絡をいただきたいと思っている。私たちは語るとき、聖書の不可謬の権威の下に立つものであるからである。

 

私たちは、証言したことについて、個人的な不可謬性を主張することはないので、この神のことばへの証言を強化することができるようにする助けがあるならば、感謝をもって受けたいと思う。

 

聖書の無誤性に関するシカゴ声明

 

要約声明

 

1.ご自身、真理であり、真理のみを語られる神は、聖書を霊感された。それによって、神を離れた人類に、創造者、主であり、贖い主、審き主であるイエス・キリストによって、ご自身を啓示するためである。聖書は神ご自身について神ご自身によるあかしである。

 

 

2.聖書は、神ご自身のことばであるが、聖霊によって整えられ、監理された人々によって書かれたのであり、その言及するすべての事柄において、不可謬の、神の権威をもつ。聖書は神の教えであるから、その主張するすべてを信じるべきであり、神の命令であるから、その要求するすべてに従うべきであり、神の約束であるから、その約束するすべてを受けるべきである。

 

 

3.神であられる、聖書の著者聖霊は、人の内に示すあかしにより、聖書の真正性を証明し、また私たちの心を開いて、その意味を理解させる。

 

 

4.その全体が、またそのことばが、神により与えられたものである聖書は、その教えるすべてにおいて、誤りや間違いがない。そのことは、創造の出来事や、世界の歴史に働かれる神のみわざについても、神の指導下で聖書が文書として成立した起源についても、個々人の生活の中で、神が救いの恵みを与えられることについてのあかしについてと同等に言えることである。

 

 

5.もしこの完全な、神による無誤性が、どのようにかして制限され、あるいは無視されるならば、あるいは聖書自体の真理の見解に反する見解と相対的なものと見なされるならば、聖書の権威が傷つけられることは不可避である。そのような誤りは、個々人と教会に重大な損失をもたらす。

 

 

主張と否定の諸条項

 

1.聖書は権威ある、神のことばとして受け取られるべきであると私たちは主張する。

聖書はその権威を教会、伝道、あるいは他の何らかの人間的源泉から受けているということを私たちは否定する。

 

 

2.聖書は至高の、書かれた規範であって、神はそれをもって人々の良心をご支配の下に置かれるということを私たちは主張する。

教会の信条、会議、あるいは宣言が聖書の権威より大きいとか、それと同等の権威をもつということを私たちは否定する。

 

 

3.この書かれたみことばは全体が神の与えられた啓示であることを私たちは主張する。

聖書は単に啓示への証言であるとか、出会いにおいて啓示になるにすぎないとか、その有効性は人間の応答によって左右されるとかということを私たちは否定する。

 

 

4.人類を神のかたちに創られた神は、言語を啓示の手段として用いられたと私たちは主張する。

私たち人間の言語は、私たちの被造者性によって制約されており、神の啓示の手段としては不適格なものになっているということを私たちは否定する。私たちはさらに人間の文化と言語の、罪による腐敗は神の霊感のみわざを妨げたということを否定する。

 

 

5.神の、聖書の中での啓示は漸進的な啓示であると私たちは主張する。

後代の啓示が以前の啓示を完成することはありうる。しかし、それが以前の啓示を訂正したり、それと矛盾したりすることがあるということを、私たちは否定する。私たちはさらに、新約聖書の文書の完成以後、規範的啓示が授けられたことがあるということを否定する。

 

 

6.聖書全体が、またそのあらゆる部分が、原本において、ことばそのものに至るまで、神の霊感によって与えられたということを私たちは主張する。

聖書の霊感は部分部分はぬきにして全体について、あるいは全体についてではなく部分について、主張するのが正しいということを私たちは否定する。

 

 

7.霊感とは、神が聖霊によって、人間の筆者を通して、みことばを与えられたみわざであったと私たちは主張する。聖書の起源は神にあり、霊感がどのように働いたかについては、大部分が私たちには、隠されている。

霊感を人間の洞察力に、あるいは何らかの意識の高揚状態に格下げすることができるということを私たちは否定する。

 

 

8.神がその霊感のみわざにおいて、神が選びまた整えられた筆者の個々の人格、特性とその文体を用いられたことを私たちは主張する。

神がその選ばれた当のことばをこれらの筆者に用いさせるに当って、その人格性を無視されたということを私たちは否定する。

 

 

9.霊感は、聖書の筆者たちが語り、また書くように働かされたすべての事柄について、真の、信頼できることばを用いることを保証したことを、ただし全知がゆるされたのではないことを、私たちは主張する。

これらの筆者が有限であり、罪の性質をもつことにより、必然的にせよ、そうでないにせよ、神のことばに歪曲あるいは虚偽が持ちこまれたということを私たちは否定する。

 

 

10.霊感は、厳密に言えば、聖書の原本にのみ適用されること、その聖書本文は神の摂理によって私たちの手に入れうる諸写本から、高度の正確さをもって確認できることを私たちは主張する。私たちはさらに、聖書の写しや翻訳が、最初の本文を忠実に表現する範囲において、神にことばであることを主張する。

原本が今存在しないことによってキリスト者信仰の本質的要素が影響を受けるということを私たちは否定する。私たちはさらに原本が今残存していないことによって、聖書の無誤の主張が無効または不適切とされるということを否定する。

 

 

11.聖書は神の霊感によって与えられたので、不可謬であり、その結果として私たちを誤ちに導くようなことはなく、その語るすべてのことにおいて真であり、信頼できるということを私たちは主張する。

聖書がその主張することについて不可謬であると同時に誤りをもつことがありうるということを私たちは否定する。不可謬性と無誤性は区別してもよいであろうが、分離することはできない。

 

 

12.聖書はその全体において無誤であり、いつわりや虚偽や欺きが一切ないことを私たちは主張する。 

聖書が不可謬であり無誤であるのは、霊的な、宗教的な、あるいは救済的な主題に限られたことであって、歴史や科学の分野においての主張は、その限りでないということを私たちは否定する。私たちはさらに地球の歴史に関する科学的仮説が創造や洪水に関する聖書の教えを超克するために用いられるのは正当でありうるということを否定する。

 

 

13.神学的述語としての無誤性を聖書の完全に信頼できる性質に関連して用いることが正当であるということを私たちは主張する。

聖書の慣用法や目的と異質の真偽基準によって聖書を評価するのは正しいということを私たちは否定する。私たちはさらに無誤性が、聖書の諸現象、例えば現代の技術的精密さの欠如、文法上の、綴字上の変則、自然の観察による記述、虚偽に関する報告、誇張法や概数の使用、資料の主題的配列、並行記事において異なる資料が撰択されていること、あるいは自由引用の方法などにより否定されるということを否定する。

 

 

14.聖書の統一と内的一貫性を私たちは主張する。

誤りや矛盾だとされているが、まだ未解決の個所が聖書にあるから、聖書の真理主張は無効になるということを私たちは否定する。

 

 

15.無誤の教理は、聖書が霊感について教えていることに基づいていることを私たちは主張する。

イエスの聖書についての教えを、人間の状態に適応させるためであるとか、イエスの人間としてもっていた制約のためであるとかすることによって、処理することができるということを私たちは否定する。

 

 

16.無誤性の教理が教会の歴史を一貫して、その信仰に不可欠であったことを私たちは主張する。

無誤性の教理はプロテスタント・スコラ主義により創案されたものであるとか、否定的高等批評に答えるために要請された反動的立場のものであるとかということを私たちは否定する。

 

 

17.聖霊が聖書のためあかしをし、信仰者に神の書かれたことばの真実性を確信させるということを私たちは主張する。

この聖霊のあかしが聖書と離れて、あるいは聖書に反して働くということを私たちは否定する。

 

 

18.聖書本文は、その文学的様式と表現型式を考慮にいれた文法的歴史的釈義によって解釈されるべきであり、また聖書が聖書を解釈するべきであることを私たちは主張する。

聖書の教えを相対化し、非歴史化し、割引して考えること、またその著者性についての主張を拒けることになるような、聖書本文の取扱い、またその背後にある資料の探求が正当であるということを私たちは否定する。

 

 

19.完全な権威、不可謬性、無誤性の告白がキリスト者の信仰の全体の健全な理解にとって不可欠であることを私たちは主張する。私たちはさらに、そのような告白が私たちをキリストのかたちにいよいよ似るものとするために用いられるということを主張する。

そのような告白が救のためになくてならぬものだということを私たちは否定するが、無誤性を拒けても個人に、また教会に重大な結果をひきおこされないですむということは否定する。

  

 ー終ー