さまざまな空想の妄から解き放たれた心は、それ自身の内に聖く神秘的な思念を生み出すようになるだろう。それはあたかも、穏やかなる海で、魚が跳ね上り、イルカたちがはね回るのを見るかのごとくある。
バトスのヘシュキオス*1
*1:シナイ・バトス修道院長のヘシュキオス、On Sobriety and Virtue, 156 フィロカリアⅠ, 165 拙訳
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Fr. Matthew Baker (♰2015) on Reading Orthodox Material (拙訳)
現代神学者の中で一番無難なのはやはり、ゲオルギイ・フロロフスキイ(1893-1979)でしょう。正教界内に存在するあらゆるスペクトルにあって今日に至るまで、彼はどの陣営からも一目置かれ、尊敬されています。アトス山修道院群のある人々は彼のことを「教父(師父)」と呼んでおり、サハロフの聖ソフロニイ長老はかつて、自分の書いた草稿をフロロフスキイの元に送り、彼に判断を求めました。「教父たちの王道にとどまり続けるために、私はあなたを必要としているのです。」聖ソフロニイはフロロフスキイに言いました。
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Seraphim Hamilton, Rethinking Romanides, Apologia Pro Ortho Doxa(拙訳)
私は、イオアンネス・ロマニデスは正教神学に非常にネガティブな影響を及ぼしていると考えています。(少なくとも一般信徒レベルにおいて)。善意の人々がこれらの諸思想を吸収し、「正教徒であるということの意味」をそこから定義するようになっています。そして後になり、それが誤りであったことに気づいた彼らは茫然自失となり、こうして彼らの世界観は粉々に壊されてしまいます。
Seraphim Hamilton, Why Orthodoxy? 4. Orthodox theology is beautiful and useful.(拙訳)
〔アンチ・カトリックではないにも拘らず〕依然としてなぜ私がローマ・カトリックでないのか、をここで説明できるように思います。聖書、教会史および哲学的神学を学ぶ中で、私は、フィリオクェ条項への正教反論論証がとてつもなくパワフルであることを発見しました。ウーシア(essence)、ペルソナ(person)、エネルゲイア(energies)という三重の区別という教義を肯定してはじめて、御子の御霊に対する永遠の関係を理解することができるということが分かったのです。
彼がなにかを叫んでいる。一生懸命なにかを訴えかけている。
彼は伝統を尊守しようとしている。ある人は彼のことを現代のアタナシオスと呼び、別のある人は、彼のことを分離主義者、ファンダメンタリストと呼ぶ。
なぜ彼はその〈場所〉にいるのだろう。何が彼をしてその孤独の行に耐えさせしめているのだろう。それは的外れからくる誤った忠誠なのだろうか。ああ、もしかしたら、もしかしたら、、悲劇にもそうなのだろうか。そんな事があってよいのだろうか。それにしても、彼はなんと澄んだ清い眼をしていることだろう。なんという一途な献身だろう。
己の人生すべてをひっさけ、彼はなにかを叫んでいる。彼に友はいない。一人もいない。彼の相棒は荒野だ。洞穴だ。山野だ。そこに独り坐し、欣求する。そこにはなにか言い得ぬ感動と凄みがある。単純に正誤では言い表しがたい人の真実があり、神の熱心がある。
彼の人生に最善あらんことを。